翡翠さん、メンロパークを訪れる――発明王の孤独
グリムの胸くそを払って幼少時の胸のつかえを取り去った青水さん、あ、ごめんなさい、人ごとのように言って。ぼく自身のことでした。次はまた人造人間問題に取り組むようです。
「あー気持ちよかった。やっぱ子どものころに溜め込んだ胸くそは根が深いな。」
「青水にも子ども時代が...いや、あったのかと言いそうになったが、おまえは未だにひねた子どもそのままだ。」
「かまわんよ、それで。」
「で、また人造人間案件に戻るのか?」
「ああ、そうだ。今度はハダリーだな。ペルシャ語で理想。そう名付けられた女性型人造人間、いわゆるガイノイドの原型だ。」
「作者はヴィリエ・ド・リラダン、カタカナで書く分には問題ないが、フランス語のアルファベットで書くのはクソ面倒くさいあいつだな。」
「女神さ、見た目を変えたら少しキャラ変わった?前は『あいつじゃな』って言ってたじゃん。あっちのほうが女神っぽい。」
「いや、そもそもその喋り方、役割語というやつで、人工的に作られたもの。それもかなり新しい。国語学者たちの研究によると、ラジオドラマでの台詞を聞いただけでキャラクター設定がわかるようにと作られたらしい。明治維新のあとで東京に進出した長州藩士たちのお国言葉がその土台になった。高い官職に就いた老人たちの言葉、というわけさ。私が真似をする必要もないだろう。」
「はい、ですね。女神と長州、何の関係もありませんから。」
「で、リラダンの『未来のイヴ』に介入するのか?」
「うん、あのタイトルで使われてる »future »って形容詞なんだよ、形容詞の女性形。男性形なら »futur »。」
「青水よ、そういうところだぞ、余計な知ったかぶり。誰が得する?」
「得するだろう?俺は最初見たとき、あれ、何で名詞が2つ並んでると思ったもの。英語の »future »に引っ張られて。そんな俺と同じ疑問を抱くかも知れない読者様へのサービスになるだろう?」
「そんなこと気にする奴なんておまえだけだと思うぞ、哀れだな。まあ、とりあえず登場人物をまとめてくれ。」
「*エワルド卿、主人公の青年貴族。
*ミス・アリシア、エワルド卿の婚約者、少しバカ。
*エディソン、誰もが知っている発明王。
*ハダリー、エディソンが作った人造人間。
*ソワナ、エディソンの助手の女、魔女っぽい。
*ミス・エヴェリン、エディソンの助手の女。
*アンダーソン夫妻、エディソンの友人夫妻。」
「公刊されたのが1886年、そのとき現実のエディソンは39歳の現役バリバリ、何か気まずいことにはならなかったのか?」
「そこを見越してリラダンは前書きで、この作品のエディソンは現実のエディソンとは違う、メンロパークの魔法使いであって、われわれの同時代人である技術者エディソンではない、と断っている。」
「作者に介入するのは禁じ手だから、翡翠はまず作中のエディソンに会いに行くのか?」
「それがオープニングにはふさわしいだろうな。ファースト・コンタクトで顔を覚えてもらう。すべて物語はそこからだ。」
翡翠は1880年代のニュージャージー州メンロパークに転移した。エディソンの研究所がある町である。ちなみに、カリフォルニアにもメンロパークがあるが、間違ってそちらを訪れてエディソンの足跡を探ろうとするかわいそうな人も....ネットで検索できる現代ではもういないだろう。
エディソンは安楽椅子に座ってぶつぶつ独り言を呟いていた。蓄音機が偉大な発明だともてはやされるが、せいぜい反復装置に過ぎないこと。再現できないものが数え切れないほどあること。呟きがだんだん自嘲気味になり、ついには、世間はそんな紛い物で満足していれば良いだろう。とっておきは秘密の地下室に隠してある、と不敵に笑うのだった。そこには神秘的麗人ソワナがハダリーのそばについて世話をしている。ソワナ、西洋語の名前ではない。起源がわからない名前。そしてエディソン自身もその存在を明確に把握していない。交信装置を通して聞こえる現実の女性アンダーソン夫人の中から別の声で語りかけてくる。
「こんにちは、初めまして。私、サイエンス・エディターのジェイディ・ミカネンジと申します。少しお話しよろしいですか?」
「何でしょう?特許関係のことならすべて広報で発表していますが。」
「次世代蓄音機、いえ、これはもう蓄音機の概念に収まらない魂の音声機械についてです。」
「....何のことだね?」
「従来型の反復再生に留まらない機能を備えた対話型音声機械、エディソンさん、あなたはそれを開発中ですね?」
「どこでそれを?.....いや、何も喋ることはない。帰ってくれたまえ。」
「はい。では最後に1つだけ。アンダーソン夫人、エディソンさんのお知り合いの方のようですが、お話を伺いに行ってもかまいませんか?」
「ダメだと言っても行くのだろう?でも彼女が会ってくれるかどうかは彼女が決めること。私からは何も言えない。」
「わかりました。では良い日を。」
「ここがアンダーソン夫人の家ね。旦那さんは留守かしら。」
翡翠は呼び鈴を鳴らした。顔色の悪い女性が出てきた。翡翠は満面の笑みで語りかけた。
「こんにちは、アンダーソンさん。私、雑誌“Contempolary Women”の記者ジェイディと申します。現代女性の心の平穏、心のさざ波、そして心の明暗についての特集を任されています。少しお話、よろしいでしょうか?」
「あ、はい。どうぞ、お入りになって。」
「今回の特集ですが、女性の社会進出によって、男性との付き合いの主導権を自ら取って積極的に動く女性が増えてきた、という現象を深掘りしようと思っています。」
「なるほど、だから私にインタビューに来たのですね?夫を奪われた過去を持つ女...」
「そのような確信があったわけではありませんが、旦那様のアンダーソン氏はこの界隈でもハンサムとして有名だと聞きます。誘惑されることも多いのではないかと思いました。」
「ハンサムな男と結婚、それは多くの女性の憧れかも知れません。でもそれは、複雑な誘惑の罠が随所に仕掛けられた戦場に飛び込むことと一緒なのです。19世紀の終焉が見えてきた現代、武装の進化、つまり外見の強化技術は日進月歩です。美人は厚化粧で作れる。そして男は、自然であっても人工であっても、美人が大好物です。違いますか?」
「その通りだと思います。化粧と補整下着でいくらでも強化できますから。」
「厚化粧女が私の夫を寝取りました。私は...心も身体も空虚になりました。」
「空虚な場所、何かを収められる空所ができたのですね?」
「何とお答えしたら良いのかわかりません。」
「お話、ありがとうございました。良い記事が書けそうです。では、良い日を。」
ジャーナリスト姿の翡翠さん、相手によって肩書きを変えるんですね。