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四章 闇の中ただ闇の中

「ねえ、ルキ」

ルキの記憶の中のアシュデルは、呪われて、馬の頭に異様に長い手、大きな手の平の化け物の姿をしていた。

化け物の姿のアシュデルを、いろいろあってルキルースに保護したルキは、彼が自力で変身の呪いを解くまで一緒にいた。淡々と、自分自身に人体実験を繰り返す彼が面白くて、付き合っているうちに好きになっていた。すでに、大魔導という異名を持っていて、知識も豊富だったが、なぜか、幻夢帝が翳りの女帝の番だとしらない様子だった。

誰かがその知識を故意に隠した?と察したルキは、イリヨナを愛しているようなアシュデルにあえて言わなかった。

ルキには、恋愛感情がない。そして、ルキの大事なリティルが、イリヨナに会わせてくれないことを考えると、この人絡みなのかな?と察していたのだ。

「却下」

「ははは、まだ何も言ってないんだけど?」

「碌でもないことだよね?聞くに値しないよ」

「それでも、聞いてよ」

「はあ……どうせイリヨナの事だよね?ボクはね、なぜかリティルに危険指定されてるみたいで、イリヨナには会ったことがないんだよね。放っておいてもさ、リティルが守るでしょう?」

「そうなんだろうね……。でも、君って、イリヨナと相性良いよね?」

……番だからね。ルキは真顔になりそうだったのを、なんとかいつもの感情の読めない笑みで誤魔化した。

「まあ、夜、だからね。正確には月だけどね。光だよ?ボクも」

「太陽側のボクより、君の方が、イリヨナを助けられる。ああもお!悔しいよ」

「まだ心があるんじゃないか。行けば?」

「……行けないんだ。どうしてだか、わからないけど」

「何それ?いいの?ボクに会ったらイリヨナ、ボクに恋しちゃうかもしれないよ?」

「だったらそれは、それまでってことじゃない?」

本当に知らないの?この男。諦めているようなけれども諦めきれないような、どっちつかずで揺れるアシュデルが、もどかしくて、苦悩する様がルキの嗜虐な心を刺激する。

「理解できないね」

「そうだね……ボクも、理解不能。でも、イリヨナに会ってはいけない気がするんだ。だからルキ、」

「だから、ヤダよ」

本当は知ってるのかな?番のこと。と思えるほどの態度だった。だが、違うのだ。アシュデルはただ、イリヨナを助けたいだけなのだ。

本当に、いたぶりがいのある男だ。彼の絶望はどんなかなぁ?と想像するだけで満たされる。これでもアシュデルが気に入っている。だから、本物の絶望はお呼びではない。

「そう言わずに、聞いておいて。ボクがイリヨナを諦めたら、君が、イリヨナを支えてほしいんだ」

「ヤダ」

「ははは。頼んだよ?ルキ」

まったくバカだね。ルキは、黒猫の姿で、初めて足を踏み入れる闇の城の内部に立っていた。アシュデルは、イリヨナと添うと決めたのに、盲目となったために風の城から動けない。だったら、ボクが行こうかな?ルキは、約束とは違うタイミングになってしまったが、イリヨナに干渉することを決めた。

 どうやら、闇の城は閉じられているらしい。

この、哀しみと混乱、怒りと嫉妬の入り交じった空気を思えば、腹心のルッカサンが外との影響を断つために処置したことは容易に知れた。

ルッカサンは確か、レイシを嫌っていたはずだ。ノコノコ城を訪ねてしまった迂闊なレイシを捕らえるだけに留めたのは、彼が大人であるが故だろうか。

――行けないんだ。どうしてだか、わからないけど

寂しそうなアシュデルの声がルキの脳裏に蘇る。瞬間怒りを感じてしまい、思わず走る足に力が入ってしまった。

確かに、インリーがいなければ、成人直前だったアシュデルは、彼の狂った兄・リフラクの手で死んでいた。だが、4、5才の精神年齢で、イリヨナにすべてを捧げる気でいた真面目なアシュデルには、インリーとの口づけは裏切り以外の何者でもなかったのだ。

その直後の成人で、アシュデルは――不運が重なったとしか言いようがないが、ルキでさえ憐れでならなかった。花の精霊であったがために、アシュデルは壊れるしかなかったのだから。

あの女は、なぜアシュデルが自ら化け物の姿になり、その魔法の放棄とともに記憶まで失ったのかわからないのだろうか。

イリヨナに恋い焦がれながら、グロウタースへ渡った彼の気持ちが、わからないのだろうか。どんな気持ちで、番のルキに、最愛の人のことを頼んだのか、わからないのだろうか。

『無様だね、レイシ』

ルキは、気配を頼りに地下へと暗い階段を降り、絵に描いたような鉄格子の嵌まる牢屋の前に立った。あの魔女――インリーの夫、レイシの前に。

「ルキ?ああ、ルキルースと闇の領域は繋がってるんだっけ?参ったよ。オレが火に油を注いだみたいなんだ」

牢屋の床に座り込んで、目を閉じていたレイシが、ルキの声で瞳を開いた。もっと、焦っているか怒っているか、感情が高ぶっているものと思っていたが、レイシは冷静だった。

『まあ、そうだね。君、ルッカサンに嫌われてる上に、アシュデルにキスした風の魔女の夫だしね。君を殺さなかったルッカサンは大人だね。イリヨナには会えた?』

「いいや。どこにいるのかもわからない。オレの見破りレーダー、肝心な時に役に立たないなんてね」

『君は光っぽくなくても光属性だからね。これだけ濃い闇は、見通せなくても当然だよ。ああ、ルッカサンって案外優しいんだ。ここはあんまり闇が濃くないね。君と押し問答するのが面倒で、ここへ閉じ込めたのかな?』

それだけ、イリヨナの状態は逼迫しているということなのかもしれない。

「……アシュデルには?」

やっと戻ってきたね。ルキは満足そうにニンマリ笑った。

もうあの魔女と別れりゃいいと、ルキは思っている。彼がこの姿この精神なのは、あのインリーのせいだ。本物のレイシはもっと大人だ。それをルキはずっと前から知っていた。

『言ったところで、動けないでしょう?過去も、今回も知らないんじゃ、言い訳しようもないし』

「じゃあ、なんとか教えてやってよ。このままじゃ、イリヨナは闇に飲まれる」

『そっちを抑えた方が早いんじゃない?』

「そうかもだけど、おまえ、横恋慕する気か?」

会うなというレイシに、フンッとルキは鼻を鳴らした。

『これしきでボクに蹌踉めくなら、それまでなんじゃないの?早くわかったほうが、痛手は少ないでしょう?』

「もっともらしいこと言うな」

『心外だね。今回のこれ、君の妻のせいだよ?盛大に踊らされたのは、どこの誰かな?』

「ああ!オレだよ!悪かったな!」

開き直ってるよ。こいつ。まったくしょうがないね。でも、まあ、償う機会はあげようかな?と悪友のよしみでルキは気が変わった。

『悪いってもんじゃないね。いっぺん死んでこいってレベルだね。夫婦共々、償うべきだ。レイシ、ボクが昔あげた首飾り持ってる?』

「ああ、黒曜石の?持ってるよ」

『関心関心。もし、ここから出られて、イリヨナに近づくチャンスがあったら、それ、イリヨナの首にかけてよ。時間稼ぎになるかもね』

「じゃあ」と、ルキは影の中へ消えた。

 出られるかよ!と思ったのだが、ルキはそこまで意地悪ではなかった。鉄格子の扉が開いている。ルキは、償う機会を与えてくれたようだ。それとも、このままイリヨナが邪精霊化してしまうのは許せないと、思ったのかもしれない。

どちらにせよ、レイシには行動するしか道はないのだ。

イリヨナにも、アシュデルにも落ち度は何もない。2人は、自分達の周りにいる思惑持つ者に翻弄されたにすぎない。イリヨナはただ、アシュデルを一途に想っていただけだ。イリヨナも、知ってるのだろうか。翳りの女帝の番のことを。

知ってるだろうな。レイシは、きちんと翳りの女帝である妹のことを思った。

「こんな終わり、認めない!」

レイシは索敵範囲の狭まった見破りレーダーを頼りに、闇の城内捜索に乗り出した。

 階段を上がり、慎重に当たりを探るが、近くにルッカサンの気配はなかった。

というか、誰の気配も感じない。イリヨナには、従者やメイドなどかつてリティルとシェラが育てた闇の精霊がついている。その後もルッカサンが育て、召使い精霊も充実していたはずだ。そのすべての気配がしない。

闇の精霊であっても、この濃厚な闇は毒なのだろうか。

レイシはゴクリと生唾を飲み込み、隠れるのをやめて走り始めた。濃い闇の中心にイリヨナがいる。だったらもう、探るもなにもない。

 そうして走った先は、レイシの入ったことのない区画だった。

ここは……寝室?入ってイリヨナがあられもない姿という事はないだろう。

「っ!」

掴んだドアノブが熱かった。これは、濃い闇とレイシの太陽光の力が反発したせいだとわかった。扉は封じられているのだ。

『舐めるなよ!』

レイシは翼あるライオンに化身して、四肢を張った。そして、口から白い光をビームのように吐き出した。ルッカサンが封じているようだが、レイシはルキとの信頼関係のほうが上だ。ルキがやれと言ったことを実行するのは、レイシには当然のことだった。息が切れ、レイシはゼエゼエと荒く息を吐いた。扉はまだ、傷1つついていなかった。

『イリヨナ!返事をしろ!』

叫んだが中から反応はなかった。ただ、濃い闇が扉の隙間から煙のように漏れてきていた。

レイシはスウッと息を吸うと、もう1度叫んだ。

『逃げるなよ!なんで諦めるんだよ!おまえの好きは、そんなものかよ!』

もう1度ビームを――と息を吸い込むと、中から蹴るような体当たりするような大きな物音がした。

「「私だって……諦めたくは……ないのですの……」」

イリヨナの声?と何か雑音が混ざっていた。

『イリヨナ?おまえ……そんなに……?』

たった一度の裏切りで、こんなになってしまうのか?レイシは、邪精霊化が始まっているらしい妹に、愕然とした。しかし、解せない。イリヨナとアシュデルは、向かうところ敵無しなくらい、両思いではなかったのか?

「「私……わかってしまいましたの……」」

『何を?おまえ、アシュデルを好きなんだろ?アシュデルだって、おまえのこと――』

「「アシュデルが好きなのは……私では……ない……」」

『はあ!?おまえ、それ、本気で言ってる?好きでもないヤツの為に両目を賭けるか?心眼は反属性だろ!あいつ、瞳を1回溶かして、10日もうなされてたんだぞ!?ペオニサがいなかったら、死んでたかもしれないのに!』

「「は……はははは……私を諦めさせることが目的だったとしたら……どうですの?」」

『はあ?何言って――』

「「アシュデルは……言いましたの……。私が……耐えられなくなったら……二度と会わない契約を……すると……」」

レイシは耳を疑った。二度と会わない契約……?何だそれ!聞いた感想はそうだった。

「「あの人の……願いは……叶いましたの……。父様……は……私とアシュデルを……引き離しますの……」」

閉ざされた部屋の中から、嗚咽が聞こえてきた。

「「ああ……アシュデル……残酷な……人……。いいえ……私が……会わなければ……」」

『そんなわけないだろ!おまえが逃げた後、あいつはおまえの事だけ気にしてたんだぞ!』

「「気になるでしょうとも」」

イリヨナの声は冷ややかだった。

「「私が諦めるか否か、知りたいでしょうから」」

『イリヨナ……おまえ……なんで信じてやらないんだ!』

「「ずっと……考えていましたの……成人した……アシュデルが……こなかったワケを……私は……幻夢帝の番……あの人は……想いが恋心に変わってしまったあの人は……身を引いたのですの……それなのに……忘れられなかった……これは……あの人が仕掛けた……穏便な破局……」」

そんなこと思うのか?いや、完全に精霊でないレイシには、理の外側にいるレイシには理解しようもないことだ。アシュデルに献身的に付きまとっていたイリヨナは、自分の気持ちを疑い、好きだと答えてくれたアシュデルが何かを企んでいると疑っていたのだ。

レイシは、リティルが言っていた言葉を思い出した。

「あいつに認めさせるには、見せるしかねーよ。言葉じゃあいつは惑わせられねーよ」

疑っている者に、どんなに言葉を尽くしても、伝わることはないのだ。

だが、レイシはキッと閉じたままの扉を睨んだ。

『ざけんな!あいつがそんなあくどいこと考えてるわけないだろ!』

レイシの渾身のビームが、扉を直撃していた。


 恋敗れた者の嘆きは、いっそう闇を濃くする。

それが、本人達の招いた終わりでないなら、尚更。

ルッカサンは風の城から戻ってきたイリヨナが言った言葉を、考えていた。彼女はあの時、こう言った。

「アシュデルもやっぱり花だったのですの」

そう言って寝室へ閉じこもってしまい、どうしたものかと風の城へ行こうかと考えていると、レイシがやってきてイリヨナに会わせてほしいと言ってきた。どう追い返そうかと手を拱いていると、闇の力が膨れ上がった。咄嗟にレイシを地下牢へ放り込み、寝室へとって返して封じたが、何の対処にもならない。事態は少しずつ、悪化していっている。

 アシュデルもやっぱり花だったとは、花と風は惹かれやすいという、花と風の理のことだろうか。しかし、アシュデルが誰と浮気するというのだろうか?風の城にいる風の精霊の女性は皆、伴侶を得ていると記憶している。

何があったのか。それを知るには、ルキルースにいる記憶の精霊を訪ねるのが、1番手っ取り早い。ルッカサンは、イリヨナの目から隠していたルキルースへの扉を開いたのだった。実は、闇の城にはルキルースへの直通の扉があるのだ。それは。2つの力のことを思えば当然だった。

 ルキルースの、記憶の精霊・レジナリネイを訪ねるのはいつぶりだろうか。

彼女の部屋は、万年桜の園と呼ばれている。散り際の夜桜が咲き誇る、異様に美しい場所だ。

「ん?ルッカサン?」

レジナリネイのいる、丘の上の桜の古木にたどり着くと、先客がいた。

「リティル様?奇遇ですな」

微睡む、清廉の乙女の前にいたのは、リティルとシェラだった。

「ああ。……アシュデルの記憶か?」

「あなた様もでございますか?」

「インリーがやらかしたことがわかったからな。それでな、まあ……見た感想は最悪だな。けど、インリーのヤツが妙な事言ってたんだ。ルッカサン、それを一緒に見ねーか?」

ルッカサンは、数時間前のことを知るつもりで来たのだが、意味深なリティルに逆らう心を、ルッカサンは持ち合わせてはいない。

「承知しました。我が、主」

片手を胸にルッカサンは臣下の礼を返した。

「おいおい……おまえは翳りの女帝・イリヨナの腹心だろ?勘弁してくれよ」

フフと、本気で困る風の王にルッカサンは、人の良さそうな顔で笑った。

「わたしは、2代目翳りの女帝にお仕えしているころから、あなた様の下僕です。リティル様、女王陛下はこのままでは代替わりを余儀なくされることでしょう」

シェラがハッと瞳を見開いた。そんな妻に視線を合わせ、リティルは取り乱すことなく頷いた。

「イリヨナは……ずっとアシュデルを疑ってたんだな?だけどな、ルッカサン、アシュデルは今もイリヨナ一筋だぜ?」

「疑いは微塵もありませんな」

「はは。おまえはずっと、イリヨナの腹心でいてくれよ?」

「もちろんでございます。あなた様のため、女王陛下をお守りしてご覧にいれます」

いつだ?いつルッカサンを落としたんだ?オレ。身に覚えがなくて、リティルは内心動揺していた。「リティルは人タラシですからねぇ」とはインジュの言だが、誑し込んでやろうとそんなつもりで付き合ったことは1度もない。

「……オレ、自分が怖くなったぜ……ああ、気にするな。レジーナ、ミモザの精霊・アシュデルと風の姫巫女・インリーが関わった記憶、あるか?」

気を取り直してリティルは、身長よりも長い黒髪を、ピンク色の花びらで染まった草の上に広げた、桜の舞い散る黒い振り袖を着た少女――記憶の精霊・レジナリネイに声をかけた。レジナリネイ――レジーナは、微睡んだ瞳を瞬くと、コクリと頷いて言った。

「ミモザの精霊・アシュデル、成人前夜、フリージアの精霊・リフラク、暗殺、その直後、風の姫巫女・インリー、会ってる」

「リフラクに暗殺?アシュデルがか?」

リティルの言葉に、レジーナは頷いた。

「アシュデル、死ぬ、直前、インリー、助けた」

「ってことは……今回のあれと同じなのか……?わかった、見せてくれよ、レジーナ」

レジーナは両手をそっと差し出した。リティルは彼女の手を片方取ると、ルッカサンにもう片手を差し出した。ルッカサンは差し出されたリティルの手を取り、片手をシェラに差し出す。シェラも2人に習い手を取り、もう片方の手でレジーナの手を繋いだ。

その途端、意識が、どこかへ引っ張られるのを感じた。

………………………………

 リティルが瞳を開くと、薄暗い書庫のような、本だらけの部屋に誰かが倒れていた。

子供だと認識したとき、彼の姿が薄暗い中鮮明に見えた。

4、5才の眼鏡をかけた幼い男の子――それは、成人前のアシュデルだった。

アシュデルはハアハアと荒い息を吐きながら、白い継ぎ目のない壁に何とか身をもたせかけた。彼の腹には、巨大な虫ピンが刺さっていた。

あれには見覚えがある。フリージアの精霊・リフラクの愛用していた、確実に命を奪う魔法がこれでもかとかけられた虫ピンだ。昔、ペオニサがあれに刺されて、皆で寄って集って治した。インファを激高させ、同時に敗北させた忌まわしい魔法だ。

リフラクの姿はないようだ。あれを使い、生き残る者はいないとそう高を括っていたのだろう。実際にそうだ。あれで刺されて、生き残る力は当時のアシュデルにはなかったはずだ。助かったペオニサも、ただただ運がよかっただけなのだ。

 それよりも、この記憶は、ペオニサがリフラクに暗殺される以前だ。リセットされる前のリフラクは、アシュデルを2度殺したことになるのか……とリフラクを助ける選択をしたリティルは複雑だった。

「アシュデル……?え?え?何、どういうこと?」

カタンと音がして、鈴を転がすような声がした。インリーだ。インリーは慌てたように死にかけたアシュデルに駆け寄ってきた。

「……っ!……抜い……て……!」

「ダ、ダメだよ!抜いたら、死んじゃう!」

オロオロとするインリーに、アシュデルはまだ死にそうにない、生にしがみ付いたギラギラとした瞳を向けていた。

「どうせ……死ぬ……」

アシュデルの言葉に、インリーは瞳を見開き、彼の頭の上辺りを凝視した。彼女には、死のカウントダウンが見える。リティルには見えないが、おそらくあの辺りに何かが見えるのだろう。

「イリヨナ……!イリヨナ!ボクは、こんなところで死ねない!君を置いて死ねない!」動かないインリーに焦れたのか、アシュデルがいきなり叫んで刺さった虫ピンに手をかけた。危機迫る勢いに、インリーは気圧されたのか、呆然と唸り声を上げながら虫ピンを抜く様を見つめていた。抜いた虫ピンを、アシュデルは投げ捨てた。薄暗がりで見えないが、大量の血がアシュデルの服を染めているだろう。見える彼の顔が真っ青を通り越して真っ白だった。

リティルは、幼子が受けるには惨いその仕打ちを見せられて、フラリと体を揺らしたシェラを支えた。シェラにとって、イリヨナと幼少期を殆どの時間過ごしてくれたアシュデルは、自分の子に等しいほどなのだ。リティルは、慈愛に満ちあふれた妻から、静かな怒りを感じていた。

「……イリヨナが、そんなに大事なんだね?」

インリーが呟くように問うた。

「イリヨナ以外、何も、いらない」

あと数分で死ぬというのに、アシュデルの瞳は光を失ってはいなかった。

「そう。わかったよ。助けてあげる」

そう言ってインリーは、アシュデルの両頬に手を添えると、その唇を躊躇いなく奪ってい

た。見開いた瞳から、彼の思考が停止していることが見て取れた。そんなアシュデルの姿が変貌を始める。

成人の日――月の光が、窓から差し込んで、アシュデルと唇を重ねるインリーの姿を、鮮明に浮かび上がらせていた。

「はっ……!」

肩で大きく息をするアシュデルの鋭い切れ長の瞳が、戸惑いに見開かれていた。長く伸びた深緑色の髪が、彼の中年男性へと変貌を遂げた痩せた細い顔を縁取っていた。

細いが、最低限の筋肉のついた、痩せ細っていない綺麗な肉体が、月光の下、一糸まとわずそこにあった。

インリーは、アシュデルの混乱に気がつかずに、腹の傷がキチンと癒えているか確かめていた。そんな彼女の視線が、不自然に止まった。

呆然としていたアシュデルは、それに気がついたのだろう。何気なく、インリーの視線を追って、自分の体を見下ろした。胡坐をかきそこなったように、片足だけ立てたその間に存在を主張するあるものを見て、アシュデルはギョッとして、絶望するように瞳の色を失っていった。

「あ!ご、ごめんなさい!も、もう大丈夫だよ?傷は癒えたから!じゃ、じゃあ、わたしはこれで!」

インリーはバッと立ち上がると、赤くなった顔をそらして一目散に部屋を出て行った。

「――あ……ああ……ああああ!イ……リ、ヨ・ナ……!!」

インリーの去った後も、しばらく微動だにしなかったアシュデルが突然叫んだ。そして、頭を抱えて裸のまま縮こまった。

「ボクは君を……裏――切った……?」

絞り出すような声とともに僅かにあがった顔は、滴るような涙に濡れていた。蹌踉めきながら立ち上がったアシュデルの体を、長い緑色の髪が頼りなげに、隠しきれないが隠す。

「イリヨナ……」

アシュデルの涙に濡れた目が、扉の方を向いたが、何かを思い立ったように苦しげに伏せられた。

「いけない……君に、会うわけにはいかない……ごめん……どう守っていいのかわからない……」

アシュデルが自分の身を抱いて、グッと上を向いた。そして、哀しげに微笑んだ。

「さよ――なら……君の幸せを……願って、いるよ!」

ザアッとアシュデルに影が集まった。

影が去るとそこには、真っ黒な衣を纏った、馬としか形容できない顔をした、腕の異様に長い、大きな手の化け物が立っていた。

その姿は、翌朝、ペオニサが見つけた、呪われたアシュデルの姿そのままだった。

その後、アシュデルはこの姿を理由に、殆どこの太陽に城にある自室から出てこなくなる。

ペオニサもアシュデル本人も、後に彼のこの姿を目の当たりにした皆が、呪われていると思っていたが、これをかけたのがアシュデルだったという事実が、今ここに判明したのだった。

……………………………………………………

「これが、アシュデル様が成人後、女王陛下から逃亡した真相……ですかな?」

記憶の旅から帰ってきたルッカサンが、半ば呆然としながら口を開いた。

「そうみてーだな……アシュデルのヤツ、純情だったんだな……」

「それは、そうなのではないかしら?インリーとキスしたとき、アシュデルは小さな子供だったのよ?そのまま成人してしまって、死を回避されて、その急激な変化が、男の人の、その……生理現象を、ええと欲望……?と勘違いしてしまったのね。記憶を封じ込めたいほどの衝撃だったのね……アシュデル……なんて不幸なの……?」

シェラには、アシュデルのヌードが強烈だったようで、顔を赤らめて、それでも何でもないように気丈にしていた。

「で、なんだか知らねーけど、インリーがこのときかけた魔法が今更解けて、アシュデルが死にかけて、インリーが同じ方法で魔法かけてる場面に、イリヨナとレイシが遭遇しちまったんだな?」

「……あれは……事情を知らない者が見たら、全員勘違いするわ」

「それほどのキスシーンでしたか」

シェラの言葉に、棒読みのようにルッカサンが言った。

「さあ、今からおっぱじめるか!みてーな感じだったな!しかも、アシュデルは花の精霊で、インリーは風の精霊だ。イリヨナは裏切られたと思っただろうな」

インリーとイリヨナは会ったことがない。アシュデルも会ったことがないことをイリヨナは知っていただろうか?知っていたとしても、初対面があの場面だ。自分に隠れて、通じていたと瞬間勘違いしてもおかしくない。いや、イリヨナは見事に勘違いしたのだ。

自分に辛辣なレイシの妻で、1度も会ったことのない姉では、イリヨナはインリーに快く思われていないと思っていただろう。アシュデルとの仲を引き裂こうと、アシュデルに言い寄っていたと瞬間思ってしまっても、誰がイリヨナを責められるだろうか。

「リティル様、女王陛下をお止めできますかな?」

ルッカサンの言葉に、リティルは疲れた瞳を上げた。

「……邪精霊化してるのかよ?」

ルッカサンは頷いた。

「あいつ……そんなに好きなら、番の理なんかぶち壊せよな!運命に抗う風!オレから継いでるくせして。こんなことなら、ルキに会わせておけばよかったぜ」

リティルとルッカサンは、翳りの女帝と幻夢帝が番の関係であることを、故意に隠した。

2人が想い合っていることに気がついたからだ。イリヨナが番以外の精霊を好いたことで、運命を壊したことをリティルは知ったが、念のためにとルキから遠ざけた。

それなのに、イリヨナは知ってしまった。

知ってしまっても、アシュデルを忘れられなかったのだから、そういうことだろ?とは思うのだが、翳りの女帝を全うしようとしているイリヨナは、割り切れなかったのだろう。

「仕方ないわ。アシュデルがいなかったのだから。イリヨナの事だから、ルキに会わせたら番だからと、サッサと婚姻の証を贈ってしまったと思うわ」

「真面目かよ!誰に似たんだよ!」

「あなただわ?わたしなら、心に素直に生きたはずだから」

「それ君が言うのかよ?オレに一方的に離婚突きつけて捨てたくせして」

「あら、あなたが好きすぎて勢い余ってしまっただけよ?インファが討つはずだったロミシュミルを代わりに討って、2代目翳りの女帝となったこと、まだ怒っているの?」

怒ってるのは君だろ?とリティルは思ったが、シェラを1度だけ抱き寄せて放した。

「いや?君のおかげでイリヨナに会えたしな!けど、どうする?イリヨナ、あいつ頑固だからな。邪精霊化してるなら、説得は無理だぜ?」

リティルの言葉に、シェラとルッカサンは俯いた。もっともだと思ったのだろう。

「……何とか、イリヨナから闇の力を引き剥がせれば……」

「ん?光で照らすとかか?」

「そんなことをすれば、イリヨナが灼かれてしまうわ!」

真面目に考えて!と怒りだしたシェラに、リティルは「ご、ごめん……」とタジタジだった。しかし、リティルには茶化したつもりはないのだ。風の攻撃魔法は天才的でも、その他の魔法はからっきしなのだ。

「あのさ、ボクに丸投げしよう!って誰も思わないの?」

その声に、3人は「え?」と耳を疑ってその方向を見ていた。

 見れば、ルキに導かれて、丘をゆっくりと上がってくるアシュデルがいた。その数歩後ろには、俯いたインリーがいた。

「アシュデル!おまえ、大丈夫なのかよ?リフラクの呪いみてーな魔法にやられてたんだろ?」

リティルは駆け寄ると、アシュデルの伸ばされた手を取った。まるで、リティルを確かめるように握ってくる大きな手に、違和感を感じて心配になる。

「ははは、そうみたいだね。それを2度もインリーに封じてもらってたなんて、知らなかったよ。インファ兄に解いてもらったから、もう何ともないよ」

……いつも通りに見えるが、大丈夫だろうか。ルキが一緒ということは、過去と今回の騒動を聞かされているだろう。

「大丈夫だよ。むしろボクが事態をややこしくしたって、反省してるから。マズいなぁ。そうでもないと思ってたんだけど、性欲強いのかも」

……本当に大丈夫なのだろうか。強がっているだけなのでは?と記憶を見た3人はアシュデルを伺ってしまった。

「ルッカサン、ごめん。ボク、もの凄いヘタレだったね」

「いいえ。あなた様は被害者でございます」

「イリヨナと話すよ」

淡々といつも通りに見えるアシュデルが、握る手に力を込めるのを、リティルは感じた。

「しかし……その……」

ルッカサンが珍しく言葉を濁した。

「信用されない行動を取ったのは、ボクだからね。あとのことはルキに頼んだから、任せてよ」

手を握るアシュデルの手が、僅かに震えているのを、リティルは感じた。

ああ、おまえ……もう決めちまったのかよ……?リティルは、強がる彼の手を握り返した。

「アシュデル、あなた、まさか……」

「シェラ様、初めから、そのつもりだったんだ。イリヨナが耐えられなくなったら、ボクと2度と会わない契約するって。イリヨナが、邪精霊になるほどボクのことが好きなんだなって、その気持ちだけで十分だよ。ごめん。ボクはイリヨナの夫にはなれない」

キッパリとはっきりと、アシュデルは言った。その顔に迷いはなく、リティルは唸るように瞳を閉じるしかなかった。握っていたアシュデルの手は、リティルから放されていた。


「まあ頑張って」

ルキはニヤニヤと感情の読めない笑みを浮かべて、アシュデルを闇の城へ送ってくれた。エスコートはルッカサンだ。シェラが来たがったが、闇の力が濃すぎて闇の力に当てられてしまうシェラは却下されてしまった。

「アシュデル様」

「あ、うん。そんなに惜しまないで?ボクは風一家だから、会えなくても、間接的にイリヨナを助けられるよ。そういう仕事回してもらうようにするから」

未練は……彼女の顔が見られなかったことだけだ。心眼が間に合わなかった。あと少しだったのだが、仕方がない。

これも、運命だ。番のある精霊に横恋慕した報いだ。

 ルッカサンは、迷いなく女帝の寝室へアシュデルを導いた。

「!?」

封じたはずの扉が開いていた。なぜ?と思ってしまったルッカサンの動揺が伝わったのだろう。アシュデルが小さく笑った。

「ああ、レイシを捕まえてたでしょう?ルキがコッソリ解放して、何か仕事を頼んだみたいだよ?あなたが動揺するってことは、扉、開いてる?」

「さようです」

「レイシがやってくれたかな?ちょっとは冷静に話せるといいけどね。ここでいいよ、ルッカサン」

「しかし」

「大丈夫。顔の判別は難しいけど、見えるから行けるよ。イリヨナさえわかれば、あとは気配だけで視界はいらないしね」

アシュデルは穏やかに笑っていた。その微笑みに、ルッカサンは言いたい言葉を飲み込むしかなかった。「あなた様が惜しい」引き留めることが、どうしてもできなかった。

ミモザの精霊・アシュデルという存在は、翳りの女帝・イリヨナにとって、政略的にも逃してはならない精霊だ。だが、打算が働かなかった。アシュデルのことも値踏みしていた。だのに、アシュデルという人を、個人的に好ましく思ってしまっていた。

彼となら、イリヨナを助けこの闇の領域を守っていける。そう思うのに、引き留める言葉が見つからなかった。

ルッカサンは、導いていたその手を、放した。

アシュデルは「さようなら」とそう笑い、開け放された扉の向こうへ、見えていると言ったのは嘘ではないとわかる足取りで、ゆっくり臆することなく闇の奥へ行ってしまった。

 こんなに、心穏やかだとは思わなかった。

永遠に会えないんだよ?自問する声がする。

でも、それでも、イリヨナ以外に大事なものは、ない。

「遅い……」

部屋に入ったところで、声をかけられた。顔を向けると、壁に寄りかかって座っている誰がいることがわかった。

「レイシ?瀕死とかじゃないよね?」

「あはははは……そうじゃないから、安心しろよ。霊力使いすぎてへばってるだけだ。イリヨナはベッドだ。ずっと泣いてるんだ」

「あー……わかった。たぶん、もっと泣かせると思うんだけど、怒らないでね?お義兄さん」

「はっ!そんな約束できるか!……あいつのこと、頼んだ」

「うん。任せてよ。それから、これからもよろしく」

アシュデルはレイシには寄らずに、闇の中真っ直ぐにベッドを目指した。

 ねえ、イリヨナ、ボクは君が、好きだよ?彼女は、いつ翳りの女帝が幻夢帝の番だと知ったのだろうか。それを知ったから、ボクを捜さなかった?考えてみれば、行動力のあるイリヨナにしては、臆病すぎた。

かと思えば、いろいろしてしまうアシュデルに「バカ!」と言って止めるものの、嫌がったことは1度としてなかった。

それは、拒めば捨てられてると思っていたからだろうか。

解せない。番がいようといなかろうと、自由恋愛の花の精霊がそんなことで冷めるはずがない。むしろ、番の理で捨てられるのは、アシュデルの方なのに。

アシュデルの耳に、押し殺した嗚咽が聞こえてきた。

手で探ると、柔らかな布らしい手触りがした。ベッドだ。

これだけ暗いと、不完全な心眼は役に立たない。アシュデルは、慎重に手で探りながら気配を探った。ベッドの上に、蹲る小さな山があるのがわかった。

アシュデルはベッドに上がると、遠慮なく覆い被さった。

「捕まえた。逃げないでって、言ったよね?」

「ア――シュ、デル……?」

腕の中で、モゾモゾとぬくもりが動いて、視線が顔を見上げたのがわかった。

「そう、ボクだよ?どうして、泣いてるの?」

イリヨナはフルフルと首を横に振った。

「インリーね、ボクがとある一撃必殺の物理攻撃を受けた現場に居合わせて、助けてくれたらしいんだ。君が目撃したらしいキスシーンなんだけど、封じたはずの一撃必殺の物理攻撃がボクを殺しにかかったみたいで、もう1度封じてくれたらしいよ?医療行為だったわけだけど、それでも、許せない?」

イリヨナは答えなかった。

「君が許せないのは何?何か言って?イリヨナ。言ってくれないと、わからないよ?」

邪精霊化してると聞いてきたのだが、イリヨナはまだ精霊だと感じた。レイシが何かをしたようだが、そんなことで何とかなるようなものだったのだろうか。

気配を探ると、ルキの力をイリヨナの胸元から感じた。形状から首飾りだろう。

負けた気分だ。邪精霊化していたイリヨナを精霊に戻してしまうくらい、相性のいい力なんだと嫉妬してしまう。いや、横恋慕したのはボクの方だ。と、アシュデルは僅かに見えない天井を仰いで、短く息を吐き出した。

「君が疑ってるのは、ボクの気持ち?それとも、君の気持ち?今、ボクがどんなにインリーとは何もないと言ったとしても、君は信じないよね?それはなぜなのかなぁ?」

君が手に入らない人でも、ボクは、永遠に君のものだよ?

幻夢帝・ルキが、翳りの女帝の番だと知ったのは、割と最近だ。それこそ、この目を失う直前だった。越権行為の罪を償う方法を探していたとき、偶然知った。

ルッカサンもリティルも、アシュデルがそれに気がつかないように、故意に隠していたようだった。

知ったときは「番でしょう!?どうしてボクなの!」と思った。勝てっこないと絶望的な気分になったのだが、アシュデルはルキとずっと親交がある。彼が悪夢の王の異名を持つ者だということも知っている。だから、いつか知るアシュデルの絶望を待っていたのか?と思ってしまったが、すぐに違うと打ち消した。彼は、邪精霊化しそうなアシュデルを、ずっと守ってくれていた。言わなかったのは、彼の優しさだ。

「ねえ、イリヨナ……ボクが、君以外の人とキスしたことが許せないなら、もう、ボクは許されないよ」

ルキは、友達で、恋愛感情がないから番だけど、君のこと大事にするならあげるって言ってくれたんだ。でも、君は、苦しむよね?

今回のことと、成人前後のことをルキは口頭で、懇切丁寧に教えてくれた。そして、アシュデルはルキに、そう言われた。アシュデルとイリヨナが添うことを許すと。

「君と過ごした12年間以上に、ボクは君から離れてしまったね。その間に、何もなかったと思う?」

君だけだったよ。移りゆくグロウタースで、色褪せない想いの中にいたのは、君だけだった。どうあっても逃げられなかった。君以外に、ボクの心を、動かしてくれる人は、いなかった。

実の兄と父への怒りと憎しみに塗りつぶされそうだったアシュデルは、イリヨナを想うことで、邪精霊化を食い止めた。イリヨナが心にいて、いったい誰と恋愛できる?

疑わないで。疑わないでよ!と本当は怒りたかった。

「ツアナさんに恋したボクが、本当に彼女にだけ心を動かされたと思う?」

もう、苦しまなくていい。ボクは、君が……

「いたよ?恋人の1人や2人。当たり前でしょう?ボクは、君に会うつもりはなかったんだ。グロウタースでボクも、人間としてそれなりに楽しんだよ」

腕の中のイリヨナの気配が、恐ろしく変わっていく。ルキの力でできた首飾りの石が軋む音が響いた。

これでいい。アシュデルはグッと抱きしめる腕に力を込めた。永遠に、触れることも、言葉を交わすことも、その顔を見ることさえ叶わなくなる。だから、欠けた五感で、覚えていられるだけイリヨナを、覚えたかった。

「「アシュデル……!」」

――ああ、なんて君は……愛しいんだ……。

アシュデルはイリヨナから手を放した。不完全な心眼でぼやけた視界の中で、イリヨナの姿が変貌を遂げる。

見たい……ボクのために醜く美しく変わっていく君の姿が……。それが叶わないことが悔しかった。

「イリヨナ……契約してくれるよね?」

アシュデルの腕から逃れて立ち上がったイリヨナの気配が、ビクッと身を振るわせた。

ここまで来て、それでも躊躇うんだ?アシュデルは嬉しくなった。

イリヨナが、全身全霊で好きだと言ってくれていることが、嬉しくてしかたがない。ああ、なぜ、とても美しい姿をしているだろう今のイリヨナを見ることができないのか、それが悔しくてたまらない。アシュデルは、両手の平にミモザの花を咲かせると、一瞬で消え失せる花の中から1枚の紙切れを取り出してイリヨナの眼前に突きつけた。

「ボクと、一生会えなくなる契約書。ボクのサインはすでに入ってる」

怯むイリヨナの気配に、アシュデルは薄らと笑った。

「君は、幻夢帝・ルキの物だ。一介の花の精霊のボクが、触れていい存在じゃない。両思いの思い出を、ありがとう。3代目翳りの女帝様」

イリヨナが首を横に振った。躊躇ってくれるイリヨナが愛しすぎる。

「ボクに、グロウタースを返してくれる?」

意地悪な言い方だと自覚している。目に、罪悪感をもっている彼女には、逆らえない言葉だ。拒むようだったイリヨナの気配が、再び泣き始めた。それでも、震える手がアシュデルの突きつけた紙に近づいて、指先が、空欄の署名欄に触れた。

「……ありがとう。さようなら、ボクのフェアリア」

アシュデルはサッと契約書を握ると、ベッドの上に立ち上がった。アシュデルの背後に、ルキルースへの扉が開いた。

「「っ!アシュデル……!愛して――いますの!!!!」」

嗚咽にまみれたその言葉を、何度、夢見たことか。

2人指を絡めて、視線を合わせて、言いたかった。

グロウタースを放浪する精霊であるアシュデルは、婚姻の証は左手の薬指に嵌まる指輪にしようと決めていた。

霊力で作るそれは、たとえ目が見えなくても、思い浮かべるだけで具現化できる。デザインもすでに決めていた。

お互い、夜にしか会えなくても、2人で幸せを築けると、この目を賭けるだけで手に入るなら安いと、本気で思っていた。

好きだよ?過去形になんてしない、ならないよ?君はボクの、光――


 越えた扉が閉じて、アシュデルはガクリと両膝をついていた。

「君って、バカだね」

容赦のないルキの、呆れた声がすぐそばでした。

「あげるって言ったよね?別に、番わなくてもサポートくらいできるんだよ?風の王の血を引くイリヨナはもう、こんな錆びた番なんていうものから解放されてるんだ。運命に抗う風だよ?リティルからのギフトだよ?君を好きになったことが、その証拠じゃないか」

上から正論が降ってくる。アシュデルにとって都合のいいそれが、今のアシュデルには痛かった。

「わかってる。そう言って、言いくるめることだってできた。でもね、イリヨナ、邪精霊になるくらい、ボクのことが好きだって言うんだ」

涙が、光を失ったままの瞳から止めどなく流れた。

「イリヨナを狂わせて、傷つけて、やっぱりロミシュミルの欠片から生まれた女だからなって、言わせたくない!」

お互いに心ないキスをしただけで、嫉妬に狂って邪精霊化してしまうイリヨナを、愛故だと見てくれる精霊は少ない。イリヨナはずっと、いつか身を滅ぼすと思われているのだ。

彼女はずっと、冷たい世間の目と、戦ってきた。

彼女とは関係ない無能の女帝の影と、イリヨナはずっと戦わされてきたのだ。そんなイリヨナの頑張りを、アシュデルが壊すわけにはいかなかった。

「嘘つく必要あった?君、インリーとしただけだよね?それも、事故みたいなものだし。

怖いくらいにイリヨナ一筋だよね?これさ、ボクの方が横恋慕なんだよ?こんな番ってある?ないよね?あーあ、こんな嘘の契約書書かせてさぁ?本当に、一生会わないつもり?」

ルキはアシュデルの握っていた契約書を取り上げてニンマリと、感情とは裏腹な笑みを浮かべた。

 ルキは容赦なく、その紙切れを引き裂いた。

こんな物に効力はない。アシュデル土壇場で、この目を取り戻すことを放棄したのだ。イリヨナに、アシュデルから解放されたのだということを思わせるだけでいいのだから、嘘でいいのだと咄嗟に思った。

この目は、アシュデルの未練だ。戻らない視力に、イリヨナを忘れずに済む。それに、心眼を会得してしまえば、目などもう、見えなくても構わない。

ボクは何も失わない。イリヨナへの想いも世界も。そっちの方向で、腹を括ってしまった。

「騙されてくれたと思う?」

「確かめといてあげるよ。ボクの役目は、失恋して傷心のイリヨナにつけ込むことだからね。ああ、契約書は偽物だって、イリヨナにだけは言わないでおいてあげるね」

「ごめん。ルキ、迷惑ついでに心眼の会得、付き合って」

「それには適任がいるよ。ねえ?ナシャ」

「おっひさー!おいらなら、ギリッギリを攻め抜くアシュデルに、付き合ってあげられるよー!あっ、ギリギリアウトも連発かー」

小さな気配がいきなりもう1つ増えた。ルキはお見通しだ。アシュデルが風の城に帰らずにルキルースで心眼を会得し、そのままグロウタースへ行くことを読んでいたようだ。

「あ、でも、目を融解させたら容赦なく抉るからねー?わかってると思うけど、オイラ、ペオニサやシェラ様ほど治癒魔法に長けてないからさー!」

「あ、うん。やり過ぎたら君の好きにしていいよ」

慣れっこだ。あの、馬面の化け物になったあの魔法を解いたときも、ナシャとルキには世話になったのだから。

「君の部屋、残してあるから行っといで。リティル達四天王には知らせといてあげる」

よいしょっとナシャは、アシュデルを支えると立ち上がった。2人の目の前に、歪みが現れる。

「ありがとう、ルキ」

アシュデルは、ゆっくりとルキに背を向けた。

 その背が小さく見えたのは、きっと気のせいではないのだ。そんなに落ち込むなら、手放さなけりゃいいのに。ルキは恋愛感情って不可解。とニヤニヤ笑った。

「ってことなんだけど、どうする?インファ、ペオニサ」

ルキは、廊下へ通じる扉のないアーチへ向かって声をかけた。影の中から、インファとペオニサが姿を現した。2人の表情が硬い。

「ルキ、あなたはどうするつもりなんですか?」

そんな目で見ないでほしいよね。ルキは、恋敵だと認識されていることに、大いに不満を感じた。恋愛感情ないんだけど?と冷静ではいられないインファに、突きつけてみようかな?とも思ってしまった。

「どうもしないよ。聞いたでしょう?アシュデルの視力はそのままだよ。2人の気持ち次第で、もう1度やり直せるよ。ボクも別に、翳りの女帝の霊力なんていらないし、イリヨナにも必要ないと思うけど?ボクの仕事は、サポート」

「インファ、ルキ様は本音だと思うよ?問題なのは、アシュデルの方でしょ!イリヨナちゃん騙して、結局目はそのままなんて、裏切りもいいとこだよ!」

憤るペオニサとは真逆に、インファは元気がなかった。

「アシュデルのせいでは、ありませんよ……。リフラクを殺しておくべきだったと思ってしまいました」

術者の死亡で、魔法は無効化される。今回の悲劇は、起きないはずだったのだ。

「アシュデルの肩、持つね」

これって、逃げたってならない?とルキはニヤニヤと笑った。

「2人に落ち度はありませんからね。あの当時のリフラクは、オレに執着するあまり、ペオニサを目の敵にしていました。アシュデルの暗殺は、ペオニサを追い詰める手段にすぎません。インリーは確かにアシュデルを救いましたが、幼子だった彼には衝撃が強すぎました。あんな手しか使えなかった妹を、叱りたいですね」

インファが怒っている。そんな彼に、ペオニサが苦笑した。

「叱ったくせして。インリーちゃん、可哀想なくらい震えてたよ?アシュデルの暗殺のこと、黙ってたのは確かに悪いけどさ」

「足りないくらいです。インリーの行いが、盤石だったアシュデルとイリヨナの絆にヒビを入れたんです。レイシとの離婚くらいでは、生ぬるいですね」

「え?離婚させたの?レイシと?」

あの兄妹夫婦は始まりからして微妙だが、仲はよかった。故に、弟妹に甘いインファが、夫婦は添い遂げるべき!が信条のインファが、離婚させたことはルキにも驚きだった。インファは真顔で答えた。

「当然です」

「ええ!?待って、オレも聞いてないんだけど!?レ、レイシ!とばっちりじゃない?」

庇うんだ、ペオニサ。と、ルキはお人好しがすぎるペオニサにツッコミを入れたかったが我慢した。どうせ彼は「あいつはいい奴だよ?」としか言わないのだから。

「伝えたはずです。これまでも、王が保護下に入れた精霊を受け入れられずに、勝手な事をしてきた2人です。これを機に、教育し直しますよ。あの2人のことより、アシュデルの事です」

インファの中で、弟妹夫婦のことは終わった事案のようだ。副官モードのインファは冷徹の極みだなと、好きだなとルキは心からニンマリと笑ってしまった。

「ナシャとボクに任せて。大丈夫だよ。アシュデルとボク達は、変身の呪いを解いたトリオだからね」

「そうですか」と会わせてもらえないことに不満を滲ませたインファだったが、色々飲み込んでやっぱり今は引くらしい。その方がいいと、ルキは思う。なぜなら彼等は、アシュデルが実は際どいくらいに過激で、淡々と自分自身に人体実験を施すイカレた魔導士であることをしらないのだから。

今回は、やり過ぎれば瞳が融解するらしい。いったいアシュデルは、心眼の会得までに、何回ナシャに目をくり抜かれるんだろうか?とルキでさえ遠い目をしてしまう。

「君たちは通せないけど、リティルはいつでも訪問していいよ。まあ、会えなくても淡々とグロウタースで暮らしてくから、心配いらないよ」

「……オレも捨てられちゃうのか……」

ペオニサが嘆いた。そこは確かに、アシュデルが薄情に見えるが、ペオニサがインファとくっついているためにアシュデルは遠慮するのだ。

「インファと縁切る気概があるなら、アッシュも考えるんじゃない?」

「切りませんよね?ペオニサ」

「わーお、究極の選択!切らないよ、インファ。そんなことしたら、アシュデルに軽蔑されちゃうし、イリヨナちゃんに烈火のごとく怒られちゃうからさ」

「わかっているのなら、いいんです。ですが、すみません……」

「インファ、背負いすぎだって!」

ペオニサが、俯いてしまったインファに触れずに気遣っている。一途だね。とルキはニヤニヤと笑った。

 ああ、2人には大事な仕事をお願いしなくちゃ。と、ルキは表情の読めないニンマリとした笑みを浮かべた。

「ねえ、2人とも、ボクに協力しない?」

「え?何?」

ペオニサとインファが同時にルキを見た。

「2人をくっつけるんだよ」

「で、できる?」

「それを考えるのは、君の仕事。恋愛小説家・宝城十華先生?」

「か、官能小説家だけど!?」

「似たようなものでしょう?くっついたあとに、入れる入れないって話なだけで。アシュデルは今忙しいから、イリヨナを落とすシナリオ、書いてよ」

「何を企んでいるんですか?」

「企みたいのは、君たちのほうでしょう?アシュデルは翳りの女帝・イリヨナの伴侶に、この上なく適任だったよね?当のアシュデルは、一介の花の精霊だなんて謙遜してるけどさ、ルッカサンやリティルにとって、逃しがたい好カードだったはずだよねえ……?」

ペオニサは「何?何の話?」と話についていけずに、押し黙ったインファとニヤニヤしているルキの顔を交互に見ていた。が、インファはルキをジッと感情を殺した目で見つめていた。

 引かないルキに、インファが折れた。ため息とともにインファは、温かな笑みを浮かべた。

「いいんですね?あなたが愛より友情を取るというのなら、オレは全面的に協力しますよ」

「恋愛感情ないって知ってての言葉かな?雷帝・インファ。端っから、友情しかないんだよ、ボクにはね」

「で、できるの!?だって、番だって……」

「イリヨナにはね、運命に抗う風があるんだよ。それはリティルからのギフトだね。たぶん、リティルは、ロミシュミルにならないためにその風を仕込んだんだろうけど、番の理にだって、きちんと働いてるよ。そうでなくちゃ、イリヨナがずっと一緒にいたからってアシュデルに惚れないよ。番ってね、そういうものだから」

「好きなんだよね?アシュデルのこと」

ペオニサはなぜか自信なさげだった。ルキはフンッと嘲笑った。

「そこ疑う?風の精霊にキスしただけで、嫉妬に狂って邪精霊化しちゃったのに、疑うんだ?それに、疑うのってさ、好きだからなんでしょう?」

「そうだよ!イリヨナちゃん……なんで、疑っちゃうんだよぉ……」

あんなに、尽くしてたし、ベタベタしてたのに!とペオニサは悔しそうだった。彼も怒るんだなと思っていると、インファがサラリと爆弾を投下した。

「あれは疑いますね」

「うんうん。アッシュ、素肌に触らせてたしね」

ルキはちゃっかり乗っかった。ペオニサは面白いように頭を抱えた。

「あああ……アシュデル……なんて迂闊な人!」

「不可抗力ですけどね。やはり、リフラクは暗殺しておきましょうか?」

「あああ……やめて、あの人ホント今、無害なんだよ!兄さん!なんて、語尾にハートマークつけてすっごい笑顔で駆け寄ってくんの!なぁに?リフラク!って抱っこしてクルクル回りたくなんの!ヤバイ!知ってんだぞ?その笑顔の下に、ドス黒い思惑隠してんだろ!ってこっちが黒くなってヤバイ!殺さないでぇインファ!やっとやり直してんだよ!あの人!」

かつて自分を暗殺した人を庇うペオニサに、ルキでさえ引きつった。

「……凄いね……君。知ってたけど、お人好しが暴走してるね」

「暴走してていい……もう、争いたくない。ルキ様、シナリオ、考えてみるね!」

パッと顔を上げたペオニサは、もう笑顔だった。想いに笑顔の蓋をしたペオニサに、インファは優しい笑みを浮かべていた。


 アシュデルは、冷静なつもりだった。

この道を選んだのは、ボク自身だと受け入れていた。

だが、やはり、忘れようと思っても忘れられなかった。

イリヨナ……君の顔が、見たかった…………。

「ストップ!アッシュ、それ以上は目が融解しちゃうよー?」

ナシャの面白がるような声に、ハッとしてアシュデルは慌てて心眼を切った。ナシャがズキズキと痛む瞼に触れてきた。

「融解までいくとさー、オイラじゃ治すのに骨が折れるから気をつけてねー?」

何度目か、もう忘れてしまうくらい繰り返された警告を、再び受けてしまった。

「ごめん。気をつけるから、目玉をくり抜くのだけはやめて」

「ええ?どうしよっかなー?アッシュがオイラの言うことを聞くなら、それはやめてあげようかなー?」

猟奇的な医者であるナシャがついてくれたのは、アシュデルにとってありがたいことだった。彼の意に背いて無茶をすれば、彼は容赦なく目を抉りにくる。それは、融解を始めた瞳を癒やすより、一旦取り除いたほうが少ない力で癒やせるからだ。ナシャは、ペオニサやシェラほどの治癒能力を持っていないため、それが精一杯なのだった。

だが、根気よく付き合ってくれたラスと違って、ナシャは無茶をするアシュデルを止めない。故に、アシュデルは短時間で、メキメキ闇の力を上げていた。

今無茶ができるのは、ラスが慎重に基礎を築いてくれたからだ。それはありがたいが、今のアシュデルは早く心眼を会得したかった。会得して、早くグロウタースへ行きたかった。故に、ナシャはアシュデルにとって、都合がよかった。

ナシャに1つ問題があるとすれば、痛みを与えるように処置してくることだ。さすがに意識を失える。意識を失うということは、貴重な時間を失うということだ。

「はい。霊力回復薬。ああ、そろそろ作らなくちゃなくなっちゃうなぁ。ルキ様としばらく交代――!?リティル!?」

手を取られ、手の平に握れるくらいの瓶が握らされる。それを飲んでいると、ナシャはカチャカチャと魔法薬を確かめ始めた。アシュデルのやり過ぎ防止と治療、魔法薬の生成――何から何まで面倒を見てもらい本当に恐縮だ。

 ナシャとは、このルキルースで知り合い、グロウタースでもちょくちょく会っていた。同じ放浪の精霊で、今や風一家の先輩で幻夢帝・ルキとも繋がりがあるということで、仲良くしてもらっている。猟奇的な医者とはいったが、分別はあって、リティルの意にそぐわないことは絶対にしない。

そんなナシャが飛び上がるように驚いて、ある名を呼んだ。

「はは、驚かせて悪かったな。おまえが監視人なのかよ?ナシャ」

リティルの明るい声に、アシュデルはドキッとした。あれからどれくらいの月日が流れているのか、目の見えない上に、夜しかないルキルースでは感じる事はできない。

何をしに?と思ってしまって、余裕ないなとアシュデルは力を抜いた。

アシュデルは風一家の一員だ。王のリティルが気にかけるのは当然なのだ。むしろ、すぐに来なかったところに、愛を感じるべきなのだ。

「うへ?ああ、うん。ちゃんちゃらおかしいよねー。でもねぇ、アッシュの綺麗な目、2回もくり抜かせてもらったんだよー!」

ナシャは「ほら!」ととても嬉しげに、何やら水の入った瓶を、ズイッとリティルの前に差し出した。その中には、深い緑色の瞳の眼球が、4つ、ユラユラと浮かんでいた。

「この目玉……リャリスがほしがりそうだな……」

リティルはマジマジと瓶の中で揺れる、アシュデルの目玉を見つめた。闇の力に冒された、花の精霊の瞳。いい研究材料になりそうだ。

「でしょ?智の精霊に法外な値段で吹っ掛けるんだー!」

ナシャはいい笑顔で言い切った。

「売れるの!?ボクの目」

アシュデルが声を上げると、ナシャは悪い笑顔を浮かべながら更に言った。

「闇魔法の研究に使えそうだよー?ってことは、君の師匠のゾナにも、売れるかもー?」

「どういう状態なのか見たいなぁ……」

ゾナの名に、アシュデルが見えないことを悔しがった。リティルは、ナシャと仲良くやっているアシュデルの姿に内心ホッとした。様子を見に、実は何度かこの場所を訪れていたのだが、声をかけることを遠慮していたのだ。

大魔導のアトリエと名付けられたこの部屋は、かつて、馬面の化け物として成人を迎えてしまったアシュデルが、変身の呪いを解くために籠もっていた部屋だとルキに聞いた。狭い書庫のような部屋で、扉は、本棚の裏に隠れるようにしてあり、ベッドとそこそこ大きな机と椅子、反対側の本棚の向こうには、ナシャが薬を作る為の器具の揃った作業台があるらしい。

 リティルはいつも、本棚の影から、アシュデルを見ていた。今までは、何となく声をかけられなかったのだ。ナシャもリティルに気がついていて、無視していた。それが、今回はナシャがリティルの名を呼んだために、リティルは声をかけることに決めたのだ。

「あ、ここにも顧客がいたー!ねえねえリティル、オイラさぁ魔法薬作んなくちゃいけないんだー。しばらくアッシュのこと見ててー?」

ナシャはどうやら、2人で話す機会を作ってくれるらしい。

「ああ、見てるだけならな」

「それで十分!じゃ、アッシュ、リティルの前で、目、溶かしちゃいけないからねー?」

ナシャは机の上に目玉の入った瓶を置くと、部屋の奥へと消えた。

 ナシャを見送っていると、アシュデルの思い詰めてような声が名を呼んだ。

「……リティル様」

「ああ」

「すみません……」

こんな謝罪ではすまされないことをした。理由はどうあれ、アシュデルはイリヨナを捨てたと思っている。弁解もせずに、偽の契約書で謀った。

「何言ってるんだよ?おまえの方が傷ついてるくせして、強がるなよな!」

「でも、すみません……」

リティルの明るい声が、いたたまれない。

「なあ、アシュデル、おまえ、心眼会得したら、何が見てーんだ?」

考えた事もなかった。答えに詰まって無言のアシュデルを、リティルは急かすことなく沈黙で見守ってくれた。

「……笑わないでほしんだけど」

しばしの逡巡の後、アシュデルが開かない目の顔を上げた。

「邪精霊化したイリヨナが見たいんだ。考えたんだけど、イリヨナの顔が見たいってそればっかりしか浮かばなくて……振ったのに、未練たらたらだね」

「おまえ、それにしたって、邪精霊化したあいつって、どうして?」

「引かないでほしんだけど、いや、むしろ引いてほしいかなぁ?」

言葉を濁すアシュデルが、どんな爆弾を投下してくるのか、リティルは身構えた。

「イリヨナが邪精霊化したって聞いた時、風の精霊に嫉妬して、感情が振り切れるくらいボクのことが好きなんだって、もの凄く嬉しくて、見えないことが悔しかった。どんな強烈な姿だったのかなぁ?って。今でも気になってるんだ」

リティルは笑うしかなかった。

「ハハハハハ!おまえ、まさか嘘ついたのは、自分のためなのかよ!」

「そうだよ。自分でも驚いたよ。直前まで、本当に一生会えない契約するつもりだったんだ。だけど、泣いてるイリヨナを抱きしめたとき、ああ、無理だって思った。手放せないって、思った。番とか、風の精霊と花の精霊とか、そんなの以前に、ボクのことそんなに好きなんじゃないか!って思った。それで、意地悪したんだ」

「そういや、ルキがレイシにやった黒曜石の首飾り、イリヨナのヤツ壊したよな?あれ、おまえが原因だったのかよ?」

レイシが、決死の覚悟で邪精霊化したイリヨナの首にかけた、ルキの首飾り。あれに込められた夜の力で、イリヨナは精霊に戻されたのだが、アシュデルが去ったあと、ルッカサンに呼び出されてリティルが行ってみると、イリヨナは精霊に戻っていたが、あの首飾りは壊れていたのだ。

「インリー以外に、グロウタースの民の恋人とキスしまくったって嘘ついた」

「はあ?どうしてまた?」

「いや、だって、医療行為のキスに嫉妬してるから、風の精霊じゃないグロウタースの民としたって言ったら、どうなるのかと思って」

「案外悪い奴なんだな、おまえ」

「婚姻結んでる風の精霊に、勝手に敗北したんだよ?君だけだって言ったのに、それを疑われて、正直、哀しかった。番のこともあるし、疑いたいのはボクの方だよ!……イリヨナ、ボクがいなくなってホッとしてたりするの?」

ああ、ヤバイ!笑いが止まらない。

「ハハハハハ!おまえ、そんなんで、グロウタースでやっていけるのかよ?心眼会得したら、グロウタースに行くつもりなんだろ?」

「会えないからね!ボクからは」

拗ねてる!こんな大人な容姿と心をしたヤツが、若い女に翻弄されて、子供みてーに拗ねてやがる!とリティルは腹がよじれそうだった。

「ハハハハハ!イリヨナのヤツ、抜け殻みたいになってるぜ?でも、仕事は完璧なんだよな。ペオニサがちょくちょく様子見に行ってるけどな、帰って来ると、あいつのほうが大丈夫か?って状態だぜ?インリーがやっと責任感じて、謝りに行ってるけどな、ルッカサンが壁になっててイリヨナには会えてねーな」

インリーがイリヨナに闇の城で会えることは永遠にないだろう。どんなに医療行為だ命を助ける為だったと言っても、風と花だ。リティルのことを主とか言っているルッカサンも、風の王夫妻の娘だといってもイリヨナには会わせることはない。謝罪されたところで、取り返しのつかない事態になってしまったのだから。

「ああ、インリーは無理だろうね。ルッカサンはボクのこと、本当に買ってくれてたから。あんまり行かない方がいいんじゃないかなぁ?勢い余って精神崩壊かけてきたら、洒落にならない」

「ああ、それだったら、ルッカサンから苦情が来たからな、インリーは闇の城出禁にしといたぜ?」

「そう。それはよかった。……ってよくない!イリヨナ、抜け殻みたいって何?表面上も強がれないの!?」

食いついてきたアシュデルに、リティルは言った。

「おまえ、もう闇の城凸しろよ」

「それは無理。ルキが行かなかった?それでも何ともならないの?」

「ああ、初対面で振られたって、ルキのヤツ嬉しそうにしてたな」

「何やってるの!?番のくせに!」

だからそれは、無効になってるって言っても、2人揃って信じねーんだよな。とリティルは苦笑するしかなかった。

「まあ、落ち着けよ。仕事は完璧だからな。そのうち冷静になるぜ?おまえは、成人前後のこと思い出したのかよ?」

「……思い出した。あの日のボクを殴りに行きたい。どうして、イリヨナに泣きつきにいかなかったかなぁ?穢された!清めて!って泣き落としで婚姻迫れたのに、勿体ない」

「ハハハハハ!おまえ……だったら、偽の契約書じゃなくて、偽の婚姻届にしとけばよかったのにな!」

リティルの言葉に、アシュデルは面白いようにハッとしていた。

「……考えつかなかった……グロウタース生活長いのに……」

「おまえ、浮気性だと思われてるんだな」

「どうして、そんなこと……」

「そりゃおまえ、グロウタースで人気あったからな。それくらいの情報収集、ツアナならしてるぜ?そんなおまえが、グロウタースの民の恋人とよろしくしてたなんて言ったら、おまえしか知らねーイリヨナは、コロッと騙されるぜ?」

「………………ボクは、グロウタースでモテたことないんだけど?」

「ハハハハハ!そう思ってるのは、おまえだけだぜ?おまえ、笑うと妙に色っぽいんだよ!盲目になって、色気倍増だってインジュが、どうしてだか喜んでたんだよな」

「!?知らなかった……ボクもちゃんと花の精霊だったんだ……」

「そうだぜ?グロウタースに戻るなら、気をつけろよ?おまえの弟子達が苦労するからな!」

アシュデル作の特殊中級精霊達。ペオニサとインファが事情を説明してくれているため、グロウタースにあるアッシュの店は現在すべて閉じている。

巨人の捻れ角島にいるミモザが、なぜか早く落ち着いてくれと、ことある事に言ってきたのだが、アシュデルが無意識に惑わせていた結果らしい。そういえば、ミモザだけではなく、他の場所にいる弟子達も、アシュデルがフェアリアを手に入れたと知って、どこかホッとしていたことを今更思い出した。

「……別れたって言ったら、弟子達に絶望されそう……。ただでさえ、盲目になって迷惑かけるのに……」

「見限られたらどうしよう?」と、アシュデルは、作られた特殊中級精霊がそんなグロウタースの民のようなことはできないはずなのに、わりと本気で困っていた。

「それなんだけどな、レイシが、おまえと一緒にグロウタース行きてーって言ってるんだよ。連れてってやってくれねーか?」

「え?どうして彼が?」

それは疑問だろう。レイシは養子とはいえ風の王の第2王子なのだから。

「見聞を広めたいんだってよ。あいつ、インファに離婚させられたからな。城防衛勤務のインリーから離れてーんじゃねーのか?」

「え!?離婚って、どうして?」

アシュデルが飛び上がった。

「ざまあ見ろって思わねーおまえは、ペオニサの弟だな」

「そんなことより、リティル様!今回のことは、忘れてたボクと、番の理で疑心暗鬼になったイリヨナのせいだよ?あの2人のちょっかいなんて、ちゃんと向き合ってたら、揺るがなかった…………ああ……ボクって今更だよね……」

ガクッとアシュデルは、立てた両膝に顔を埋めてしまった。

「あいつらのことは、おまえらのせいじゃねーよ。いい加減インファも、腹に据えかねてただけだ。あのまますんなりおまえらがまとまってても、離婚は最低させられてたはずだぜ?」

「期限付き?」

アシュデルは顔をあげないまま問うてきた。

「あいつら次第だな。レイシがグロウタースへ行けば、新しい恋を見つけるかもしれねーしな」

「ボクは、受けるべき?」

「ああ、受けてくれよ。インリーも、自分を見つめるいい機会だぜ?風一家にとって、伴侶ってヤツは、最大の理解者じゃなくちゃならねーんだ。それこそ、一蓮托生でいてもらわねーと困るんだよ。インリーがしたことは、結果的におまえを助けたけどな、レイシに対しては裏切りだ。精霊の婚姻は、ワンナイトラブのほうが当たり前だろ?オレ達風一家が異端なんだよ」

正直、インリーがここまで子供だとは思わなかった。何が医療行為だ!それは、治癒師として名の通っているペオニサだから許される力業だ。それだって、ペオニサへの信頼あってこそだ。1度も会ったことのない相手にするものではない。

「ボクは……イリヨナと婚姻結ばなくて、よかった……」

「そんなおまえだから、イリヨナを選んでほしかったよ」

「どうして?ボクがしたことは、インリーと大して変わらないよ?」

「そう思うか?インリーは自己満足だぜ?しかも、オレへの反逆だ。考えてもみろよ!おまえとイリヨナの婚姻は、おまえらの成人以前から、決定事項だったんだぜ?ルッカサンとオレとの間で、すでに話はついてたんだ。それを、ぶっ潰したあげく、時限爆弾まで仕込んでたんだ。やっとおまえらがまとまりかけて、ホッとしたオレとルッカサンの怒りがわかるか?あの時、レイシにでも話してくれてたら、レイシはインファに絶対に報告したはずだ。そうしたら、インファは、リフラクの虫ピンを攻略できてたぜ?そうしたらどうだ?そのあとで起こった、ペオニサの暗殺も阻止できた。ペオニサは、あんなに長期間苦しまなくて済んだんだぜ?おまえな、怒っていいんだぜ?インリーを許さなくていいんだぜ?」

「………………え?ま、待って待って!?成人前からボクとイリヨナの婚姻が決定事項だったって、何?」

「おまえ、話聞いてたか?インリーがいかにバカ娘か話してたんだぜ?」

「ああ、それはどうでもいい。それより、番を無視して、イリヨナがどういう精霊になるかもわからない中、そんな話が決まってたの?それって――」

「完全なる政略結婚だな」

「どうして!?ボク達精霊だよ!?」

アシュデルは面白いくらい絶句した。こいつでもわからないものなんだな?リティルは思ってしまった。

「わからねーか?聡明な大魔導も、恋は盲目なんだな?」

「うっ……それは……でも、ボクは一介の花の精霊だよ?幻夢帝と比べたら、力も何もかも翳りの女帝に釣り合わないよ?それなのに、どうして?」

「おまえに繋がってる精霊達だよ。おまえ自身も、イリヨナの幼なじみで、イシュラースの三賢者、時の魔道書・ゾナに師事した大魔導だ。それから、風の王・リティルと兄弟の契りを交わしてる花の王・ジュールの息子だろ?ジュールはイシュラースの三賢者の筆頭で、賢魔王の異名を持つ元5代目風の王で、智の精霊・リャリスと牡丹の精霊・ペオニサの父親だ。リャリスは風の王の補佐官、煌帝・インジュの妃で、イシュラースの三賢者の次席。ペオニサは、百華の治癒師の異名で呼ばれてる、イシュラースで2番目に高い治癒能力を持ってる、雷帝・インファの友人だ。2人とも風一家で、おまえとは仲のいい兄弟だな。大物揃いなんだよ」

「それが、どうかしたの?」

これでもわからないのか?リティルは焦れた。

「精霊達は安定がほしいんだ。オレもだけどな。イリヨナはオレの娘で賢帝だけどな、生まれがスキャンダラスだ。それに、1元素の王だからな、領域運営は王に任されてるだろ?踏み込みすぎたら、世界の刃のオレでも越権行為だ。罰は受けねーけどな。他の領域に示しもつかねーし、風の城が毎回介入するわけにはいかねーだろ?失敗できねー割に心許ないんだよ。そこにおまえが王配としてくっついたらどうだ?イリヨナが危機に陥れば、おまえの背後にいる精霊達が気兼ねなく介入できる。しかもだ、おまえは今、風一家だ」

「リティル様が動けなくても、一家を管理してる副官のインファ兄が動けるんだ……」

「イリヨナは、精霊達に認められてる。あいつの失脚を願うバカは、そうはいねーんだ。それが、恋愛結婚してみろよ!オレ達風一家が目立ってるせいか、精霊達は愛を理解しはじめてる。それはそれは、盛大に祝福されただろうな」

「えっと、もしかして、ボク達の破局は伏せられてたりするの?」

「ああ。オレはまだ、諦めてねーな?」

「ど、どうして?」

「そりゃ、おまえが一生会わねー契約しなかったからだよ。オレはな、アシュデル」

リティルはアシュデルをジッと見つめた。心眼は完成されつつあるようだ。僅かに、彼から見返す視線を感じるような気がする。

「おまえの未練に、漬け込む気満々なんだよ」

「……いいの……?それで……」

「むしろ、どうしてダメだと思うんだよ?これだけ娘の事思ってくれてるヤツは、おまえ以外にいないぜ?嫉妬ってヤツは、醜い感情じゃねーのかよ?それに狂って、邪精霊化までしちまったのに、おまえ、喜んでる上に、その姿を見逃したって悔やんでるんだぜ?合格だろ!風一家の夫婦はそうでなくちゃな」

狂ってるくらいがちょうどいいんだよ。と、リティルは言い切った。

「イリヨナが……許してくれないよぉ……」

「大丈夫だぜ?何とかしてやる」

「ホントに……?」

本当に、諦めなくても……いい?言えなかったアシュデルの言葉を聞いて、リティルは満足そうに笑った。

しかし、風の王として、問わねばならない。

「アシュデル、おまえ、どうしたい?」

アシュデルは、1度うつむき、そして顔を上げた。

「イリヨナが……」

そう言いかけて、アシュデルは首を横に振った。

「ごめん…………その望みを言うわけには、いかない」

「……わかった。また、来るな」

リティルは部屋を後にした。

「イリヨナがほしい」そう言いかけて、はたと口を噤んだアシュデルが何を思ったのか、リティルにはわかった。

イリヨナが、今もアシュデルを望んでいるのか?彼はそう思ったのだ。政略結婚の話をされ、おまえの未練につけ込むと言われたアシュデルは「イリヨナがほしい」と言ってしまったら、彼女の心が無視されると咄嗟に思ったのだろう。そういうおまえだから、ほしいんだよ。土壇場で、イリヨナにとっての最良を選択しようとするアシュデルは、放浪の精霊だとしても、イリヨナの父親としてのリティルには価値がある。

「おまえを落とすぜ?アシュデル」

アシュデルは自分の知らないところで、リティルに宣戦布告されたのだった。


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