恋するために生まれた天使――マノン・レスコーを救出しよう!
今回、これを書くためにYoutubeで「あなた色のマノン」を聴きました。歌唱力がすごい。いや、ふつうの人には真似のできない完成された歌唱、まさしくアート(技芸)と呼ぶべき水準でした。青水が歌いかけたのを止めた女神、GJ!
「いや~、痛快だった!翡翠さんのチャンバラかっこよかった~!」
「だからと言ってシャンパンのボトルを持ってくるな。」
「倒した相手が薩摩示現流というのがなんとも痛快!」
「そうなのか?何か因縁があるのか?」
「いや、俺は中学校で剣道部だったんだよ。それでそのまま高校でも剣道部に入った。」
「おまえ鹿児島県人か?違うだろ。」
「うん、違う。で、高校の剣道部でふつうに練習してたわけ。そうしたら、あなた、高校デビューの部員がいたわけですよ。剣道なんて様式で作り上げられたものだから、実戦向きじゃないのね。竹刀を持っていても棒きれ持ってるヤクザに勝てるわけがない。そもそも相手を打ち据えるという攻撃を意識していない。いかに審判にアピールできる打撃を決めるかが勝負。ところがだよ、その高校デビューのゴリラ男、剣道のお約束なんてどこ吹く風で、殴り殺す勢いで面を打つ。練習で打たれただけで脳天が痺れてしゃがみ込むほど。はい、将来の受験に影響が出そうなので剣道部を辞めました。それ以来、示現流が大嫌いになりました。」
「示現流は悪くないのに巻き込まれ被害だな。」
「そのゴリラ、高校で始めた初心者のくせに、どんどん成果を上げて、県の剣道界の重鎮になった。剣道の様式美を壊す物理破壊力で。」
「おまえの私怨が翡翠のあの台詞につながったわけか。作品の私物化もいい加減にしろよ。」
「まあスカッとしましたよ。ありがとう、翡翠さん!」
「ふん、そこで油断して口あんぐりなんて絶対しないからな。」
「はい、じゃあ俺が食うよ、マシュマロ、ぱっくん。」
「......」(苦虫を噛んだら中からマシュマロが出てきたような不快な面持ち)
「やっぱ史実は楽しいね。迫力が違う。」
「楽しもうという奴を簡単に史実に触れさせるわけにはいかんな。」
「う~ん、だったらそうね~...」
「おい、その顔、また何か昭和歌謡を歌い出しそうな顔をしてるぞ。」
「私はマノ~ン♪マノン・レスコー♩恋するために~♪」
「やめんか~い!おっさんが歌うと世界が腐るわ!」
「そう、マノン・レスコーだね、次の救済ミッションは。」
「作者アベ・プレヴォー、本名アントワーヌ・フランソワ・プレヴォー、短縮してアベ(僧侶)・プレヴォーと呼ばれるが、その人生は破天荒。マノン・レスコーも作者の恋愛の反映が含まれておる。」
「うーむ、あまり好物ではないけど、行っちゃいますか。」
翡翠は女神と静かに歓談していた。
「いつもすまないわね、大変なミッションに送り込んでしまって。」
「いいえ、最初は戸惑いましたが、やってみると楽しめる部分もあります。」
「あなたがそう言うなら、私も気が楽になります。」
「次はどこですか?」
「18世紀前半のフランスです。」
「史実ですか?」
「いえ、小説です。楽な気持ちで取り組んでください。」
翡翠は1730年のパリに来ていた。マノン・レスコーは恋人デ・グリウーとともにルイジアナに追放されることになっている。ルイジアナに連れて行かれてからでは救出が困難になる。ルイジアナはミシシッピ川流域全体を含み、五大湖からメキシコ湾まで、アパラチア山脈からロッキー山脈まで広がる広大な土地で、湿地・沼地・三角州が多く、文化的生活を営むには適していない。パリからルイジアナへの追放は、生活品質の大きな落差のため、極めて過酷なものになる。翡翠は一計を案じて、マノンのルイジアナ追放それ自体を無効化することにした。となると邪魔になるのが恋人で同行者のデ・グリウーである。この男とルイジアナに行ったせいでマノンは植民地の居住地から追放され、荒野で野獣に襲われるか原住民に殺されるか、ともかく非業の死を遂げることになる。
「ムッシュー・デ・グリウーですね?」
「そうですが、あなたは?」
「マノンさんの友人でネフレティカと申します。」
「何かご用でしょうか?」
「はい、いっしょにルイジアナへ行くというお話しでしたが、マノンが行くのが怖いと言い出しまして...」
「怖いと言っても、もう判決は出ているのです。拒むことはできない。」
「代わりに私がご一緒しましょうか?」翡翠は探るように相手を見つめた。
「別人が代わりを務めることはできません。身分証や乗船証がなければ船に乗れません。」
「それならマノンから預かりましたから大丈夫です。髪の色はウィッグで何とかします。こう見えて私、変装は得意なんです。」
畳みかけるようにデ・グリウーに語りかけながら、翡翠は小声でアフロディジアクムの術式を発動した。日本語なのでデ・グリウーは何なのかわからないまま術にかかって翡翠に激しい欲望を感じるようになった。
「ああ、ネフレティカ、君の名を何度も呼びたいからレティと呼んでも良いかい?」
「かまわなくってよ。」
「今すぐもっと深く愛を語り合いたい。うちへ来ないか?」
「まあ、船に乗ってしまえばいやでもずっと一緒なのよ。明日の出発まで待ってなさい。私もフランスを離れるのでいろいろ準備があるの。ア・マタン、モン・プティ・シュシュ!」
翡翠はデ・グリウーと別れて、次はマノンを訪ねた。
「こんにちは、マノン!あなたにニュースがあるの。」
「え?どなた?」
「本名はあなたに発音できそうもないから、レティで良いわ。」
「ニュースって何かしら?」
「良いニュースなんだけど、あなたは3分ぐらい悲しむかもしれない。」
「気になるからすぐ言って。」
「デ・グリウーがあなたを裏切って別の女とルイジアナへ行くんですって。」
「え?なんで?私、追放されたのよ。」
「その女があなたの代わりにルイジアナへ行ってくれるらしいの。あなたはもう追放の罪を免れたの。どう?良いニュースでしょ。」
「そんな...デ・グリウーはなぜ私を裏切ったのかしら?」
「さあ、裏切って捨てたのか、過酷な追放の罪からあなたを解放するためにあえて離れたのか、私にはわからないわ。わかっているのは1つだけ。あなたはルイジアナではなくて東海岸のチャールズタウンへ行くの。そこで一旗揚げるのよ。」
「私がアメリカで一旗揚げる?私、恋するために生まれた天使なのよ。お仕事なんてできない。」
「ふふふ、パリから来たあなたなら、恋するために生まれた天使、という立派なお仕事があるの。まかせて頂戴。あ、そうそう。あなたの身代わりになってジメジメとした湿地で疫病がはびこるルイジアナへ行く女に渡すので、あなたの身分証と乗船証をちょうだい...はい、ありがとう。これであなたはもう自由よ。代わりにこれ、その女の身分証と乗船証。日本人として船に乗りなさい。大丈夫、今のフランスで日本人がどんなものか知ってる人はほとんどいないから。後は私にまかせてくれれば良いわ。」
「ボンジュール、ムッシュー...いや、私たちこんなに仲良くなったのだからこんな挨拶は無粋ね、ルネ。」
「おお、レティ、見違えたよ。別人かと思った。」
「言ったでしょ、私、変装が得意だって。そしてほら、身分証と乗船証も持ってきたわ。これで私は正真正銘のマノン・レスコーよ。」
「分身壱、定時連絡です。乗船しました。デ・グリウーはさかりのついた猿のように私に迫って困っています。オーバー。」
「まあ、ご苦労様。そうね、きっかり5分後に悲鳴を上げてデ・グリウーから逃げ出しなさい。その際、周囲にはっきりとわかるように、この男は変態だ、人の尊厳を踏みにじる、言葉にできない恥辱の数々、と訴え、最後に船尾から海へ身を投げなさい。着水したタイミングで収束します。オーバー。」
「了解しました。アウト。」
マノンは不思議そうな顔で見ていた。霊脈を通した交信だし、そもそも日本語なので理解できるはずもないが、女の勘で何かとんでもないことが起こると察したのかも知れない。
「まずカリブ海のフランス領へ行きます。マルティニークに数日滞在して、良いお客さんがいるかどうか品定めをしましょう。この仕事、男の鑑定がとても大事...おっと、ごめんなさい...収束!」
「シューソク?」
「気にしなくて良いわ。日本語でラッキーっていう意味だから。もうすぐカリブ海ね。さて、私は変装しなくっちゃ。ふふふ。」
翡翠は巫女服に着替えた。得体の知れないコスチュームは衣装のアンチアフロディジアクムとして機能する。翡翠への男性の欲望はこれによってスイッチが切られた。港に上陸した翡翠たちは繁華街を探し、一番繁盛している酒場に入った。
「さあ、ここでシャンパンを開けるわよ。」
「え、高いのでは?」
「安い女と見られないためよ。あなた、そういうの得意でしょ。」
「チンチン!」
店の男たちの視線が集まる。異国の女と美女が高級シャンパンで乾杯している。いい女だ。この島に女はほとんどいない。誰もがご無沙汰すぎる。みんなじりじりして2人を見ている。すると、急に翡翠が立ち上がって、流ちょうなフランス語で口上を述べた。
「皆様、初めまして、そしてご機嫌うるわしゅう!私たち、パリからチャールズタウンへ向かおうとしている旅の者です。私の同行者を紹介する悦びをお認めいただけますか?マドモアゼル・マノン・レスコー!パリの社交界で華やかな噂を独占してきた、その二つ名は“恋するために生まれた天使(L'ange né pour aimer)"! パリの最も豊かで最も誠実で最も美しい殿方とだけ愛を語らってきた女性です。もしチャールズタウンにお越しの際は、ぜひ彼女に会いに来てください。さあ、これが彼女のセットカードです。」
男たちは群がり奪い合うようにマノンの商売用パンフのようなセットカードを受け取った。そこには”Mlle. Manon from Paris”と大きく印字してあった。
「今夜は正規の営業はいたしません。彼女の気分次第、つまり落とせる自信のある殿方、彼女の気分を高める贈り物ができる殿方だけ、どうか彼女にチャレンジしてみてください。ただし...彼女の時間は有限です。お話しするだけで30分で30ルーブル頂きます。それでは早い者勝ちで...」
夜は更けて行き、手持ちのルーブルはどんどん貯まり、マノンがチャールズタウンで大成功するのは確実と思われた。
なんか今回の翡翠さん、もう今までの翡翠さんじゃないみたい。良いの、こんなんで....?