翡翠さん、ロシアより愛を込めて
無事に不時着できて良かったですね。不時着した場所が問題ですが。
「前回は最後の台詞だけいつもの翡翠さんだった。」
「どうした、青水?顔が腫れてるようだが。」
「うん、夢がなかなか終わらなくて起きられなかった。」
「ほう、人間にはそういうことがあるのか。」
「ところで女神よ、翡翠さんのミッションはもう終わったのでは?」
「ん?物語はまだ終わってないぞ。」
「しらを切るんじゃないよ。ミッションはマルガレーテの救出、違うか?」
「まあそうだけど。」
「だったらもう帰還させても良いじゃないか。」
「話がイスタンブールへ飛んで行ってしまったからなあ。」
「だぁーっ!ジャケ絵を乗っ取るんじゃないよ!」
「飛んでイスタンブール♪ なんたらかんたらシュール♩」
「歌うな!歌詞もいい加減なくせに。」
「せっかく飛んで行ったんんだからまだ帰りたくない。」
「もうイスタンブールから脱出してどこぞに墜落しただろ。テキトーに切り上げて戻せば良いじゃないか。」
「あとちょっとだけ...」
「何だって!」
「あとちょっとだけ見ていたいの!イケメンのジュアンが登場したし。」
「あー、そーですか!熟女の性欲再燃...」
「おい、女神に何てことを言う!もう熟女だなんて言わせない。」
「熟女向けの化粧品CMみたいなこと言ってるんじゃないよ!」
「翡翠もわかってくれてると思うよ、あの子、良い子だから。」
「はい、出ました。ブラック上司ですね。」
「うるさいうるさいうるさいうるさい!」
「うーわっ、年齢的にきついキャラ出してきたわ。」
「と、に、か、く、とにかく、しばらくつきあってもらうわよ。」
「もうつきあいきれんわ。」
(漫才終了)
「ハックチン!」
翡翠は謎の悪寒を感じてクシャミをした。耐衝撃結界は無事に発動してファウストとジュアンは無事のようだ。だが墜落中の精神的ショックで気絶している。メフィストフェレスは人間の姿に戻ってうろうろしている。全員無事だったのは不幸中の幸いだが、墜ちた場所が悪かった。どう見ても軍事要塞の中庭である。兵士たちが集まってきた。幸いに、熱気球はメフィストフェレスのマントの下に格納済みだった。
「止まれ!おまえたちは何者だ?」
「旅の芸人一座でございます。」
メフィストフェレスがもみ手をしながら答えた。こういう場面では百戦錬磨の悪魔に任せるのが最適解だ。口八丁で上手く突破してくれるだろう。
「その芸人一座がなぜここにいる?どこから入ってきた?」
「遠くの市場で大道芸を披露していましたら、ちょっと間違ってここまで飛ばされてしまって。」
「遠くから飛ばされただと?バカを言うな!」
「いえいえ、風を呼べば、ほら、こんな具合に。」
メフィストが指を鳴らすと小さなつむじ風が彼を包んで宙に浮かべた。ファウストもジュアンも翡翠も、次々につむじ風に包まれて地上を離れた。
「いかがでしたか?こんな芸を披露していたのですが、手元が狂ってピュ~ッとここまで飛ばされてしまったのでございます。」
「むう、怪しげな奴らだ。」
隊長らしき兵士がサーベルの柄に手をかけた。だが、兵士たちの間に動揺が広がった。
「隊長!先ほど何かが墜ちてくるものが目撃されています。」
「天使と悪魔が上空で戦っておりました。」
「何だと?」
「司令官に報告すべきだと具申いたします。」
「むう、良し、司令官に報告し、こいつらは監視付きでどこかの営倉に閉じ込めておけ。捕縛は必要ない。」
「やれやれ、目が覚めたら営倉に監禁ですか。」ジュアンは周囲を見回した。
「怪我をせずに済んだ。重力系の魔法か?まだ解明されていない...」
ファウストはノートを取り出してルーン文字や数式を書き始めた。しばらくご無沙汰だった魔道士魂に火が付いたようだ。メフィストフェレスはニヤニヤしながら、横からあーでもないこーでもないとファウストにアドバイスしてまとまりつつあった考察を台無しにした。翡翠はこのあとの展開を考えていた。まず場所の特定、次にこの軍隊がどこに属しているのか。これが判明しないと先が読めない。扉が開き兵士たちが入ってきた。
「出ろ!これから尋問を始める。」
「この要塞はどこですか?」
「ロシア軍イズマイル要塞である。」
ジョージアから黒海を横断して西へ進みロシア領の南端近くへたどり着いた。ということは、この要塞は対トルコ戦に備えたものだろう。イスタンブールから来たことは隠しておいたほうが良さそうだ。翡翠たちは尋問室へ連行された。司令官が待ち受けていた。
「おまえたちはそもそもどこを目指していたのか?」
「興行を打ちながら西へ進み、最終的にはドイツへを目指そうかと。」
「ドイツでは何をする?」
「団をいったん解散してそれぞれが本来の活動に戻ります。」
「本来の活動とは?それぞれが別個に答えよ。」
「私は人間と自然の実相を見極め究極の真理を求めるつもりだ。」ファウストが判で押したような答えを言った。
「私はこの方の僕でございますからひたすらお仕えするのみ。」メフィストは珍しく真実を答えた。
「私は賢者なので世界に知識を広めましょう。」翡翠は棒読みで答えた。
「私は...これまで主体的に行動したことがありません。ただ流されるまま、はい、ときには船が難破して飢えと闘いながら数日間も流され...海賊の島に打ち上げられて....海賊の娘に助けられ....彼女の言いなりになって夫婦のまねごとをしてみたり....それから海賊の父親にバレて奴隷に売られ...」
「私が買い取りました、荷物持ちと夜伽の相手に。」翡翠は決死の割り込みをしてジュアンのトルコ滞在の話を架空のエロ話で上書きした。
「良し、おまえたちは明日モスクワへ連行される。そこでエカチェリーナ皇帝陛下のご裁断に委ねられることになる。失礼のないように接することだ。陛下はプロイセンともパイプを持っている。上手く行けばドイツへ渡る術もあるかも知れない。」
イズマイルからモスクワまでは1500kmほどの距離で、最も速い軍隊の馬車でも移動に20~30日かかる。翡翠たちはなすすべもなく馬車の硬い座席で揺られ続けた。翡翠はふと思った。自分はミッションをコンプリートしたはずなのになぜいつまでも帰還できないのだろうと。そして女神のにやけた顔を思い出して、あわてて頭の中の画像表示をオフにした。
モスクワに到着すると、翡翠たちは1日の休息を経て、翌日に女帝エカチェリーナ2世の玉座の前に引き出された。
「面を上げ!ん?そこの黒髪の!」女帝はすぐにジュアンとファウストに興味を抱いた。
「おまえたち、女の服を着ておるが中身は男じゃな。良し、細かいことはあとにしよう。この男2人に見栄えの良い男の服を着せて連れて参れ。あとの者たちは...どうでも良いわ。ピロシキとボルシチを食べさせて、好きにさせておけ。ロシア文化に驚嘆することじゃろう。いったん解散じゃ。」
「エカチェリーナ陛下、お待たせしました。」
「おお、思った通りじゃ。妾の選択眼はさすがじゃの。見事な男前。おまえたち、さっそく相手をしてもらうぞ。妾は七面倒くさい戯れ言は好かん。歯の浮くような囁きなど興ざめで萎える。その身体で真っ向勝負で示してみよ。さあ来い、勇者ども!」
「ねえメフィスト、あいつらどうなるかな?」
「そりゃ食われちゃうでしょうね。このピロシキのように。私は無事で助かりました。」
「あんたを選ぶ物好きはいないと思うけど。それにしてもかわいそうね。ファウストくん、まだ童貞なのに。」
「あ、そうでした。旦那の童貞性欲をなんとかするという使命がありました。マルガレーテで果たせなかった夢を女帝エカチェリーナで果たす。夢がありますね。」
「あなたねえ...」
「どんなことになっているか見に行きましょう。」
「もう無理だ...」ジュアンが腰をさすりながら青い顔でうなだれている。
「大丈夫か?連続で指名が来るなんてうらやま...いや、災難だったね。」
「本当だよ。2人いるんだから交代制にしてもらわないと、もう中身がスカスカだ。」
「だよね、私は満タンなのに...」
翡翠とメフィストが現れた。
「おや、ジュアンの旦那はもうスカスカで、ファウスト先生はモジモジしてらっしゃる。」
「メフィストか。見ての通りだ。ジュアンだけが連続で指名され、こっちはお茶を引いている。」
「わかりました。お待ちください。陛下にお話ししてみましょう。」
「何じゃ?貴様は指名リストに入っておらん。妾はイケメンにしか興味がない。失せろ。」
「ええ、それはもう存じ上げていますよ。陛下はジュアンの旦那がたいそうお気に召したようで。ですが、たまには初物を摘んでみるのも悪くないですよ。あのファウストくん、実はまだ童貞です。初めてをいただくって特別な味わいがあると思いませんか?たとえ味は熟成ものにかなわなくても、ボジョレー・ヌーヴォー、飲んでみたいじゃありませんか。」
「うむ、たしかに一理あるな。ピチピチとして料理人を泣かせる釣ったばかりのニジマス、うん、悪くない。」
「でございましょう?さっそくお呼びになりますか?」
「うむ、呼んで参れ。」
「旦那!指名が入りましたぜ。頑張って男にしてもらってきなさい!」
「おう、ついに来たか。よしっ!」
「少し力を抜いて、ね。」翡翠は小声でファウストの背中に語りかけた。
「何だ、貴様は!女の服の脱がせ方もわからんのか!絹のペチコートを引き裂きおって!そしてその鼻血は何とかならんのか!鼻血を出しながら服を脱ぐ前に暴発しただろう?顔を見ればわかる。もう良い、出て行け!」
女帝の怒声が部屋の外にまで響き渡った。ファウストはもう呼ばれることはないだろう。翡翠はみんなを集めた。
「さて皆さん。長い旅路でしたがここで解散します。もうこれ以上...無理です。私は帰還します。ファウストくんとメフィストは、どうにかしてください。どうにかできるはずです。原作では時空を超えて古代ギリシャに飛んだくらいですから。そしてジュアンくん、あなたの物語はまだしばらく続くので、このモスクワに留まってください。大丈夫、そのうち出られます。今回のミッションで私はキャラが崩壊しました。NG台詞もいっぱい言わされました。戻ったらしっかり落とし前を付けてもらいます。それではさようなら!」
ようやくファウスト編、強制終了しました。読者の皆様もお疲れ様でした。ドン・ジュアンとファウストって、どちらも有名キャラで、何度も二次創作...というのが妥当ではないのでしょうが、繰り返し作品化されていて、「ドン・ジュアンとファウスト」というベタな対決ものもあるんですよ。グラッベというドイツの作家が書いた戯曲です。他にもあるかもしれないけど、ぼくは知りません。