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翡翠、ヴェネツィアで法廷に立つ――シャイロックを追い詰めない

午前中はヴェローナで午後はヴェネツィア、これは現代の観光旅行なら通常のコースですね。ヴェローナにはジュリエットのバルコニーという観光名所もあるそうですが、あれは20世紀に観光資源として作られたもので、あまりありがたくない。しかも劇中にバルコニーは出てこない。「ロミオ、ロミオ、どうしてあなたはロミオなの?」は庭の中での独り言。はっはっは、後の映画や芝居の設定がバルコニーを発明したんですね。ヴェローナに行ったらぜひこの不都合な事実をバルコニーに群がる愚民どもに知らしめて、観光気分を台無しにしてやってください。殴られるかも知れないけど。

「青水よ、午前中にロミオとジュリエットを助けて、お昼にイタリア観光で小休止、午後にヴェネツィアでシャイロックを助けるって言ってなかったか?」


「うん、無理だった。シェイクスピアだしね。」


「何がシェイクスピアだしね、だ。しかもロミオとジュリエットなのにロミオだけで、ジュリエットが出てこなかったではないか!これが商業演劇なら、観客が怒って『カネ返せ!』になるところだ。」


「だってジュリエット、このときまだ13歳だよ。夜会に出すのはコンプライアンス的にマズいでしょ。アメリカ公演では18歳ということにして台詞も変えているとか。」


「しゃあしゃあと真顔で嘘つくんじゃない!信じる人がいたらどうする!」


「ジュリエットは親の言いつけ通りに政略結婚してれば良いんだよ。誰だっけ?たしかヴェローナの太守エスカラスの親戚、名前はパリス。ふざけた名前だな。トロイア戦争の原因になる“どの女神が一番美しいでしょう?”問題でアフロディーテを選んだ奴と同じ名前。そいつとロリ結婚をすれば良いんだよ。フェミニストは反対するぞ、ざまーみろ。ディズニーは映画化を拒否、Netflixも拒否だな。こうして世界から拒絶されるシェイクスピア...」


「黙れ!黙って聞いていれば好き勝手言いおって。古典は現代のコンプライアンスの網の外に決まっておるだろう。アメリカ合衆国の国語の教科書が成り立たなくなるわ。愚か者め!源氏物語も禁止になるぞ。」


「だな。PTAは許すのか?フェミニスト団体は?」


「だからいたずらに煽るな。昔は昔、今は今だ。人間の寿命が違いすぎる。で、次はシャイロックか?またずいぶんとセンシティヴなところを選んだものだ。」


「ヴェローナから近いからな。ところで、なんでヴェニスなんだ?」


「は?何だ?唐突だな。おまえが選んだんだろうが。」


「いや、そうではなく、あの町はヴェニスではなくてヴェニツィアだろうが。なんで翻訳はヴェニスになってる?」


「そりゃシェイクスピアが英語で書いたから。」


「各国版のタイトルを挙げると、フランス語版 » Le Marchand de Venise »、ドイツ語版 » Der Kaufmann von Venedig »、スペイン語 » El mercader de Venecia »、イタリア語 » Il mercante di Venezia »、すべて自国語の都市名になっている。さて、日本語でイタリアのあの都市の名前はヴェニスか?旅行会社でツアーを企画すると『ヴェニスと北イタリアを巡る旅』と言うか?現地で何か事件が起こったときニュースで『ヴェニスで日本人が発砲事件に巻き込まれた』と言うか?言わないだろ?日本語では一貫してヴェネツィアだ。ところがシェイクスピアのこの戯曲を『ヴェニスの商人』として流通させてしまったせいで、トマス・マンの小説まで巻き込まれて『ヴェニスに死す』にされてしまった。中には『ベニスに死す』という表記で、なんだかそこはかとなく男色の香りを醸し出させているものまである。わざとだ。アッシェンバッハが美少年好きだからわざとそうしたんだ。」


「まあそう興奮するな。シェイクスピア関係は、人名も地名もすべて英語を元にしたカタカナにする習わしだ。英文学の頂点を極めた彼に対するリスペクトなのだろう。」


「釈然とせんな。翡翠さんはヴェニスではなくヴェネツィアに派遣するからな。」


「ご勝手に。」





 翡翠は15世紀のヴェネツィアに現れた。ちょうどアントーニオがシャイロックに3000ダカートの借金を申し込むところだ。アントーニオの態度は不遜で、金を借りる側なのに悪態をつきまくっている。そもそもユダヤ人ときたら借金に利子を付けやがる、と。利子は不当なものではなく、知恵と工夫によって財産を殖やす正当な権利だとシャイロックは主張する。現代人からすれば当然の主張だ。利子がなければ年金も老後の生活も保障されない。ただ、シャイロックの主張は、哲学的自然学を学んだ翡翠には承服しかねるものもあった。聖書の引用で、生まれた羊の毛色が縞と斑ならすべて自分のものになるという約束を叔父のラバンとしたヤコブが、発情期の雌羊の前に縞模様を彫り込んだ木の枝を並べた結果、生まれた子羊がすべて縞模様になったという話をして、自然の摂理を見つければ天の祝福として利益が生まれると主張したことである。視覚情報が遺伝子情報に書き換わるわけはない。そういえばトリストラム・シャンディも性交中の母親が時計のねじ巻きのことを考えたので変な性格になったという設定だった。翡翠は軽い苛立ちを感じながらその問答を聞いていた。


「良いか、シャイロック、友に貸すのではなく敵に貸すと思え。そうすれば違約の場合、思う存分相手からかたが取れる。」


「良いでしょう。びた一文利子はいただきません。その代わり公証人のところで、もし期日まで返せない場合は、その身体の肉を1ポンド頂戴できるという証文にサインをしてください。」


「わかった。証文にサインしよう。」



 これであの人肉裁判の発端が開かれた。翡翠はそれを確認してから、ベルモントのポーシャの家へ向かった。自分の夫を選ぶのに、亡くなった父の遺言に従って三つの箱から正しい箱を選んだ男と結婚するというとんでもないくじ引きゲームに付き合わされている哀れな女だ。演劇のルールでなければ誰がそんな酔狂に付き合うというのだろう。翡翠は、とりあえずポーシャと顔合わせだけしておくつもりで呼び鈴を鳴らした。


「こんにちは、初めまして。私は旅の修道女ジェイディでございます。」


「初めまして。ここベルモントの領地を受け継いだポーシャと申します。」


「ポーシャさんは結婚相手を箱選びのゲームで決めなければならないと聞きました。よろしいのですか、そんなことで?」


「馬鹿馬鹿しいと思われても仕方がありませんが、父の遺言です。おそらくそれが一番上手く行くと父は考えたのでしょう。」


「そうですか。ならばお父様には深慮があったのでしょう。箱選び、神のご加護があると信じております。私、御使いの声を頼りに占いができるのですが、試してみますか?」


「はい、ぜひお願いします。心の支えが今の私にはありませんので。」


挿絵(By みてみん)


「ポーシャさん、あなたはバサーニオー様という方の求婚を受け入れることになります。その方が正しい箱を引き当てるようです。ですが、バサーニオー様をこの箱選びゲームに参加させるため、お友だちのアントーニオ様がシャイロックという高利貸しからお金を借りて苦境に陥るようです。」


「まあ、何と言うことでしょう!」


「問題はその借金の証文に付けられた条件なのですが、法律的に無効と思われるので、それをそのまま通した公証人も罪に問われるべきだと思います。ポーシャさん、あなたは法廷でよどみなく弁論を進められる自信がありますか?」


「私は一介の市井の女、そのようなことができるとはとうてい思えません。」


「ならば私にお任せ願えますでしょうか。この姿では何もできませんが、男装して裁判に臨むことができれば、必ずや勝利を収めることができましょう。」


「ならば従兄の法学者ベルーリオ博士にお願いして、裁判に必要な書類と法服を送っていただき、自分に代わって若き法学者バルタザールに弁論を一任するという手紙を書いていただきましょう。助手としてメイドのネリッサを付けます。よろしくお願いします。」



 ヴェネツィアの法廷で公爵がシャイロックに慈悲を説いているが、シャイロックは耳を貸すつもりはない。ポーシャが用立てた6000ダカートの金も受け取りを拒否して、何が何でもアントーニオの肉を切り取れと主張している。そこに助手に扮したネリッサが登場し、裁判長にベルーリオ博士の書簡を渡す。そこには、自分の代わりに若き俊英の法学者バルタザールを遣わす、とあった。バルタザールに扮した翡翠が法廷に立つ。


挿絵(By みてみん)


「法学者のバルタザールです。今回の一件、法理に基づいて精査したところ、いくつかの瑕疵がございます。開陳してもよろしいか?」


「認める。続けなさい。」裁判長が応諾した。


「本件の前提になる証書ですが、たしかに公証人に印が押された正式なものでございます。しかし、ヴェネツィアの法律は金で命を購うことを許してはいません。人体から1ポンドの肉を切り取れば死亡するのは必定。それを知りつつ、あるいは予見できずに、法的に実行力のある証書を発行した公証人は裁かれなければなりません。返済不能の裏付けに命を担保にはできないからです。というわけで公証人は裁かれることになるのですが、間違って出された証書であっても公的な権威を纏った証書であることは確かです。実行権は保証されます。なのでシャイロックはアントーニオから肉1ポンドを切り取る権利を有します。しかし...それによってアントーニオが絶命した場合、シャイロックには殺人の罪が課されます。ヴェネツィアの刑法に従えば死刑は免れないでしょう。自らの命を賭してアントーニオの命を奪うか、あるいは権利を放棄して用意された倍額の返済金を受け取るか、その選択はシャイロックに委ねられます。」


「さあ、どうします?シャイロック。」裁判官が返答を促した。


「ぐぬぬぬ...、やってられませんな。死んだら元も子もありません。放棄しますよ。そして6000ダカートをいただいて帰ります。」


「なるほど、理性的な判断です。」翡翠は続けた。「ただしそう簡単に帰ることはできません。公証人に判を押させたとき、あなたは肉1ポンドを切り取ったアントーニオが死ぬということを予見していませんでしたか?」


「とんでもありません。まったく予見しておりませんでした。肉を取り出したら血が流れる、それはキリスト教徒の常識で、血も涙もないわれわれユダヤ人には当てはまらないのです。」


「なるほど、とても賢い返答です。ではここで弁護人を召喚したいと思います。裁判長、よろしいでしょうか?」


「認めます。」


「弁護人、シャイロックの娘ジェシカよ、ここへ。」


「シャイロックの娘だったジェシカです。だった、と言ったのは、私がロレンツォと結婚してキリスト教に改宗したからです。ユダヤの律法に従って父と私は断絶しました。ただ、律法に従えばそうではありますが、血縁の情は切れません。なので父を弁護するためにここへ来ました。父は、たしかにアントーニオさんへの恨みをいつも口にしていました。滅ぼしてやることができればどんなに痛快であるか、と。ただ....殺してやりたいと言ったことは一度もありません。滅ぼす《ルイン》、それは曖昧な言葉です。お城が廃墟になる、それはお城としての役割を果たせなくなる、瓦礫になる、過去のものになる...。つまり父は、アントーニオさんがいきいきと商売をなさって市民の信頼を勝ち得ていたのが眩しかったのだと思います。肉を抉ってやれば瓦礫になる、もう輝きを失う、妄執に囚われてそのようなことを考えたと思います。殺意は...殺意は全くなかったはずです。」


「よろしい、わかりました。さてシャイロック、今のジェシカの言葉を聞いて何か言うことはありますか?」


「...突然のことで...娘が結婚して改宗までしていたということも今ここで知りました。青天の霹靂です。今までの私でしたら怒りが爆発して結婚相手に復讐するか、経済的に追い込むか、ありとあらゆる手段で娘の将来を邪魔し、そう廃墟にしてしまおうと思ったかも知れません。しかし今、娘の真意を知って気持ちが変わりました。ここで得た6000ダカートを娘の持参金としてロレンツォに渡し、2人が住む家も用意しましょう。この場で公式に約束いたいます。」


「ならば末永く娘夫妻の未来を祝福してやってください。答弁はこれで終了します。」


「シャイロックの殺意は否認、よって無罪放免とする。」裁判長がガベルを打って閉廷を告げた。


法廷の場面とかになると一挙に字数が増えますね。法学部の皆さん、ご苦労様です。

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