お菊とお岩――江戸怪談の幽霊を、いや幽霊未満の女を救え
夏本番ですね。でもテレビでお岩さんもお菊さんももう出なくなりました。社会環境の変化でオワコン化したのでしょう。今回はそんな彼女たちに翡翠さんがそっと引導を渡しに行きます。
「俺の知っている翡翠さんと違う...違いすぎる!」青水は悲痛な面持ちでカップ酒を取り出した。
「だからといって酒で気持ちを紛らわそうとするなよ。その酒、冷蔵庫に戻してこい。」
「だってよ、まるで女衒じゃないか。あの翡翠さんが...」
「プロモーターと呼びなさい。」
「ううう...(マシュマロを複数個口に入れて白目を剥く)」
「アメリカ東海岸にはたくさんの夢が詰まっていたのです。湿地と疫病を抱え、宗主国の資金投入が全然足りないので文化も社交もないルイジアナと比べて、イギリス領北アメリカは、経済的にも文化的にも段違いの発達ぶりで、マノンが進出することにした1730年代より100年も前の17世紀前半に、すでにあのハーバード大学が設立されていたほどなのです。社会の根底には社交が必要なのですよ。社会(society)を支えるのは社交(sociability)なのです。マノンは北アメリカ白人文化の基礎の形成に寄与したと言っても過言ではありません。ルイジアナの原野で獣に食われて終わる人生よりどれだけ意義あることだったか。翡翠さんは果敢にそれをやり遂げたのです。だいたいおまえは、翡翠さんがそんなことするはずがないだなんて、アイドルに夢を見すぎるキモいオタクのポジションになりかかっていますよ。作者は作品に対して全能の支配者だとほざいていたけれど、まったくそうではないことがこんなレベルでも露呈してしまいましたね。」
「あーあ、次はもっとスカッとしたやつ、夏の暑さを吹き飛ばせ的な...」
「あ、またよからぬことを考えている顔が....」
「夏の夜といえば....そう、怪談です。うん、幽霊になる前に救助して怪談をなかったことにする。もう住環境もメディア環境も全然違う世界になっちゃっているので、江戸怪談の出る幕がなくなっちゃった。もうテレビでもやらないじゃん、お岩さんとかお菊さん。あれをサクッと助けて成仏させよう。」
「定番の幽霊女2人を幽霊になる前に助けるのですか?怪談がなくなってしまいます。重大な歴史改変です。とうてい...」
「いや、もう十分に役目を果たしたし、毎年毎年うらめしや営業に呼び出されて、しかも昨今はほとんどお声もかからなくなったんだから良いよ。」
「そうまで言うのなら、翡翠さんにとっては簡単なミッションですから、さっそく行ってもらいましょう。」
「あまりにも有名な怪談話だけど、同じ時期の物語ではないのだな。番町皿屋敷のほうがずっと早い。17世紀にはもう原型が存在していて、番町ではなく播州、つまり現在の兵庫県のお家騒動を背景にした物語。それが浄瑠璃や歌舞伎でだんだん形を整えて、やがて江戸の牛込5番町の物語としてまとめられ、講談や歌舞伎などさまざまなメディアで定番化した。いっぽう四谷怪談は、1825年に鶴屋南北による歌舞伎作品として登場という文学的成立史がはっきりしている。つまり出所不明な伝承の怪談と作家による戯曲としての怪談、形成の歴史は全く違う。ということで、今回の派遣はどうしたものか?」
「成立の歴史が違っていても、江戸怪談として人々の文化的共有材となったのは同じですね。翡翠には18世紀半ばと19世紀前半の江戸へ転移してもらいます。」
「つまり、皿屋敷の原型である播州へは行かないと?地方軽視?東京一極主義?」
「ああ、めんどくさい。書くのはあんたななんだから、好きにすれば良かろう?でも播州と番町、2回助けてもあまり意味はありませんよ。」
「まあそうだな。じゃあ、18世紀のお江戸へ行ってもらって、お菊さんをサクッと助けて、どこかに休憩を挟んで、今度は19世紀のお江戸で小岩さんを助ける、それで行こう。」
18世紀半ばの牛込5番町、翡翠は扮装することもなく巫女姿で現れた。
「幽霊になる前のお菊さんか、たしか時代劇に良く出てくる火付盗賊改という役職の家の下女でしたね。皿を割った咎で怒られて、中指を切り落とされて幽閉されたのですね。陰湿ですね。そしてお菊さんは部屋を抜け出し、井戸に身を投げて、それから皿を数える幽霊になったと。こんな物語がもてはやされて何度も二次創作を経て、怪談の定番になってしまうとは、ジメジメしたこの気候のせいでしょうか、日本人の不可解な美意識に同意できなくなります。さっそく潜入してみましょう。」
翡翠は屋敷でお菊と思われる下女を発見する。
「えーと、初めまして、私、御巫翡翠と申す巫女でございます。火付盗賊改青山主膳殿の下女、お菊さんですね?」
「いえ、私は旗本の青山播磨様の腰元のお菊です。」
「あら、違うヴァージョンのほうに来てしまいましたか。」
「和所とはどこでございましょう?」
「いえ、お気になさらず。こちらの青山様のお菊様だと、どうもお救いすることができそうもありません。一言だけ忠告させていただきますが、良く女性が持ち出す『私と~~とどちらが大事なの?』という問いは、しばしば破滅に導くものなので、胸にしまって外に出さないのが吉でございますよ。それでは失礼します。」
「女神様!ここではありません。青山播磨さんの皿をわざと割って自分への愛を試そうとしたお菊さんは助けようがありません。自業自得です。青山主膳の屋敷に転移させてください。」
「異本・異伝の数が多すぎて、女神様もお困りですね。さて、ここですか。」
「あら、どなた様ですか?」
「あなたが青山主膳様の下女、お菊さんですね?」
「はい、その通りですが。」
「ひょっとしてご主人が大切にしていたお皿を割ってしまいませんでしたか?」
「え...? もうバレたのですか?あなたは誰ですの?」
「そう警戒なさらないでください。私は御巫翡翠、さすらいの巫女です。あなたを苦境から助け出すためにやってきました。」
「助けていただけるのですか?」
「はい、私を管理しているお皿のところへ連れて行ってください。」
「承知しました。こちらです。」
「ふむ、修復もできないことはありませんが、それでは面白くありませんね。十四の原子、八の原子、十三の原子、万象より疾く集まりて、円の形となし、絵柄を映せ。数を任意に増やし、形を成せ!急々如律令!」
ケイ素、酸素、アルミニウムで構成される絵皿が10枚出てきた。
「さあ、任意に増やせますので、無限にお皿を作れますよ。なんなら1000枚作って売り払うというのも手ですね。希少価値がなくなって、横暴なご主人に一泡吹かせられます。どうします?」
「お願いします。実家の物置に1000枚出現させてください。母に頼んで少しずつあちこちの市場で売りさばいてもらいます。」
「ふふふ、お金ができたらお暇を頂いて、そうですね、陶磁器の店でも開くのも良いかも知れません。」
「ありがとうございます。このご恩は決して忘れません。」
お菊は深々と頭を下げた。そして頭を上げたとき、翡翠の姿はもうそこにはなかった。
「ふう、別のヴァージョンに飛ばされたときはどうしようかと焦りましたが、これで一件落着ですね。せっかく江戸時代に来たので、夏の風物詩、花火でも見たいところですが、8代将軍吉宗のころからやってるみたいですから、もう夏の風物詩として定着していますね。では行ってみましょう。」
「鍵屋~!」
「玉屋~!」
「この時代にもうあんな高度な花火が打ち上げられていたのですね。綺麗...」
「ちょいとごめんなすって!」ひょいと小男が出てきた。
「なんでしょう?」
「見たところ巫女さんのようだ。ちょいと頼まれてくんねえか?」
「なんでしょう?私にできることでしたら。」
「隣の裏長屋に越してきた娘に惚れちまってな、たまに声をかけたりして顔なじみにはなったんだが、その、俺のことどう思ってるか、占ってもらえねえか?」
「そういうのはご自身で真っ向からぶつかるべきだと思いますよ。ぶつかって砕けたって良いじゃありませんか。その出来事のひとつひとつがあなたの歴史を作るのです。真正面から向き合ってくれる殿方に女性は魅力を感じるものなのです。神様はそのように世界をお作りになりましたからね。」
「そ、そうかい。そうだな、よし、俺も男だ、当たって砕けろだ、花火の勢いで行ってくるぜ。」
「ふう、そろそろ19世紀のお岩さんですね。四谷怪談といいますが、こちらも手が付けられないほどたくさんのヴァージョンがあって困ってしまいます。どれが有名なのでしょう?やはり鶴屋南北の『東海道四谷怪談』でしょうね。しかしなぜ東海道?まったく膝栗毛の要素はありませんね。とりあえず東海道って付けておけば売れると思ったのでしょうか?舞台が日本の大阪なのにタイトルに5番街が入るような?それとも、ひょっとして検閲すり抜け技ですか?はいはい、またいつもの東海道ですね、オッケーオッケー、判子ぺたん、を狙ったとか。まあ良いでしょう。そういうのは青水さんに任せて、四谷左衛門町へ参りましょう。」
「こんにちは、お岩さん、私、御巫翡翠と申す旅の巫女です。」
「こんにちは、巫女様、どんなご用でしょう?」
「あなたは旦那様の不行状を理由に実家へ連れ戻されておいでですね?」
「はい、夫の伊右衛門はいろいろと悪さをしたようですが、私にはとても優しくて良い男なのです。逢えなくて辛い日々を過ごしています。」
「きょう復縁を頼みにこちらへ来られるようですよ。」
「まことでございますか?ああ、うれしい。」
「でも、そのあとで、ああ、こんなことを語っても良いのでしょうか...」
「何です?何かご存じなのですか?」
「はい、占いに出たのですが、伊右衛門様はあなたのお父様を殺害します。そしてそれが発端となって、次から次へ血で血を洗う殺傷事件の連続。最終的にあなたも殺されます。」
「まあ、なんということ!」
「妹さんがいらっしゃいますよね?お袖さんという。」
「はい、佐藤様という方に嫁ぎました。」
「その妹さんも巻き込んでのドロドロの愛憎劇に殺人事件がたくさん絡まって、さらに、あまり大きな声では言えないのですが、赤穂浪士の討ち入り計画も絡んでいるので、考察が迷子になる案件です。」
「もう何が何だかついて行けません。」
「大切なのは、あなたが薬を盛られて、顔半分がどろりと溶けた、日本怪談史上最凶の不気味ビジュアルとしてアイコン化することです。」
「は?愛根?愛の...根菜?あら...」(お岩は顔を赤らめた)
「はい、私が悪うございました。ともかく、お岩といえば不気味妖怪として歴史に残るので、これはぜひ阻止したいと私は思うのです。」
「はい、ぜひお願いします。醜さの象徴として名前が残るなんて女にとってこれ以上の地獄はありません。」
「なので、まず伊右衛門の殺人を阻止します。よろしいですね?」
「はい、やっちゃってください!」
「おい、直助、手はず通りにな!」
伊右衛門は刀の柄に手をかけ、お袖に横恋慕する薬売りの直助に声をかけた。直助は懐のドスの柄を握りしめ、厳しい顔で頷いた。
「よし、今だ!」
「待ちなさい!」
「く、貴様、誰だ?邪魔立ていたすか!」
「不義の計画のため義父を殺める、それも匿名の辻斬りとして。武士の風上にも置けない鬼畜な所業ですね。この御巫翡翠、その業を祓ってさしあげましょう。
反撃の隙も見せずに翡翠は鮮やかに伊右衛門を峰打ちで倒し、返す刀で、短刀でお袖の夫に斬りかかろうとしていた与茂七も無力化した。
「四谷左門様と佐藤与茂七様ですね。出過ぎた真似だったかも知れませんが、下手人は無力化しました。あとはお好きにどうぞ。」
「お岩さん、お父様と義弟様はお救いできました。下手人は同心が捕らえてしかるべきお裁きの場へ送るでしょう。これにて一件落着です。」
「ありがとうございます、翡翠様。」
前編がお菊さん、花火の中休み、後半がお岩さん。これ、アニメの30分で上手に配分できますね。いや、有名怪談、あまりにもヴァージョンが多すぎて、女神様も混乱して、どう手を付けたら良いかわからなくなりましたよ。