翡翠さん、レマン湖畔で幸せそうなヒトラーを尻目にスイスに戻ってきてチューリヒに顔を出す
簡単に合衆国とヨーロッパを行き来していますが、民間航空会社による大陸間の旅客運送が始まるのは1930年代に入ってから。船でヨーロッパとアメリカの行き来は大変です。
「青水よ、レマン湖畔、うらやましいぞ。」
「うん、湖畔の豪邸は最高だな。海と違って波もないから船遊びが心地よい。」
「釣った魚で夜は白ワイン、そうだなアルザスが良いぞ。」
「俺は何だかアルザスと相性が悪いんだ。アルザスだけは妙に受け付けない。」
「そんな地霊に嫌われているようなことってあるのかよ。」
「学生のころからそうだったので、ずっと敬遠している。そろそろ治ったかもしれないのでポチってみるか。」
「ダメそうだったら私が全部飲んでやる。」
「ああ、頼むわ。ところでヒトラー、うまいことやったな。前衛絵画なのにリビングに飾っても違和感がないという絶妙のポイントを探し当てた。」
「売れてナンボとは言わないが、売れないと困るからな。」
「しかし、この絶妙のポイントは、同業者の嫉妬を買うかもしれない。」
「まあ絵画の世界も、誰かの絵が買われれば、そのぶん誰かの絵が買われないという関係にあるから、競争関係の緊張はつきまとうだろうな。私の試練は唯一無二なので誰とも競合しないが。」
「試練と甘やかしの競合関係があるだろうが。あのふくよかな女神、しばらく出ていないな。」
「出なくて良いわ、あの中年デブ女神!」
「いや、年齢はおまえと同じで何万年だから。それにあの無限のマシュマロに翡翠もずいぶんとお世話になったのだから、そう無下にするな。飢えた子どもたちは梅干しでは救われない。」
「梅酒も飲み頃になったのだが。」
「飢えた子どもたちに酒を飲ませるな!」
「アドルフ兄さん、お願いがあるの。」
「何だい、パウラ。」
「私も二十歳を超えて容姿がまとまってきたわ。おそらく女性美としてそろそろ頂点に到達すると思うので、今の姿を肖像画として残しておきたいの。お願いできるかしら。」
「そうか。わかった。肖像画はしばらく描いていないので、少し習作を描いて練習してからだな。習作のできの良いものは、ジュネーブで売りに出せば、富裕層がおまえと結婚したがるかもしれないぞ。」
「やだ、兄さんたら。私、そう簡単に結婚なんかしないわよ。服飾デザイナーになって自分のブランドを立ち上げ、お店を出すのが夢なんだから。」
「そうか。まあそれも良いだろう。じゃあ明日から午前中に2時間モデルを務めてもらおう。」
「ヌードも描いてね。」
「ヌードだと!」
「言ったでしょ、今が女性美の頂点だって。今を残しておくにはヌードが一番なの。そして、兄さん以外の誰かに裸を見せるのはイヤだから、ヌードモデルを務めるのは兄さんにだけと決めているのよ。」
「そうか、わかった。おまえの良いようにしよう。」
「ありがとう、兄さん。私、兄さんの妹で本当に良かった。」
そのころニューヨークのロスチャイルド財団で、翡翠と財団の間でヒトラーの絵の売買契約が結ばれようとしていた。
「それでは双方の合意に基づき、ヒトラー氏の作品の取り扱いについて以下のように取り決めます。ヒトラー氏の絵画のアメリカ合衆国におけるオークション権は今後もロスチャイルド家に属する。オークション手数料は20%、オークションが不成立の場合は手数料も発生しない。オークションが成立した場合、その売値の80%がスイスのヒトラー氏の口座に振り込まれる。交渉人のジェイディ御巫氏には紹介料として10万ドルが支払われ、今後ともヒトラー氏との連絡を取り持っていただく。」
「意義ありません。」
「翡翠様は今回の報酬だけで今後の金銭的権利を要求しないということで良いのですか?」
「はい、商売でやっているわけではありませんので。」
「そうですか。高潔なお方だ。では今後ともよろしくお願いいたします。」
ヒトラーはディオダーティ館を出てレマン湖の畔へスケッチに出かけた。館からレマン湖までの道にはバイロンの名前が付いていたので、ヒトラーはバイロンのドイツ語版詩集を買って読むようになっていた。美しくも荒々しい自然の情景が語られていたが、翻訳だとどうしても本質に迫ることができないとヒトラーは感じていた。英語か。そういえば自分の絵画は、アメリカで英語を話す人々に買われたのだった。湖畔にイーゼルを立ててスケッチを始めてしばらくすると、すぐ近くの船着き場に小舟が止まり2人の人物が降りてきた。1人は筋骨たくましい男性で、もうひとりは華奢で上品な男性だった。その上品な男性がヒトラーに話しかけてきた。
「ボンジュール、ムシュー!良い絵ですね。」
「ありがとうございます。」
「この近くにヴィラ・ディダーティがあると聞いたのですが。」
「それなら私が借りて逗留しております。」
「おお、そうでしたか。自己紹介させてください。ロマン・ロラン、作家です。こちらはヘルマン・ヘッセ氏、同じく作家です。」
「アンシャンテ!私はアドルフ・ヒトラーと申します。画家をやっております。」
「ご出身はドイツですか?それともスイス生まれでしょうか?」
「オーストリア生まれです。縁があってパリで絵の修行をしていましたが、戦争が始まりそうになってスイスへ移り住みました。」
「戦争は馬鹿げている、そう思いませんか?」
「戦争で片を付けたいと思う人間の気持ちが理解できないとは言いませんが、その気持ちを抱いたときに実際の戦争の悲惨を受け止める用意があるとは思えません。兵士の、そして戦火で焼き出される避難民に自分の身を置き換えて考えることが施政者にできているのか、はなはだ疑問です。」
「そう、まさしくそれです。想像力の欠如、それがないと戦争の引き鉄が引かれることはありません。」
「よかったら、すぐそこなのでディダーティ館に立ち寄っていかれませんか?たいしたおもてなしはできませんが。」
「よろしいのですか?ミルトンが、そしてバイロンが過ごした館をこの目で見ることができるとは何という喜び。」
「どうぞどうぞ。妹も喜ぶことでしょう。彼女は私と違って読書家ですから。」
「お帰りなさい、アドルフ兄さん。あら、お客様?」
「ただいま、パウラ。こちらはフランスの作家ロマン・ロランさんとスイスの作家ヘルマン・ヘッセさんだ。」
「まあ!ロマン・ロランさん、『ジャン・クリストフ』読ませていただきました。読んですぐにベートーヴェンのレコードを聴いて感動を新たにしましたわ。そしてヘルマン・ヘッセさん、ドイツ語圏の作品なのでオリジナルで読める喜びを噛みしめました。『車輪の下』を読んで、才能を期待される人間の苦悩というものを始めて知りました。私は誰からも期待されずに育ったお裁縫好きのただの娘ですから。」
「お嬢さん、才能は自分の庭の中で育てるのが一番なんですよ。要らぬ苦労を背負い込む必要はない。芽吹いて水を与えて花が開くのを待つ、それが何よりです。」
ヘッセはドイツ語でパウラに語りかけた。彼女は憧れの作家から直接声をかけられて感動のあまり赤面した。
「いま飲み物を用意させます。コーヒーと紅茶、どちらになさいます? そうですか、では紅茶を。」
「ヒトラーさん、純真な良い妹さんですね。」ヘッセは目を細めてヒトラーを見た。
「はい。パリで画家をしていたおかげで妹を硝煙の匂いのするオーストリアからスイスへ連れ出すことができてホッとしています。」
「ヒトラーさん、フランスとドイツ・オーストリアは敵同士です。馬鹿げた争いだとは思いませんか?こんな戦時に私はノーベル文学賞を得ました。ものを言う機会を得たので、私はドイツとフランスの両国に対して戦争反対の意向を伝えました。するとどうでしょう。我がフランスの国民は私を裏切り者扱いして帰国しづらい雰囲気を作ってしまったのです。」
ロマン・ロランは憤懣やるかたない形相でまくし立てた。
「私は無名の画家ですから公に発言する機会がありませんでしたが、ヨーロッパという共通の文化的基盤を壊す戦争はとても愚かしいことだと思っています。私も、もはや故国に帰れるとは思っていません。」
そのころ翡翠はバーゼルの銀行に立ち寄り、今後ロートシルト財団から定期的に送金がある旨を伝え、それからチューリッヒに向かった。チューリッヒのシュピーゲルガッセという路地に“キャバレー・ヴォルテール”という怪しげな店があった。壁に貼ってあるポスターを翡翠は読んだ。
「芸術家酒場ヴォルテール。毎晩(金曜日を除く)開店。音楽演奏、朗読。」
「興味があるの?」翡翠は突然女に声をかけられた。
第1次大戦期のスイスにはたくさんの芸術家がヨーロッパ中から集まってきていたので、その交流から化学変化が起きて新しいムーヴメントがいろいろ起こったのです。