翡翠さん、ジュネーヴから来た女としてシュタイアーマルクの城へ行く
次は東欧と西欧の中間、オーストリア南部のシュタイアーマルクが舞台です。だけど、今回の翡翠さんはヤーディアではなくてジャディー。理由は物語を読めばわかります。
「いやあ、風呂上がりのビールは最高だな!」
「今さら突っ込む気にならん。青水、私にもくれ。」
「ぷふぁあ!」
「ぷふぁあ!」
「で、次は何やるんだ?」
「カーミラだ。あまり有名じゃないけれど、知ってる人は知っているヴァンパイア。」
「ほう、耽美で攻めるか。ならば...
「おい!それはエラの...」
「ちょっと拝借した。」
「ちょっと拝借じゃねーよ。怒られるぞ。」
「どうだ、私のサキュバス姿?この衣装面白いな。着たら自動的に角と尻尾と翼が生えた。」
「それはあんたが人外の女神だからだろ。似合わない、いや、本当に似合わないから、さっさと脱いで返してこい。」
「ちっ!ところで青水よ、カーミラって有名なのか?」
「わからん。名前だけならそれなりにではないのか?」
「ウンディーネのときのように簡単に説明しろ。」
「えーと、作者はシェリダン・レ・ファニュ、19世紀半ばのアイルランドの作家。名前がフランス人ぽいのは、フケーと同じでユグノーの出自だから。」
「あらすじは?」
「あらすじらしいあらすじはないかな。オーストリアのシュタイアーマルクという土地にある城に領主、その娘、使用人が住んでいて、あるとき事故で馬車が壊れた母娘がいて、娘をしばらく預かることになった。こいつがカーミラでヴァンパイア。城内で不思議なことがいくつか起こって、カーミラそっくりの女性が描かれた絵が復元されて、とりあえず面倒くさいのではしょって、最後はヴァンパイアにありがちな処刑、つまり杭打ち、首切り、焼却でお終い。」
「味も素っ気もないな。なんだ、面倒くさいからはしょってとは。主人公の名前は?」
「ローラ。だけど小説の中でその名が出るのは5回だけという希薄な存在。俺なんか初めて読んだとき記憶に残らなかったくらい主人公感がない娘。舞台が城で父親が城主だから主人公になっているような感じなんだよ。」
「それが胸くそなのか?」
「いや別にローラの存在が希薄でも物語は進むからどうでも良い。」
「じゃあ、胸くそは何だ?」
「それがねえ...これといってないんだが...」
「なんだ、はっきりしない奴だ!」
「強いて言えばカーミラがヴァンパイアとして滅せられることかなあ...」
「でもそれはヴァンパイア物語のお約束みたいなものだろ?」
「そうなんだけどさ、せっかく主人公と百合の花が咲きそうだったのに...」
「百合だと!それ、世界中にめっちゃ好物にしている人々が多い、日本発祥の多様性コンテンツ。」
「いや、その位置づけはちょっとなんだかモヤモヤするが、たしかにYURIというローマ字で通用しかかってるらしいし。」
「じゃあ、いつものように翡翠さんを呼んでみよう、はい、レーッツ・ビギン・ザ・ミッショーン!」
「そんなヒーローショーみたいな登場のさせかたはやめろ!」
「ここがシュタイアーマルクですね。オーストリアの南部。南に下ればクロアチア、東に進めばハンガリー、そしてその先はヴァンパイアの故郷セルビアがあります。ヴァンパイアという言葉は、18世紀初頭にセルビアで起こった2つの怪奇事件をきっかけにして西洋の言葉に取り入れられたそうです。いずれも死後に墓から蘇った男の話で、セルビアは当時オーストリア・ハンガリー帝国の支配下にあったので、医官を含む軍の調査隊が派遣され、その報告書の中に現地の言葉として“Vampyr“という単語が引用され、そのままドイツ語、フランス語、英語へと広がったということです。18世紀ですからわりと新しい言葉ですね。さて、どう介入しましょうか?この物語はほとんどがお城で展開します。お城に迎え入れてもらわないと話は始まりませんね。時代は19世紀半ばなので、もう賢者というわけにはいきません。困りましたね。とりあえず式神を放って場内の人間を調査しましょう。」
「おい、おまえさん!」
式神を召喚しようとした瞬間、翡翠は地元の農民に声をかけられた。
「おまえさん、このあたりじゃ見ねえ顔だな。旅人か?」
「はい、ジュネーヴから来ました。この界隈の歴史や民俗を調査しています。」
「ほう、女だてらに学者先生かい?」
「そんな大それたものではありません。家業の金融業に興味が持てないので趣味で手を染めました。」
「この界隈、何か面白いことはあるのかね?」
「まったくわかりません。何か興味深い伝承などはありますか?」
「俺たちはわからねえけど、お城の先生方なら何か知ってるかも。」
「お城に先生がいるのですか?」
「ああ、あのお城には領主様と一人娘のお嬢様が暮らしていて、そのお嬢様の教育係の先生方がおるでよ。マダム・ペロドンとマドモワゼル・ド・ラ・フォンテーヌだ。」
「まあ、お二人もいらっしゃるのですね。ぜひ一度お話をしてみたいものです。」
翡翠はとりあえず城に迎え入れられる方策を考えた。いきなり押しかけるのは愚策だ。ここは善意の第3者として入り込むことにしよう。それには、マドモワゼルの攻略が最適解だ。マドモワゼルを恋愛に落とし込んで自分がその後釜に収まる。翡翠は式神を放った。「この界隈でマドモワゼルの夫になりそうな男を捜せ。」
小一時間後に式神が戻ってきて翡翠に報告した。狩りの最中の竜騎兵、植物採集する自然学者、馬車で移動中の商人。該当するのはこの3人。翡翠はしばし考えて竜騎兵に決めた。アラサー女のロマンスを作り出すには、何といってもロマンティックな騎士が最適だ。これを城に運び込めれば勝負は付いたも同然。ちょっと怪我をしてもらって、善意の第三者として運び込もう。
竜騎兵は馬を駈り獲物の鹿を追い詰めつつあった。矢をつがえ撃つ。だが鹿は器用に矢を避けて立ち去った。竜騎兵はさらに矢をつがえ二の矢を放った。だがその矢は鹿には当たらず、近くにいた熊に当たった。熊は怒り狂って竜騎兵に突進した。馬が一撃で絶命し、竜騎兵は投げ出された。
「サラマンダー&シルフェ!風で広がる業火で焼き尽くせ!」
翡翠が介入して熊をステーキにして、竜騎兵に近づいた。
「怪我をしてますね。さあ、私に掴まって。」
「お願いします!騎士様が怪我をして倒れていました。どうか入れてください。」
翡翠は竜騎兵を抱えて城門を叩いた。下男やメイドが駆けつけてくれた。
「私は旅の民俗学者です。調査をしていたらこの騎士様が熊に襲われて怪我をなさいました。とっさのことでなんとか熊を追い払って、騎士様をここに連れてきた次第でございます。」
「おお、幸い傷は深くはなさそうだ。奥に運んで手当てをしましょう。」
「とんだ災難でございましたなあ。」
城主が柔和な笑顔で現れた。
「田舎の城でたいしたおもてなしもできませんがぜひごゆっくりと。」
「かたじけない。思わぬ不覚を取り申した。」竜騎兵はかしこまった。
「介護は私がいたします。何なりとお申し付けを。」
マドモワゼル・ド・ラ・フォンテーヌが頬を赤らめながら換えの包帯を持って入室した。
「初めまして、ラ・フォンテーヌ様。私はジャディー、ジュネーヴから来た銀行家の娘です。家業の金融業に興味が持てなくて歴史研究者のまねごとをしております。」
「まあ、研究者、私の憧れの職業ですわ。」
「趣味でやってるだけですので職業とは呼べません。マドモワゼルはこのお城のお嬢様の教育係なのですね?」
「はい、主にフランス語とラテン語を教えています。もう7年になりますわ。」
「そろそろお嬢様も舞踏会デビューのお年頃ですね。」
「はい....」マドモワゼルは遠い目をした。
マダム・ペロドンが入室して翡翠を呼んだ。
「旦那様がお呼びです。お嬢様を紹介したいそうです。」
応接室に入るとがっちりとした体格の初老の男性と15歳くらいの少女が待っていた。
「初めまして、ジャディー・ミカナンジュです。ジュネーヴから来ました。」
「初めまして、私はレジナルド・アッシュフォード、これが娘のローラです。」
「お目にかかれて光栄です。」ローラはカーテジーとともにそれだけ言うと顔を赤らめた。
「ローラは年の近い友だちと話す機会がないから照れているようです。」
「そんな年が近いだなんて。私は見た目よりは年上だと思いますよ。大学にも在籍していました。」
「ほう、女性で大学とは珍しい。」
「ロンドン大学理学部です。」
「イギリスの大学だったのですか。」
自分の母国と知ってアッシュフォード卿は興味深げに目を見開いた。父と娘両方の好意と関心を捉えたので、しばらく邪険にされることはないだろう。あとは...竜騎兵ロマンスを進めなければならないが、あの年齢になるとだいたい恋愛感情を拗らせているので、少し背中を押してやらなければならない。呪法で行くか、説諭で行くか...いや、身体だ。翡翠はアイテムボックスから魔物素材を取り出して手早く治癒薬を作成した。そしてそれを持って、ラ・フォンテーヌ嬢が竜騎兵を看病している部屋へ向かった。
「マドモワゼル!これを、この薬を彼に塗ってあげてください。ジュネーヴ大学医学部が開発した画期的な治癒薬です。」
「まあ、そんな高価なものを。」
「殿方の治療の現場に同席できませんので私は部屋を出ます。どうかよろしく。」
翡翠さん、だんだん手際が良くなってきて、手際が良すぎるとなんだか悪い人みたいに見えてきますが、嫌わないでやってくださいね。