六章 光の中闇へ進む
アシュデルはハアーと、空に向かって白い息を吐いた。
雪は止み、青い空が広がっているのが、雪の積もった針葉樹の間から見えていた。
「くしゅん!」とかなり下の方からくしゃみがした。
「寒い?」
アシュデルは、マフラーを取ると、すでにマフラーに半分埋まっているイリヨナに巻き付けた。
「きゃっ!もお、前が見えなくなってしまいますの!」
手袋をした手に紙袋を抱えたイリヨナが、可愛らしく抵抗した。アシュデルは、目つきの悪い眇めるように細い双眸に笑みを浮かべて、そんな彼女を見下ろしていた。
「さあ、帰りましょう?ギンヨウが待っていますの!」
ザクザクと歩きづらい雪道を一歩一歩進むイリヨナを、アシュデルは片手で掬い上げた。
「きゃあ!ア、アシュデル、お、重いでしょう?」
イリヨナは、落とさないように紙袋を抱え、近くなったアシュデルの顔をあからさまに意識しながら、それでも目をそらさなかった。
「重くないよ?魔法使ってるから」
片手に紙袋を抱え、空いた片手にイリヨナを抱いて、アシュデルはフフと笑った。
「そ、そういうことではないのですの!もお……!」
「ハハハ」
照れるイリヨナの耳に、アシュデルの楽しそうな笑いが聞こえた。そうしてイリヨナを抱いたまま雪道をゆっくりと進み、アッシュの工房までたどり着いたアシュデルは、両手が塞がっていて扉を開けられなかった。
「降りますの」とイリヨナが言う前に、アシュデルは扉をコンコンッと蹴った。しばらくすると、扉は中から開かれた。
「おかえりなさい。父さん、母さん」
中から顔を出したギンヨウは、そう言って笑った。
今のは、何?イリヨナは襲いかかってきた茨の鞭に弾き飛ばされて、野の花の上を転がった。なぜだが、体に痛みはない。痛みはないが、心が軋むように痛んだ。
体を起こして、顔を上げたイリヨナは、氷の棺を守るように鎌首を上げる茨を見た。茨は、イリヨナが立ち上がるのを待ち、再び攻撃を仕掛けてきた。それを見据えて、イリヨナは前へ飛び、クルンと前転して受け身を取る。視線を上げたイリヨナは、茨に切り裂かれたミイロタテハの残滓が舞うのを見た。
作業台の前に座っていたアシュデルは、先端に、青みがかった透明な、氷の結晶が散りばめられたかんざしを見つめていた。
「可愛いですの!」
ヒョイッと、クリーム色の長袖のニットワンピースを着たイリヨナが、手元を覗き込んできた。
「そう?君が言うなら売れるね」
そう言うとアシュデルは彼女のツインテールの片方にかんざしを挿した。
「うん。可愛いね」
満足そうに褒めると、イリヨナはサッと顔を赤らめた。そして、アシュデルが手を伸ばすよりも早く、サッと距離を取った。
「わ、わかっていますの。このかんざしが、ですの!」
私のバカ!と言って頬を両手で覆うイリヨナの様子に、アシュデルは瞳を丸くして、しばし考えた。
「え?…………ああ、ハハハ、本当にボクの奥さんは可愛いね。こっちへおいで」
おいでおいでと手招きすると、何をそんなに拗ねることがあるのか、イリヨナがスゴスゴと近づいてきた。
「可愛いよ?ボクの作った物で飾ってくれる、君がね」
腰を抱き寄せて、アシュデルはイリヨナの唇を奪った。
幸福な、夢――。
ハッとしたイリヨナは、横から来た攻撃に気がつくのが遅れ、まともに弾き飛ばされていた。受け身が取れず、ドンッと花園の花を散らしながら落ちた。衝撃で、息が詰まったが体に痛みはまたしてもない。代わりに、心に、張り裂けるような痛みが走って、イリヨナは胸を掴んで蹲った。
ハアハアと息が暴れ、哀しくもないのに涙が溢れてきた。
「!」
日の光を遮り影が落ち、イリヨナは慌ててその場から転がり退いた。イリヨナが今し方いた場所を、茨が容赦なく叩き、再びミイロタテハの残滓が舞う。
逃げようとしたイリヨナの腕を掴み、アシュデルが後ろから覆い被さるように抱きしめた。
「どうして、怒ってるの?」
揶揄うような声が、イリヨナの耳をくすぐった。
「怒っていませんの!」
フフと、甘やかにアシュデルが瞳を細めて笑った。
「あの人は、ただのお客さんだよ?嫉妬してくれたの?」
「知りませんの!」
放してと暴れるイリヨナを強く抱きしめて、アシュデルは更に笑みを深くした。
「そう?じゃあこっちに聞こうかな?ちゃんと教えてね?」
抱きしめていたアシュデルの手がスルリと、腰から服の中へ入ってきた。上がってくる彼の大きな手の平が、やがて、イリヨナのささやかな胸に到達する。
「っ!」
胸の膨らみに沈められる、アシュデルの指の感触に、イリヨナは息を詰めて僅かにのけぞった。そんな彼女の反応に満足そうなアシュデルが、イリヨナの服をたくし上げ――
「なんて、破廉恥ですの!?」
頭を振ったイリヨナは、顔を上げると、目の前の氷の棺に取り付いていた。
心というより心臓がバクバクいっていた。
あのまま、あのままボンヤリしていたら、何を見せられていたのだろうか。あんな手慣れて、あんななすがままで、それだけで、2人の経験が1度や2度ではないことは悟った。
「これが、あなたの夢?幸福な夢ですの?」
雪の道を、一緒に買い物して帰る。息子の待つ、家へ。
アシュデルの仕事場に自然に一緒にいる。
3つ目は、割愛。
これは、たわいのないグロウタースの夫婦の日常だ。何の変哲もない……そう思って、イリヨナは悟った。
この胸の痛みの意味を。涙のワケを。
「私は……それを、与えてはあげられませんの……」
翳りの女帝であるイリヨナは、昼間は、いや仕事が長引けば夜の遅い時間まで、執務に追われて闇の城だ。アシュデルは、心眼を会得したらグロウタースへ行くと言っていた。共に、闇の城にいる気はないのだ。それは、イリヨナよりも、グロウタースでの生活が大事だからではないのか。その生活の中にイリヨナがいれば、そんな幸せな事はないと思っているのだ。
アシュデルの見ている幸福な夢。
そのすべての舞台は、グロウタースだ。イリヨナも黒のドレスではなく、その土地の服装だった。特別な弟子だというギンヨウを息子にしてしまって、アシュデルは精霊ですらないのだ。
夢の中のイリヨナは、翳りの女帝ではないのだ。
アシュデルのフェアリア。彼女なのだ。今、氷漬けにされて棺で眠るアシュデルを幸福にしているのは、グロウタースの民であるイリヨナと、その息子のギンヨウだ。
「アシュデル……!ならば、あなたの取るべき道は、1つではないのですの?」
イリヨナは、氷で阻まれて触れることのできないアシュデルの頬を、撫でた。
夢の中のアシュデルは、視力を失っていない。やはり、惜しいのだと思った。心眼に頼る今は、彼にとって苦痛なのだ。
「アシュデル!目を覚ましてくださいですの!そして、契約しましょう?あなたのフェアリアは、私ではないのですの!目を取り戻して……!」
嫌だ!嫌だ嫌だ!そんなこと!心が悲鳴を上げていた。それでも自分の気持ちを押し込める。
「忘れてくださいですの!いつか、あなたを幸せにしてくれる誰かが現れますの!その障害に、なりたく――っ……!」
イリヨナは口を塞いで嗚咽を堪えた。涙は堪えきれずに流れ落ちた。
「アシュデル……!」
――君が選んでくれたから、もう放したくない
離れる前、アシュデルは開かない瞳でそう言った。その微笑みの下に、こんな夢を描いていたの?とイリヨナは哀しくなった。
「でも……!」
蘇った声に、イリヨナは否定するような言葉を言いかけた。
――だから、君も、ボクを諦めないで?
誓うようにしてくれた口づけの熱を、この唇はまだ覚えていた。
「望んで……いいのですの……?私は、あなたのフェアリアのような幸せは、あげられませんの」
――君がいい
「本当に?」
――君を待ってた
「私は……」
――ボクから逃げないで。イリヨナ!
都合よく、蘇るアシュデルの声が組み変わる。こんなことを、言われたことはないのに。
「私の幸福は……?」
――教えて?言ってくれないと、今のボクにはわからないよ?
イリヨナは、涙に息が詰まった。問いかけるアシュデルの声が、優しくて、望んでもいいのだと、都合よく思ってしまう。
「あなたのいる、未来ですの!!」
言葉にしてしまったら、止まらなかった。「わああああ!」とイリヨナは声を上げて泣いていた。
「わか、わかっていますの!同じ、世界に……いられな、いこと……!あなたから、世界を奪ったこと!それでも!あなたの妻に、なりたかった!あなたがよかったのですの!アシュデル……!帰ってきてくださいですの!アシュデル!あなたでなければ、嫌ですの!!」
棺から手を放したイリヨナを狙い、茨が鎌首を上げた。
アシュデルは目の前にある暗闇を見つめていた。
「アシュデル?」
背後から声をかけられ、振り返るとそこには、イリヨナとギンヨウがいた。
「気になりますの?その先が」
「うん……でも、何も見えないんだ」
そう言って闇を眇めて見るが、やはり何も見えなかった。イリヨナが隣に並んだ。
「いいえ、あなたは見えますの」
「え?君はこの先に何があるのか、知ってるの?」
アシュデルの問いに、イリヨナは明るく笑った。
「私にも、全部ではなくても、叶えられるモノがあるのですの」
闇に視線を投げたイリヨナの言葉に、アシュデルは戸惑った。
「あなたは、行かなければダメなのですの」
「そう……なのかなぁ?」
アシュデルは自信なさげに、近づいてこない息子を振り返った。ギンヨウは微笑みを浮かべて、言った。
「やっと、見つけたんでやがりましょう?手放しやがるんですか?」
息子の言葉に戸惑っていると、隣で妻の明るい声がした。
「ギンヨウの言うとおりですの!」
アシュデルを見上げたイリヨナは、満面の笑みで胸を張っていた。
「あなたの思い描いたモノではなくても、あなたの幸せがあるのですの。だって、待っていたのでしょう?」
彼女の言葉にアシュデルはハッとして、闇に向かい目を閉じた。
「ほら、聞こえますの」
誰かの泣いている声。そして名を呼ぶ、愛しい声……
「呼んでやがりますよ?彼女は、誰でやがりますか?」
問いかけたギンヨウが、アシュデルの隣に並び、闇に向かい笑みを浮かべた。
「イリヨナ……」
「はい。私ですの!なので、アシュデル、捕まえてください!ですの」
そっと、両側から2人の手が、アシュデルの背を押した。アシュデルは闇に向かった1歩踏み出した。
「もう、手放しやがらないでください」
ギンヨウの言葉に背中をさらに押されるように、足が1歩、1歩と進む。そしてついにアシュデルは走り始めていた。
「イリヨナ……!」
閉じているはずの目は、光を見た。
パリン………………!と音を立てて、目の前の氷の棺が弾け飛んでいた。イリヨナに襲いかかっていた茨は、イリヨナを綺麗に避けた氷の刃に貫かれて、バラバラになって霧散していった。
「アシュデル……?」
はあ……と息を吐いたアシュデルがゆっくりと、台座だけになった上に体を起こした。
「うん。なんだか、あり得ない夢を見た気がする……」
「願望では――」
「そうかもね。でも、生身の君がいる今に、勝るモノなんてないよ?」
アシュデルがゆっくりとイリヨナに顔を向けて、開かない瞳のまま、笑った。
「アシュデル……」
泣き始めたイリヨナの隣に降りたアシュデルは、ギュッと抱きしめた。
「泣かないで。君の泣き顔妙にそそる……結婚して?イリヨナ。今すぐ君がほしい。あ、どうしよう?これ、止まらないかも?」
「止まらないかも?では、ありませんの!!!」
バチーン!と盛大な音を立てて、イリヨナの右手が、アシュデルの左頬を打っていた。
「おお、起きたか?では、わたしに従ってもらうぞ?アシュデル、イリヨナ!」
アシュデルを吹っ飛ばしたところで、ジュールがバンッと扉を開いた。「ひい!」とイリヨナは飛び上がり、アシュデルはノッソリと体を起こした。
「今度は何?父さん」
ジュールの嬉々とした声に、アシュデルは何だからわからないが、何かが終わった事だけはわかった。ジュールの背後に、リティルとノインの姿を見たということも大きかったが。
「フフフフ、覚悟しておくがいい。おまえを半年後、どこへ出しても恥ずかしくない新郎にしてやる」
「え?あの待って?思ってたのと違う」
アシュデルはたしか、ここへは結婚式を取りやめるように言いに来たはずで、自分がその式の新郎になるためではなかったはずだった。フフンと、ジュールが勝ち誇ったように腕を組んで笑った。
「わたしの計画は初めからこうだったぞ?なかなか思い通りに事が運ばず、イライラしていたがな!」
ゾロゾロと同じ顔をした、少年の姿をした太陽の城の召使い精霊達が雪崩れ込んできて、アシュデルとイリヨナは有無を言わさず拘束されていた。
「ジュール!私、仕事が……!」
「聞こえんな!ルッカサンには了承済みだ。あやつが何とかするだろうよ」
「連れて行け!」とジュールが命令を下すと、彼等は忠実に2人を引き離してそれぞれの部屋へ連行していった。
「はあ、ヤレヤレだ。今から会場の建設と全員分の衣装かあ……間に合いやがるか?」
ゲンナリしながらルディルがリティルを見た。
「何とかなるんじゃねーか?こっちからもスズメを派遣してやるよ」
「優秀だぜ?オレの召使い精霊!」とリティルは胸を張った。
「しかし、半年間2人は監禁されるのか?」
不憫だと言いたげなノインの言葉を、ジュールはフンッと鼻をならした。
「逃げられてはかなわん。また勝手に破局されるわけにもいかん。結婚式前に婚姻の証を贈られてもいかんしな」
ジュールの言葉に、3人は顔を見合わせて笑った。どれもあり得るなと納得したのだ。
アシュデルはやたらと豪華な部屋に辟易しながら、それでもベッドで寝る努力をしていた。
真白でツルツルなのは廊下や他の部屋と変わらないが、家具は皆、ここまで木材もツルツルになるのか?と思えるほど磨き込まれ、びっしりと植物の彫刻がされているのだ。思わず心眼の限界を超えて見つめて、スケッチしてしまいそうなできだ。ギンヨウがいたら、彼も絶対ここから離れられない。
しかし我慢している。ここで目を融解させたら処置が間に合わなくて、物理的に死ねる気がするからだ。あ、ギンヨウを呼んで、スケッチしてもらえば……と思ってしまって、アシュデルは首を横に振った。彼は特別だが、あまりイシュラースに越させるわけにはいかない。だが……しかし……とアシュデルはどうでもいいことで葛藤してしまった。
そんなこんなで、広すぎるベッドでなかなか寝付けなかった。
なぜ、イリヨナと部屋を分けられているのか、リティルが3つのダメを教えてくれ、どれもやりそうな自覚はあったために大人しくする方を選んだが、やっとイリヨナを手に入れたというのに、そばにいられないのはやはり寂しい。
せめて、声が聞きたい。そう思っていると、真っ暗な部屋の中に気配が生まれた。
「こんばんは、ルキ」
『こんばんは、アシュデル。やっとイリヨナと結ばれるみたいで、ホッとしたよ』
「なんか、いろいろ画策してくれたみたいで、ごめん。ボクは、グロウタースにいて全然知らなかったよ」
体を起こしたアシュデルは、目線の高さでフワフワ浮かんでいる黒猫を見た。心眼は便利だ。真っ暗闇でも、意識すれば薄暗がりくらいに見えるのだ。
『君の夢に潜るべきだったね。それはボクの失態だ』
「ボクは、そんな酷い状態だったのかなぁ?リティル様が本当に優しくて、いたたまれなくなるくらい優しいんだ!」
『リティルは誰にでも優しいよ?特に新人にはね』
ルキがクックックと笑った。
「父さんも様子が変だし、寝てる間にボクが、何かしたのかなぁ?」
本気で訝しがるアシュデルが面白くて、ルキは思わず彼の広いベッドに乗ってしまった。その途端に、ピシッと何か魔法に触れたような感覚が、足の裏に伝わってきた。
「え?警告?」
アシュデルが何事?とゆっくりと当たりを見回した。ああしまった。アシュデルをそそのかして逃がす者がいないように、この部屋には侵入者に反応する結界が施されているということを、ルキは思い出した。知らされていなかったようで、教えてやると「そこまでする!?」とアシュデルが困惑した。
途端に廊下が騒がしくなり、ノックもなしに扉が開かれた。
「アシュデル!無事?」「アシュデル君、大丈夫です?」
勇ましく乗り込んできたのは、白く発光する太陽の石を持ったセリアと、後ろをついてきたインジュだ。
「ルキ様!?もお!今アシュデルを連れ出したら、セクルースが非常事態になるわよ!」
黒猫の姿を認めて、セリアが怒りだした。彼女は今、同じく監禁されているイリヨナの世話係をしている。
『クックック、そんなことするわけないじゃないか。挨拶に来ただけだよ』
「そんなこと言って、アシュデル君が頷けば、ルキルースに拉致ったでしょうに。ダメですよぉ?今ジュールさんがピリピリしてますから、冗談じゃすみませんよぉ?」
そう言って諫めるインジュは、アシュデルを担当している。
「ははは、大丈夫だよインジュ。さすがに城を出ようと思ってないから。ただ、暇だなぁって」
それを聞いて、セリアが顔を曇らせた。
「そうなのよね……イリヨナも暇すぎて、アシュデルに飽きられたらどうしようとか、嫌われたらとか変なことばっかり言ってるのよ。それで、明日ルッカサンが簡単な仕事を持ってきてくれることになったの。マリッジブルーも、仕事してれば紛れるだろうって」
困ったわと、セリアはホウとため息をついた。
「え?飽きるわけないし嫌うとかあり得ないよ!?我に返られて捨てられるの、絶対ボクの方なのに!」
『クックック。ジュールが監禁するわけだね。君たち、放っておくと自然破局するね』
「ああ、会わせたら会わせたで、3つのダメをしでかしそうで目が離せないって、ジュールさんが頭悩ませてますよぉ?」
3つのダメとは、逃げない。破局しない。婚姻の証を贈らない。のことだ。
「あ、ねえ、アシュデル!あなた、デザインセンスと画力があったわよね?イリヨナのウエディングドレスとアクセサリー作り、手伝わない?」
『それ、新郎がやっちゃっていいのかなぁ?』
「あら、いいじゃない。イリヨナもアシュデルが手がけたモノのほうが嬉しいわよ!ねえ、そうしましょう?」
キラキラした目で見つめてくるセリアに、気圧されながらアシュデルはそれは楽しそうと思った。
「それは、いいなら、うれしいけど……」
誰かに相談しなくていいの?とアシュデルが言う前に、セリアはニッコリと笑った。
「じゃあ、決まりね!インジュ、明日アシュデルを連れてきてね!」
「おやすみなさい!」とセリアは意気揚々と引き上げていってしまった。
「あはは、アシュデル君、お母さんには逆らえないんで、明日迎えに来ますね。ルキももう帰ってくださいよぉ?」
「では」とインジュも引き上げていきそうになり、アシュデルは引き留めていた。
「インジュ!その、城に帰らなくていいの?」
インジュは風四天王・補佐官だ。そんな地位の人が、アシュデルの監視なんて事をしていていいのだろうか。
「いいんですよぉ。風の城なら、交代でジュールさんとルディルが出張してますからぁ」
「え?どうして?そんなに魔物が荒れてるの?それなら尚更、こんな所にいてはいけないよ!」
インジュは首を横に振った。そして、楽しそうに笑う。
「ジュールさんとルディル、お父さんに冷たくしたこと気に病んでるんです。お父さんのご機嫌取りに忙しいんですよぉ。凄いですねぇ。雷帝・インファが少し気落ちすると、賢魔王も太陽王も過保護になっちゃうんですねぇ。なので、ボクがいなくても大丈夫です」
『さすがインファだね。あの顔でイシュラースを牛耳ってるね。じゃあ、アッシュ、また来るよ。話し相手に来てあげる』
そう言ってルキはトンッと身を翻し、夜の闇に紛れて消えた。
「恋敵とは思えないですよねぇ。でも、幻夢帝と翳りの女帝ってホントに番です?初代幻夢帝、確か別の人と結婚してましたよぉ?2代目翳りの女帝・シェラも、リティル一筋でしたし」
「そうだね。調べてみようかなぁ。理由がわかれば、イリヨナの不安も軽くなるだろうしね」
「あはは、アシュデル君苦労しますねぇ。イリヨナ、追いかけてこないくせに嫉妬しますし、グロウタースに戻って大丈夫です?」
「大丈夫だよ。その嫉妬心で牽制してくれるように、ギンヨウがきっと仕込んでくれるから。ボクって、モテるらしいんだよ。本当か疑わしいけど」
ギンヨウ君?あのちょっと変わった弟子ですかぁ?とインジュは、変身の指輪を使って演技も完璧だった彼のことを思い出していた。ギンヨウは、インファが代わりにイリヨナに扮して行った後「お邪魔しました」と言ってサッサと白虎野に帰ってしまった。ペオニサの話では、アッシュの1番弟子だそうだ。ノインも気にしていたし、気になる人だ。
「……アシュデル君は、1日その顔面と睨めっこした方がいいと思います。それから、しっかり結婚しましたアピールしてください!それから、1日1回愛してるを忘れちゃダメです!」
インジュの助言が、真に迫っている。
「ええ?そんなに?」
「そんなにですから、自覚しましょうねぇ?じゃあ、明日の朝迎えにきますねぇ」
「インジュ、ありがとう!」
「いえいえ、アシュデル君はボクの可愛い義弟ですからねぇ」
おやすみなさいと、インジュは、花の精霊ばりの華やかな微笑みを浮かべて去った。
翳りの女帝の番。過去からまったく機能していない。リティルはイリヨナには、運命に抗う風があるからだと言うが……ルキに聞いてみようと、アシュデルの探究心を今更刺激したのだった。
イリヨナは1人の部屋で、落ち着かない日々を過ごしていた。
ルッカサンが持ち出せる仕事を回してくれ、時間を持て余すことはなくなったが、闇とは反属性の光の城だ。闇の王とはいえ、力が大幅に削られていた。イリヨナは、机の上に広げた仕事の手を休め『アッシュの鍵』を見つめていた。アシュデルの部屋は隣だと言うが、物音1つしない。すでにアシュデルはいないのではないか。騙されていて、やっぱりルキと結婚させられるのではないか。
イリヨナは不安に苛まれていた。
少しだけなら……。イリヨナは緊張しながら、尖った花弁を持つ花びらなのか、輝く太陽なのかわからないはめ殺しの窓に、鍵を近づけた。この鍵は不思議で、鍵穴がなくても勝手に鍵穴を作って繋げてしまうのだ。隣の部屋を願いながら窓を開けたイリヨナは、恐る恐る部屋の中を見回した。
「イリヨナ?」と言う声を期待していた。なのに、イリヨナの宛がわれた部屋と変わらない家具の配置の部屋の中に、アシュデルはいなかった。
「ああ……やっぱり……」
番のいる私は、アシュデルと結ばれることなどあり得ない。イリヨナは、窓を閉めると、もう1度鍵を使った。
彼を巻き込むことに、抵抗がなかったわけではない。だが、イリヨナには、他に頼れる人を思い浮かばなかったのだ。窓枠に足をかけ「えい!」と越える。途端に、太陽に温められた空気が遠のき、湿気を帯びた火の熱を感じた。
「……イリヨナさん?はあ……何です?師匠と喧嘩でもしやがりましたか?」
眼鏡を押し上げ、新聞をため息とともに置いたギンヨウが、しかし温かく苦笑した。ギンヨウは、弟子達の中でも特別なのだと、ミモザが言っていた。頼るなら彼だというミモザの言葉に、イリヨナは縋ってしまった。
「ギンヨウ……アシュデルが……部屋にいなくて……私、やっぱり、アシュデルと結婚できな――」
言葉にしたら、心が張り裂けそうになった。ああ、これほどまでに好きなのだと、再度自覚する。
「……座りませんか?あなたをそんな気持ちにさせやがった、ダメ師匠の愚痴、心ゆくまで聞いてさしあげますよ」
ギンヨウはゆっくりと近づいてくると、泣き出したイリヨナの手を取った。中肉中背の目立たない外見の彼は、少しラスに雰囲気が似ている。明るいミモザにはない落ち着きが、イリヨナにはありがたかった。
イリヨナの前に、甘い花の香りがする紅茶が置かれた。この香りに嗅ぎ覚えがあると思っていると、ギンヨウが言った。
「ラスに茶葉を分けてもらいやがりました。この茶葉、シェラが安らぎの魔法をかけてやがるらしいです」
シェラと、母の名を呼ばれイリヨナはズキリと胸に痛みを感じた。母は、イリヨナを太陽の城に監禁することを、ルディルとジュールに抗議してくれた。力が削がれることと、仕事に支障が出ること、何より結婚を控えた娘の精神状態に悪い!と猛抗議だったらしい。リティルが間に入り、言いくるめられてしまったが、シェラは闇の城にも足を運び、イリヨナのもとにも1日1回は様子を見に来てくれる。これは、そんな母をも裏切る行為だとわかっている。
イリヨナは気がついたら、ぽつりぽつりと現状をギンヨウに話していた。無言で相づちを打って聞いてくれていたギンヨウが、イリヨナが沈黙したのを見て口を開いた。
「あなたは、もっと周りを頼るべきだ。3つのダメがあるとしても、誰かの監視の下なら師匠に会っても問題ないでしょう?シェラに頼んでみては?そして、師匠が部屋にいなかった件でやがりますが、夜にでも鍵を使って部屋に凸すべきでやがります。本人に直接聞きやがってください。もしくは、今から師匠のところに繋ぎやがりますか?一緒に行ってさしあげますよ?」
「そ、それは……」
イリヨナは俯いた。イリヨナが鍵を使ったとき、隣の部屋と願ったのは、部屋にいないアシュデルに繋がることが怖かったからだ。何も知らせずに城を出ているのなら、それが答えだ。邪精霊化できる自信があった。
「師匠……あんのクソへたれ。わかりました!あなたを匿いやがります」
「え!?いえ、そ、それは……」
ギンヨウに迷惑をかけてしまう!いやもう、迷惑をかけているが、下手したら誘拐だ!イリヨナは青ざめてガタンと席を立ってしまった。
「大丈夫でやがります。それより、師匠がここを探し当てるまで、わたしと白虎野島観光でもしやがりませんか?」
レイシもミモザのところですしと、ギンヨウは言った。
「え?あの……」
何のことはないと笑みを浮かべるギンヨウを見ていると、イリヨナは困惑しつつも大丈夫なのでは?と思ってしまった。フフフ、たわいもない。とギンヨウに思われているとは知らずに。ギンヨウは「しばしお待ちを」と言い置いて、サラサラと何事かしたためると、封筒にそれを入れてこれ見よがしにダイニングテーブルの上に置いた。
「行きましょう!」
ギンヨウはイリヨナにコートを羽織らせ、ブーツを履かせ、毛糸の手袋をはめさせると、マフラーを巻いてやり、あっという間に準備を整えてしまった。「やっぱり帰る」とイリヨナが言えないほどに素早かった。
手慣れたギンヨウが貸してくれた防寒具一式が女性物で、イリヨナにピッタリであることに気がついたのは、街に連れ出されたあとだった。
イリヨナが部屋からいなくなったとアシュデルが知ったのは、セリアと共にグロウタース中から取り寄せた、ウエディングドレスの写真を見ていた時だった。イリヨナがいないことに気がついたのは、娘を訪ねてきたシェラだった。構想をスケッチブックに描いていたアシュデルは、血相を変えて飛び込んで来たシェラに驚いた。
「アシュデル!イリヨナがいないわ!心当たりはないかしら?」
と言われても、アシュデルも監禁されていて、イリヨナとまったく接触できない日々を送っている。一瞬、ルキを疑ったが、彼にはなんのメリットもないなとすぐに打ち消した。あとは、ルッカサンだが、彼は新郎がアシュデルだと知って「どうぞ、監禁してください」とイリヨナをいとも簡単にジュールに売った。彼が誘拐した可能性は限りなく低かった。
では、イリヨナはどこに?
「あ」
アシュデルは、娘を心配して顔色を悪くしているシェラの前で、小さく声を上げてしまった。途端に、アシュデルに皆の視線が集まった。これは、考えを言わないわけにはいかないが、アシュデルには、なぜイリヨナがそんな行動を取ったのかわからなかった。
「グロウタースの、ボクの工房のどれかにいるんじゃないかなぁ?」
「ああ『アッシュの鍵』ですかぁ。そういえば、取り上げてなかったですよねぇ。でもあれ、アシュデル君のところに繋がるんじゃないんです?」
インジュの問いには答えられるが、あの鍵を持っていながら、なぜイリヨナがボクのところへ繋げなかったのか、アシュデルにはそこが解せなかった。
「イリヨナは、あの鍵をボク並みに使いこなしてるんだ。イリヨナが知ってる工房なら、繋げられるはずだよ。たぶん、巨人の捻れ角島か白虎野島だね」
2つの地名を挙げたが、十中八九白虎野だろう。イリヨナが頼るとしたら、インファに似ているギンヨウだとアシュデルは思って、何となく苛立った。アシュデルの持っているマスターキーは、ジュールに取り上げられていた。「おまえは出し抜くからな」と言われたが、それも解せない。誰が魔王を出し抜けるというのか。父王は、珍しく技量を計り間違えているとアシュデルは思った。
「ジュール!鍵を返して!」
取り乱すシェラに、ジュールは「落ち着け」と言えずに大いに困っていた。
「父さん、インジュとシェラ様と行くから。逃げないよ。ボクだってイリヨナと結婚したいから」
ジュールにはずっと逃亡すると思われている。
解せない。見世物になるだけで、頭の天辺からつま先まで、アシュデルが作った物で着飾ったイリヨナを見られるのだ。こんな機会またとない。アシュデルはそうは見えないかもしれないが、結婚式を挙げることに前向きだったのだ。
「……イリヨナを連れ戻してこい」
ジュールはそう言うと、鍵を返してくれた。だが、帰ってきたら返却しろと言う。逃げないと言っているのに、解せない。
アシュデルは扉に早速鍵を使った。
引き開けると、中は見慣れたダイニングキッチンだ。しかし、イリヨナはおろか、ギンヨウの姿もなかった。いるならここだと思ったのだが、当てが外れたか?とアシュデルは部屋に足を踏み入れた。そして、ダイニングテーブルの上にある封書を見つけた。
『師匠へ』と書かれていることから、これを書いたのはギンヨウだと察した。
『イリヨナさんが来やがったので、白虎野観光してきます。悔しかろう。ざまあみろ』
「ギンヨウ君って、いい性格してますねぇ。観光ですかぁ。捜しに行きます?」
手紙を盗み見たインジュは、固まっているらしいアシュデルを見上げた。
「……この島案外広いんだ。入れ違いになるといけないから、ここで待とう」
「そうですねぇ。って、どうしたんです!?」
椅子に崩れるように座り込んだアシュデルを、疲れたのか?とインジュは心配した。そんな気遣ってくれるインジュに、アシュデルは顔を何とか上げた。
「……インジュ、シェラ様……イリヨナ……本当はボクと結婚するの、嫌だってことない?」
「え?」とシェラが絶句した。インジュは、笑いたいのを何とか堪えた。
「アシュデル君、それ、イリヨナに言っちゃダメです。絶対往復ビンタです。何ですかぁ?まだ不安なんですかぁ?」
「イリヨナが、ボクの所にこなかったから。やっぱり、番の理は手強いなぁ……。せっかく父さんがお膳立てしてくれたのに、逃げられるなんて……」
アシュデルは俯いた。その顔の先にはギンヨウの手紙があった。偶然にも、ギンヨウとイリヨナは同い年だ。辛辣な物言いはするが、基本彼は優しい。根を詰めがちなイリヨナを上手く補佐することもできるだろう。イリヨナがギンヨウに蹌踉めいたとしても、彼女を責められない。
「それなんですけど、アシュデル君、いつから知ってるんです?その番のこと」
「隠されてたみたいで、イリヨナが顔をなくして、どうにかならないか調べてた時に偶然ね。ははは、この目ね、イリヨナがルキを選んでても見えるようになるんだ」
「そうなんです?でも、リティルは条件中に入れてませんでしたよねぇ?」
インジュの言葉に、アシュデルは自嘲気味に笑った。
「リティル様は、ボクを買ってくれてたから。あと、ルキにその気がないことも知ってたんだ。イリヨナに会わせなかったのは、念のためだったみたいだね。ギンヨウと観光なんて……ボクが行きたかったよ……」
ギンヨウの『悔しかろう。ざまあみろ』が確実に効いているアシュデルに、インジュは追い打ちをかけた。
「ああ、言い換えればデートですもんねぇ。ところで、番の理まったく機能してなくないです?」
インジュの言葉に、アシュデルは顔を上げた。シェラは何のことかと、首を傾げていた。
「翳りの女帝と幻夢帝が番だって話、あれ、どうやら初代花の王が弄ってて妙な事になってるんだ」
「初代花の王……というと、創世の時代ね。彼女が何をしたの?」
「初代翳りの女帝・ロミシュミルは、恋愛感情のない精霊だったんだ」
「え?で、でも、彼女は初代風の王だったルディルに恋していたのではなかったの?」
ルディルに見向きもされなくて、その後も風の王達を想い続けたとシェラは認識していた。シェラが、ロミシュミルを討って闇の王の証を奪い取る切っ掛けになったのは、彼女がリティルを苦しめようとしたからだ。
怒ったシェラはルッカサンの画策していたクーデターに乗り、ロミシュミルを討った。そして、イリヨナが産まれるまで2代目翳りの女帝を務め、風の王妃の座を空けていたのだ。
「あれはね、ステータスだ。当時最強だった風の王・ルディル様の心を射止めれば、精霊達から羨望を受けられるってそう思ったみたい。特に、風の王は世界の父って当時謂われていた。ああ、今も秘密裏にそう呼ばれてるね。本当に世界の中心にいたのは、太陽王と幻夢帝じゃなく、ルディル様だったんだ。そんなルディル様に目をつけたロミシュミルに、花の王は怒ったみたいだ」
「怒ったんです?花の精霊が意外って、そうですね。創世の時代は花の精霊は風の精霊のこと、大好きでしたよね。その、初代花の王が、ロミシュミルに何かしたんです?」
「本物の愛を手に入れたなら、幻夢帝との番の理を解消するっていう条件を課したんだ。番の幻夢帝のほうは、とっくに自由恋愛できるようにされてたみたいだね」
……つまり、理に縛られているのは、ロミシュミルだけで、幻夢帝にすら見向きもされていないということだ。どんだけです?ロミシュミル。と彼女に会ったことのあるインジュは呆れた。もう、影も形もないが。
「へえ、あの人、人怒らせる天才ですねぇ。それで、シェラは翳りの女帝に転成しても、リティル一筋だったんですねぇ。でも、だったら、イリヨナはとっくに理、解消されてるんじゃないんです?」
「……」
アシュデルは押し黙った。
「え?違うんです?」
「ボクはそのつもりだったよ。父さんが、イリヨナの本音を、こじ開けてくれたみたいだったから。でも、逃げられた………………」
アシュデルは相当ショックを受けているようだった。これ、ギンヨウとイリヨナが帰宅したらマズいのでは?とインジュの恋愛脳が警告していた。
イリヨナはあの容姿だが精霊的年齢27。ギンヨウも同じくらいだ。アシュデルと並ぶよりもギンヨウと並んだほうが、似合いに見えるだろう。そして、ギンヨウはかなり出来る弟子らしい。インジュが付き合いのある弟子はミモザだけだが、接客が完璧なミモザが「ギンヨウはボク達より凄いです!」と言っていた。何が凄いのか?とは思うが、風の城で落ち着き払っていた彼なら、完璧にエスコートするだろうなーと思った。
ここに、ギンヨウのエスコートで気を持ち直した笑顔のイリヨナが帰って来たら、修羅場になるんじゃ……とインジュは巻き込まれたギンヨウの身を案じずにはいられなかった。
今帰ってきませんように。とインジュは願ったのだが、神はいなかったらしい。
「――楽しくてやがりましたね!イリヨナさん、雪は部屋の中で払って構いませんよ?」
「ありがとうですの!雪というものを、初めて見ましたの!」
明らかにはしゃいだ若い男女の声が、扉を押し開けながら部屋に入ってきた。
その声に、部屋の中にいた3人は視線を向けた。
こちらにギンヨウが気がついた。
「ああ、早くてやがりますね。師匠」
ハッと、体を強ばらせたイリヨナを庇うように、ギンヨウがさりげなく前へ出て、彼はアシュデルに挑戦的な笑みを浮かべた。
ゆっくりとアシュデルが立ち上がった。
インジュが不穏な空気にアシュデルを止めようとしたが、シェラに阻止された。彼女の瞳を見たインジュは「そうですねぇ」と引き下がった。
「何です?師匠、柄にもなく怒ってやがりますか?フフフフ、当然の結果ですと、言っておきましょうか?こういうことは、不安にさせやがったら負けなんでやがります」
ギンヨウはイリヨナの手を引いて、アシュデルのいるダイニングテーブルまでやってきた。
そして、おもむろに手にしていた紙袋を置いた。後ろで小さくなっているイリヨナの手からも、紙袋を取り上げた。その仕草が、気遣いができていて、何というか初々しい恋人同士のようだった。
「あ、あの!アシュデル――」
意を決したように、イリヨナが先手を打とうと前に出る。その手を、アシュデルが捕らえていた。グイと引かれて、ギンヨウの後ろから引っ張り出される。どこまで想定していたのか、ギンヨウがニヤリと微笑み、すすっと2人から離れるのをインジュは見た。
「ア、アシュデル……!」
「――逃がさないから。今まで優しくしたのも、この目も、全部、君を手に入れる為に画策したことなんだ!」
語気を強めたアシュデルがイリヨナの左手を、乱暴に取った。イリヨナは、アシュデルの指が滑るのを見ていた。
「これ……は?」
イリヨナは、左手の薬指に通された指輪を見ていた。ピンクゴールドの羽根を広げた蝶がグルリと指を囲む、小さな宝石が散りばめられた細工の細かい指輪だった。
「ボクの霊力で作った物はあげられないから、できあいだけど。婚約指輪。ああ、外さないでね?それ、君がどこにいてもボクにはわかるようになってるから」
「監視付きですかぁ!?」とインジュが吹き出していた。
「私は、逃げるつもりは――」
「ボクの所じゃなくて、ここへ来た君をもう信用なんてできないよ!」
怒鳴られて、イリヨナは瞳を見開いた。顔をそらしたが、左手を離さないアシュデルを、イリヨナは呆然と見上げていた。
「あなたは……部屋に、いなかったではありませんの……」
「…………え?」
イリヨナの感情のこもらない声に、アシュデルは視線を戻していた。目が開いていたなら、今度瞠目するのはアシュデルのほうだったはずだ。
「もう、いないと、思っていましたの……!」
イリヨナはヒックとしゃくり上げた。その黒い瞳からは、ボロボロと涙が流れ落ちていた。
「え?ええ?どうして……?」
泣き出したイリヨナに、アシュデルは狼狽えた。
「隣の部屋にいると聞いていても、何の物音もしませんもの。不安で、寂しくて……!本当は騙されていて、やっぱりルキと結婚させられるのでは?と思っていましたの!少しくらい覗いてもと、鍵を使ったら、あなたは、部屋に、いなくて……」
アシュデルは、イリヨナが初めから白虎野に逃げたのだと思っていた。しかし、彼女はアシュデルが部屋にいないことに絶望して、ギンヨウを頼ったことをやっと知ったのだった。
「アシュデル君」とインジュがニコニコしながら、スケッチブックをアシュデルに手渡した。
「……ごめん……ボクは、1人で浮かれてたみたいだ。君が、やっとボクの物になるんだって。君のことを、顧みなかった」
アシュデルは、イリヨナにスケッチブックを差し出した。新しいそれは、最近のアシュデルの絵が描かれていることを物語っている。ギンヨウに促されるまま、イリヨナはそれを開いてくれた。
イリヨナの目に飛び込んできたのは、人物画でも、風景画でもなかった。中身のない服のイラストだった。
「ウエディング……ドレス?」
「そう。セリアに、君の着るドレスのデザインを頼まれたんだ。ああ、小物も全部、ボクが手がけるから」
イリヨナは驚いて顔を上げていた。
「ごめん……驚かせたくて、内緒にしてもらったんだ。何点か描いて、父さんとリティル様とシェラ様、ルッカサンとあとルキにも見せて、意見もらう予定だったんだ」
「ほほう?こんな楽しいことをしてやがったんですか?師匠。それは、わたし達弟子一同にも声をかけてくれなければいけません」
近寄ってきたギンヨウが、イリヨナの隣からスケッチブックを覗き込んだ。
「ああ、その手があったね。イリヨナのドレスだけじゃなくて、ボクと、みんなのデザイン画も描かなくちゃいけなくて、セリアがイリヨナのドレスは手縫いするって言ってるから、時間が……」
「あはははは!お母さん、無謀ですぅ!でも、リティル達の衣装もです?そっちは霊力で作ればいいですよねぇ?」
「インジュもだよ?四天王なんだから」
「え?」
「風の城全員と、太陽の城の全員。あとルキ。半年じゃキツい……」
それ、何着描けばいいんです?素人のインジュでも、それがいかに大変なことなのかわかる。
「寝る暇あります?アシュデル君、主役ですよねぇ?」
「ははは……ボクは、まあ、ボクにフルコーディネートされたイリヨナが見られればそれで本望だから」
「それダメです!」
インジュは、強く言い切った。乾いた笑いを上げたアシュデルは「え?」と固まった。
「初夜。どうするんですかぁ!精霊の婚姻の本番はそれですよぉ?初夜爆睡は許されませんからねぇ?それ失敗したら、ジュールさん大激怒ですよ?イリヨナに翌日離婚されても文句言えませんよぉ?」
精霊の婚姻は霊力の交換ありき。翌朝、互いの霊力が宿っていなければ、精霊的婚姻は失敗したと皆思ってしまうだろう。
「あー……そうだった……」
今気がついたようなアシュデルの様子に、この人、自分が精霊だって事、やっと思い出しましたねぇ?と思ってしまったインジュだった。
「しっかりしやがってください、ダメ師匠。なぜもっと早く、わたしを頼らなかったんでやがりますか?」
あきれ果てたギンヨウに、アシュデルは「ギンヨウ……助けて……」と縋ったのだった。