翡翠さん、空を飛んでメフィストフェレスとファウストを追跡する
いよいよ契約してしまったので、見届け人として翡翠さんはアフターサービスに取りかかります。
「青水よ、今回はいかにも翡翠らしかったな。」
「はい、以前シェイクスピアの『ヴェネツィアの商人』に介入したとき、法廷答弁をして経験値を得ましたから。」
「やはりヴェニスは拒絶してヴェネツィアにするんだ。」
「当たり前です。それに異を唱える連中は、今後パリをパリスと呼称するべきです。」
「ファウストは次に何をする?」
「あの有名なアウエルバッハの酒場へ行きます。」
「あー、なんとなく耳に残ってる。たしかライプツィヒだっけ?」
「はい、実在する店です。住所は:Mädler-Passage, Grimmaische Straße 2–4, 04109 Leipzig, パサージュですから何という日本語が適訳なのか...アーケード?でもアーケードとパサージュではわくわく感が違いますね。日本の商店街でもパサージュを自称してるところがありそう。AIに訊いてみましょう。.....ありました。横浜のパサージュ上大岡。」
「どうでも良い話を長引かせるな。」
「酒場の名前は“Auerbachs Keller“、すなわち地下酒場です。入り口にはファウストとメフィストフェレスのブロンズ像が、店内にはメフィストフェレスが学生たちを翻弄する彫像が飾られています。そして、何とわれらが森鴎外がお仲間と歓談している肖像画もあるのです。この店で鴎外は『ファウスト』の翻訳を決心したと...どこかに書いてありました。」
「私も行ってみたい。ドイツ旅行したい。」
「何ですか、仕事がそろそろ飽きてきたOLみたいなことを。」
「それ以上失礼なことを言ったらメラゾーマだからな。」
「はい、ここでは呪文を唱えても何も出ない、子どものドラクエごっこみたいになりますけどね。」
契約を終えたファウストの元に遍歴学生が訪ねてきた。有名人に面会したいだけのモブだ。ファウストはとても会って話をする気になれないので、メフィストフェレスがファウストのガウンを借りて対応する。もちろん、一見まともなことを言ってるように見えるが、すべて学生を堕落させる甘言だ。医学を専攻すれば女体に触りまくれるなど、誰が聞いても最低なことしか言っていないのに、モブ学生は感動する。一連の茶番が終わったころを見計らってファウストが再登場する。
「さあ先生、楽しい世界へ出発です!」
「どこへ行くんだ?」
「お気に召すままです。まずはミクロコスモス、次にマクロコスモス。」
「こんな長い髭を生やしていては楽しめる気がしないがな。」
「なあに、私にすべてお任せあれ!」
「表に馬車も何も見えないが。」
「このマントさえあれば、ほら!」
マントはあっという間に熱気球に変わり、2人を乗せて軽やかに離陸した。
「あ、いけない。このままでは見失ってしまう。仕方がない。もし見つかったら大騒ぎだけど、この時代ならただのめでたい話で終わるでしょう。私も空を飛んで追います。」
翡翠は天使モードに変身して2人を空から追跡した。
店内ではメフィストフェレスが酔っ払い学生たちを翻弄して楽しんでいた。テーブルに錐で穴を開けて、そこに蝋で栓を作って酒を振る舞っていたのである。学生たちは大喜びで酒を飲むが、少しでもこぼすと炎になる。魔法だと気付いた学生たちは怒り心頭に発するが、酔っ払っているので上手く立ち回れない。その無様な醜態を大笑いして楽しんだあと、メフィストフェレスとファウストは酒樽に乗ってその場から飛び出した。
「まあ、とんでもない乱痴気騒ぎですね。こんなところ、ファウスト博士が楽しめたとは思えません。メフィストフェレスはなぜこんなところへ連れてきたのでしょう?とりあえずあとを追いましょう。酒樽ロケットで飛び出すなんて度が過ぎています。おっと、急がないと見失ってしまう。」
メフィストフェレスがファウストを連れて行ったのは魔女の台所だった。そこで猿たちが踊ったり歌ったりしながら鍋で何かをグツグツ煮ている。このシーンはフランドルの画家ピーテル・ブリューゲルの「聖ヤコブの誘惑」が元ネタらしい。猿といっても尾長猿、霊長類の下等種だ。人間を模倣し、喧噪と混沌を生み出す。猿が嫌いな人は多い。たいていの近接種は嫌われる。自らに潜む嫌な部分が強調されて表現されていると感じ取られるからだろう。生物差別なんて決してしそうもないあのダーウィンですら猿を嫌悪していたそうだ。人種差別の根っこにも似たような構造があるのかもしれない。この尾長猿たちは魔女の僕で、留守を守りながら言いつけられた仕事をしている。アウエルバッハの乱痴気騒ぎに突き合わされて不機嫌なファウストは、またもや不愉快な混沌の中に導き入れられて腹立たしくてたまらない。だが、雑然としたこの台所に女の姿を映し出す鏡を発見してその美しさの虜になってしまう。
「なんと美しい姿がこの魔法の鏡に映っているのだ。おお恋よ、おまえの一番早い翼であの女の元へ連れて行け!だが、思い切ってあの女に近づこうとすると、姿はぼやけて霧の中に消えてしまう。」
「お気に召しましたか、旦那。今は眺めるだけで我慢してください。これは女の美のイデアのようなものです。本来は五感で捉えることもかなわない天上の輝きのようなもので、現実の女はそれに与ることができるだけ。お任せいただければ、これに似た別嬪さんを見つけてあげますよ。」
メフィストフェレスがそんなことを言っている間に魔女が帰宅する。貴族の服装をしたメフィストフェレスが最初わからず、魔女は鍋のスープを跳ね飛ばして攻撃するが、はたと気づいて「サタンの若君!」と歓喜のあまり呼びかけてしまう。メフィストフェレスは焦って、「その名前で呼ぶな!」と遮る。メフィストフェレスの正体はサタンだったのか。
「で、お師匠様、きょうは何のご用で?」
「うむ、こちらの御仁に例の薬を頼む。」
「若返りたいのですか?」
「そうだ。人生をたっぷり楽しむためにな。」
翡翠は量産型式神を放ってこの様子を観察していた。
「若返るのですね。それは別に問題ありませんね。寿命が延びますし、メフィストフェレスの服務期間も大幅に伸びることでしょう。ただ...その若さで悪事に手を出すことは許せません。老獪な知性と結びついた力溢れる若さは、往々にして暴走しますから。女性美のイデアに執心していたようなので、おそらく女の敵になるでしょう。さて、どう対処したら良いものか?」
そう、経験値MAXで若返って「強くてニューゲーム」、はい、きっとろくなことはしませんね。