翡翠さん、ヒトラーをイトレールにする計画に着手する
パリの生活が始まります。ヒトラーは短気や癇癪を起こさず過ごせるのでしょうか?
「おい、青水!ジェイディ御巫が所属するという設定になっているアメリカ合衆国の財団って何だ?」
「それは種明かしまでお楽しみよ。」
「苦労して魔物を倒しまくった素材を売った資金をヒトラーに貢ぐなんて...」
「それによってヒトラーがいないナチズムが誕生するんだから安いもんだ。」
「イトレールになったヒトラーはパリで成功できるのか?」
「放置していたらできないだろうが、翡翠の手厚いサポートがあればできるんじゃね?」
「あのころすでに大ドイツ主義とか民族排斥とか、いろいろ危ない思想にも染まりかかっていたと思うが。」
「それは自分の首尾一貫性を主張するために『わが闘争』に書いたんだろうが、後付けの自分史なんて信用ならんよ。」
「ヒトラーはフランス語がペラペラになるのか?」
「ペラペラがどの程度を意味するのかわからんが、日本人と比べれば敷居は7割くらい低い。暮らしていくのに困らないレベルなら3ヶ月、美術学校の授業に付いていくレベルなら半年でなんとかなる。ポワントレ先生も有能そうだし。」
「あのチョビ髭、どうにかならんか?」
「あんたの角だってどうにかなるんだからどうにでもなるだろ。」
「角って言うな。ティアラだ。」
「ティアラは脱げる、髭は剃れる。」
「Sous le ciel de Paris, S'envole une chanson hm hm♩」
「どうした、急に?まあ、おまえはいつも急だけどな。」
「2行目のサンヴォリュンシャンソンがポイントな。アンシェヌマンという。」
「ベレー帽の下からお約束の角が...」
「これは角ではなくて...」
「ティアラなら帽子をかぶるときに外すよな。つまりヒトラーのチョビ髭並みにおまえのアイデンティティに溶け込んでいるんだ。」
「うぐぐ...」
「ボンジュール、ムッシュ・イトレール!パリへようこそ!このラ・ロトンドはパリの芸術家御用達のブラッスリーです。料理もワインも最高ですよ。」
「ウィーンでは窮乏生活を送っていたので、こんな美味しいものは食べたことがありません。」
「食事が終わったらあなたの新しいお部屋へ行きます。きっと気に入ってくれると思いますよ。」
「このリュクサンブール公園には106体もの彫像が設置されているんですよ。芸術家のインスピレーションが刺激される場所なので、詩人や芸術家がよく散策しています。あなたの新しいアパルトマンはこの近くです。」
「どうです?お気に召しましたか?」
「すばらしい!こんな贅沢な部屋に住めるなんて!」
「家賃は財団が支払うので気にする必要はありません。この部屋でたくさん絵を描いてください。次はフランス語学校へ行きます。パリで生活するためにも、美術学校で学ぶためにも、フランス語の習得は急務です。学校でフランス語は習いましたか?」
「いえ、ぼんやり画家になりたいとは思っていましたが、それとフランス語の必要性が結びつけることができなかったので履修しませんでした。今思えば悔やまれます。」
「大丈夫、楽器もそうですが、変な癖が付いていないまっさらな状態で優秀な教師に習うほうが良いのです。これから行くポワントレ先生の教室は理想的です。先入観を持たずに素直な気持ちでフランス語に向き合ってください。Je t’encourage. あ、ごめんなさい。つい親称を使ってしまいました。Je vous encourage! フランス語にもドイツ語と同じように親称と敬称があるんですよ。私たちはビジネスの関係なので敬称ですね。」
「Bonjour, Madame Pointret! Je vous présente M. Hitler d’Austriche.」
「アンシャンテ、ムッシュ!ここにはあなたの同郷の方...いいえ、ごめんなさい、ドイツは同郷ではありませんね、ドイツ人の留学生もいますのよ。ラインハルト・ハウスマンさん。パリではムッシュ・オスマンと呼ばれるので、ご本人は“トルコじゃねえよ”と笑っていますが。でもパリでオスマンといえば、都市計画で魅力的な近代都市を作り上げたジョルジュ・オスマンを思い出しますから、ハウスマンさんもまんざらではないようです。」
翡翠は早口でまくし立てるポワントレ先生の言葉をニコニコしながらヒトラーのために正確に同時通訳した。
「あら、ごめんなさい。つい楽しくなってフランス語で長広舌を披露してしまいました。でも授業ではしっかりわきまえて、わかるように指導するので心配しないでくださいね。」
「マダム・ポワントレ、ヒトラーさんは初心者なのでa,b,cとbonjourから始めることになるのでよろしくお願いします。来週の月曜日から通います。」
「お待ちしていますよ。教材はそのときにお渡しします。」
「さて、せっかくパリに来たのですから、セーヌ川の河岸を少し散歩しましょう。パリの空気をたくさん吸うとパリジャンになった気がしますよ。」
「こうしてパリに来てみると、ウィーンは芸術だけではなくて都市そのものが遅れていると実感せざるを得ません。こんなふうにたくさんの人々が河岸にイーゼルを立てて絵を描く風景なんて見たことがありません。」
「あしたからあなたもその仲間ですよ。」
「はい、心が躍ります。」
「パリにはたくさんの素晴らしい美術館もあります。古典絵画だけではなくて現代の前衛的な作品を集めた美術館もあるのですよ。たくさんの刺激を受けることができます。前衛的すぎて目が点になるような作品もあるかもしれませんが、先入観を持たずに受け入れる気持ちで鑑賞すると何かが得られるかもしれません。対人関係でも芸術作品の受容でも、先入観は考えを歪める危険なフィルターになり得ます。パリにはたくさんの外国人も住んでいるので、ぜひフラットな気持ちで接してやってください。」
「わかりました。心の底を見透かされているようなお言葉でした。私は貧しさと孤独感のため偏った思想に染まりそうになっていました。こうして絵筆を取る自分が実現しそうになってみると、愚かな時間を過ごしたと思います。フランス語の勉強をしておけばよかった。」
「美術学校ですが、いくつか候補があります。でも、拙速は失敗の元です。半年ぐらいしてパリに慣れたころに一緒に考えましょう。私はいったんアメリカへ戻ります。」
「何から何まで本当にありがとうございました。必ずやあなたの財団が満足するような結果を残せるようがんばります。オ・ルヴォワール、マドモワゼル!」
リュクサンブール公園近くのアパルトマン、素晴らしいですね。現在パリでは家賃沸騰中で、50㎡のアパルトマンは2500ユーロぐらい。ふつうの日本人には払えません。富裕層になりたい。