翡翠さん、メフィストフェレスにしてやったりしてやられたり
さすがの翡翠さんもメフィストフェレス相手だとそう簡単にはいかないようですね。そういえば「人文知は役立たず」では、メフィストフェレスが退場してから翡翠さんが女神に召喚されていましたから、初顔合わせになります。
「なんだ、今回はずいぶん簡単に引き上げてきたな。」
「あそこで助手のヴァーグナーが登場する前に、本の中から地霊が登場して、見た目が怖いんだよ。」
「本の中からこんなものが飛び出てきたらみんな腰を抜かしそうだ。」
「そう、ファウストも腰を抜かしそうになったけれど、そこは希代の博士、自然の根源的象徴である地霊に対峙し、自分が探求しているのはおまえだ、おまえが好きだなどと一方的に告白して....」
「よろしくお願いしますと手を差し出され...るわけないか。」
「そう、勝手に夢でも見てろとふられて絶望の階段をさらに一歩進む。」
「そしてメフィストフェレスがやってくる、と。」
「いや、まだだ。その前に助手がやってきて茶番があって、ファウストは自殺しようとするんだが。」
「なんだと!それじゃ芝居はそこで終わるじゃないか!」
「天使の合唱が聞こえてきたら、毒杯を捨てた。」
「役者も演じにくいな、観客はみんなそこを知ってるんだから。死ぬ動機もいまいちわかりにくいし、天使の合唱を聴いて思いとどまるってのも....」
「この成り行きを素直に受け止められない俗物は芝居を見るな、というのがゲーテ先生のお考えなのだろう。」
「翡翠が介入する場面はしばらくなさそうだな。」
「無理矢理介入させるさ。」
研究室で書物と格闘するファウストの隣に黒いプードルがいる。ファウストに付いてきたらしい。プードルといってもトイプードルではなく、体長1メートル以上の大きなむく犬だ。ファウストは気まぐれでクッションを投げてやり、そこにおとなしくしてろと命じた。だが犬は吠えるのを止めず、やがて膨張して魔物の姿になった。「ナイル川のカバ」と呼ばれるが、これは紛れもなくベヒーモス。驚くファウスト。しかし恐怖におののくわけではない。魔道書「ソロモンの鍵」を取りだし召喚魔法を唱えた。
「燃え上がれ、サラマンダー!渦となれ、ウンディーネ!流星となって輝け、シルフェ!片付け役はおまえだ、インクブス!始末を付けろ!」
効果がなかった。プードルはニヤニヤ笑っている。
「博士!」
翡翠が部屋に入ってきた。手に聖属性魔法の魔道書を持っている。
「ファウスト博士、この者に四大属性魔法は効きません。四大の原理が発見される前の存在です。この聖十字の魔道書をお使いください。」
翡翠から魔道書を受け取り、ファウストは聖属性魔法を放った。これはすぐに効果を発揮した。
「我が足下にひれ伏すが良い!ただの脅しですむと思うな!聖なる炎で焼き尽くしてやろう!三位一体の輝きを受けるが良い!我が最強の術を受けるが良い!」
みるみるうちに魔物は膨張し、存在が希薄化し、やがて部屋の隅に充満する霧となった。
「参った!降参です、先生!」
霧の中から遍歴学生の出で立ちでメフィストフェレスが現れた。
「博士!逃げられないように扉と窓を結界でふさぎます。」
翡翠は術を唱え結界を張った。ペンタグラム、すなわち五芒星である。4大元素に霊を加えた5大元素の象徴。悪魔はこれを破れない。
「おまえの名前は何だ?」ファウストが迫る。
「名前なんてかりそめのもの、存在の本質を表すものではございません。」悪魔は煙に巻く。
「博士、騙されてはなりません。名前を知ることは魔術にとってとても重要です。真の名前を知る相手に対してのみ魔術の支配力が及ぶのです。それゆえユダヤ教キリスト教では神の名は伏されているのです。エホバもヤハウェもテトラグラマトン(四文字)のヘブライ文字を並べて読んだだけのものです。この者は悪魔です。」
「ふん、ハエの王のベルゼブブか、詭弁の王か、何でも良いが、正体を明かしてもらうぞ。貴様は何者だ?」
「すべての否定する霊です。およそ形あるものはすべて破滅するのが世の定め。ならば最初から存在なんかしないほうがましなのです。」
「ふん、言うだけ言っておれ。どうせおまえは袋のネズミだ。」
「たしかに少し困ったことになりましたね。でも袋ならネズミが囓って破るのがお約束ではないのですか?」
「何を言っている?」
「先生をお慰めするためにかわいい子分たちが廊下に集まって歌っていますよ。」
「何だと!」
「博士!」
翡翠が廊下に出ようとしたところをメフィストの魔法が遮った。空間固定の魔法で翡翠の身体は意識とともに固まった。
「さっきから邪魔なんですよ、あなたは。舞台に上がって良いのは役者だけ。素人がずけずけと踏み込んでくるのはルール違反です。さあ、ネズミくんたち、結界を囓って抜け道を作ってください。それでは失礼させていただきますよ、すっかり夢の世界に入られたファウスト博士。次に訪れるときは、ぜひ契約をしていただけると信じています。」
次回はいよいよ契約というか賭けというか、あの有名な場面です。