翡翠さん、美しい以外の特性を持たない美少年を助けます
ノヴァーリスのその後は興味深いですね。ナポレオン以後のヨーロッパを経験して何を思うか?ちなみに、たぶん面識はなかったかもしれないE. T. A. Hoffmann は、フランス占領軍への服従を受け入れずに裁判官としての職を辞して、バイエルン王国で音楽家兼劇場プロデューサーになりました。
「おい青水、あれで助かったのか?」
「さあ、どうだろう?手紙が来るだろ、そしたら住所が書いてあるじゃん。ノヴァーリスは馬を飛ばして会いに行くかもしれない。」
「女子修道会は男子禁制なのでは?」
「でも人魚姫のとき、修道院に預けられていた隣国の王女は散歩していて海岸で王子を見つけたぞ。つまり外出できる。」
「うーむ。」
「うーむ。」
「あ、翡翠は義父の大佐に言ってたよな、医師に診せてから転地療養に出せと。結核が見つかったら面会謝絶なのでは?」
「当時はまだ結核が伝染病だという認識は広まっていなかった。遺伝病だと思われていたんだよ。家族が全滅とかあったので。実際は家庭内感染で全滅したんだけどな。」
「翡翠ははっきりと伝染病だから近くに寄るなと警告したけど、あれは未来の知見を伝えたことになるのか。でも賢者コスで無から顕現した翡翠の警告は神秘的な奇跡のように思われただろうから、ノヴァーリスことフリードリヒ・フォン・ハルデンベルクは、それに従ったんじゃないか?」
「ノヴァーリスは賢者に弱いからな。」
「そもそも史実では、ノヴァーリスはゾフィーが死んだ翌年ぐらいに別の女、新しい職場の上司の娘と婚約している。距離が離れて冷静になれば、文通もウザいと思うようになるんじゃないか?遠距離の女より近場でいちゃラブできる女が良いに決まってる。」
「女神とは思えないゲスの極みだが、まあ的を射てる。悲しみに打ちひしがれたわけではなくて、将来のために最先端技術を学び、製塩所に就職している。」
「製塩所が最先端なのか?」
「いや、学び直しで入学したフライベルク鉱山学校で鉱山学を専攻したんだよ。地下資源を掘り出す知識と技術は富国強兵策の基礎になるから最先端技術なの。フライベルク鉱山学校は、世界中から、とはいえヨーロッパ限定だが、留学生がたくさん集まっていたエリート養成学校だった。製塩所に勤務したノヴァーリスは1年でテューリンゲン地区の鉱山行政一般を監督するポジションに上り詰め、有能な官吏としての1歩を踏み出した。人生急上昇中に急死したんだ。」
「そういう人なら、翡翠の言いつけを守ってゾフィーと文通をしながら、上司の娘と婚約したんじゃないか。これで一件落着だ。」
「その後のIFノヴァーリスだが、ナポレオンがイエナ・アウエルシュタットの戦いでプロイセン軍を破った1806年にはかなり上位の地位に就いた官吏だったはずだ。フランスの占領軍はすべての官吏に対して服従か辞職かという選択を突きつけた。ノヴァーリスがどっちを選んだか、本人じゃなくても悩ましい。」
「職を辞するほうがかっこが良いし、さすが詩人だ、愛国者だと褒められるけどな、常識的に考えて。」
「でもノヴァーリスの愛国はいわゆるナショナリズムとは違っていたんだよ。ギレンのように“起てよ国民!“と鼓舞したフィヒテのような発想には至らなかったと思うんだ。ノヴァーリスが理想とする国家は、カトリックの信仰によって精神的に統一されていた中世ヨーロッパで、現実のカトリックに代わる新たな精神的紐帯の上に愛で結びついた人々が作り上げる詩的国家“Poetischer Staat“だから、ドイツやフランスといったことにあまりこだわらなかったかもしれない。ナポレオンは既存の秩序を破壊したけれど、ヨーロッパが新しい段階へ進むために必要なことだったと考えた可能性もある。となれば職務続行だな。そもそも鉱山行政で自分よりうまくできる人間はいないだろうという自負心も強かっただろうし。」
「そうなればノヴァーリスはナポレオン失脚後もますます出生して、遠縁のハルデンベルク侯爵から取り立てられたかもしれんな。男爵から伯爵や侯爵に叙爵されたかもしれん。夭逝した薄幸の詩人というイメージは消え失せる。」
「ヘーゲルと意気投合してドイツ精神史に残る大著を書いた可能性もある。それはそれでなかなか素晴らしい。やはり翡翠の言いつけを守って長生きして欲しい。」
「ところで、ネタが尽きそうだったのでノヴァーリスを助けたのだったが、ずいぶん話が広がったな。」
「そうなんだよ。1800年前後のヨーロッパはネタの宝庫で、ちょっと突っつくといろんなものが沸いてくる。ただし、現代日本の読者にはほとんど刺さらないから、書くだけ無駄になりそう。」
「読んで面白ければ、元ネタの知名度にこだわらなくても良いんじゃないか?」
「そう割り切ればずいぶんと楽になる.女神のくせにナイスフォローだ。」
「女神のくせに、ではなくて、さすが女神だ、に修正を要求する。」
「さすが女神だ、次のネタをすぐ出してくれそうだ。」
「う、うぐぐ、そうだな...シェイクスピアの『ヴィーナスとアドニス』はどうだ?美少年を救うのは全女性読者の支持を集められるだろう。」
「猪に倒されなければ良いだけか。それなら簡単だな。」
翡翠がやってきたのは古代ギリシャの神話空間。
「ヴィーナスは美の女神ですけれど、アドニスに執着する姿はちっとも美しくありませんね。おばさんが十代のアイドルに執着して、何とか自分を求めてくれないか必死になっているように見えます。あ、あんなところでまたもめている。」
「私なんかより3倍も美しい、野に咲く花の比類なき王者!妖精なんか目じゃない、男にしておくのがもったいない!鳩より白く薔薇より赤い!」
「ねえ、ほっといてよ。ぼくは馬に乗って狩りに行くんだ。」
「馬から下りてくれたら千の蜜のような秘密(thousand honey secrets)を教えてあげる。」
「あ、ちょっと!やめてよ!手を引っ張らないで!」
「ここ来て座ってちょうだい。大丈夫、蛇なんていないから。ここに来たらキスしてあげる。あんなキスやこんなキスで、愛の女神はあなたを飽きさせることはないわ。」
ヴィーナスは欲情に駆られてついに実力行使に出た。アドニスの汗まみれの手を掴んで強引に馬から下ろして抱きしめたのだ。少年の汗の臭いがヴィーナスの官能に火を付けた。女神の欲望は紅くたぎるが、少年はまったく反応しない。口を尖らせて逃れようともがく。
「もう、離してよ!太股で挟まないで!おっぱいをこすりつけないで!」
ヴィーナスは強引に少年を押し倒し、添い寝して頬を撫でる。アドニスが不平を言おうとすると唇でその口をふさぐ。端から見ると手込めにしようとしているようにしか見えない。見るに見かねて翡翠が声をかけた。
「その子、嫌がっているみたいですよ。」
「誰じゃ、おまえは?」
「別の女神様に頼まれて物語の調律に来ました。名前はイアデイアと申します。」
「別の女神だと?まさかペルセフォネではあるまいな?1年のうち1/3は奴の元、1/3は私と一緒、そして1/3はアドニスの好きな場所で過ごすというのがゼウスの裁定だったはず。まだ約束の期限は来ておらん。アドニスは私のものだ。」
「いえ、ペルセフォネ様ではありません。異世界の女神です。物語の不幸な成り行きを調律するのが私の役目です。アドニスくんはどうやらヴィーナス様とのイチャラブを望んでいないみたいですよ。」
「そ、そんなわけあるか!私は美の女神ヴィーナス。恋の手管と性愛のテクニックにかけては誰にも負けない。どんな男もメロメロで、私を取り合って戦争すら辞さない。あの軍神マルスですら、私のために威厳の欠片もかなぐり捨てて犬のように鼻を鳴らし、求めせがんだ。そんな私を、一切の懇願もしないアドニスにくれてやろうとしている。小躍りして悦び、むしゃぶりついてくるはずだろうが。」
「ぼく、そんなのいらない。」
「ほら、いらないって言ってるじゃありませんか。」
「うるさいうるさいうるさい!邪魔立てするな!アドニスは神ではなくて人間だ。死すべき存在だ。この美しさをどうすれば永遠に保てる?子をなすのさ。そうすればこの子とそっくりの美しい子どもが生まれ、その子どもがまた子をなして、美は永遠に続く。美の女神である私が何度でも、何世代にわたってでも、子を産み続けてやろう。」
「神様の言うことはトンデモなさ過ぎてちょっと付いていけません。ヴィーナス様はもちろん女神ですからアドニスくんの出生の秘密をご存じですよね?ヴィーナス様ご自身が関わっていたのですよ。」
「はて、何も覚えておらぬが。」
「しらを切るのですか。では思い出させて差し上げましょう。アドニスくんの母の名はミュラ、キプロス島のキニュラス王の娘でした。それはそれは美しく、近隣から求婚者の長蛇の列ができたと言われています。ミュラの母親は美しい自分の娘にとても満足して、言ってはいけない言葉を口にしました。ミュラは美の女神より美しいと。ヴィーナス様、あなたはとても腹を立てましたね。人間の分際で神より上だとは傲慢も甚だしい。そこであなたは女神らしい陰湿な呪いをかけます。父親のキニュラス王を愛するようにと。ミュラは父への恋煩いで死ぬほど衰弱しましたが、乳母の手引きで父と一夜の契りを交わすことができました。そのとき身籠もったのがアドニスくんです。ミュラは父の怒りを恐れて荒野を彷徨い、生きていることに辛くなったので神に祈りました。その結果、没薬の木に姿が変わりました。しかし木の幹の中でアドニスくんは育ち、哀れに思った出産の女神が手を差し伸べてアドニスくんは生まれたのです。ニンフたちに育てられたアドニスくんはたぐいまれなる美少年に育ち、そのあとはヴィーナス様とペルセフォネ様の間で取り合いになって...現在に至るわけです。」
「出自がどうであろうと、美しいものは美しい。私はアドニスの子も孫もひ孫も未来永劫産み続けるぞ。」
「近親相姦の子を永遠に近親相姦し続ける気ですか?さすがに許されないのでは?」
「神に人間の道徳など関係ない。ともかく、私たちは愛の巣に引きこもるので邪魔するな。帰れ!しっしっ!」
「ふう、やっと二人きりになれました。この象牙の囲いの中で二人きり。私が庭園になるからおまえは鹿になるのよ。好きなところで餌を探しても良いの。上の丘でも下の泉でも。丘で喉が渇いたら谷間の間にある楽しい泉で喉を潤せば良いわ。私はあなただけの庭園なの。どこで楽しんでも良いのよ、私のかわいい子鹿ちゃん。」
裸体のヴィーナスはしきりに甘い、いや生々しい言葉でアドニスを奮い立たせようとするが、美少年の欲望に火が付くことはなかった。彼の願いはただひとつ、この女神の抱擁から逃れて狩りに行くことだった。
「ねえ、もう良いでしょ?ぼく、狩りに行きたいんだ。」
「口づけのひとつもくれないで狩りに行こうと言うのね。つれない子。獲物は何なの?」
「猪だよ、ぼく、猪を狩って一人前の男になるんだ。」
「猪を狩る前に私の中にあなたのものを入れてくれないと一人前の男にならないわよ。でも良いわ。今回は諦める。でもね、猪はやめなさい。危ないから。もっと安全な獣を狩りなさい。死んでしまったら何のお楽しみもできないのよ。」
「いやだ、猪を狩るって決めたんだ。ウサギや狐を狩ってもつまらない。行ってくる。邪魔しないで!」
アドニスが猟犬を連れて馬に乗って出かけるのを翡翠は見ていた。このまま狩りが始まると、猪の牙が彼の股間を抉って彼は死ぬ。童貞として未使用のまま破壊される美少年の男性器。使ってしまえばもはや美少年ではなくなるからなのだろうか。ともかくその悲劇は回避されなければならない。翡翠は狩場へ先回りした。すると、そこに軍神マルスが待ち受けていた。大きな猪を連れている。
「マルス様、ここで何を?」
「誰だ、おまえは?狩りの余興だ。邪魔するな。」
「その猪でアドニスくんを狩るおつもりなんですね?」
「おう、狩る相手に狩られて儚い命を散らす。美少年にふさわしい最後ではないか?」
「それは復讐なのですか?」
「わしは負けたことがないので復讐の必要はない。ただの楽しみだ。」
「それがヴィーナス様の涙になることをわかっていて楽しもうと言うのですね。ヴィーナス様の悲しみがあなたの喜びになる、これは復讐と言っても良いのではないでしょうか?」
「貴様、何を言いたい?」
「できればやめて欲しいのですが、どうやら難しいようですね。」
「ふん、止められるものなら止めて見せよ。その命は潰えるだろうがな。」
「私とて戦の神とやりあって勝てると思うほど不遜ではありません。なので引きます。後ろから攻撃しないでくださいね。」
「ふん、さっさと立ち去れ!」
翡翠は離れた場所で女神回線を開いた。
「女神様、このままだとアドニスくんがマルス様の猪に殺されてしまいます。マルス様相手に荒事は通用しないので、アドニスくんを拉致して逃がします。セレスさんとステラさんを転移させ、馬上のアドニスくんを空中に拉致してください。」
「さて、ここならヴィーナス様からもマルス様からも離れているので安全です。あなたはヴィーナス様の元彼マルス様に殺されるところでした。」
「え?何で?」
「そうですね、あなたは無邪気だから何もわからないのですね。嫉妬という感情があるのです。自分が与れない幸福を享受している人間を恨む。かつて自分を愛してくれたヴィーナス様がいまはあなたに夢中。そこで殺意が芽生えたのでしょう。」
「ぼく、愛も恋もいらないよ。狩りをして暮らしたいだけなんだ。」
「ギリシャの神々がいるこの世界、いやここはローマの神々でしたか、ともかく古典古代の神々が君臨する世界にあなたの安らぎはないと思います。」
「どこに行けばぼくは狩人として生きていけるかな?」
「そうですね...アマゾネスの国。そこならあなたに邪な欲望を抱かない女戦士たちが守ってくれるでしょう。アマゾネスも眼福の美少年は好物でしょうから。」
「連れて行ってくれるの?」
「はい、試練の女神様という少しくせの強い女神様が転移させてくださいますよ。」
ここで介入した叙事詩『ヴィーナスとアドニス』はシェイクスピアの初期作品です。かなりきわどい台詞を言ってましたが、あれはぼくの創作ではなくて、ほぼ原作の引用です。そういえば文中に書きませんでしたが、没薬は香油や焚きしめるお香として官能的なムードを高めるのに使われたそうです。日本でも買えるのかしら?