翡翠さん、改めて巫女姿でメンロパークへ赴く
日本は現在の日本とほぼ同じような形になり、沖縄戦と原爆の悲劇は回避できました。しんどかったです。
「無事に終わったな、青水よ。」
「ああ、しんどかったけどな。なにせ銃弾が当たれば翡翠とて無傷というわけにはいかない。」
「あの東郷という外務大臣、なんで急にドイツ語喋り始めたんだ?」
「あいつは東大独文出身で元ベルリン大使だったかな。現地で大恋愛の末ドイツ人女性と結婚している。」
「おや、現地で大恋愛をして捨ててきた森ナンタラ先生とは大違いだな。」
「ゲーテとシラーに通暁している文学者なのであのように理想主義に走る。」
「そりゃスターリンに騙されそうになるわけだ。」
「史実では実際に騙されたようなものかな。ヤルタ会談を知らずに無駄な時間を過ごした。外交は諜報活動とセットなのに、情報戦の意識が低い。まあ独文科出身の人文知野郎だから“役に立たない”ということだな。エラのような参謀がいないと。」
「これで沖縄戦の前に降伏したわけだが、まだポツダム宣言前だ。条件も変わってくるのではないか?」
「大枠においてはさほど変わらない。翡翠が言っていたように、相手が笑顔で受け入れる降伏をしたわけだから。中国大陸、朝鮮半島、台湾を手放す。それでもソ連参戦がないから北方領土は安泰だ。軍は武装解除の上で解散。これは多くの外交事例で敗戦国が受け入れる通過儀礼のようなものだ。獣が争って負けた側が示す屈従のポーズだな。ほとぼりが冷めたら再編成するのが世の常だ。憲法は改正。ただ、米国側に丸投げだと戦後政治で、『押しつけられた憲法』だの『恥ずかしい憲法』だの言い出す輩がいるので、日米および第三国の三者協議で骨子を決める必要がある。東大法学部の知性と実力が試される。憲法は国家権力の権限の限界を決めるものだから、暴走の安全装置のようなものだ。なお、たいていの国の指導者は憲法への忠誠義務がある。街頭演説や国会審議で憲法をディスるのはちょっとあり得ない。ということで、現行の日本国憲法とは微妙に内容が変わるだろう。国名はもちろん、翡翠が提案したように日本国に落ち着くだろうな。自国名に大を付けるのはダサいし、帝国はもうどこでも滅んでいる。在日米軍は呑むしかない。太平洋戦略構想の要だから。農地解放、ここは争いどころになるかもしれない。ただし、そのまま大地主制度を温存すると共産主義の温床になりかねないので、アメリカは強気に出るんじゃないか。中間層ブルジョアを育成しないと、ソ連に夢見る層が増えてしまう。」
「まあだいたい史実の戦後日本に似たようなものになるということだな。」
「そうだ。そしてアメリカは困ったものを抱え込んでしまう。原爆だ。翡翠がオッペンハイマーに注意喚起したように、アメリカ軍とトルーマンは巨額の費用を投じて開発した原爆の威力を世界に示したくてしょうがない。」
「であろうな。その気持ちは理解できるぞ。」
「理解するなよ、女神のくせに。」
「アメリカの『原爆落としてみてーな派』がどういう行動に出るか?無人島を破壊してみせるか?でもそれじゃどれだけの人的被害をもたらすのかという大事なデータが取れない。鬱々と、そう文字通り爆弾を抱えることになる。」
「日本が3月に降伏すると、アメリカは共産党軍に押され気味な中国国民党軍を支援するのではないか?あのでかい国が共産国になると――史実ではなったわけだが――いろいろ厄介だしな。」
「うむ、日本から接収した台湾を基地にして支援活動を開始するかもしれんな。でもそのあとどうなるかは皆目見当が付かない。」
「わからないことについては沈黙しなければならない。」
「ヴィトゲンシュタインのつもりか?神のくせに微妙に引用が間違っているぞ。正しくは、: "Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen."語り得ぬことについては沈黙しなければならない。微妙にトートロジーっぽいところが魅力だな。語れないのだから、言葉でどうこうできない。何もできないのだから放置、ゆえに沈黙。まあ良いだろう。中国がどうなるか、それは神のみぞ知るだ。」
「私は神なのですべてを語れるが、人間に対して真実はベールが必要だから、ここでは黙っておいてやろう。というわけで、改めてリラダンに介入だな。」
「おう、良いところで中断してたから読者はプンスカだ。フルスロットルで行くぞ。」
翡翠は再びメンロパークにやってきた。しかし、原作を通読しても介入の糸口が見つからない。かなり長大な物語だが、そのほとんどがエディソンによる、美とは何か、魅力とは何か、愛や恋は幻想か、存在と仮象の根源的な差異は何か、等々の長広舌が延々と続くだけ、主人公であるエワルド卿とハダリーの愛の交歓、愛の生活が描かれることもない。胸くその解消が可能なのはただ一点、エディソンの人造人間計画の原点だけだ。それは、男女の関係は本質的にかみ合わないものなので、自然を人工で置き換えて、過去から何万回も続けられてきた諍いとその結果としての悲劇をなくそうという決意だ。エディソンは全世界の独身者に量産型ハダリーを提供するつもりでいる。
「エディソンさん、お久しぶりです。」
「君はたしかジェイディ・ミカネンジくん。どうしたんだ、その姿は?」
「きょうは調律の巫女、御巫翡翠としてやってまいりました。エディソンさん、申し訳ありませんが、ハダリー計画は断念していただきます。」
「何だと!人類に資する崇高な発明を断念しろだと?」
「はい、崇高は危険をはらんでいます。圧倒し、押しつぶす巨大な力、畏怖を感じて見上げる立ちはだかるもの、崇高とはそのようなものです。エディソンさん、あなたのハダリーは人類を危機に追い込む可能性を秘めた、そうまさしく機械の崇高です。」
「何を言ってる!女に失望して命を絶つ男たちにとって究極の救済だ。」
「失望するような女を選ぶのが悪いのです。失望したならやり直せば良いだけのこと。そこで命を絶つという選択は不合理極まりない。ましてや、自然を捨てて人工物に逃げ込もうとは。」
「ハダリーは破壊させない、いや破壊できない。命が惜しければとっとと帰るのだな。」
「あの電撃シミターですか?愛玩用ガイノイドに良くあのような危険な武装を付けましたね。第三者による性的濫用への自衛?護身装置?それは持ち主男性が所有物を専有したいという欲に対応したGeneral Electric Companyのサービスですね。泥棒はその場で処刑、素晴らしい法意識ですね。合衆国憲法と齟齬を来さないのでしょうか?」
「うるさい!科学の進歩に異を唱える異国の魔女め!ハダリーには指1本触れさせない、いや触れることはできん。ハダリー!この異形の女をつまみ出せ!」
「くっ、電撃を避けるだけで精一杯で、近寄って切りつけるのは難しいようです。そもそもあの装甲に刃が通るかどうか...」
剣戟でこれほどの劣勢に追い込まれるのは翡翠にとって初めてだった。さすが発明王にしてメンロパークの魔術師が心血を注いだマシンだけのことはある。
「はっはっは、どうだ、ハダリーは美しさと強さを併せ持った理想の女だ。おまえの死体はラリタン川に沈めてやろう!」
エディソンはハダリーに加勢するように銃弾を翡翠に浴びせた。
「やられるわけにはいきませんね。仕方ない、月煌刃展開!」
30個の月煌刃が銃弾と電撃から翡翠の身体を守り、やがて自律的にハダリーに波状攻撃を仕掛けた。ミスリル鋼のような魔力金属の刃はハダリーの装甲を削った。
「やめろぉ!私のハダリーに!」
エディソンが崩れ落ちた。ハダリーは身体の随所から電気の火花を飛び散らせながら停止した。
「エディソンさん、あなたはかつての出資者であるエワルド卿にハダリーを渡して使用データを取るつもりでしたね。しかも、エワルド卿が身体だけは愛して心は憎むアリシア・クラリー嬢の身体データを数値化して写し取り、ハダリーにコピーして。身体データを知らぬ間に盗み取られたアリシア嬢に対する倫理的な悔恨はないのですか?ないのでしょうね。あなたは典型的なミソジニストです。そしてあなたは、かつての友人であるミスター・アンダーソンがとある気の緩みからエヴェリンという踊り子と不倫をして、それをきっかけとして人生を破綻させたことを知り、その踊り子に接近してやはりデータを取りました。魅力と手管、外面と内面、さらには人体美の人工と自然の関係を考察し、ハダリー製作の基本構想に役立てました。そして、エヴェリンさんに夫を奪われて身体と心に空白ができたアンダーソン夫人と接触し、その空白を利用してハダリーの疑似精神を育成するソワナという存在を作り上げました。こうなるともはやエンジニアリングではなくて魔術的錬金術ですね。そのようなご自分でも支配できていない仕組みを使って組み上げたガイノイドを製品化して世界中に売り出す、それがどんなに危険なことなのか、第三者機関に委ねて精査してもらう必要があります。ハダリーの残骸は、ハーバード大学の学際調査機関へ運んで、倫理的に問題がないかどうか精査してもらいます。場合によってはFBIが動く可能性もあるかもしれません。どうか冷静に事態の推移を見守ってください。」
そう、『未来のイヴ』はめちゃくちゃながくて、そのほとんどがハダリーの内部の説明とか、飛ばし読みしたくなる内容で、エンディングは...言っちゃって良いんですか?いや、ダメですね。