表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/8

五章 光の中の道

 目を覚ましたレイシは、ブルッと体を震わせた。

寒いなと思いながら、簡素な木でできたシングルベッドから降りた。そして、部屋の中を見回した。衝立で仕切られた部屋にベッドがあと2つあったが、そのどちらも空だ。支度を済ませて、狭い部屋を横切り、扉を開けると、すぐに狭い木の階段がある。踊り場のある階段を降りると、また扉がある。扉を開けるとそこは、キッチンとダイニングになっていた。

「おはようございます。遅くてやがります。レイシ」

3脚の椅子が置かれたダイニングテーブルに、緑の短い髪の、眼鏡をかけた青年がコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。

「おはよう、ギンヨウ。ごめん、寝過ごして。アッシュは?」

「師匠なら外でやがります」

ギンヨウは、アシュデルの作った特殊中級精霊だ。この、グロウタース・白虎野島(びゃっこやとう)のアッシュの店を任されている。

「外って、外?吹雪いてないか?」

白虎野島は、一年通して冬の島だ。どんなに暑い場所でも溶けない白虎の氷の生産地でもある。アシュデルはここで、白虎の氷を使ったアクセサリーを作っていた。今は休業中だが。

「はい。吹雪いてやがります」

「おい!危ないだろ!」

まったく動じないギンヨウに苛立ちながら、レイシは駆け出していた。バタバタ出て行くレイシをチラッと見て、ギンヨウは小さくため息をついた。

「我が師が、こんな吹雪如きでどうにかなりやがりませんよ。まったく忙しない人を引き受けたものだ」

しかし、冷えて帰って来るだろうアシュデルのためにスープでも温めておきましょうと、ギンヨウはコーヒーカップを片手に席を立ったのだった。

 長年、そのご尊顔でご婦人達を誑かしていたアシュデルが、やっと片思いを実らせて、可愛いと評判の奥様を紹介してもらえると思っていたら、破局したあげく、視力は戻らず、お荷物の混血精霊を連れて戻ってきた。

目眩を感じて、額に手をやったくらいで留めた自分を褒めてもらいたい。

心眼なる魔法で、視力の方はどうにかなっているようだが、霊力の分配がまだうまくいかないといい、仕事は、まだまだ休業を余儀なくされている。

 それでもギンヨウは、他のどこでもなくここを選んでくれたことに、ホッとしていた。

巨人の捻れ角島のミモザは「えー?ギンヨウの所にいるんですか!?ああ、ボクに怒られるのが嫌だったんですね!」と拗ねていた。そんな彼は、唯一奥方の顔を知っている。

お荷物がいることを話すと「男に用はないです。でも、だからギンヨウの所なんですね!頑張ってくださいね、ギンヨウ!」と言いやがった。

面倒な。と思うが、アッシュの1番弟子であるギンヨウにしか、お荷物と様子のおかしすぎる師匠の世話はできないと自負している。しかしながら、あの人が滞在先に選んだのは気まぐれだ。ギンヨウも、スケッチブックに絵など描いていないで、破局したイリヨナなる女性に、もう1度アタックしてこいと言いたい。ミモザなら言えることを、このギンヨウは言わない。つまりは、そういうことなのだ。イリヨナのことをツッコまない弟子のところへ来たにすぎないのだ、アシュデルは。そうでなければ、毒舌で知られるわたしのところへなぞ、来るわけがないとギンヨウは知っていた。

 ここは隔絶された地。このグロウタースでもっとも穏やかで変化のない場所だと、思っている。そんな地に、突然、ペオニサなるアシュデルの兄だと名乗る人が事情説明に来たことには驚いた。不審者かと思ってしまい、他の弟子と音声のみやり取りできる腕時計で、ミモザに通信してしまった。「ああ、宝城十華っていう官能小説家です。ギンヨウのところには出版社ないんですか?」と言われた。こんな小さな島に出版社などあるわけがない。ペオニサの方も「こんなところに弟子がいるなんて、知らなかった」と言っていた。何だろうか?この疎外感。だがどうしてペオニサは、ここがわかったのだろうか?「うーん、なんかここにもいるような気がして……」と不思議なことを言っていた。まあいい。すべては師匠の気まぐれの成せる技だ。

 ギンヨウは、スープの鍋が焦げ付かないように掻き混ぜながら、十時に仕切られた曇る窓を指で撫でて、吹雪く外を見やった。

「本当に、何をやってやがるんですか?師匠」

『フェアリア』それは、アシュデルが手がけるブランドの1つだ。妖精少女を象ったシリーズで、この白虎野でも人気がある。

蝶の羽根を生やしたツインテールの美少女で、アシュデルの想い人がモデルだと弟子一同知っている。本物はそれはそれは可愛かった!と、ミモザが自慢していて腹立たしい。破局は、アシュデルの方からだということだが、信じられない。なぜならアシュデルの様子は、見るからに気落ちしていたからだ。

それに、スケッチブックだ。

何やらおどろおどろしい蔓?触手?影?に囚われて泣いている女性の絵を描いていた。それを見てしまったギンヨウは、失恋して師匠が倒錯的な何かに目覚めてしまったのかと思った。どうやら誤解らしいが、ここへ帰ってきてからアシュデルは、新作のスケッチそっちのけで、白虎野島の風景画ばかり描いていた。デザインだけ描いてくれれば、あとはギンヨウが作れるというのに、アシュデルは何も言わずに一心不乱に絵を描いている。これは、そっとしておくしかない。

 ギンヨウは言いたいことすべてに蓋をして、アシュデルとレイシの世話をし続けていた。さて、温まりましたね。ギンヨウが火を切る頃、慌ただしくレイシが帰ってきた。

「ギンヨウ!」

バンッと扉を激しく開いて帰ってきたレイシは、雪まみれのアシュデルに肩を貸していた。それを見たギンヨウは、思わず目をつぶってしまった。

「師匠、何があったんでやがりますか?」

「ははは……上から雪が落ちてきただけだよ。レイシが大袈裟なんだよ」

レイシがアシュデルから雪まみれのコートを脱がしている隙に作った、熱い湯で絞ったタオルで雪まみれの頭を拭いていると、コートを壁に掛けて戻ってきたレイシが叫んだ。

「おまえ!埋まってたぞ!見破りレーダー使ってなかったら、雪だるまだと思って通り過ぎてたんだからな!」

はい。とレイシにタオルを渡すと、乱暴に受け取った彼はアシュデルの頭を怒りながらも、丁寧に拭き始めた。鬼のような形相なのに、その手は優しかった。

「雪に埋まってても鮮明に見える不思議」

「おまえ、頭打ったか?」

雪の中に枝でも混じってたか?とレイシは心配そうだった。

「いや、心眼便利だなって思って」

フフと、アシュデルは和やかに笑みを浮かべた。

「スープでも飲んで、暖まりやがってください。レイシも」

ありがとうと、疲れた様子でレイシが言った。言動は乱暴だが、なかなかいい人だと、ギンヨウはレイシを受け入れている。

「ああ、ギンヨウ、誰か来た?」

マグカップに入った、ジャガイモのミルクスープを飲みながら、アシュデルが問うた。

「リティルなら、来やがりませんよ?何を警戒してやがるんです?」

風の王・リティル。名前は聞いているが、ギンヨウはまだ会ったことはない。アシュデルはその人の来訪を待っているようだが、まだ1度も来てはいない。

「いや……ちょっと……」

アシュデルはまだ、ギンヨウにすべての事情を話せてはいなかった。彼にすべてを話さなければいけないことはわかっている。だが、アシュデルは話すことができないでいた。それだけ、今回の破局が響いているのだ。レイシまで連れてきてしまって、ギンヨウには迷惑をかけている。その上、リティルの相手までさせようというのだから、どんな師匠だとは思っているのだが……。

「アッシュ、凍えるまで外にいるのって、リティルを避けてんの?」

グロウタースでは、レイシも父のリティルを極力リティルと呼ぶ。それは、ボロを出さない為の訓練だ。混血精霊のレイシは、今まで、グロウタースの出入りを許されていなかった。これまでの人生で、初体験なのだった。やっと、アッシュと呼ぶことも、リティルと呼ぶことも慣れてきたようだった。

アシュデルは、2人の「言え」という無言の圧力をかけられて、冷や汗をかいた。

「あ……ああああっと、雪の中に忘れ物してきた。取りに行ってくる」

立ち上がったアシュデルを、2人は止めなかった。

「1時間して戻ってこなかったら、捜しに行くからな!」

「う……うん……」

何も言わないことを許してくれた2人に、心の中で謝りつつ、アシュデルは部屋を出て行ったのだった。

「よかったのかよ?何も聞かないで」

「いいんでやがります。わたし以外の弟子は、根掘り葉掘り聞きやがりますから」

ギンヨウは、マグカップを流しに片付けながら小さく微笑んだ。

「そのうち「リティル」が来るでしょうから、聞いてみやがりますよ。教えてくれるかは別でやがりますが」

ギンヨウはレイシに「朝ご飯まだでしたね」と言って、用意してくれた。

 レイシも、あの騒動のあとイリヨナには会っていない。インリーは闇の城に行ったようだが、ルッカサンの精神状態を思うと、とても顔を合わせる気にならなかった。それからほどなくして、アシュデルは心眼を会得して、レイシは彼に呼び出されて、一緒にグロウタースのこの島――白虎野島に来たのだった。

正直、アシュデルがレイシをグロウタースに連れて行ってくれるとは、リティルに頼んだが無理だと思っていた。アシュデルは穏やかにレイシとも話をしてくれるが、心の中では嫌われていると思っていたからだ。

しかし、アシュデルはあの場所から、インリーのいる風の城から連れ出してくれた。今のレイシにとって、あの場所は、2度と帰りたくない場所となってしまっていた。時間が経つにつれ、インリーといることが、苦痛になっていっていたのだ。あんなに側にいなければと思っていたのに、薄情なことだ。婚姻を解消されたら驚くほどに心が覚めてしまった。「ホントにいいの?」と問うたレイシにアシュデルは「行きたいんでしょう?グロウタース。だったら行こう?」と言って穏やかに笑ってくれた。

 ギンヨウが用意してくれたバタートーストを食べていると、ギンヨウは目の前で新聞を広げた。どうやら、一緒にいてくれるらしい。

ギンヨウの、一緒にいるが何も言わないこのスタイルが、今のアシュデルに必要だったのだと、何となく彼がここを選んだ理由を察した。そして、レイシにも何も聞いてこない彼が救いだった。白銀に閉ざされたこの地は、レイシという存在を知らないが故に優しい。街の皆は、レイシをアッシュの甥だと思っている。その、偽りの関係性も、レイシを救っていた。

だからわかるのだ。

アシュデルは、今、そっとしておいてほしいのだ。だからレイシも、今はリティルに来てほしくなかった。


 イリヨナはどうしているのだろうか。

穏やかなグロウタースにいるレイシは、知るよしもなかった。イリヨナが、窮地に立たされていることを。

 闇の城を、リティルが訪れていた。

「マズいことになったな……」

イリヨナは、執務机に座って俯いていた。その顔が蒼白だった。そばに控えたルッカサンも、苦渋の表情を浮かべていた。

「いったい誰が、女王陛下の邪精霊化を言いふらしたのでしょうか?」

城は閉じていた。寝室は封じていた。闇の城から、皆を避難させたのがマズかったのだろうか。

「噂ってヤツは、どこにでも立つからな。今は、これをどうするかだな……」

今、イシュラースに、翳りの女帝・イリヨナが邪精霊化して、鎮められたという噂が広まりつつあった。ラスが火消ししているが「やはり、イリヨナはロミシュミルなのでは?」という不安が、病のように広まっていっていた。精霊達の不安が、悪意に変わるのは時間の問題だった。

「リティル様、アシュデル様にお越しいただくことはできませんか?」

「ルッカサン!」

イリヨナが抗議の声を上げたが、ルッカサンは無視した。

「あの方なら、精霊達を黙らせられます。演技で構いません。女王陛下をお助けいただくわけには、まいりませんか?」

リティルは、ルッカサンを睨んだ。

「あいつを、これ以上巻き込むな。これまで、イリヨナに起こったすべてをかぶってきてるぜ?さすがに……可哀想だ」

リティルの言葉にルッカサンは、引き下がったが、聞かずにはいられなかったようだ。

「アシュデル様は……ご無事ですか?」

「さようなら」あんなに心に痛かった別れの言葉は初めてだった。あのとき、邪精霊化したイリヨナを鎮めに行ってくれたアシュデルの後ろ姿が、ルッカサンが彼を見た最後となった。心眼を無事に会得したとは聞いたが、目の他に何か心身を消失していないか、ずっと気になっていたのだ。

「あいつはグロウタースだ。レイシが一緒にいる。心配するなよ」

「レイシ……」

ルッカサンは、憎らしげに拳を握ったが、何も言わなかった。無理もないが、事実だ。レイシを連れて行くことはアシュデルが同意したことだ。

リティルはまだ、アシュデルのいるグロウタース・白虎野島へは行っていない。今のアシュデルに、イリヨナは禁句だと、仕掛けてしまった手前、リティルは今何も切り出せないでいた。だが、これは……知らせた方がいいのか?とリティルは悩んでしまった。

「とにかく、大人しくしててくれよ?何を聞かれても答えなくていい。しつこいヤツはラスにシメさせるからな」

「承知しました」

ルッカサンは深々と頭を下げた。

 リティルが廊下に出ると、イリヨナが遅れて追いかけてきた。

「父様!」

「ああ、大変なことになっちまったな。けど、何とかなるぜ?」

「身から出た錆ですの……私は、どんなことでも耐えますの」

「ホントか?」

リティルは少しだけ意地悪に笑った。すると、イリヨナは怯んだ。

「ぜ、善処しますの」

「ハハ、そんなに身構えるなよな!おまえの邪精霊化はアシュデルが鎮めてくれた。あいつが関わらなけりゃ、再発しねーだろ?」

「ア、アシュデルのせいでは……」

イリヨナは言葉を濁して俯いた。

「……逢いてーか?」

「え?」

「アシュデルに逢いてーか?あいつは今、白虎野島だぜ?」

「…………逢えませんの……。私は契約を……」

リティルは、イリヨナが俯く瞬間、娘の黒い瞳が涙に揺れるのを見た。

「それ、嘘だぜ?」

「……え?」

「契約違反の罰、何なのかわかるか?契約した内容が霊力に刻まれてるか?」

リティルにそう指摘され、イリヨナは瞳を瞬いた。そして、しばし沈黙した。霊力に刻まれた契約書を探しているのだろう。そんなことにも気がつけないくらい、アシュデルとの別れがショックだったんだなと、リティルは、消えない想いを抱えながら離れている2人を不憫に思った。

「………………ありませんの……け、けれどもなぜ?あのときアシュデルは!」

「できなかったんだよ。おまえを、手放しきれなかったって言ってたぜ?わざとおまえを邪精霊化させるようなこと言って、挑発したりしてな」

「父様!どこまでが、嘘なのですの?」

「それは、あいつ本人に聞けよ」

リティルの言葉に、イリヨナは怯んだ。そんな娘の様子に、リティルは言わざるを得なくなった。

「イリヨナ、アシュデルは、信じてほしかったと思うぜ?」

一番痛いところを突いてやった自覚は、リティルにはあった。だが、疑わないでやってほしかった。イリヨナを抱きしめる方を選んだアシュデルは、脇目も振らずイリヨナに尽くしてくれた。

番のことを、知っていたのに。

番のことを知っていて、アシュデルを疑ったイリヨナは、捨てられて、当然なのだ。なのに、アシュデルはそうしなかった。この先ずっと、疑いの目を向けられるとしても、イリヨナが選ぶなら、そばにいる気なのだろう。

 アシュデルも寛大だなと思う。いや、狂っている。

イリヨナは、疑いと嫉妬で邪精霊化してしまうような女なのだ。それを、そんなにボクのこと好きなんだ!と邪精霊化したイリヨナが見たかったと、心眼を会得してすぐレジーナを訪ねたとイリヨナが知ったら、どう思うのだろうか。アシュデルのそんなところが、オレ達の仲間だなと、リティルは不本意ながら思ってしまった。

風の王妃・シェラは疑わない。しかし、リティルに誘いをかけるような女には、容赦がない。「君だけだぜ?」とリティルは、そんなシェラから目が離せない。

雷帝妃・セリアは信じている。インファは誰にもなびかないと。わたしだけがインファの特別!と胸を張るセリアを、女嫌いのインファは愛しそうに見つめている。

煌帝妃・リャリスは信じても疑ってもいない。3つの人格を持つ不能のインジュから愛されて、3人の相手をすることに忙しいのだ。1番愛されているインジュ、恋人のエンド、女友達のアジャラは、受け入れてくれるリャリスを翻弄して楽しんでいる。

グロウタースで、店を開いているアシュデルは、店主と客という立場で様々な目を向けられる。自分を、陰気な中年男だと思っているアシュデルが気がつかなくとも、イリヨナは気がつくだろう。

嫉妬されて喜ぶアシュデルの姿が目に浮かんでしまう。

この場合、苦労するのはどっちなのだろうか?と思ってしまったリティルだった。


 アシュデルに逢えるのだ。

一生逢えない契約は、成されていなかった。だが、イリヨナは『アッシュの鍵』を使えないでいた。扉を前に、アシュデルからもらった、アシュデルのもとへ行ける鍵を鍵穴に差し込めない日々が続いた。

「アシュデル……」

このまま、添わなければ、アシュデルは視力を失い損だ。これではいけない。まるで誠意がないと思って、違う、そうじゃないとイリヨナは扉を前に鍵を回せなかった。

私は、アシュデル好きなのですの?わからなくなってしまった。

アシュデルに逢わなければと思う気持ちが、愛故なのか、義務感からなのか、イリヨナは1番大切な事を見失っていた。

「やあ、イリヨナ」

背後から声をかけられ、イリヨナはハッとして振り返った。ここは寝室だ。メイドのナナも下がらせて、今はイリヨナ1人しかいないはずだ。

「ルキ……!」

思わず後ずさって、背中が今し方睨めっこしていた扉に当たった。

ルキはそんな彼女を見て、ニンマリと笑った。

「大変な事になってるね。このままじゃ、納まりそうにないよ」

噂は、邪精霊化したイリヨナを鎮めたのは、ミモザの精霊・アシュデルだというところまで知れ渡っていた。

「精霊達が騒いでるよ?邪精霊化した君を鎮めたアシュデルを、君が殺したんじゃないかってね」

「!?」

「当然といえば当然かな?アシュデルはあれから、イシュラースにいる気配がないからね。それに、君を鎮めたのに、婚姻を結ばないのはおかしいとまで言われてるね」

なお悪いことに、噂ではアシュデルが番のいるイリヨナに言い寄っていたと、そんなことまで言われていた。意中のイリヨナの邪精霊化を鎮めたのだ、その褒美としてイリヨナはアシュデルに与えられるべきと、そんな動きまであるらしい。

「アシュデルを……引き戻せと、そう言いたいのですの?」

ククッとルキは笑った。

「君はどうして、アシュデルに逢いに行かないの?契約してないことは、もう、わかってるんでしょう?」

「何を、話していいのか……わからなくて……」

「逢ってみれば、何か出てくるんじゃないの?そんな、身構える間柄だった?」

イリヨナは答えられなくて、俯いてしまった。

「ねえ、この騒動をアシュデルなしで鎮める方法が、1つだけあるけど、聞きたいかな?」

聞くな!と、何かが警告してくる。だが「アシュデルを頼らない」方法という言葉に魅力を感じてしまう。

「これを聞くと、あとには退けなくなるかもしれないよ?」

「これ以上、アシュデルを巻き込めないのですの」

「君は、意地っ張りだね。クックック、君の絶望に歪む顔を見せてよ」

そう言うと、ルキはイリヨナの前に片膝を立てて跪いた。そして、イリヨナの左手をそっと取った。

「翳りの女帝・イリヨナ、ボクと、結婚してください」

イリヨナの顔から血の気が引いた。

説明などいらない。

番とは、互いの力を安定させる為に存在する。

その番である幻夢帝が問題のある翳りの女帝を娶れば、それだけで、終わる。

今後、どんな負の感情に女帝がまみれようとも、幻夢帝の力が邪精霊には決してさせない。これは、逃れられない求婚。

闇に飲まれるなどという、闇の王にあるまじき失態を犯してしまったイリヨナに突きつけられた現実だ。

「どうしてだろうね?なぜかこういうことって、知れ渡るんだよね」

すっとルキは、イリヨナの答えを待たずに立ち上がり、それはそれは楽しそうに笑った。

「あなた……だったの?あなたが情報漏洩させていたのですの?」

「さあ?何のことかなぁ?クックック……ご愁傷様、イリヨナ」

ルキは心底楽しそうに笑いながら、ルキルースへの扉を開き帰っていった。

 取り残された部屋の中で、イリヨナは扉を背にズルズルと床に座り込んでいた。

「これで……終われる……」

ホッとしているはずなのに、なぜか涙が溢れた。

――イリヨナ

イリヨナは、目を閉じて耳を塞いだ。

――イリヨナ

「アシュデル……あなたが愛しているのは、私ではありませんの……」

――イリヨナ、ボクのフェアリア

「あなたが愛したのは、イリヨナの幻想ですの……でも……それでも……アシュデル!」

誰もいない闇に沈んだ部屋の中で幻の声を聞きながら、イリヨナはただただ涙した。

彼女の背にした扉には『アッシュの鍵』が、鍵穴に刺さったままになっていた。


 翌日、瞬く間に、幻夢帝・ルキが翳りの女帝・イリヨナに求婚したことが、イシュラース中に知れ渡った。


 ルッカサンは、幻夢帝の求婚などと言う事実はないと、すぐに反論したが、イシュラースは女帝の婚姻に前向きで、とても覆すことができないような雰囲気だった。

「何というか、用意周到だな。さすがのわたしも出遅れたぞ?」

リティルと共に闇の城を訪れたジュールは、苦笑を浮かべていた。

「愚息がすまんな、イリヨナ」

「いいえ!アシュデルのせいではなく、私ですの……」

「でも、こんなの納得できるの?あなた、ルキ様とは何でもないんでしょう?」

隠さずに不満を露わにしたのは、雷帝妃・セリアだ。インファは共に来るはずだったが、急な仕事が入り、来られなくなってしまったらしい。

「まったく幸せじゃないのに、結婚式なんて……ルキ様ったらトコトン悪夢を見せたいのね!」

セリアはプンプンとご立腹だ。

「ルキ的には意趣返しだろ?恋愛感情なくても、それなりに面白くないはずだぜ?自分のまったく関わらないところで、自分の番が別の男と恋愛して破局してるんだぜ?それで、そのシワ寄せがあいつに行ったんだ。イリヨナの絶望と悪夢で帳消しにしてやるって、これはあいつの優しさなんだよ」

リティルの説明を聞いても、セリアは治まらなかった。しかし、リティルに噛みつくという愚行は犯さない。そんな雷帝妃をリティルは「そんなに怒るなよ」と苦笑しながら宥めていた。

「さすがは悪夢の王だな。悪趣味すぎて、この魔王も裸足で逃げ出してやるぞ。それでだ、ルッカサン、この結婚、太陽の城が取り仕切ることになった」

「!それは……」

「ああ、そういうことだ。あの城では、おまえ達の力は半分以下になる。オマケにイリヨナは当日、光をふんだんに練り込んだ純白のドレスを纏うことになる。逃げられん」

おまえ、何か企んでいるだろう?ルッカサンは、ジュールの甘やかな笑みに、そう言われた気がした。当たり前だ。こんな婚姻認められない。ルッカサンには今でも、女王の王配はアシュデルなのだ。契約のために、2度と叶わなくとも、ルッカサンにはアシュデルだけが、仕えたい王配なのだ。

「この婚姻、覆させることができるのは、アシュデルだけだ」

「ジュール様!言わないって約束したのに!わたしが言いたかったわよ!あの人、あんな極寒の島にいて、毎日凍えるまで帰ってこないってレイシが心配してるくらいどっか壊れちゃってるから、遠慮したのよ!?スケッチブックにおどろおどろしい絵描いてるって、弟子の子怯えさせて!たまに心眼使いすぎて、レイシが慌ててペオニサ呼んでるし。レイシじゃなくて、わたしがそばにいてあげたいわよ!」

「心眼の使いすぎとは、どういうことですかな?アシュデル様の目は、治っているはずでは?」

あっと、セリアは口を押さえていたが、もう遅い。ルッカサンの笑わない柔和な顔が、雷帝妃を射貫いていた。セリアはオロオロとリティルの顔を見た。リティルは、小さく息を吐くと失言したセリアに頷いた。

「黙ってて悪かったな。あいつは、イリヨナと2度と会えねー契約、してねーんだよ。死神の毒に冒されたままだ」

「なんと!それでは!」

「まあ、待て。このまま進めれば、おまえの大事な女王陛下もわたしの愚息も、今度こそ壊れるぞ?幸福な政略結婚が、苦痛の政略結婚になってしまう。それはおまえも、本意ではないだろう?」

こんな事態になってもここへ来ないことが答えだ。と、ジュールに突きつけられてしまいルッカサンは黙らざるを得なかった。

「アシュデル様は……もう、女王陛下にお心が……」

「それはわからねーな。あいつ、望みを言わねーからな。風の王ってのは不自由だよな。望みを声に出して言ってくれねーと、手出しできねーからな」

「シェラ様に、自白させてもらえばいいと思うわ!」

怒っているセリアの過激な発言に、ジュールとリティルは苦笑した。

「あいつは、なかなか口を割らんぞ?わたしが、死神の毒を癒やすことは不可能だという結論を、見舞いついでに持っていったとき、何を言われたか知っているか?」

死神の毒は、風の持つ、死の運命を導く力の作用だ。グロウタースの民の、寿命という逃れられない運命を導くそれだ。死からは何人も逃れられないように、アシュデルの失明は、逃れられない運命なのだ。

ジュールはそれを突き止めて、ただただ落胆していた。

高飛車で尊大な態度のジュールが気落ちしていて「リティル、酒を一緒に飲んでくれないか?」と言ってきた。イシュラースの三賢者と夕暮れの太陽王・ルディルでしんみり酒盛りしたのは、リティルの記憶に新しい。

それでも死神の毒の結論を、ジュールは心眼会得の修行中だったルキルースにいたアシュデルに、伝えに行ったのだ。

「時間を割いてくれて、ありがとうと言ったのだ!イシュラースの三賢者筆頭も大したことないと、嫌みの1つも言わん!始終労い倒されて、なんと苦痛の時間だったことか!」

「苦痛って、酷いわね、ジュール様」

「あいつは、わたしを憎んでいるのだ!しかし、それをおくびにも出さん。嫌っているという態度のみに留めている。本音を言わんのか?と言わされたくらいだ!」

「それでも言ってくれなかったのね?ジュール様、寂しいのね?」

「不本意だが、その通りだな。賢魔王で、イシュラースの三賢者筆頭のわたしを、尊敬しているとよ。その言葉を、信じる以外になかった。見通せないのだ。このわたしでもな」

はあと、魔王と恐れられるジュールが盛大なため息をついた。それを見てリティルは、ただただ、あいつすげーなと思ってしまった。

「はは、魔王の息子だな。あいつの心の闇の形は、金環日食なんだってな。底が知れねーよ」

「そうなの?レイシとどっちが強烈なの?」

まったく動じないセリアは、リティルに問うていた。

「優劣つけがたいよな?レイシの闇は、地獄の業火だ。静と動で、案外上手くやってるみてーだぜ?」

上手く転がしているのは、アシュデルではなくギンヨウだ。ペオニサにギンヨウの事を聞いて、リティルは彼に会いにいったのだ。初対面にもかかわらず、落ち着いた態度でギンヨウは「師匠に会わないんでやがりますか?」と問うてきた。アッシュの一番弟子だという彼は、他の弟子達と違って何か底がしれなかった。

「ねえ、リティル様、アシュデルは風の城に戻ってこないの?今はお店も閉めたままだっていうのに……」

セリアは単純に、アシュデルの体を心配しているようだ。しかしリティルは、アシュデルの心のためにはグロウタースにいた方がいいと思っている。

「そのうち再開するんじゃねーか?絵は描きまくってるみてーだしな。綺麗だったぜ?あいつの目から見ると、極寒の白虎野はあんな輝いて見えるんだな」

ギンヨウにスケッチブックを見せられ、1番弟子は苦笑交じりにこう言っていた「師匠は、画家に転向するつもりなのかもしれやがりません」それもいいと、笑うギンヨウは、アシュデルが滞在先に選んだだけのことはあるんだなと、リティルは思った。

そして、邪精霊化した泣き顔のイリヨナを描いた絵は、倒錯的な美しさで、リティルが困ったことは内緒だ。

「まあ、なんだ。迂闊なことはしてくれるなよ?ルッカサン」

「ああ、もお!イリヨナ、ウエディングドレスのデザイン画、今度持ってくるわ。わたし、世話係に任命されてるから、なんでも言ってね」

セリアに慰めるように両手を取られ、イリヨナは曖昧ながら、それでも「はい……」と返事をした。

「はっきり言っておくぞ?この結婚式は、イシュラースの決定事項だ。セクルースとルキルース、両国の王が関わっている。今更なかったことにはできん。わかるな?結婚式自体を、取りやめることはできんと、そういうことだ」

「回りくどいわね。ジュール様」

「何のことかな?麗しの雷帝妃殿」

フフフフと、ジュールとセリアは美しく笑いながら見つめ合った。何か異様なオーラを感じるが、きっと気のせいだ。

「はは……イリヨナ、ルッカサン、式は半年後だ。覚悟、決めてくれよな?」

「承知しました」

ルッカサンは、リティルに丁寧な臣下の礼を取った。そうして、3人は帰っていったのだった。


 半年後……それは、アシュデルを想っていられるタイムリミットだ。

忘れられる?アシュデルとは違う人に抱かれれば、体を引き裂かれる痛みとともに、この想いも壊されてくれるのだろうか。

「女王陛下……」

茫然自失だったのは認める。執務机の前に座り込んだままのイリヨナは、ルッカサンがハンカチを差し出したことで、やっと自分が泣いていることに気がついた。

「私は……弱いですの……ごめんなさい……ルッカサン……」

女王として、番のいる精霊として、受け入れるべき求婚なのに、嫌だと、嫌だ嫌だと心が暴れていた。

それでも、邪精霊化できない。インリーに嫉妬したときは、いとも簡単にこの身は変貌したのに、おかしなことだ。アシュデルが、風の精霊と熱烈なキスをしただけで、止められない激情の渦に飲まれたのに、不本意な、この、逃げ出したい現実に直面しても、あの闇は、イリヨナを奪ってはくれない。

足下でずっとジッとしていた、黒豹のツェルがイリヨナの足にすり寄った。言葉なく、慰めてくれているのがわかる。

「女王陛下……お逃げください」

ツェルの頭を撫でていたイリヨナは、恐ろしげな顔でこちらを見下ろしているルッカサンを見上げた。

「鍵を使うのです」

鍵……『アッシュの鍵』のことだと、イリヨナにはすぐにわかった。

「いけませんの!アシュデルを巻き込むなと、父様にもジュールにも釘を刺されましたの!あの人はもう、私とは何の関係も――」

「関係ないと、本気でお思いか?アシュデル様は、今もなお視力を失っておいでです。ならば、今、行かねばなりません」

行って、どうしろと――

「あなた様には、アシュデル様を巻き込んだ責任がございます。この政略結婚の前に、あのお方に、視力はお返ししなければなりません」

「!」

その通りだ。手を取らず、あの人から世界を奪ったままにはしておけない。

何も知らずにいるアシュデルに、事後報告には決してできない。

ルッカサンの言っていることはわかる。だが、この手でこの想いを殺すことが、イリヨナにはできそうになかった。ルッカサンの手が、優しく、しかし力強くイリヨナの腕を掴んで引き立たせた。

「ルッカサン……!」

抵抗するイリヨナを、ルッカサンは引きずるようにして、しかし傷つけないように優しくゆっくり、扉まで導いた。

「行くのです。女王陛下。ここは虚勢でも、強くあらねばなりません」

イリヨナは、ルッカサンの厳しい声に優しく急き立てられて、扉に『アッシュの鍵』を差し、そして回した。

 ルッカサンに扉を開け放たれ、イリヨナはトンッと優しく突き飛ばされていた。進まされたその場所は、差し込む日の光に、薄らと舞う埃が白く光る、見慣れた工房だった。

『ツアナ』として、一時期通った工房だ。

「え!?イリヨナさん?あああああのあの、どして?」

簡素な木の食卓で、バケットサンドを食べていたミモザが目を丸くしてこちらを見ていた。

「ミモザ……あ、の……私……」

涙で、上手く喋れなかった。ミモザが駆け寄ってくるのを見ながら、もうダメだと、イリヨナは石の床にへたり込んでいた。

「し、師匠はここじゃないですよ?」

ミモザのいるここは、グロウタース・巨人の捻れ角島。イリヨナは辛うじて、頷いた。アシュデルに会う勇気がなくて、イリヨナは咄嗟に唯一知っていたここを選んでしまったのだ。『アッシュの鍵』は、アシュデルのいる工房に繋ぐ魔導具だが、イリヨナはアシュデルのいる場所に限らず、彼の力の痕跡がある場所なら思い描けば繋ぐことができるのだった。

「破局したって、聞いたんですけど……違うんですね?」

イリヨナは首を横に振った。

「でも、だったらどうして、来たんです?そんなに泣いて、師匠を頼ってきたんじゃないんです?」

ミモザに申し訳なかったが、イリヨナは答えることができなかった。

「待ってて、どこにも行かないでくださいね?」

ミモザはそう言って立ち上がり少し離れると、腕時計に向かって話かけた。

「ギンヨウ……」

『何です?ミモザ』

漏れ聞こえてきた声は、イリヨナの知らない声だった。


 今日も変わらず寒くて白い昼だ。実に素晴らしい。

ギンヨウは半ばヤケクソで、すでに家を出て行ったアシュデルに苛立っていた。

そろそろわたしもキレねばいけませんか?アシュデルはただ絵を描いているだけなのだろうが、遠巻きに『アッシュ鑑賞会』なる物が催されているらしい。教えてくれたのは、店の常連である女性だった。彼女は既婚者で、結婚する際、結婚指輪を依頼してくれた人だった。アシュデルが目を患って、店を閉めていることも知っていて、今は魔法の練習のために風景画を描いていることも知っている。そして、見掛けると夫婦で声をかけてくれていることを、ギンヨウは知っていた。件の『アッシュ鑑賞会』だが、今のところアシュデルに実害は出ていない。出ていないから、アシュデルに小言も言えずギンヨウは頭を悩ませていた。

 チラリと、ギンヨウは用意した昼ご飯を美味しそうに食べているレイシを、新聞越しに見た。今日の献立は、白虎野島特産・凍れるキャベツとラム肉のシチューと、手作りパンだ。どうだ!美味しかろう!

……今は、レイシというお荷物がいる。ギンヨウは半ば、考えることを放棄しかけていた。アシュデルが破局しなければ、左手の薬指に指輪でもはめてもらって、大いにご婦人方の牽制になったものを!と顔には出さずにギンヨウは歯がみした。

 おっと、弟子仲間からの着信だ。ギンヨウは腕時計に向かって返事をした。これは、アシュデルが作った通信系の魔導具だ。グロウタースのあちらこちらにいる、弟子仲間に繋いでくれる。

「――――はい」

バサッと新聞を、朝食を食べるレイシの邪魔にならないように配慮して食卓に置いたギンヨウは、腕時計の発する光から、通信相手がミモザであることを知った。

『ギンヨウ……』

助けを求めるような情けない声が、腕時計からした。この腕時計は、音声のみを相互やり取りできる。風の精霊が使っている、あの映像も送れる水晶球よりかは簡易だ。

「何です?ミモザ」

ミモザという名に、レイシが僅かに反応した。彼は乱暴な言動だが、頭は悪くない。とギンヨウは思っている。アシュデルと同じ風一家で何か問題を起こして、リティルに押しつけられたらしいが、あまり問題があるようには見えないというのが、ギンヨウの見解だ。ので、弟子達との会話を堂々と目の前でしていた。

『あ、あの……師匠のフェアリアが……』

「掃除の最中に落として壊しやがりましたか?」

ギンヨウは冷ややかにすげなく返した。レイシは、誰にでもああなんだよなと、アシュデルに対してもあの調子なギンヨウを何気なく観察してしまった。

しかし、接客中は誰だ?と思えるくらい愛想がいいのだ。「別人?」と呟いてしまったそれを聞かれ「接客業でやがります。当たり前でやがりましょう?」とニヤリと笑っていた。

 通信の相手、ミモザは時計屋を手伝っていたはずだ。レイシは行ったことはないが、インジュが凄く綺麗なフェアリアの立像の時計があると言っていた。それを壊したとなると、アシュデルはどうするのだろうか。怒るのだろうか。悲しむのだろうか。どっちも想像できなかった。

『あのですね、生身の方が来てるんですけど……ど、どうしましょう?』

「生身?生きていやがるんですか?師匠……想いを拗らせすぎでは?」

『店にあるフェアリアが動き出したんじゃなくて、イリヨナさんが来てるんだってば!ねえ、師匠、いる?ギンヨウ……どうしたらいい?』

「イリヨナが巨人の捻れ角島にいるのか!?」

「っ!……そうみたいですが……ミモザ、そのイリヨナさんと代わりやがってください」

思わず大声を出してしまったレイシに、ギンヨウは大いに驚いたが、眼鏡を押し上げて何とか取り繕ってくれた。オレのバカヤロウ!と、自分がどれだけ乱暴で声がでかいのかこの、静かな島にきて思い知ったが、長年染みついた物は、ちょっとやそっとでは治らない。受け入れてくれているギンヨウには、申し訳なかった。

 机の上、レイシの方へ腕を差し出してくれたギンヨウの腕時計から、しばらくゴソゴソと音がしていたが、レイシが固唾を飲んで耳を澄ましていると、女性の声がした。

『あの……私……』

イリヨナだった。どうして?何があった?久しぶりに聞いた妹の声は、酷く沈んでいた。レイシは、大声を出さないように、優しく優しくと言い聞かせて声をかけた。

「イリヨナ?なんでそこに?ああ、安心しろ、アシュデルなら今いない」

『そう……ですの……』

妹のことだ。アシュデルとのことが哀しくても、気丈に笑っていると思っていた。それに、ペオニサがそばにいる。彼の笑顔で、いくらから持ち直しているとも思っていたのに、これは、淡々と、しかし危機迫る勢いで絵を描き続けているアシュデルよりも、酷いかもしれない。

「泣いてるのか?おまえ……話せよ。ゆっくりでいいから」

ギンヨウは腕時計を外すと、レイシに預けてきた。そして耳元で囁いた。「師匠を捜しに行ってきやがります。悪いようにはしやがりません」レイシはギンヨウに頷いた。

 ギンヨウは、そそくさと出て行った。

『あ、あの……私……ルキと結婚させられそうですの……それで、ルッカサンが逃げろと……アシュデルの所へ行くわけには行かないのですけれど、行く当てもなくて……』

はあ?ルキ?あいつ、何考えてるんだ?とレイシは眉間にしわを寄せた。が、努めて冷静にミモザに言った。

「ミモザ、しばらくイリヨナ匿ってくれないか?」

『わ、わかりました。でも、あのレイシ、師匠は?』

レイシはミモザに会ったことはない。だが、ギンヨウのこの腕時計を通して、何度か3人で話した事があった。

「本当に今いないんだ。イリヨナ、おまえ、アシュデルに会いたいか?」

『………………レイシ兄様、その……契約はされていないというのは、本当ですの?』

答えないんだな?それは、アシュデルと共通していた。まるで、2人示し合わせたかのように、想いを頑なに言わない。言わないことで、お互いを守るような2人が、レイシには羨ましく思えた。

「ああ、アシュデルの目は、見えないままだよ。あいつ、おまえを邪精霊化から解放するために嘘ついたんだよ。おまえ、振られた衝撃で邪精霊化納まったんだろ?」

『………………はい…………』

「おまえ、まだ、アシュデルのこと好きか?」

『………………我が儘なことをしましたの。レイシ兄様、ありがとうございますの。私、帰りますの』

「待てよ!精霊の結婚って何するか知ってるか!?精霊に白い結婚ってあり得ないんだぞ!?ルキは番なんだろ?受け入れたら最後だぞ!」

『では、どうすればいいのですの!?私が……邪精霊化したことが、イシュラース中に知れ渡ってしまいましたの。それでルキが、幻夢帝の伴侶になれば文句は言わせないからと。私の心など……』

なんだって!?ルキのヤツか?レイシは、イシュラースにあり得ない事が起こっていることを知った。噂を操る影者のラスがいるのだ、翳りの女帝最大のスキャンダルが露呈することなど、あり得ない。ラスの情報統制に対抗できるのは、夢を介して思考を操る幻夢帝・ルキだけだ。

しかし、なんで?ルキは番なのに、イリヨナにまったく興味がなかったはずだ。イリヨナより、友達のアシュデルの方が好きだったはずだ。その彼が、アシュデルを追い詰めにくるとは思えなかった。悪夢の王でも、分別はあるのだ。

「イリヨナ!いつまで逃げるんだよ!いいのかよこれで!」

レイシのそばに、ギンヨウに手を引かれてアシュデルが戻ってきた。

「イリヨナ、オレが聞いてやる!どうにもならなくても、おまえが想ってるのが誰なのか、秘めたままは辛いだろ?言えよ!」

腕時計から、妹のすすり泣きが聞こえてきた。

結局優しくなんてできない。イリヨナを傷つけて泣かせることしかできない。だが、今、頑ななイリヨナにあの言葉を言わせられなければ、終わる!と、何も言わないアシュデルから感じていた。

「イリヨナ……このままじゃ、愛されないルキも、おまえも不幸になるぞ?ルッカサンはそれがわかってたから、おまえを逃がしたんだろ!だったらせめて、今の想いに決着付けてからにしろよ!おまえは、関わるすべてを不幸にしないって、証明して見せろ!」

言わせてやるよ!レイシは、諦めているアシュデルに時計を突きつけた。

『………………きですの………………私、アシュデルのことが好きですの!』

アシュデルが動いた。レイシの手から、スルリと腕時計が奪われる。

「頑張ったな、イリヨナ。もう、逃げるなよ?」

『え?』

「イリヨナ」

インリーとの夫婦生活は長かった。長かったがそれだけだ。

こんなふうに、熱の籠もった声で、その名を呼んだことはない。

営みはあったが、お互いに、十代の欲望処理だなと、離れた今思ってしまう。

オレは、インリーを好きだったけど、愛してはいなかったな。それが、レイシの出した結論だった。哀しいが、インリーも、そのうちわかる。レイシは、風の城を出てこの白虎野にきて、風一家ではない世界を知ってしまった。インリーを選ばなくていいことを学んでしまったのだ。

『ア――シュデ、ル……』

掠れた声で、震える声で、イリヨナがその名を呼んだ。

同じように、インリーからこんな……切ない声で名を呼ばれたことはない。友達、兄妹、彼女とは、やはりそうなのだ。だから、大事な場面で選んでもらえなかったのだ。レイシは、アシュデルの成人の日前後の事件を明かしてもらえなかったことが、相当に突き刺さっていることをここへきて自覚した。あんな大事なこと。いや、それよりも、医療行為だというのなら、教えてほしかった。インリーに夫として見られていない。そんなふうに思ってしまったら、もう戻れなかった。

「ボクも、好きだよ?」

レイシは、笑みを浮かべ泣く、アシュデルの姿を見た。

「イリヨナ……」

顔を覆った拍子に、アシュデルの手から腕時計が落ちて、木の床で跳ねた。レイシがあっと思った時には、アシュデルはドンッと床に崩れ落ちていた。ずっと、張り詰めて我慢していたものが、切れて壊れてしまったのだろう。ギンヨウがそんなアシュデルの背に手を置きながら、腕時計を拾い上げた。

「イリヨナさん、こちらに来やがりませんか?あなたなら、これますよね?」

ギンヨウは、インファに似た抑揚で、静かに優しく言葉を紡いだ。ガサガサとまた雑音がして、ガチャリと廊下へ続く扉が開いた。

視線を向けると、廊下であるはずのその扉の向こうに、レイシの見たことない部屋が見えた。その戸口に、黒いレースをふんだんに使ったミニスカートのドレスを着た、裸足のイリヨナが立っていた。その、大きめな瞳からボロボロと涙が流れ落ちていた。

「アシュ――デ・ル……!」

しゃくり上げながら名を呼ぶ声に、アシュデルが顔を上げた。開かない瞳で、でも、今、見えているだろう。

「イリヨナ!」

アシュデルが座ったまま、イリヨナに向けて両手を開いた。「ああああ!」と喚きながら、イリヨナがその胸に抱きついた。

「ボクは……君を、失えない……。君がいないなら、何も見えなくていい……」

イリヨナをその腕の中に閉じ込めて、アシュデルは止まらない涙の中呟いた。

「ごめんなさい……!ごめん――なさい……!」

「謝らないで、ボクのフェアリア。君を傷つけたのはボクだ。ボクが、愛してきたのは、君だけだよ?」

「知って――いましたの……。知っていた――のに……」

「ははは。あんなに嫉妬してくれるなんて、ボクは幸せ者だね」

「そんな言葉で片付けますの!?」

「うん。いけない?嬉しかったよ?嫉妬に狂った君は、凄く綺麗だった……。どれだけボクを惹きつければ気が済むの?」

「え?あの……もしかしなくても、レジーナに会いに行ったのですの?」

顔を上げたイリヨナの涙が衝撃で止まっていた。アシュデルは口元に笑みを浮かべたまま、当然の様に言ってのける。

「うん。だって、見たいでしょう?ボクの為に邪精霊化したんだから」

「あなたのためではありませんの!」

「スケッチしたよ。見る?」

「ひいっ!またにしますの!」

「そう?自信作なんだけど。……イリヨナ、ちょっと静かにしてて」

そう言ってアシュデルは、膝に乗せたイリヨナの両頬にそっと手を添えてきた。閉じたままの瞳なのに、見つめられているとわかった。

「やっと……君の顔が見られた……」

呟いたアシュデルの顔が近づく。イリヨナも受け入れたかったが、慌てて両手で彼の唇を塞いでいた。

「み、皆さん見ていますの!」

「あ、そうだった。残念。それで、何がどうなってるの?」

あ、怒らないと思っていたが、アシュデルもちゃんと怒るんだな。と、レイシは笑みを浮かべたまま恐ろしげに変わった雰囲気から察した。イリヨナにも伝わったらしく「ひい!」と小さく悲鳴を上げていた。


 いつまでも床に座っているなとギンヨウに言われ、アシュデルは椅子に座ったものの、膝の上からイリヨナを下ろさなかった。イリヨナは横向きに座らされたまま、ルキとの結婚式が半年後に執り行われることを、白状させられていた。

なんだそれ!?とレイシは頭を抱えた。

「アッシュ、どうする?これ、絶対ダメなヤツだろ?」

「まあ、うん、そうだね……」

上の空のようなアシュデルの様子に、レイシは苛立った。

「おい!しっかりしろよ!こんなこと、公衆の面前で宣言させられたら、取り返しがつかないぞ?」

「わかってる。わかってるけど……」

「じゃあ、なんだよ!」

「レイシ、少し落ち着きやがってください」

ギンヨウが、お盆にホットチョコレートを入れたカップを載せてきた。皆にカップを配り、席に着いたギンヨウが、おもむろに切り出した。

「情報収集が必要でやがりますね。行ってきやがりましょうか?師匠」

行く?行くとはどこへ?イシュラースへ?とレイシは、ギンヨウの顔を凝視してしまった。

「わたしは、これでも精霊でやがりますよ?」

苦笑するギンヨウは特殊中級。アシュデルが作った精霊なのだ、彼は。

「でも、どこに?おまえ、イシュラースわかるのか?」

「ほぼ知らなくてやがります」

だのにこの落ち着きよう。

「ダメじゃないか!」

「問題なくてやがります。行くのは、風の城でやがりますから。顔を知ってるのは3人だけですが、アッシュの使者だと言えば、いきなり拷問はなくてやがりましょう?」

拷問って……と思ったが、これだけ警戒した雰囲気を醸していれば、彼が魔窟だと思うのはしかたがないのかもしれない。

「行った途端に捕まるかもしれないぞ?」

「そしたら、やましいということでやがります。師匠、今すぐ鍵を操作しやがってください。リティルの手にも鍵があるんでやがりましょう?」

よくこれだけ頭が回るものだ。ギンヨウに促され、アシュデルはマスターキーを操作したようだ。

「あ、ああの……私が、帰れば――」

「イリヨナ……それはいけないなぁ。このままルキと結婚する気かなぁ?君は」

ホットチョコレートを飲むために、アシュデルの胸に背中を預けていたイリヨナは、後ろから抱きすくめられて耳を甘噛みされていた。「ひい!」と短く悲鳴を上げて怒るイリヨナ。そんな2人の様子を、ギンヨウが瞠目していた。レイシはアシュデルが全身に所有印をつけまくるほど過激なことを知っている為に、ああ、やってるよと言いたげにホットチョコレートを飲んだ。

「うーんでも、どうしようか……ギンヨウが行ったら、捕まるってことを前提にしたほうがいいかなぁ?」

「行ったら捕まるか……なら、宣戦布告か?イリヨナがいないことは、すぐバレるよな。あ、ルッカサンは味方だよな?」

「うん。でも、もしかするともう抑えられてるかもしれないよ」

「では、宣戦布告路線で行きやがりましょう!わたしとしては、このまま結婚式でも何でも挙げて、早く師匠には落ち着いていただきたい!」

ギンヨウは、パンッと手を打ち鳴らすと、強引に話を進めようとした。どうしたんだ?とレイシはギンヨウの様子を窺った。それはアシュデルも同じだったようで、弟子の顔を見つめていた。

 ハアとギンヨウは大きなため息をついた。そして眼鏡を押し上げると、アシュデルの顔を切実に見つめた。

「師匠『アッシュ鑑賞会』はマズくてやがります」

「え?何を鑑賞するって?」

「あなたでやがります。師匠」

「ボク?………………ボクの何を見てるの?」

危機感のまるでないアシュデルに、ギンヨウがついにキレた。

「あなたの存在すべてでしょうが!そんなご尊顔でウロウロするから、ご婦人方がルンルンでやがりますよ!そのうち抜け駆けする輩が出やがります。そうすると、あっという間に『アッシュ争奪戦』になりやがりますよ!工房に籠もっていたころはまだよかった。店番の時だけでやがりますからね。ウットリされるのは!ですが、今は長時間!同じ場所で!絵を描きやがっていますよね?ご婦人方の恰好の餌食でやがります」

ズズイッとテーブル越しに詰め寄られて、アシュデルはタジタジした。

「え?ええ?待って、そんなに注目されてた!?」

アシュデルには身に覚えがなかった。絵を描いていて話しかけてくるのは、付き合いのある街の商店の人達か、店で結婚指輪を作ってくれた夫婦くらいのものだ。そういえば、その夫婦に、何かある前にギンヨウに相談したほうがいいと、よくわからないことを言われたことを思い出した。彼女の旦那さんは、何とも言えない苦笑を浮かべていたような?

「はい。それはもう、得物を狙う猛禽のごとくガッツリと。嫉妬で邪精霊のイリヨナさんは、師匠の奥方に相応しくてやがります。今ここで!愛を誓っていただきたい!」

唖然としていたイリヨナとアシュデルは、ギンヨウに「さあ、立ちやがってください」と急かされ、2人は慌てて立ち上がった。イリヨナはギンヨウに手を取られて驚いた。ギンヨウは構わずにイリヨナの手とアシュデルの手を重ねる。

「イリヨナさん、あなたはアシュデルを生涯愛し抜くと誓いますか?」

キリッとギンヨウに有無を言わさない視線を向けられ、イリヨナは問われるままに答えていた。

「はいっ!」

「師匠、あなたはイリヨナさんを生涯愛し抜くと誓いますか?」

「はい」

アシュデルは淡々と、言わされたイリヨナを、穏やかな笑みを浮かべて見下ろしていた。

「よろしい!では、ここにいる我らが証人です。2人をここに、夫婦と認めやがります!」

夫婦と聞いて、イリヨナは顔を赤らめた。そんな彼女を見下ろして、アシュデルは「そこで照れるの?」と笑った。ただ誓っただけの、グロウタースでもイシュラースでも、正式に夫婦ではないのに、幸せそうに笑う2人に、レイシは爆弾を投下してやることにした。

「誓いのキスは?グロウターじゃそうするんだろ?それから、指輪の交換するんじゃないのか?」

誓いの……キス!?イリヨナは、レイシとギンヨウがいるここで!?と羞恥で心臓が跳ねた。そんなイリヨナの肩に、大きな手が置かれた。思わずイリヨナは手の主――アシュデルを見上げてしまった。

「そうだったね。じゃあ、イリヨナ、キスしようか?」

楽しそうに口元に笑みを浮かべるアシュデルに、イリヨナの感情は爆発した。

「バカあああああ!」

身をかがめていたアシュデルは、イリヨナの平手打ちを受けていた。


 翳りの女帝・イリヨナが、幻夢帝・ルキとの婚姻を嫌がり逃げたらしい。

その噂を、ラスが慌てて持ってきたのは、イリヨナがグロウタースへ逃がされた1日後だった。風の城の応接間で、リティルを中心に主要な精霊達が揃っていた。これは一大事だ。

「イリヨナは、本当に闇の城にいないのだな?」

押し黙るリティルに代わり、ノインがラスに問うた。

「うん。ルッカサンが口を割ったよ。噂通り、イリヨナはグロウタースだ。でも、アシュデルの所にいるのかは、わからない」

一応今回の件に関わっていないインジュが『アッシュの鍵』を使ってみたのだが、アシュデルのいない工房に繋がった。顔見知りのミモザが、あからさまに驚いて「師匠はいないですよ?」と言った。何かを隠していることはバレバレだったが、主人に逆らえない特殊中級を締め上げる趣味はないインジュは、柔らかく笑って「なんでもないです。お邪魔しましたぁ」と言って引き下がった。

「ダメなの?イリヨナがアシュデルのところなら、このままそっとしておいちゃダメなの?」

声を上げたのはインリーだった。レイシと離婚させたあと、インファは中核に関わりたがらなかった彼女を、応接間に軟禁していた。これはインファの反省のよるものだ。

風の王の血を引く姫であるインリーを、精霊的年齢17才だからと、知識に乏しいからと、教育を怠ったが為に、風一家という組織の一員としての自覚を削いでしまった。問題発言問題行動はあったが、実害がなかったことと、風の城内部のことだったことと、実の妹だったことが、問題の調査解決の優先順位を下げた。結果、大変な失態となってしまった。

ミモザの精霊・アシュデルと翳りの女帝・イリヨナの政略結婚が頓挫してしまう結果となり、今、風の王・リティルに秘密裏に忠誠を誓っていた影法師の精霊・ルッカサンからの、風一家への信用が失墜しかかる事態を招いてしまった。

首謀者となったインリーは、本来なら処刑されてもおかしくない罪を犯したのだが、アシュデルが許したことで、ルッカサンも表面上怒りを収めていた。

「そういうわけにはいきません。イシュラース両国を治める王を巻き込んでいます。イリヨナを連れ戻すべきでしょう」

インファは、ルキと通じている。だが、精霊達の反応が思いの外大きくて、物語はペオニサの書いたシナリオを外れてしまった。最初の誤算は、リティルがアシュデルに、イリヨナの邪精霊化がイシュラース中に知れ渡ったことを、告げなかったことだ。「今はそっとしておいてやってくれ」と言われてしまったら、インファもペオニサも行くことはできない。では、ルキが伝えに行くかと話がまとまっていたはずが、彼はしでかした。

事もあろうに、イリヨナに求婚したのだ。そして、それを夢を介してイシュラース中に噂としてばらまいた。ルキは「これくらいしないと、アシュデルは出てこないよ?」と完全に面白がっていた。

そして、最大の誤算は、夕暮れの太陽王・ルディルだ。

彼はルキを訪問し「どうするつもりだ!」と詰め寄った。そしてルキは「じゃあ、責任とって結婚する」といつもの感情の読めない笑みを浮かべた。これでもインファは止めた。全力で食い下がった。だが、ルディルは、退かなかった。

「この婚姻、このオレが仕切ってやる。リティルにもそう言っとけ」

もう、待てない。いつになく頑ななルディルからそれを感じた。

 1元素の王であるのに、翳りの女帝と呼ばれる闇の王。彼女の存在は、この世界を運営する上でかなり重要であることは、インファもわかっていたが、理解不足だったらしい。

リティルには、ルキと共謀したことはすでに伝えてある。

リティルは言った「あいつらは、いつも誰かの思惑で引っかき回されちまうな」本当にそうだと、インファは自分の行いを恥じた。「オレも、アシュデルに余計な事言ったぜ……」そしてリティルは、疲れた顔でインファを見て更に言った。

「おまえとペオニサがルキと共謀してることは、ラスに調べさせて知ってたぜ?それであえて、アシュデルとの接触を断たせてもらった」

「なぜですか!」と驚いたインファに、リティルは言った。

「こうなったら、イリヨナに動いてほしいからだ。このまま運命通りルキと婚姻を結ぶのか、アシュデルを選ぶのか、3つ目の道を選ぶのか、見せてほしいんだよ」

だが、イリヨナが動くことは望みが薄い。

彼女は翳りの女帝だ。どんなに泣こうが、女帝としての矜持を優先する。そういう妹だ。これまで、アシュデルを想いながら動かなかった彼女は、番の運命と自分の気持ちとの間で葛藤していたのだ。そして、彼女の出した答えは、アシュデルに委ねるというものだった。アシュデルとの再会がイリヨナを動かしはしたが、アシュデルが引いてしまったことで、イリヨナは追いかけられなくなった。

 そして今、イリヨナは動いたが、ルディルを怒らせてしまった以上、インファには常識的なことしか言えなかった。

「お父さん、ボクならこのままノラリクラリと半年逃げますよぉ?イリヨナがアシュデル君のところなら、それができますよねぇ?」

表情をなくしたインファにため息をついて、インジュが言った。そして、スッと『アッシュの鍵』を見せる。

「使っても、アシュデル君のところへはいけませんでしたよぉ。すでに対策済みなら、この結婚、潰せるんじゃないんです?」

それも手だ。グロウタースは広大で、アッシュの工房が、宝城十華の出版社がある場所に限定されているといっても、その1つ1つをシラミ潰すのは、時間と労力、人員がいる。

イシュラースの一大事といっても、風の城は魔物狩りという通常業務も、グロウタースを守る世界の刃としての仕事も手を抜けない。

精霊達に何を思われようと言われようと、早期解決はどだい無理な話だ。

「ですが、闇の城、幻夢帝・ルキ、太陽王・ルディルを敵に回すんですか?イリヨナを捕まえられなければ、風の城は強力な後ろ盾を失います」

インファの言葉に、インジュは口を噤んだ。インファが言った皆は、協力精霊だ。しかし、それぞれに守る世界がある。いつでも豪快に笑って、力になってくれたルディルが沈黙している。それは、そうせざるを得ないからだ。これは、ただの婚姻ではないのだ。翳りの女帝・イリヨナを守り、イシュラースを安泰させる為の政治的判断だ。残念だがインジュには、丸く収める方法を提示できるほどの能力はなかった。

アシュデル君がいれば……。『アッシュの鍵』をすぐさま操作したアシュデルは今、何を考えているのだろうか。

「……グロウタースへは、オレが行く」

無言だったリティルが口を開いた。

「でも、鍵は使い物にならないですよぉ?」

「オレが行けば、アシュデルは出てくるぜ?あいつはオレの家臣だからな」

「イリヨナを、連れ戻すの?」

インリーの言葉に、リティルは答えなかった。ただ、インジュの手から鍵を受け取ったのみだった。

 リティルは無言のまま翼を広げ、城の奥へ続く扉へ飛んでいた。

リティルは決意していた。

ルッカサンが背中を強引に押したとしても、アシュデルのもとへ向かったイリヨナが逢えたことは確かだ。そうでなければ、鍵が使えなくなった理由が説明できない。イリヨナを匿ったアシュデルは、今起こっていることを知ったはずだ。その上でどうするか、リティルは再び問いかけようと思っていた。

「アシュデル、おまえ、どうしたい?」

アシュデルがリティルの望む答えをくれたなら、その時は――

「ボクの答えは決まってるけど、知りたい?リティル様」

リティルが鍵を使う前に無意識に呟いた言葉に、彼が答えて、そして扉が引き開けられていた。

「アシュデル……!」

2度と開かない瞳で、口元にだけ笑みを浮かべたミモザの精霊・アシュデルが、風の城に足を踏み入れて扉を閉めた。


「私が動けば、彼は動いてしまいますの……」

インファは、アシュデルと破局した妹の口からその言葉を聞いた。「アシュデルのことを想っていますか?」という問いには頑なに答えないのに、イリヨナはインファにそう言った。

本当にそうですね。イリヨナ……。彼女は拗ねているのだ。自分が動きたいのに、動けばいつの間にか彼の手の内で守られてしまうことが、嫌なのだ。

「ちょっと、失礼しやがりますよ?それで、全員敵でやがりますか?味方はいるんでやがりますか?」

アシュデルの後ろから、不機嫌そうな顔をした、眼鏡をかけた精霊がヒョイと顔を覗かせた。

「ギンヨウ……君の師匠が仕える王様の城で、何先制攻撃してるの?」

アシュデルが苦笑した。彼の出現に、リティルが驚いているのが、顔を見なくてもインファにはわかった。

「ギンヨウ?あ、ホントにギンヨウだ!」

動いたのはペオニサだった、ペオニサは翼を広げるとサッサとアシュデル達のもとへ飛んでいた。彼の身軽さが羨ましいインファだったが、遅れてインファも飛んでいた。

「わたしは、これでも精霊でやがりますので。師匠より、銀葉アカシアの精霊の名を賜ってやがります」

「……特殊中級だよね?」

ペオニサは、ギンヨウをマジマジと見つめ「なのに、銀葉アカシアの精霊……?」と呟いた。

「しがない1番弟子でやがります。ところで、あなたは味方でやがりますか?ペオニサ」

「味方とか敵とか、いきなり物騒なんだけど、何しようとしてるの?」

首を傾げるペオニサから、ギンヨウの明るい緑色の視線がスイとそらされた。

「あなたは敵でやがりますね?雷帝・インファ」

彼とは初対面のはずだ。だが彼は、確信を持った目でインファを見ていた。何なんだ彼は?それがインファのギンヨウに対する第一印象だった。ソファーに留まっているノインも、きっと同じことを思っているだろう。いつもの癖で、彼を探ろうとすると、ギンヨウとアシュデルは口論を始めた。

「ギンヨウ……だからいきなりはいけないって、言ったよね?」

「はっきりさせるべきでやがります。師匠はボンヤリしてやがりますから。いざとなったら、わたしを囮にして逃げやがってください」

「そうならないために、ボクがわざわざ来たんでしょう?」

「わたしとしては負けられませんので。だいたい、なぜ婚姻の証を贈りやがらないんですか!もういいでしょう?言質は取りやがりましたよ!政治的判断って何なんでやがりますか?師匠はどこぞの王子でやがりますか!」

「花の国の王子様なんだよね。これが。ははは、ごめんね、いきなり」

アシュデルはギンヨウを何とか宥め、リティルに顔を向けた。

「いい感じに肩の力が抜けたぜ?アシュデル、全部聞いたよな?」

リティルが問うと、アシュデルは笑みを浮かべたまま頷いた。

「それでね、宣戦布告に来たんだ。ほら」

アシュデルは左手を見せびらかすように差し出した。

「え!?ってこともないけど、これ、婚姻の証?」

ペオニサは目を疑って、アシュデルの手を掴むとマジマジと左手の薬指に嵌まった黒いシンプルな指輪を見つめた。

「ははは。イリヨナなら無事だよ?あの人、一緒に行くって聞かないから工房に監禁してきた」

「わたしは身代わりでやがります。失敗して閨に連れ込まれやがったら、度肝抜いてやりやがりますよ!」

ギンヨウは半ばヤケクソ気味にそう言うと、左手の薬指に可愛らしい金の指輪をはめた。すると、その姿がイリヨナに変わっていた。

「イリヨナさんに見えやがりますか?」

「うん。完璧だよ。自分の才能が怖いね」

「私にこんなマネをさせるなんて、酷いですの!」

イリヨナに扮したギンヨウは、キッとアシュデルを睨んだ。

「やめて。そんなゴミを見るような目で見ないで。偽物だってわかってても、精神的ダメージが凄いから」

「ほほう?では今度から師匠に苦言を呈するときは、この恰好でいいますの!」

「楽しそうなとこ悪いんだけどな、説明してくれねーか?」

絶好調なギンヨウに頭痛を覚えつつ、リティルが先を促した。

「あ、師匠、盗聴されていやがったら、わたしが偽物であることがすでにバレたと思われますが、どうしやがりますか?」

敵意剥き出しでとんでもないことを言い出したギンヨウに、リティルは力なく笑った。

「ねーよ。その辺は対策済みだ。安心しろよ。なあ、アシュデル話してくれねーか?」

「うん。そのつもりできたから。立場はわかってるつもりだから、切り捨てて構わないよ?」

リティルはもう、笑うしかなかった。

「はは、しねーよ。おまえは風一家だ。一家の一員を守るのはオレの役目だぜ?来てくれて、ありがとな!」

アシュデルは首を横に振った。

「リティル様、問いの答えを、今言わせてほしいんだ」

「ああ」

「ボクは、イリヨナがほしい。だから、この結婚を潰すため、力を貸してください」

頭を下げたアシュデルに、リティルは笑った。

「待ってたぜ?おまえがそう言ってくれるのをな!って、おい、大丈夫か?」

ガクッと膝から崩れ落ちそうになったアシュデルを、リティルは咄嗟に支えていた。変身を解いたギンヨウがその反対を支える。

「無茶しやがりましたからね。偽の婚姻の証とこの変身の指輪、それから常時心眼でやがります。大魔導といえども、師匠の容量は並みでやがりますので」

「ははは……ギンヨウ……もうちょっと優しくして……」

そうしてアシュデルは、身長が同じくらいのペオニサの肩を借りて、何とかソファーまで来たのだった。

 ソファーに着くと、待っていたラスが紅茶を配ってくれた。久しぶりなその香りに癒やされていると、いくらか霊力が回復した。アシュデルが落ち着くのを見計らっていたのだろう。インファとペオニサの謝罪が始まった。最初はルキと共謀したが、描いたシナリオからはすでに外れてしまったことを聞かされたアシュデルは、首を横に振った。

「それを聞けてよかったよ。ルキが本気だったら勝ち目ないから。でもリティル様、教えてほしかったよ?」

アシュデルが恨みがましく言うと、リティルが謝罪する前にギンヨウが言った。

「まあ、師匠のせいでやがりますね。師匠、リティルを避けていやがりましたから。大方、言質取られるのが怖かったんでやがりますね。ヘタレでやがります」

ここぞとばかりにアシュデルをなじったギンヨウは、ラスに「紅茶も美味しいんでやがりますね。淹れ方教えてください」とすかさず頼んでいた。

「ははは……返す言葉もないよ」

「それで、どうするつもりで来たんです?」

偽物だという黒い婚姻の証の指輪を借りて見ていたインジュが、顔を上げた。

「ルディル様に、会いに行ってみようかと思ったんだ」

「直談判です!?ああ、それですでに婚姻関係にあるってことにするために、これ作ったんですかぁ?でも、どうして偽物なんです?本物でもいいじゃないですかぁ?」

「誰かに、はめられてるんじゃないかと思って」

アシュデルの淡々とした言葉に、インジュがペオニサとインファに笑顔を向けた。

「耳が痛いですねぇ?お父さん、ペオニサ」

「あっはは……ごめん。でもさあ、なんでそんなに慎重なんだよ?」

「慎重だよ?ボクは、翳りの女帝の運命の相手じゃないから、イリヨナに選んでもらわないと動けない。これまで、ことごとく邪魔されてるしね」

紅茶を飲み干したアシュデルは、カップを皿の上に置いた。

「イリヨナを監禁してきたのだって、怖いからだ。あの人を、ボクの場所から出したら、また逃げられるような気がした。だから、サッサと決着をつけたいんだ」

アシュデルが立ち上がった。ギンヨウもそれに習う。

「行ってくるよ。ボクに何かあったら、その時はお願いします」

「待ってください。アシュデル、一計を、案じさせてください」

ずっと死んだような顔をしていたインファの瞳に、確かな光が戻っていることを、ペオニサは気がついた。


 太陽の城と風の城は、鏡によって繋がっている。

風の城の応接間にある大鏡と、太陽の城にある、この姿見にゲートと呼ばれる時空転移の魔法がかけられているのだ。アシュデルは、大鏡を抜けて太陽の城に入った。後ろをイリヨナがついてくる。

太陽の城にある姿見は、元玉座のあった、高い高い階段の上にある。夕暮れの太陽王・ルディルも、風の王・リティルと同じく、玉座に大人しく座っている王ではないため、この城にも玉座がない。

さて、件の王はどこにいるのか。アシュデルは、ルディルとはあまり会ったことがない。ペオニサやアシュデルと同じくらいの高身長で、それはそれは素晴らしい筋肉の美丈夫だ。豪快で裏表のない人だったと記憶しているが、今回の件は、取り付く島もなかったらしい。インファは、そのルディルの通常ではない態度に、それだけ重要な事なのだと解釈したらしいが、本当の所はどうなんだろうか。

なぜなら、翳りの女帝の番の事を知っていたはずなのに、件の王は、1度たりともリティルとルッカサンに釘を刺すことはおろか、恋人となったアシュデルに対しても働きかけてこなかった。そんなルディルが、アシュデルとイリヨナの前に立ちはだかるのは不自然のような気が、アシュデルにはしていた。

「父さん……」

階段を慎重に降りていたアシュデルは、巨人でも通れそうな大きな尖頭扉を開いて入ってきたジュールを見た。

「アシュデル、イリヨナ、大人しく従ってもらおう」

「何に?ボクは、ルディル様に会いに来たんだ。案内してよ。父さん」

「それはできんな」

アシュデルは左手に『魔書・デルバータ』を出現させた。ジュールは動かないが、彼が動いてからでは遅い。

「どうして?」

「なぜか?フフ、聡いおまえならわかるだろう?」

アシュデルとイリヨナの周りに、白い光で描かれた魔方陣がいくつも展開された。

「わたしが黒幕だからだ」

魔方陣から一斉に蔓が召喚されていた。捕らえるつもりのようだ。アシュデルは右手を鋭く振るった。金色の風の刃が全方位に放たれ、蔓が切り裂かれる。アシュデルはイリヨナの手を掴むとかけ出した。

「ジュール!阻んだとしても無駄ですの!だって、私たち――」

アシュデルの行く手に魔方陣が現れた。イリヨナから手を放し、アシュデルは魔方陣に向かって氷の槍を叩きつけた。魔方陣は発動前に破られ消えていく。

「それがどうした?アシュデルのことだ、偽物だろう?」

「そんなこと!」

アシュデルと距離の離れたイリヨナの背後に魔方陣が描かれた。アシュデルの手が閃いて、光の矢が屈折してイリヨナを避けて背後に飛んだ。ドンッと巻き起こった爆風に、踏ん張ったイリヨナのツインテールが激しく揺れた。

「おまえ達の行動、言い当ててやろう」

ジュールは初めの位置から1歩も動いてはいなかった。

アシュデルに駆け寄ったイリヨナは、再び周りに魔方陣の気配を感じた。

「まず、イリヨナから現状を聞いたおまえは、考えたはずだ。ルキが味方か否かを。だが、ルキとの連絡手段はすでに断たれていた」

アシュデル達を囲んだ魔方陣が輝き出す。アシュデルの手にした魔導書が激しく独りでにページを繰った。

「ルキを訪問し、彼が敵だった場合、おまえでは太刀打ちできない。よってルキは後回しだ。次ぎに闇の城だが、イリヨナの逃亡がすでに知られていれば、踏み込んだ途端に囚われる」

アシュデルが天井に向かって右手を突き上げた。グラッと揺れを感じて、イリヨナがアシュデルにしがみ付くのと、2人を覆うように木が生えるのが同時だった。爆発的に成長した大樹が、魔方陣を弾き飛ばしていた。

「おまえが向かうべきは風の城しかないな。おまえが、結果がどうあれ、主君のリティルを疑うはずがない。リティルは温かく迎えてくれただろう?」

大樹の梢から、ヒュンッと何かがジュール目掛けて飛んできた。ジュールはそれを見据えて動かない。ガン!ガン!とジュールを囲んで四本の木の槍が突き刺さった。ジュールの足下に魔方陣が描かれる。

シュルリと現れた闇色の縄が、ジュールの体を締め上げた。苛烈だった魔方陣の攻撃が止んだ。

アシュデルの生やした大樹が揺らめき消えていく。

消え行く大樹から飛び降りたアシュデルが、膝をついた。そんな彼を、イリヨナが気遣う様がジュールには見えた。

「諦めろ、アシュデル」

ジュールの声に、アシュデルはヨロリと立ち上がった。

「これまで、何度も、諦めたよ。でも、忘れられなかった。忘れられないなら、忘れなければいいと、そう思えるようになって、少しは楽になったかな?」

イリヨナに支えられ、アシュデルはジュールにゆっくり近づいた。

「諦められないよ。翳りの女帝のイリヨナが、選ぶはずのないボクを選んでくれた。抗うよ。最後まで」

イリヨナの手を離れて、前に立ったアシュデルに、ジュールは甘やかに笑った。

「そうか」

とても、負けたような微笑みには見えなかった。アシュデルがハッと体を強ばらせると、広い部屋の中に、気配が2つあることに気がついた。

「あっ!?」

イリヨナの悲鳴に振り返ろうとしたアシュデルは、真横から襲われていた。ドッと両膝をつかされ、右腕を背中で括られていた。それは、艶やかな真っ黒な髪だった。

「ごくろう。ケルディアス、カルシエーナ」

ジュールは床をグリグリと踏みしめた。プツンッと音がして、彼を拘束していた闇色の縄が切れて消えていく。ジュールを囲むように突き刺さっていた木の槍も、同時に消えていった。

 アシュデルの前に膝を折ったジュールは、息子の左手の薬指から指輪を抜き取った。それをグッと握る。指輪は脆く崩れ去った。婚姻の証を壊せるのは、贈られた者か作った本人のみだ。その他の者では、壊しても傷つけても元に戻るのだ。崩れ去った指輪は、元には戻らなかった。

「……やはり偽物か。おまえのことだ。すべての憂いをなくしたあと、婚姻を結ぶつもりだったのだろうが、裏目に出たな。おまえはイリヨナを、そんなに信じられんのか?」

ジュールの言葉に、アシュデルは失笑した。

「信じる?信じられるわけないよ。ボクは、彼女の運命じゃない」

「それを知っていながら、それでも求めるか?」

「手放せないんだ。もう、観念したよ」

「そうか。殊勝なことだな。結婚式まであと半年だ。大人しくしていろ」

ジュールが背を向けた。その去って行く後ろ姿が霞む。アシュデルはドッとそのまま床に倒れていた。


 まったく無茶をするヤツだ。

ジュールは、霊力を使いすぎて倒れたアシュデルの看病を自らしていた。

あのまま、イリヨナを捕らえたケルゥに連行させようと思ったのだが、アシュデルが倒れてさすがに肝が冷えた。

慌てて駆け寄ってしまい、イリヨナに不審そうな目で見られてしまった。カルシエーナに先にイリヨナを連行させ、アシュデルの様子を確かめると、ただの霊力切れであることが判明し、急ごしらえの監禁部屋に収容して今に至る。

 息子の魔法に初めて対したが、なかなかに多才で楽しかった。死神の毒に冒されていなければ、十分風一家の戦闘担当になれる実力だった。

「イリヨナを……選んでいなければ……」

ジュールはそっと、開かない息子の瞼の上に手を置いた。アシュデルとは反属性である心眼は、まだ彼の体に馴染みきっていない。使うには、多くの霊力を消費する。熱を持った瞼に、弱い冷却の魔法をかけてやる。これで、いくらかマシになるはずだ。

 信じられないアシュデルと、疑い嫉妬するイリヨナ。健全な関係ではない。リティルの与えた、運命に抗う風が番の運命に抵抗しているが、2人は何度も挫けた。それでも互いを求めてやまないのは、愛故だ。

わかっている。わかっているが、ジュールも揺れていた。

このまま、息子の背を押していいものか。

この、強引な結婚式の黒幕はジュールだ。それは確かだ。

だが、イリヨナと誰の結婚式であるのか、決まっていない。イシュラース中に、翳りの女帝・イリヨナが半年後に結婚式を挙げると浸透しているが、相手が誰なのか、実は吹聴していないのだ。皆、ルキがイリヨナに求婚したらしいという噂で、相手が幻夢帝・ルキだと思い込んでいるだけだ。あのリティルでさえも。気がつけと思う。光の力をふんだんに使ったドレスを着たイリヨナに、月の精霊という光の精霊とはいえ、闇の力を代行する能力が主であるルキが無傷で近づけるわけがない。ルキが相手だったなら「ボクに対する嫌がらせかな?触れるなってことだよねぇ?」とヤツは笑うに決まっている。

初めから、光の力を持つアシュデルの為にあつらえた舞台なのだ。

「イ・リ……ヨナ……」

 霊力の枯渇で、弱ったアシュデルが呻きと共に名を呟いた。

おまえは何度、その名を呼んできたのだ?成人前後のあの事件を、今更知ったジュールは、さすがに怒り狂った。ぶつけるところがなくて、見かねたルディルが鍛錬という名目の八つ当たりに付き合ってくれた。

2人の息子に産まれる前に施した人体実験の咎が、こんな形で降りかかろうとは、思いもよらなかった。リティルが、時限爆弾と称していたが、まさにそれだった。

不運な偶然が、末の息子の幸せまでをも壊してしまった。その原因を作ったのは、他でもないジュールだ。アシュデルを自己満足で助けた、インリーではない。

成人直後、アシュデルがイリヨナに問題なく会えていれば、こんなに2人は苦しまずに済んだ。ルッカサンとリティルの間で同意が済んでいた政略結婚で、2人は今頃夫婦だった。アシュデルは、例えるなら金環日食などという馬鹿げた心の傷を負わずに済んだ。そして、放浪の精霊にはなっていなかっただろう。翳りの女帝・イリヨナの王配として、今頃手腕を振るっていただろうに。

すんなり手に入るはずだった未来を、ジュールは、困難にしてしまったのだ。

 背後に気配が立った。スッと、刃が背中に突きつけられたのを感じた。

「よく抜け出せたものだ。君を侮っていたようだ。イリヨナ」

ジュールは立ち上がると、クルリと向き直った。

向き直ったジュールは突きつけられている槍を見て「おや?」と違和感を感じた。イリヨナはペオニサに師事して、得意武器は長剣のはずなのだ。

「イリヨナでは、ありませんよ」

その声は、若い男性のモノだった。ジュールもよく知る男。イリヨナが、左手の薬指から指輪を抜いた。途端にその姿が幻のように変わった。

「アシュデルを返してください」

「インファ……」

変身の――魔導具……!完成させていたのか?と、ジュールはアシュデルに一矢報いられた事をやっと知った。

なんということだ。これでは、計画が台無しだ。飛んで火に入るとほくそ笑んでいたが、策を用意してきたアシュデルにジュールは感心すると同時に、最悪だなとインファを表情なく見つめた。

「なぜですか?なぜあなたが、立ちはだかるんですか!」

インファの裏切られたような瞳が、ジュールの心に突き刺さる。しかし、弁解する気にはなれなかった。

「父親だからだ」

「アシュデルに、父親が必要であるとは思えません。彼の決意を聞いたはずです。この結婚式を中止し、イリヨナとアシュデルを祝福してください」

「できない相談だ」

「祝福できないと、そういうことですか?アシュデルを選び続けられないイリヨナが、許せませんか?」

「そうではない。女帝は職務に忠実なだけの、一途な娘だ。ただの男と女として出会っていたなら、すんなり手を繋げたかもしれないな。インファ、イリヨナはどこにいる?」

「明かすと思いますか?」

「いいや。だが、来てもらわねば困るのだ。ここに、アシュデルがいるからな」

インファが、驚いた顔をした。ジュールは自分が、どんな顔をしているのかわからなかった。

「あなたのしたいこととは、何ですか?アシュデルから、イリヨナを引き離すことではないんですか?」

フフとジュールは静かに笑った。

「引き離さずとも、勝手に離れるではないか。これ以上の苦痛は、必要ではなかろう?」

槍を突きつけられながら、ジュールの手が動いた。何を?とインファが思った時には遅かった。息子の顔をチラリと一瞥し、その顔にジュールは手をかざしていた。

「眠りの魔法をかけた。目覚めさせたくば、イリヨナを呼べ。ああ、覚悟を決めろと言うのを忘れるな?」

「ジュール……!っ!わかりました……」

苦痛に顔を歪めながら、しかし、インファはあっさりと槍を引いた。そして、翼を広げると、あっという間に飛び去った。

 ジュールは、目覚めない眠りに落ちたアシュデルを見下ろした。

彼の眠るベッドが、パキパキと端から凍り付き、太陽の光に煌めく棺となった。その氷の棺を中心に、野の花々が部屋中を埋め尽くすように咲き乱れ、真っ白な狭い部屋の壁を太いバラの蔓が這い回る。ジュールは様々な模様のミイロタテハの舞う、封じられた花園を後にした。

見た目には美しいこの部屋に入れる者は、誰もいない。術をかけたジュールでさえ、部屋中に施された守護者の魔法により拒まれる。入れる者がいるとするのなら、アシュデルにかけられた幸福な夢を覚ますくらいの幸せを、与えられる者だけだ。


 アシュデルはハッと目を覚ました。ここは、どこだ?ボクはいったい、何をしていた?

ゆっくりと視線を彷徨わせたアシュデルは、扉を開けて入ってくる女性に目を奪われた。視線に気がついた彼女は、大きめな黒い瞳にパッと笑みを浮かべて名を呼んだ。

「アシュデル、どうしたのですの?夢を見ているような瞳をしてるのですの」

近づいてきたエプロンを着けたイリヨナの左手の薬指には、2匹の蝶が戯れる指輪が嵌まっていた。

「え?そう?……座ったまま寝てたのかなぁ?」

アシュデルは、瞳をゆっくりと瞬きながら、困ったように笑った。違和感があったが、それが、なんなのかわからなかった。彼女は妻のイリヨナで、ボクはここでアクセサリーを作って売る魔導士。たったそれだけだ。アシュデルはそう思い直した。

「父さん?母さん?どうしやがったんでやがりますか?ご飯でやがります」

開け放された戸口に、ヒョイと顔を覗かせたのは息子のギンヨウだ。どうやらイリヨナはご飯だと呼びに来てくれたようだ。そしてギンヨウは、なかなか来ない両親の様子を見に来たらしい。

「ああ、ごめん。すぐ行くよ」

立ち上がったアシュデルは、微笑むイリヨナと共に戸口にいるギンヨウと合流する。「今日はシチューでやがります」とギンヨウは笑った。「ギンヨウのシチューは世界一ですの!」答えてイリヨナも笑っていた。

ああ、幸せだな……。笑い合う息子と妻の後ろ姿を見つめながら、アシュデルは温かそうに微笑んだ。


 本当に、反応の早いことだ。

これで、インジュを伴っていないことが、彼が怒り狂いながらも冷静であることを物語っていた。ついてきたのは、力の精霊・ノインだったのだ。

「ジュール!おまえ、息子になんてことするんだよ!イリヨナが偽物だったから、それで失望でもしたのかよ?けど、アシュデルが連れてくるわけねーだろ?敵陣だってわかってるところに本物をな!」

膝に肘をつき、頭痛を堪えるように額に手を置いて腰掛けるジュールの前には、容赦なく言葉を叩きつけてくるリティルがいた。ノインは苦笑するばかりだ。

「すまない」

すんなり謝罪の言葉が出ていた。リティルが驚くのが気配でわかった。戸惑うリティルを慮ってか、豪快な笑いが降ってきた。

「ガハハハハ!おまえさん、せめてリティルに言いたいこと言い切らせてやらねぇか。そんなんで、恋路を邪魔する魔王の役演じきれるのか?」

オレンジ色の伸ばしたい放題の髪の大男。オレンジ色のオオタカの翼を生やした鬼神のような彼が、この太陽の城の主、夕暮れの太陽王・ルディルその人だ。

「ジュール、おまえ、反対だったのかよ?だったら、そう言ってくれたらよかったんだぜ?政略結婚の話は出てたけどな、オレもルッカサンも強行するつもりなんてなかったんだ。ただ、会ったらアシュデルが選んでくれるって、確信してただけだ」

「まあ、そうだな。おまえさんもルッカサンも、ここまで無理強いしてねぇもんな。しっかし、大変だったなあリティル」

「大変だったのはオレじゃねーよ。それに、まだ終わってねーよ!」

リティルは怒りを隠さずにドッと、籐の椅子に背を預けた。

「……アシュデルは目覚めるのか?」

立ったままのノインは、アシュデルの封じられた部屋の方へ視線を送った。

「ああ、結婚式が終わったあと、目覚めさせる」

ジュールは顔を上げないまま答えた。

「できやがるのか?時限式だったとかか?」

ルディルは興味本位で部屋を覗いた。覗いただけで、壁に這った茨がトゲを飛ばしてきた。

ケルゥとカルシエーナも侵入を試みたが、あの茨の守護者はなかなかに強敵だ。破壊の精霊であるために体を傷つけられる事のないカルシエーナは、クルッと巻き取られて部屋の外へ投げ出され、ケルゥは鋼のような茨の鞭に退却を余儀なくされた。

2人は共に、風の城の主力で、最上級精霊だ。

「わたしの片腕を、捧げればな」

「ジュール……そこまで追い込むこともないだろう?おまえらしくもない」

一向に顔を上げない三男に、ノインはいよいよ心配になったらしい。

「足りんな。わたしのこの命を捧げ済むのなら、喜んでしただろうよ」

「お、おい……ジュール……」

「ハハハハハ!不甲斐ないことだ!わたしは、ここへ来て再び、取り返しのつかないことをしてしまった」

高笑いしたあと、ジュールはガクリと項垂れた。

「イリヨナが……越えればいいだけだろ?」

見かねたリティルが、正面に座っていたジュールに駆け寄る。

「不可能だ……」

「どうして?」

ジュールが顔を上げた。その顔に、リティルはハッとして固まった。それは、見下ろしていたルディルもノインも同じだった。

「アシュデルの夢……あれは、イリヨナと築きたかった幸福だ。まるで、グロウタースの民のような夫婦生活だ。現実と真逆だ。それを目の当たりにするイリヨナは……さぞ、傷つくことだろう……」

悔しげなジュールの、宝石のような明るい緑色の瞳から、涙が伝っていた。

「わたしは……!息子の妥協した未来に、引導を渡してしまったのだ!こんな所業があるか?番のある相手だと知らずに恋をし、選ばれないと思いながら愛し、選んでくれたからと挑んできた息子にすることか?わかっただろう?わたしの片腕では足りんのだ」

リティルは、自分自身へ怒りを滾らせるジュールを、そっと抱きしめた。

「大丈夫だ。イリヨナは、オレの、運命を切り開いて進む風の王の娘だぜ?同時に、嫉妬深くて愛情が振り切れてるシェラの、花の姫の娘だ。翳りの女帝のイリヨナを見てるとそうは見えねーかもしれねーけど、肩書きのねーイリヨナは、勇敢で、嫉妬深くて一途な女だ。アシュデルが好きな気持ちは、誰にも負けねーよ。たとえ、アシュデルのフェアリアにだってな!」

「リティル……」

「おまえさん、もう許されろ。諸悪の根源、道踏み外しやがったリフラクもすくすく育っていやがるし、ペオニサはインファの隣で毎日楽しそうだぞ?アシュデルのことは、イリヨナに任せろ」

泣き止めないジュールのキシタアゲハの羽根の生えた背に、ルディルは大きな手の平を押し当てた。

「ああ、そういえば、アシュデルの弟子のギンヨウからこれを預かってきた」

見るか?とノインが差し出したのは、スケッチブックだった。アシュデルとインファが太陽の城に行った後ギンヨウはサッサと帰ったが、間を開けずにまた来てスケッチブックを置いていったのだ。そして「最後のページの絵が、きっと師匠の答えでやがります」と言葉を残していった。いったい何が描かれているのか、ノインはまだ見ていない。

 涙を拭いたジュールは、それを開いた。

雰囲気の違う……瞳の形の違うイリヨナの絵。様々に変える表情のイリヨナが、スケッチブックの中で確かに生きていた。

1ページを使った描かれた、微笑むイリヨナに、ジュールは思わず指で触れていた。

次のページには、何本もの線が書かれているだけだったが、どうやら、顔を描こうとしたことだけはわかった。視力を失い、それでもアシュデルはイリヨナを描こうとしたことがわかる。

せめて、あの目を癒やしてやることができたなら……。ジュールは再び込み上げてきたモノを何とか堪えた。

「!?」

そして開いた次のページを、ジュールはバンッと閉めそうになった。

「ほお?こりゃ過激だねえ。服も着ていやがるし、ただ泣いていやがるだけっていやあそうだが、やっこさん、嗜虐的な性癖でもありやがるのか?」

ジュールの頭越しに絵を見下ろしたルディルが、下卑た苦笑いを浮かべた。

「はは、邪精霊化したイリヨナを、忠実にスケッチしたらしいぜ?すげーエロいよな?ギンヨウが、師匠が倒錯的な何かに目覚めたと思いましたって、苦笑いしてたぜ?」

「心眼を会得して、最初の1枚がこれとは、少々普通ではないものを感じるが、このイリヨナの感情が本物なら、見込みは十分あるな」

どこまでも冷静に、ノインは絵の解釈を述べた。

傷ついて泣いているイリヨナの瞳に籠もった劣情。目の前にいる誰か向けられて、狂おしいまでの愛を感じる1枚だ。年齢指定が入りそうだが、渾身の一作には違いない。

リティルに「次ぎめくれよ!」と急かされ、ジュールはページをめくり、手を止めた。

描かれていたのは、男性の横顔だった。視線をこちらに向けないその人は、甘やかに優しげに微笑んでいた。絵の中の彼の瞳は真っ直ぐに先を見据え、揺るぎなくて自信に満ちあふれていた。凜々しい横顔だ。

「あいつも素直じゃねーよな。それとも、願望なのか?」

ジュールを囲むように描かれた様々な花。ラフスケッチにしては完成度が高すぎるよなーと、リティルは感心していた。

「しかし、この絵からは憎しみを微塵も感じないな。あるのは、敬愛……尊敬か?おまえは……認識を改めるべきではないのか?」

ノインの、気遣うような優しい声に、ジュールは苛立った。

ここは、おまえの出番だ!長兄!とジュールは期待したが、茶化して罵るルディルは、言葉をくれなかった。

「もう……遅い……わたしを許そうとした、アシュデルの思いまで、わたしは砕いてしまった!」

「いいじゃねーか。許される気なんてねーんだろ?アシュデルの前に、魔王として君臨し続けてやれよ!おまえが泣いたなんて知ったら、あいつ、どうしていいのかわからなくなって、また皆既日食まっしぐらだぜ?」

悪意魔物変換術で、アシュデルの闇を落ち着かせた時、アシュデルにかけられていた魔法が中途半端に解呪されてしまった。それが、かつてインリーが封じた、リフラクの呪いの様な魔法が再び発動した原因だったのだ。本当に、バカ娘には再教育の上の再教育が必要だと、リティルは今でもインリーを許していない。だが、リティルは手を下さない。下さなくても下るのだ。罰というものは。

「さあ、ジュール、そろそろ魔王に戻ってくれよ?イリヨナが来るぜ?」

「案外早かったな。インファは説得も得意なのか?」

ノインの言葉が容赦なくジュールに突き刺さる。

「おまえさん……悪趣味になりやがったな」

「事実だ。ジュールが黒幕だったと知って、イリヨナはこの上なく衝撃を受けたはずだ。アシュデルは捕らえられ、魔法をかけられ人質に取られた。何かあれば半年逃げ回れと言われていただろう彼女は、ジュールの招待を受けるか、アシュデルの願いを優先するか迷っただろう。イリヨナの背中を押したのはインファだ。インファはおまえを信じた。よかったな。ジュール」

インファが、アシュデルを盾にイリヨナにルキとの結婚を迫ると信じていたら、イリヨナは来ず、来るのはまたしてもインファだ。アシュデルを奪還するため、風一家をまとめて攻め込んでくるだろう。インファはあれで案外過激だ。危険思考の持ち主だ。一家の誰かの為なら、喜んで世界を敵に回す。それを知ってる皆が、そうならないように注意しているから、インファは世界に殺されていないだけだ。

ノインは慰めたつもりだっただろう。だがジュールはあえて彼を睨んだ。

「笑いたいのならば、わかりやすく嘲笑え!次男」

インファに裏切られた者の瞳をさせてしまったことを、気に病んでいることを見透かされたジュールは、ノインに噛みついていた。

「嘲笑ってなどいない。オレは事実を述べているだけだ。三男坊」

可愛いところもあるのだな。とでも思われたのだろう。インファに嫌われたくない思いを見透かされて、ノインには「そうかそうか」と微笑みながら頷かれてしまった。ああ、腹立たしい!

「末弟の人選は外れがないねえ。さて、行くか?」

ノインがジュールの羞恥に油を注ぐのを傍観しながら、ニヤニヤとルディルは笑った。

「はは、そうかよ?行こうぜ、ジュール兄!」

高飛車に誰も彼も転がす彼が、ノインに易々と転がされる様を見て、傷は深いな、大丈夫か?と苦笑しつつ、リティルはジュールの肩を叩いたのだった。


 太陽の城の姿見を、緊張気味に潜ってきたイリヨナは、前を行くインファに手で制された。兄の後ろから階段の下を伺うと、ジュールを中心に、夕暮れの太陽王・ルディル、力の精霊・ノイン、そして、風の王・リティルがいた。

「待っていたぞ?翳りの女帝」

イリヨナはインファの腕を掴んだ。顔だけ振り向いた兄に頷くと、イリヨナは前へ出た。

「花の王・ジュール。招待、お受けしましたの」

「……来ないことも、想定していたのだがな。こっちだ、女帝。アシュデルが待っている」

踵を返すジュールに、イリヨナは驚いて叫んだ。

「ルキではなくですの?」

振り返ったジュールは、心底嫌そうな顔をした。

「君の相手は、初めからミモザの精霊・アシュデルだろう?あいつ以外を選ぶこと、このわたしが許さん」

「ジュール……はいですの!」

背後で、安堵のため息をつくインファの気配がした。見上げると、インファは情けなく微笑んでいた。インファはイリヨナをここへ連れてくる際「ジュールのあの表情を見る限り、オレは信じたいと思います。ですが、自信がありません」と言っていたのだった。賢魔王が相手と聞いて、レイシは難色を示した。イリヨナも大いに迷った。そんなイリヨナの背中を押したのは、ギンヨウだった。

「大丈夫でやがりましょう。あの仮面の人、信用できそうでやがりましたよ?」と。なぜノイン?と思ったが、ノインの事はイリヨナも信用できる。インファとノインが信じるのなら、少なくともいきなり捕らえられることはないだろう。

ここへ来ることを決めたのは、イリヨナ自身だ。ここでルキに引き合わされるとしても、ここにいる事がわかっているアシュデルのもとへ行くつもりだった。認めさせてみせると、意気込んでもいる。

 前を行く、風の王兄弟の背中を見ながら、イリヨナは緊張しているインファが気になって見上げた。しかしインファは、イリヨナを安心させてはくれなかった。やがて、皆の足が止まった。振り返る皆に促され、背の低いイリヨナは皆の間を縫って、その部屋の前に立った。

ジュールが扉を開く。

イリヨナは、美しく色とりどりに咲き乱れるバラの蔓に覆われた、野の花に埋め尽くされたその部屋を見た。無数の模様の異なるミイロタテハ達がヒラヒラと舞う、その部屋の中心に、青い塊がある。

「アシュデル……!」

部屋に走り込んだイリヨナの背に、ジュールの声がかけられた。

「アシュデルは幸福な夢の中だ。君に、夢よりも幸せな現実が導けるか、見せてみろ」

パタンと扉は音もなく閉まった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ