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三章 闇の中藻掻く

 気持ち悪い……気持ち悪い……ここから……ここから出して……!

真っ暗で、どっちに行ったらいいのかわからない

「おまえ、何やってるんだよ!」

ああ!何も、何も見えない……!

「聞いてるか?しっかりしろよ!」

うああああ!

「おい!アシュデル!アシュデル起きろ!」

今、叫んだだろうか。

体を起こした感触はあるが、視界はやはり真っ暗なままだった。しかし、何か、気持ちの悪い場所からは抜け出したようだった。

自分の乱れた息遣いが、耳に五月蠅いくらいに聞こえてきた。躍る心臓の鼓動も感じられた。

「アシュデル、大丈夫ですか?」

そっと触れてきた手の感触に驚いて、瞬間払ってしまった。しかし、今度は手を両手で包み込まれる感触がした。

「アシュデル、ゆっくり息をしてください。大丈夫ですから」

「インファ……兄?」

安心させるように優しい声色だった。この声は、インファだ。

「ええ、オレです。夢を見ていたんですか?」

夢?思い出せないが、誰かに「起きろ!」と怒鳴られた気がする。あれは、知っている声のような気がしたが、誰だったのか……。

「無理に思い出す必要はありません。どこかに違和感はありますか?目は、痛みませんか?」

「え?うん……大丈夫、どこにも違和感も痛みもないよ。……ごめん、ボクは死にかけた?」

顎に、汗が垂れるのを感じた。それを手で拭おうとすると、そっと柔らかなモノが押し当てられた。どうやら、誰かがタオルで拭ってくれたらしい。

「見事にね!詳細聞きたいか?」

叱る声が降ってきた。ペオニサだ。

「いい。とんでもないことになってたことくらい、想像つくから。ありがとう、兄さん」

「ホントにおまえ……!助けられてよかったよ!」

ガバッと抱きつかれて、危うくベッドに倒れる所だった。

「な、いてる?兄さん、そんな状態だった?」

「ペオニサかシェラでないと、助けられなかったね。どう?何か見えた?」

苦笑交じりに落ち着いた声がかけられた。ラスだ。

「ボンヤリした、人影……かな?」

「それは、無茶したね。少し、心眼使ってみようか」

ラスの言葉に、ペオニサの体温が離れていった。

「えっ!?ラス、大丈夫なの?」

「大丈夫、オレがいるんだ。無茶なんかさせない」

「わーお、心強い。アシュデル、怪我してもすぐ治してやるから、やってみなよ」

ペオニサとラスに促され、アシュデルは瞼の裏の瞼を開くイメージを思い浮かべた。

途端に、眩しい光に目が眩んだ。あまりの眩しさに、ビクッと体が震えてしまった。そっと、誰かの手が両目を覆うように触れてきた。

「眩しいよね。しばらくそのまま堪えて……どうかな?落ち着いてきた?」

「うん。眩しくなくなってきたよ。でもこれ以上見えそうにないなぁ」

ラスの手が離れ、アシュデルは緊張を解いた。途端に視界は闇に沈んだ。

「上出来だと思うよ?死にかけたおかげで、大分進んだね」

「あと何回死にかければ会得できるかな?」

「そんな冗談言えるなら、もう大丈夫だな。はあ……ホントにもお!」

ペオニサに乱暴に頭を押さえられて、グリグリ撫でられた。

「ごめんごめん。ちょっとカッとなって」

「……状況は聞いた。おまえ、レイシを嫌ってる?」

ごめん、眼中にない。だが、レイシの兄であるインファがいるここで、そんなことは言えない。

そもそも、肉弾戦が得意で十代のレイシと、生粋の魔導士の中年アシュデルではどう接点を持ったらいいのかわからない。幼少期も会話らしい会話はした記憶がないくらいだ。よく顔を合わせていたが、その当時からおそらく合わない人だったのだろう。

「ボクが嫌われてる方だと思うけど?イリヨナが大事なら、乱暴はするべきじゃない。見えないことが歯痒かった……心配かけて、ごめん」

レイシは、イリヨナを気にかけている。それは疑いようがない。なのに、あの態度だ。イリヨナも、レイシに嫌われてると未だに思っている。

だが違う。アシュデルは、レイシに目をつけられたのは、イリヨナに触れられる男だからだと思っている。婚姻を結ばないことに苛立っているのか、イリヨナがこんなおっさんの物になるのが許せないのかわからないが、レイシが持っているのは兄妹の情だ。

「おまえもさぁ……あれはないぞ?正直言って」

ペオニサの声が呆れていた。あれとは、所有印のことだと察した。

「わかってる。ボクも驚いた」

「レイシはさ、十代だから刺激強すぎたね……。しかも、婚姻前だし」

ペオニサが盛大にため息をついた。どうやら、イリヨナの様子を見に行ってくれたらしい。

「反省してる。無意識だったことも含めて。イリヨナには夜一緒に寝るなって言わないと」

「それは了承しかねます」

これ以上は、自分を信用できないアシュデルだったが、インファに却下されてしまった。

「え?ボクの理性ポンコツだよ?無意識だったんだよ?」

「そのようですが、イリヨナには、夜のあなたの監視をしてもらいます」

「え?どうして監視?」

「うなされているようですので」

たしか、そんなことをイリヨナが言っていた。だが、そんな深刻なことだろうか。アシュデルは解せなかった。

「覚えてないけど、それでも?」

「ええ。愛する者のぬくもりは、それだけで心が救われます。そばに置いておいてください」

あの日、イリヨナを求めた理由を思い出して、アシュデルはどうすべきかを考えあぐねいた。

恐怖だ。恐怖を感じて、イリヨナのぬくもりを求め、それで暴走した。無意識だったのに、寝ていたイリヨナを起こさず触りまくるだけで済んだ自分を褒めたい。いや、褒められたものではないが……確かに、イリヨナがいてくれない夜は怖い。

「………………所有印って、治癒魔法で消える?」

せめて、イリヨナが恥ずかしくないようには、しないといけないと思った。無体を働かないのが1番いいのだが、無意識を止める術はさすがに思い付かない。

「え?試したことないなぁ。そもそもオレ、つける相手いないし。あ、インファ、セリアにつけてよ!それ消えるか、翌朝試すからさ!」

え?何言い出すのこの人。アシュデルはペオニサの提案に唖然とした。

「いいですが、セリアが許してくれるかが問題ですかね」

平然と「いい」と言うインファに、アシュデルは更に唖然とする。

「アシュデルとイリヨナの為だって、言いくるめてよ!セリア、2人のこと気にかけてくれてるし、行けるって!」

え?まだ押すの?セリアはハキハキした細かいことは気にしない美人だが、確か、照れ屋だったとアシュデルは記憶している。そんな提案をして、インファは殴られないだろうか?アシュデルは心配になった。

「はあ。聞いてみますが、期待しないでくださいよ?」

「聞くの!?そしてインファ兄つけるの!?」

断らなくていいの!?というか、別に相手につけなくても自分につければよかった!とアシュデルは驚愕の中気がついた。

「そういえば、つけたことはありませんでしたね。ところで、どうやってつけるんですか?」

あ、知らなかったんだ。インファ兄らしいなと、アシュデルはなぜかホッとした。

「え?えっと、こうやって、柔肌に吸い付くんだよ。女の子は柔らかいから、つきやすいんじゃないかなぁ?あ、インジュにつけてみよっか?」

だからなぜそうなる!自分につけて自分で治癒魔法かければいいのに!わけもわからず「キスマークつけさせて!」と言われるインジュを想像して、いたたまれなくなる。

「ペオニサが?」

笑いを堪えながらラスが問うた。この人、絶対気がついてる。とアシュデルは傍観姿勢を崩さずに、楽しんでいるらしいラスの声色に思った。

「うん。つきやすそう!一緒に風呂入ったことあるけどさ、華奢なんだよねぇ。親父には貧弱だって言われてたっけ」

え?兄さんはどうしてこう、数々爆弾を投下するのだろうか。と、アシュデルは耳を疑った。

「ジュールとインジュとあなたですか?どういう状況ですか?」

ボクも知りたい。インファの困惑気味な声に、アシュデルも切実に思った。

「あー……たまたま、成り行き?戦えないオレが1番いい体してるって言われたなぁ」

「ああ、ペオニサはガッシリしているね」

服の上からでもわかると、ラスが同意した。

「インファとノインとは、くれぐれも一緒に入るなってさ」

何その警告。アシュデルは首を傾げた。それは、インファも同じだったようだ。

「はい?なぜですか?」

「召されるから」

「召されるんですか?」

ペオニサの答えの意味が理解できなかったような、キョトンとしたインファの声がする。

「無茶苦茶いい体してるって聞いたんだよ!オレから見れば、インファも華奢に見えるけどねぇ。そんなに凄いの?」

半信半疑なペオニサの声。きっとインファは困惑しているだろうなと、アシュデルは思った。

「見てみる?」

ラスがまたしても、笑いを堪えながら短く問うた。

「え?」

ペオニサの注意がラスに向くのを感じた。

「アシュデル、汗流したいんじゃないかと思ってね」

ラスの視線を、アシュデルは感じた。

「ああ、大分うなされていましたし、当然汗もかいていましたね」

インファの視線もアシュデルの方を向く。

「え?え?待って。ボク見えないんだけど」

これ、嫌な予感がするんだけど……。アシュデルは微妙に焦りを感じた。

「3人なら洗えるね」

ラスが、たぶん控えめな笑みを浮かべて言った。いや、笑いを堪えているかもしれない。

「洗えるねぇ」

ペオニサがラスに同意する。

「洗えますけど、どうします?」

インファが問うてきた。

「どうって……それは、サッパリしたいけど……」

これは本当だ。全身が気持ち悪い。

「じゃ、決まりだね?」

ラスの声。

「行こっか」

動き出すペオニサの気配。

「行きましょう。アシュデル手をどうぞ」

「え?あ、はい」

アシュデルはインファに腕を掴まれ、背中を支えられて、ベッドから降りると「風呂だー!」と騒ぐペオニサと笑うラスと共に、風の城の大浴場に連れ込まれたのだった。

大浴場では、見えないことが悔しいほどの盛り上がりだった。

判明したのは「インファは体も芸術品!」ということと「ペオニサは無駄に戦えそう」ということと「ラスが1番バランスいい」ということだった。

そして、アシュデルは

「おまえ、ホントに引き籠もり魔導士?てか、ガリガリのモヤシだと思ってた!」となぜか驚かれた。いや、ガリガリのモヤシでしょう?とアシュデルは、解せなかった。そして、早く心眼を会得しよう。と、心に強く思ったのだった。


 アシュデルがペオニサ達に全身丸洗いされて、仕事に行くと言ったインファとペオニサと別れ、ラスと部屋に戻ると、部屋の中に気配があった。

「誰かわかる?」

扉を開けながら、ラスが問うた。アシュデルは頷いた。

「リティル様」

「はは、正解。風呂は気持ちよかったか?」

リティルの気配が立ち上がったのがわかった。目覚めてから、神経が研ぎ澄まされているのか、気配だけでなく、大きな動きなら相手の動きがわかるようになっていた。

「うん。見えないことが悔しかったよ」

「ハハハハ!よかったよ。おまえが元気になって」

ラスは、ベッドまで導いてくれた。手元を確かめ、アシュデルは自分でベッドにあがった。その傍らの椅子に、ラスとリティルは腰を下ろした。

「なあ、おまえ、レイシのことどう思う?」

「……また、レイシなんだ。どうしたの?あの人は、昔からあんな感じだよ?」

ペオニサも彼の事を聞いてきたが、それは、アシュデルが会ったことのない『あの人』と関係あるのだろうか。

「ボクははっきり言って、眼中にない。いつも苛立ってるような人と関わろうとも思わないし、年も違いすぎる。ボクは所詮、放浪の精霊だし、これからも関わることはないと思うよ?今回のことは、ボクが勝手に窮地に陥っただけでしょう?あの人はただ……」

なんだ。やっぱり変わってないじゃないか。アシュデルは唐突にそう思った。

 レイシは幼少期、よく闇の城に来ていた。

翳りの女帝という闇の精霊だが、イリヨナは闇を薄くして、光を呼び込むことができる。光と闇は背中合わせの力とは言ったもので、闇を薄くすると光が透けて見えるのだ。それは、雲が太陽を隠すことに似ているのだが、光しか扱えないアシュデルにはいまいちよくわからなかった。

だが、闇を薄くしすぎると、強烈な光に灼かれるという事故が起きる。イリヨナがコントロールを誤ると駆けつけてくれていたのが、初代太陽王との混血であるレイシだったのだ。

彼は太陽光を操る、混血精霊なのだ。

「はあ、焦った……。おまえ、いつまでポンコツなの?安全対策してからやれよな!」

頭ごなしだが、もっともだと思いながら、イリヨナが叱られるのを見ていた。

レイシはくどくどは言わずに、一刀両断すると不機嫌に去って行く。そのあとフォローに現れるのが、夕暮れの太陽王・ルディルだ。

闇の領域は太陽の領域の隣で、風の城と太陽の城は大鏡に仕込まれたゲートで行き来できるとはいっても、それなりに時間がかかる。ルディルの方が早く来られるだろうに、レイシの方がいつも早い。

「レイシはただ、イリヨナを心配しただけでしょう?それは、問題なの?」

言ってみれば、ただ乱暴なだけだ。好きな子に意地悪してしまって、横から掻っ攫われるタイプだと思う。

「ねえ、ボクの知らない気配の人はいったい誰なの?レイシをどうしたの?今、城にいないよね?リティル様、あの人は、ボクの知る限り変わっていないよ」

イリヨナを傷つけるレイシに、何も思わないのか。そんなことはない。好きか嫌いかの二択で言ったら、間違いなく嫌いだ。

だが、消えてほしいくらいかと言われれば、そんなことはない。イリヨナは翳りの女帝でこの風の城に暮らせない。アシュデルも放浪の精霊で、一家の一員だが、風の城にいることはまずない。お互いに、距離を保てばそれでいいはずだ。

「リティル様、ボクは太陽の城に行こうか?ボクがいることで、不和を産むのは本意じゃない」

「それは、許可できねーよ」

リティルは短くキッパリ言った。

「アシュデル、オレが今選べるのはおまえの方なんだ。それにな、この城に、風一家でいるたった1つの決まり事があるんだ。それがなんだか、わかるか?」

たった1つの決まり事?それは、死なないという事ではないのだろうか。答えられなかったアシュデルの代わりに答えたのは、ラスだった。

「風の王・リティルの決定に、意見しても、絶対に受け入れて従うことだよ。リティルの決断は絶対だ。それを覆したいなら、リティルを説き伏せる。それが、風一家の暗黙のルールだ」

「それ、当たり前なんじゃない?」

死なないことと同じくらい、当たり前のことで、それはルールと言えるのか?とアシュデルは首を傾げてしまった。

「はは、そうだな。当たり前だな。リーダーのいうことを聞けなきゃ、組織は崩壊しちまうからな」

本気で首を傾げるアシュデルに、リティルは笑った。

「レイシは、ボクに対して接近禁止令でも出てたの?」

「いや?おまえは軽くあしらうと思ってたからな、オレは動いてねーよ。インファは心配して、この部屋にレイシが入れない結界をかけてたみてーだな?」

なに?それはおかしいなぁ。アシュデルはリティルの言葉に話がいよいよきな臭い方向へ向くのを感じた。

「……入ってきたけど?」

「そうなんだ。それでこのザマだ。あいつの結界魔法は、風の城で3番目に強えーんだよな」

「リティル様……」

「オレがここに来た理由、わかったか?」

「狙われてるのはボク?それともイリヨナ?」

「わからねーな。でもな、どっちでもいいんだ」

変わらないリティルの声色に、アシュデルは焦りを感じた。

「リティル様!ボクもイリヨナも、この城に関わらない!」

「おまえだけじゃねーんだ。これまで、被害に遭ったヤツはな。オレの決断は、遅かったくらいだな」

そんな前から……?アシュデルは、それで皆が慎重だったのかと理解した。今の今まで、一家の中でも身内すぎるほど身内だからだと思っていたのだ。

「リティル様、その人を……処分するの?」

「……アシュデル、おまえ、成人したとき、本当は何があったんだよ?」

「え?」

問い返されてアシュデルは戸惑った。

「おまえに、変身の呪いをかけたのは誰だったんだ?化け物の姿にされて、それでイリヨナに会えなかったことは、百歩譲って納得してやるぜ?けどな、変身の呪いを自力で解いた後、どうしてイリヨナから逃げたんだ?年上になったから?恋愛感情を持っちまったから?おまえ、そんなもの理由にならねーくらい、昔からイリヨナ一筋だったよな?あいつが幼女のままでも、おまえはイリヨナから離れられねーくらい、あいつの物だった。誰だ?おまえを脅したヤツ。イリヨナの命でも人質に取られなきゃ、おまえが、化け物になったり恋愛感情抱いたくらいで、あいつから離れられるわけねーんだよ!」

リティルは何を確信しているのだろうか。声を荒げる風の王に、アシュデルは戸惑うことしかできなかった。

「何を――」

「アシュデル!おまえの心に恐怖を植え付けたのは、誰なんだ?」

「……わからない。ボクも誰だか教えてほしいくらいだ。ボクが違和感に気がついたのは、視力を失ってからだった。イリヨナがそばにいるようになって、幼少期のことをよく思い出すようになって、それで気がついたんだ。リティル様が言ったように、ボクは、成人したらイリヨナに仕えるつもりだった。王配か、騎士か、お抱え大魔導か、ただの話し相手でも、友達でも、肩書きなんて何でも良かった。やっと成人して、イリヨナの力になれることが嬉しかった。その心が、成人したら恐怖に変わってた。イリヨナのそばにいてはいけない。その想いだけで、理由はわからなかった。いろいろ理由をつけたけど、理由なんてなかったんだ」

「リティル、もう、教えてもいいんじゃないのか?」

アシュデルの返答を聞いて、ラスがリティルを伺った。しかし、リティルはここへ来てもまだ慎重だった。

「憶測だけで、証拠はまだ何もねーよ」

「アシュデルが、それで暴走すると思う?オレなら、今回の事案、アシュデルを加えるよ?」

渋るリティルと買いかぶるラス。アシュデルは黙ってしまったリティルを案じた。

「どうかな?ボクはそんな大人じゃないよ。今だって、自制がまるできかないし」

「君は目が見えなくても、足手まといなんかじゃない。聞いてほしいんだ。花の精霊である、君に」

花の精霊である君に。アシュデルもとっくに、会ったことのない精霊が誰なのか、わかっていた。だから、ある意味どうしていいのかわからなかった。

「……怖いなぁ」

「そう言わずに、聞いてほしい」

「冗談だよ。ラスの頼みを断るわけないでしょう?リティル様、誰の悪意だと思ってるの?」

「……風の姫巫女・インリー。オレとシェラの娘で、レイシの妻だ。おまえが今まで1度も会ったことねーヤツだよ」

やっぱり。慎重になるわけだ。レイシと違って、インリーは正真正銘風の王・リティルの娘だ。その彼女が、今回に限らず、王の決定に背いている?しかも、夫であるレイシも一緒に?インリーは立場上、レイシを諫めなければならない立場であるのに、率先しているとしたら……それは、許されることではないだろう。

「……ボクも知りたくなかったのかもね。イリヨナがインリー姉様って話題に出すから、知ってるような気がしてたよ。そう言えば、顔も声も思い出せない」

「オレの憶測が正しければ、イリヨナも会ったことないはずだぜ?」

「!?それって、ちょっと……レイシはそのことを知ってるの?」

今、レイシといい関係とは言い難いが、彼はイリヨナを受け入れようと葛藤していた。それすら怠る風の精霊って……と、アシュデルはやっと事の重大さを認識した。

レイシと違って、インリーはイリヨナと血が繋がった姉妹だ。血が繋がっているから仲良くしなければならないわけではないが、イリヨナの人となりを見もしないで拒絶したとすると、それは、彼女が風の王の娘であるが故に、反逆ととられてもおかしくない。

「それもわからねーな。悪いな。巻き込んじまって」

この人って優しすぎないかなぁ?心底すまなそうなリティルの様子に、アシュデルは苦笑した。

「リティル様は忘れてるみたいだけど、ボクは風一家の一員だよ?女帝の夫になる予定だけど、まだ所属はリティル様の配下だよ?今、こんなで、役立たずだけど」

「役立たずじゃねーから困るんだよ。ゆっくり養生させてーんだぜ?どうして、怪我人引っ張り出さなけりゃいけねーんだよ!情けないぜ……まったく……」

「ハハハ。ねえ、レイシに会えない?」

「いきなりグイグイ来るね」

「聞きたいことがあるんだ。ラス、嘘とか見抜ける?」

「たぶん」

「じゃあ、レイシに真意を聞いてみようかなぁ?」

「真意って、何聞くつもりなんだよ?」

「ボクに怒ってる、本当の理由。かな?」

アシュデルは、口元に笑みを浮かべた。


「アシュデル!」

バンッと扉が開かれて、愛しい声が名を呼んだ。タタタタっと走る音と気配が近づいてくる。そして、ベッドの上に座っていたアシュデルはぶつかってきたぬくもりに包まれた。

「――イリヨナ」

小さな体を、アシュデルは両手で強く抱きしめた。

「アシュデル!アシュデル……よかった……」

途端に泣き出した彼女の頭を、ぎこちなく撫でる。

「イリヨナ……ごめん……何があっても、君を離せない……」

呪いの様な恐怖があっても、こうやって腕の中に収まってくれる彼女を、どうして手放せる?

「君の命が散るなら、ボクも一緒に……」

「逆ですの!」

イリヨナが、グイと強引に閉じ込めていたアシュデルの腕を押し開いた。

「アシュデルが散ってしまうのなら、私も共に逝きますの!役目とか、あなた以外の誰かが悲しむとか言わないでくださいですの。あなたがいなくなるのなら、私も共に逝きますの。そして、生まれ変わったあなたの魂を探し出すのですの!」

アシュデルはゆっくりとイリヨナの顔に手を伸ばした。イリヨナはその手を取ると、自分の頬に押し当てた。

「ハハハ……そんなこと言われたら、死ねないね。どうしてそう、男前なの?」

「アシュデルが愛してくれましたもの。好きの形が変わっても、私は、幼少期からずっとアシュデルが好きですの!怖がらずに、遠慮せずにぶつかっていればよかったと、後悔しましたもの。もう、遠慮しないのです!」

そう言ってイリヨナは唇を重ねてきた。

 今は、夜だっけ?昼間だっけ?押し倒していい時間だっけ?迷ったアシュデルは仕方なく、口づけに答えるだけにしておいた。のだが

「――ちょ……イリヨナ!ど――」

「こ触ってるの!?」と叫びたかったが、イリヨナに直後押し倒されたアシュデルは、彼女を引き剥がそうと藻掻いた。キスしながら脱がしにかかるなんて、積極的なのはどうしてなんだろうか。

「待って!」と叫べたような気がする。

「おい……何やってるんだよ!おまえら!」

怒声はいきなり響いた。

「きゃあ!」と可愛い悲鳴を上げて、やっとイリヨナが上から退いてくれ、アシュデルは乱れたローブの合わせ目を掴みながら、軽く息を上げながら起きあがろうとした。その背を、誰かが支えてくれた。

「すみません。ノックしたんですが、返事がなく、中から少し……物音がしたもので」

言い辛そうに聞こえた声は、インファだ。

「え?え?インファ兄?と……レイシ!?」

驚きすぎて思考が追いつかない。見かねたのだろう。アシュデルの乱れた服をインファが整えてくれた。 

「イリヨナ……アシュデルは目が覚めたばっかりだろ!死にかけたヤツに襲いかかるなんて、恥を知れ!」

レイシに容赦なく怒鳴られたイリヨナが、未だ放心状態のアシュデルの隣で飛び上がった。

「ひっ!ごめんなさいですの!で、でですが、闇の力に侵されていないか、確認したかったのですの!」

「へえ……?アシュデルはもの凄く抵抗して見えたんだけど、オレの気のせい……?見せろっていえば、見せてくれたんじゃないのかよ!いちいち盛るな!婚姻結んでからにしろよ!男はな!治まらないんだよ!」

「いや……若いなぁ……驚きすぎてまったく……」

アシュデルはレイシの言葉に苦笑した。

「あんた、大丈夫?やっぱり、闇の力の影響あるんじゃないの?」

「ははは……ねえ、レイシ、ボクは許されたの?」

レイシが優しいって、不気味。アシュデルの心の声が聞こえたのかもしれない。「ちっ!」とレイシは舌打ちした。

「兄貴、会話、ここだけだよね?」

「ええ。あなたの好きにしてください」

「ごめん。恩に着る」

気配が乱暴に近づいてきて、ドカッとベッド横の椅子にレイシが座った。

「なんで、イリヨナを捨てたのか、捨てたくせに今更イリヨナの前に現れたのか、信用できなかったんだ」

「やっぱりね。そんな気がしてた。風一家に入ったのに、一向にイリヨナに会わなかったしね。それがいきなり、婚約者なんだから、見守ってきた者としてはどういうつもりだ?って思うよね」

「ちっ!やなヤツ。オレは、イリヨナと相容れないって薄々わかってたからな。ゾナが見初めたおまえがそばにいるなら、大丈夫だと思ってたから、許せなかった」

「矛盾してない?」

「ああ、矛盾してるよ。その意味がやっとわかって、覚悟決めるのに時間かかった」

ガッ!とアシュデルはいきなり胸ぐらを掴まれて、引き寄せられていた。イリヨナが慌てるが、アシュデルはそれを手で制した。

「アシュデル、イリヨナを守れ!何があっても絶対に手放すなよ?」

それだけ言うと、レイシはあっさりアシュデルから手を放した。

「何があってもって、怖いなぁ。何が起こるって思ってるの?」

「さあ?アシュデル、おまえさ、成人したとき化け物の姿だったよな?」

「うん。闇魔法だって気がついて、自分で解いたけど」

「あれ、かけたのはおまえだ」

「え?覚えないよ?」

「だろうね。さすがにオレもショックで、話してやれないけど、おまえは、イリヨナの為に変身した。そして、その魔法を放棄したんだ。その後も、逃げ続けたのはイリヨナを守るためだったんだと思う。それができなくなったのは、このバカが越権行為なんかするからだ!」

「それはちょっと違うかなぁ?その前から逃げられなくなってたから。たぶんだけど、恐怖と戦う覚悟が決められたのかもなぁ。今も、逃げる気はないしね」

「それ聞いて安心した。オレは、最悪おまえらと敵対する。そうなったら、一思いにヤレよ?」

それは、暗に、黒幕はインリーだと言っているのでは?とアシュデルはピリッと緊張した。そんなアシュデルの隣で、事情を知らないイリヨナがもっともな声を上げた。

「どういうことですの?レイシ兄様!」

「イリヨナ、おまえ、インリー姉様に会ったことあるか?」

アシュデルは、イリヨナの気配が戸惑いに絶句したのがわかった。

「そういうことだよ。もう、手遅れかもしれない。そしたらオレは、一緒に行く。譲れないんだよ。オレも」

「レイシ、1ついいかなぁ?」

敵対するのは簡単だ。だが、ずっと口を閉ざしているインファの為に、アシュデルは最後まで諦める気はない。

アシュデルがペオニサを慕って大事にしているように、インファもインリーとレイシという弟妹を大事にしている。それがわかるから、望みを捨てたくないのだ。

「なんだよ?」

「紅茶飲みたいんだけど?」

レイシが、瞬間戸惑ったのがわかった。アシュデルは、彼が合い言葉を知っていることを確信した。あのラスが、何もしていないとは思えなかった。あとは、レイシの心次第だ。

言って。言ってよ、インファ兄の為に。アシュデルは願った。

「……ラス呼べよ」

インファが息を飲んだ。インファにも内緒にしていたラスも、最後の選択をレイシ自身に委ねていたのだとアシュデルは思った。

「そうですね、ラスを呼びましょうか。レイシ、足掻きませんか?オレを不幸にはしないでください」

「……許すの?兄貴、甘いって言われるよ?」

「オレ達にとって、殺すのは簡単なんです。許すのではなく、生かす方を選びたいだけですよ」

「あはははは!甘いよ!兄貴。あんたの妹、強いよ?オレが呪縛から解放されたのは、偶然なんだよ?正気のオレは、これが最後かもしれないんだよ?憎しみに塗りつぶされたオレは、相当強いよ?慈悲はいらない。オレは所詮、精霊にも人間にもなれない、混血精霊だ」

「それだけの心意気があれば、生きられるよ」

パタンと音がして、扉が閉じられた。ラスだ。

「けっ!オレが生き残ってもしょうがないだろ!」

「何の為にオレを呼んだんだ?」

「……けっ!」

素直じゃないなぁ。そっぽを向いたらしいレイシの態度に、アシュデルは苦笑したいのを堪えた。

「助けてほしいなら、そう言えばいい。インファをあまり泣かせると、ペオニサが貞操の危機に陥りそうで怖いんだけど?」

………………え?アシュデルは思わず、ラスへ顔を向けた。

「!?あ、兄貴!?」

レイシが狼狽えた。これは、所有印まみれの妹の比ではない衝撃だ。アシュデルも衝撃だ。小さくインファが苦笑した。

「兄弟を2人も失えば、それくらいの壊れ方はするかもしれませんね。その中に、セリアも加わってもらいましょうか?」

なんですと!?ああああ、そこまでの想像力がなくてよかった……!アシュデルは冗談だとわかっていても、思考が停止しそうだった。

「3人でですの!?な、なんて高度な……」

「イリヨナ、イリヨナ、乗らないで。ボクも想像したくない。レイシ、合い言葉を知っていたんだね?」

話題!話題変えよう。それに限る!とアシュデルは努めて冷静を装って、レイシに問うた。

「……フン」

「リティルが泣いてたから。インジュが手を汚すくらいなら、オレが何とかするよ」

答えないレイシに代わり、ラスが答えた。もう、誰が狩るかなんて話になってたのかと、アシュデルは哀しくなった。

「オレは、風じゃない」

レイシが吐き捨てた。

「生粋の風が、闇落ちしていますから、あまり関係はありませんよ。オレも、いつ堕ちるかしれません。オレが無事なのは、守ってくれている人が、いるからです。イリヨナを気にかけるあまり、もう1人の妹を蔑ろにしてしまった、オレの落ち度です」

「イリヨナの事だけじゃないんだ。母さんの肉体と心をバラバラにした魔女と、ペオニサも受け入れられなかったよ」

レイシの言った魔女については、アシュデルもイリヨナも産まれる前の事で、知識はないが、これが、以前からの問題行動のことらしい。そしてペオニサ兄さん?これは現在進行形なのだろうか。

「あなたは、どうだったんですか?」

「最初はそりゃ、怒ってたよ。だけどさ、魔女はインジュが預かってたし、あいつも悪役に徹してた。関わるつもりはなかったけどさ、認めてたよ。ペオニサは……はっきり言ってオレに近づくなって言いたいけどさ、兄貴が好きならいいよ」

「兄さんは、レイシのことを、いい奴だって言ってたね。バレてるんじゃないかなぁ?」

「あいつ、余計なんだよ!いつまで意地張るんだ?って言われたことあるんだ。ずっとだよバーカ!って返しといた。その方が、オレらしいだろ?」

なんだ、結構上手くやってるんだ。さすが兄さん。とアシュデルはこっちは問題なさそうだと思った。

「なぜ、1人で抱えてたんだ?」

ラスが咎めるような口調で問うた。

「憎しみと苛立ちが止まらなかった。いよいよ寿命かって思ってただけだよ。まさかインリーに故意に煽られてたなんて、知らなかったんだよ!」

「正気に戻った切っ掛けは、何だったの?」

それは、黙っていてはいけないことでは?アシュデルはインリー諸共死ぬ気か?と呆れてしまった。

「切っ掛けっていうか、オレにかかってた魔法を解いたのは、ルキだよ。幻夢帝・ルキ。オレ、あいつとは悪友なんだ。おまえが死にかけたあの日、イリヨナが1人で廊下にいたんだよ。思い詰めた顔してさ。てっきり変なことされたんだと思ったんだ。でも、応接間で、帰る前にアシュデルのことで話したいことがあるって言ったのを聞いて、気になったんだ。夢か?って思ったのは偶然だった」

え?ボクとイリヨナを心配してくれたってこと?アシュデルが口を開く前に、イリヨナが感激したような声を上げた。

「レイシ兄様……!」

「やめろよ。オレはおまえと馴れ合うつもりなんかない。今更、どの面下げて……」

俯くレイシの気配に、隣のイリヨナの気配が動くのを感じた。

「今のままの兄様でいいのですの。意地っ張りで怖い兄様のままでいいのですの!」

……君は大物だよ。でも、君らしいね。とアシュデルは思ってしまった。

「うわ!こら!抱きつくなよ!」

「私、嫌われていなかったことがわかって、嬉しいですの!」

「はあ?おまえなんて、何とも思ってない!さっさとアシュデルと結婚しろよ!」

「素直じゃないのですの!なんとも思っていないのでしたら、こんなに怒りませんの!レイシ兄様!大好きですの!」

「おまえ……!くそ!わかったよ……。おまえを選んでやれないけどな、幸せになれよ?オレとインリーのことは、気にするな」

「気にしますの!幸せにはなりますが。レイシ兄様!姉様を助けましょう!」

「どうやって……?」

「お忘れですの?私、負の感情のエキスパートなのですの!兄様、アシュデルもこう見えて、憎しみまみれなのですの。私、消化してみせますの!」

「え?」

突然、話題の中心に立たされたアシュデルは、ビクッと猫背が伸びた。

「アシュデル、覚悟はいいですか?」

「え?待って?ボク実験される?っていうか、そんなに憎しみまみれなの!?」

「ええ。それはもう。太陽の城に行きますと発狂レベルですの!」

「反論できない……。怖い。イリヨナ、ボクの闇、見てたんだ……」

「アシュデルのことを、見ないはずありませんの!アシュデルの闇は、皆既日食みたいですの!」

ボンヤリ光が滲んでいて、それを背中に背負っているからホラーだと、イリヨナはなぜか胸を張った。アシュデルは「ああああ」と羞恥にまみれた声を上げて、両手で顔を覆って俯いた。

「あはははは!光が完全に遮られてる!」

イリヨナの言葉を聞いて、ラスは大爆笑だ。こういうときのラスは容赦ない。

「ははは……そんな体たらくで、光属性って……ボクのフェアリア、君って偉大だね」

「フフン。やっとおわかりになりましたの?アシュデルが私を忘れなくて、よかったですの。あなたを、救い続けますの。だから!思う存分闇堕ちしてくださいですの!」

「とめて!?その前にとめてくれる!?」

怖い。マジで怖い!やってられないくらい怖い!大魔導のボクが闇堕ちしたら大惨事だ。何人殺してしまうかわからない!アシュデルの手がイリヨナを捜して空を切る。その手を、彼女ではない誰か男の手が掴んだ。

ザラザラとした無骨のこの手は――インファだ。しっかりと握ってくれたその手を、アシュデルも握り返した。

「ウフフフ……インファ兄様、ラス、レイシ兄様、今からアシュデルの闇を、魔物として外へ出しますの!狩りをお願いできますか?」

「へえ?そんな方法なんだ?いいよ。いつでも」

フフと笑うラスの声が、変わらない抑揚だというのに不穏なまでに楽しそうだ。

「アシュデル、手を放しますよ?大丈夫です。そばにいますから」

インファの気遣いは本当にありがたい。放された手に、心細さを感じてしまう。

「ふん。やればいいんだろ?やれば」

声は不機嫌だが、最早本心でないことは聞き取れる。目が見えなくなって、見えない物が見えるようになるとは言ったものだ。

レイシは味方だ。それに、いち早く気がついて合い言葉を教えたラスは、やはり侮れない人だと思う。

「いきますの!アシュデル、心を強く持ってくださいですの」

「もう、どうとでもして……」

何をどう身構えればいいのか、わからない。ただ、心に作用するのだな?とわかるだけだ。所詮、アシュデルは見えない。無防備にされるがままになるしかないのだから。


悪意魔物変換術。

この魔法は、アシュデルの為に編み出した。

アシュデルは、成人直後に数々の苦痛を受けてしまった。闇はその頃に芽生えたモノだと、イリヨナは推測している。

化け物の姿に変えられるという苦痛。

慕っている兄のペオニサを、同じ血を分けた兄弟に暗殺されるという苦痛。

ペオニサの暗殺と、当時起こっていた諸々の風の城への反逆行為の冤罪をなすりつけられ、処刑されそうになるという苦痛。

奇跡的にすべて回避されたが、イシュラースから1人出奔し、慣れないグロウタースで苦労を重ねた。

すべては、アシュデルの心に傷となって残ってしまった。

風一家へ入った後は、ペオニサや四天王のフォローがあったが、そう簡単には癒えるものではない。

 やっとのことで再会したイリヨナは、彼の背後にのし掛かるように背負われた闇を見た。

なんということですの?アシュデルはこんな暗闇に1人で?言葉を失った。言葉をかけることさえ許されずに拒絶されるという、苦い再会となったが、イリヨナはアシュデルと絆を紡げなくても諦めるわけにはいかなかった。せめてあの闇だけは祓いたかった。だが、魔法はなかなか完成できなかった。

関わった案件で、越権行為とみなされ、顔を失い、さらにアシュデルの両目を賭けさせる事態となってしまい、彼には多大な精神的苦痛を与えてしまったが、なぜか闇は育たず、ユラユラと僅かに小さくなったり大きくなったりしていた。

アシュデルの心の闇の深さは、邪精霊並みだったが、当の彼は穏やかなままでその闇に食い殺される気配はなかった。しかし、気が気ではなかった。

身も心も大人であるアシュデルは、どんな暗い感情を心に秘めていようと、見せることはない。しかし、視力を失って、闇の中にいる彼の心は疲弊していっているだろう。風の城の皆が、いかに気にかけてくれても、四六時中一緒にいることはできない。1人の時間。真っ暗闇の静寂の中、心眼を会得するための修行という目的があっても、心細いだろう。

 深夜、アシュデルがうなされる声を聞き、居ても立ってもいられなくて、四天王に助けを求めようとして失敗してしまった。闇を取り込みすぎて死にかけたアシュデルの姿に、あの闇に取り込まれたのでは?と恐怖した。てっきり、レイシを排除しようとしたと思ったのだ。ルッカサンと共に城に戻って、数時間後リティルが来た。

「あいつ、レイシとルッカサンを助けようとしたらしいぜ?」

見えない中で、レイシとルッカサンが一触即発だと思ったアシュデルは止めなければと思って、心眼を無理矢理使ったのだと確証を得たらしいリティルが、苦笑交じりに教えてくれた。インジュの推理が正しかったのだ。

あれだけの闇を内包しながら、己を見失わないアシュデルに正直引く。

どんな精神をしているのですの!?とツッコミたい。

だが、ならば、この苦痛を伴う悪意魔物変換術に耐えてくれるのではないか?と思った。悪意も立派な心の一部だ。それに触れれば、精神にどんな作用があるかわからない。下手をすれば、心が壊れるかもしれない。ルッカサンと共に、最終調整はしたが、危険な魔法であることには変わりない。しかし、イリヨナは、アシュデルにこの魔法を使う機会を窺っていた。強引なのは認めるが、インリーが闇堕ちしているのなら、この魔法は有効だと思う。それは、偽りはない。

「う……っ!」

イリヨナが魔法を使うと、アシュデルの背後でユラユラと揺らめいていた闇が、黒の粒子を纏って具現化を始めた。アシュデルは呻くが、叫ばないように耐えているかのようで、イリヨナは心が痛かった。

「魔王クラス……カマキリ型?」

レイシが呻いた。彼の右手には、炎を纏った大剣が握られていた。現れた真っ黒なカマキリは、両手の鎌を振り上げてこちらを威嚇した。光を返さないはずのその鎌が、キラリと鋭利に光った気がした。

魔王クラスとは、その魔物の強さを現す言葉だ。魔王は最強を意味していた。

「思った通りの強敵ですの!」

「小さいね。極小かな」

黒い身長よりも長い棒――クオータースタッフを構えたラスが、いつも通りの抑揚で呟いた。確かにいつも相手にしているモノの大きさを思えば、極小だが、それでも、高い天井につきそうなくらいの大きさだ。

「狩ってしまっていいんですね?」

槍を構え、インファが最後の確認をしてきた。

「はいですの!よろしくお願いしますですの」

3人は頷くと、同時に床を蹴っていた。

勝負は一瞬だった。3人は、同時に床に降り立っていた。斬られたカマキリは、黒の残滓を漂わせて消えていった。

「この3人で狩りするの、久しぶりだね」

ラスは控えめな笑顔で微笑んだ。

「そうですね。レイシ、よく合わせられましたね」

「フン。白々しいなぁ兄貴!オレがじゃなくて、ラスと兄貴がでしょ?それくらいわかるよ!でも……やっと、風一家に帰ってきた気分だよ」

ハハと照れくさそうに笑うレイシに、インファはハッとした顔をした。その瞳がゆっくりと微笑みの形に和らぐと、涙が零れ落ちた。

「ちょっ!兄貴!?うわ……これ、オレが泣かしたの?ごめん……オレ……もう情なんてないと思ってた……」

「何をしでかそうが、あなたはオレの大事な弟です。弟を、殺めなければならないかもしれなかった今回、オレがどれほどの苦痛を感じていたか、わからないんですか!インジュが抱きついてきて、ペオニサが抱きついてこいというくらいには、凹んでいましたよ!」

間合いが近く、気安いインジュだが、父親のインファに抱きつくことはない。彼がインファに抱きつくのは、慰めようとするときだ。インファ大好きなペオニサだが、彼からインファに抱きつくことはない。彼は言葉責めが主で、インファからのスキンシップは断固拒否だ。そんな彼にそんなことを言わせてしまうとは、相当にインファが落ち込んでいたのだろう。

「ガチだ!ごめん……兄貴……」

「おかえりなさい、レイシ……。不甲斐ない兄を許してください……」

インファがレイシを抱きしめるのを見ながら、イリヨナはベッドの上にグッタリとうつ伏せになったアシュデルの背中を撫でていた。

 よかった。その一言に尽きる。

今、イリヨナの目に見えているレイシの闇は、彼を飲み込もうとはしていない。この部屋へ入ってきて、叱ってくれたときに、イリヨナはすでに気がついていた。以前の、イリヨナの幼少期の彼と同じ姿に、闇は落ち着いていた。今のレイシに、悪意魔物変換術は必要なさそうだ。

燃える、業火のような闇……。はっきり言って強烈だ。だが、兄は自分自身を正しく知っている。その炎が、大事な人を傷つけないように輝く太陽光が照らして、ボンヤリと輝いている。

今のレイシは怖くない。怒鳴られても、それにきちんと愛を感じられる。やはり、強い人だ。討たれても構わないと胸を張れるレイシは、きっと、風の王の第2王子としてこれからも生きていける。

「……終わった……?」

意識を飛ばしていたアシュデルが、目を覚ましたようだ。疲れた声で問うてきた。

「はい!違和感はありますか?」

「何かこう……心の中に手を入れられるみたいで、気持ち悪かったよ……。何も変わった気がしないけど、何か変わったの?」

……これだけで済むアシュデルの精神力は、壊れていると思う。どうして平気でいられるのか、本当に謎だ。しかし、彼の闇の姿も、強烈ながら美しいと思ってしまうイリヨナだった。

「本質は変えられませんの。けれども、闇を包むように輝く金環日食ですの!とても、綺麗ですの!」

そう言って笑うイリヨナの気配に、アシュデルは心苦しくなった。

「ボクのフェアリア……」

「アシュデル?」

「ボクでいいの?」

「何を言っているのですの?私は――」

「ボクは、おかしいよ?ずっと逃げてるくせに君を心の支えにして、君がいなくなるなら一緒に死ぬなんて言って、立派に病み属性だよ?やめるなら、今だと思うんだ」

心の闇を払ってくれたからだろうか。アシュデルは改めて、自分の発言が怖くなっていた。鏡に映る自分の陰気な姿が、やはり心を現しているのだと思った。

「フフフ……あははですの!」

イリヨナはいきなり笑い出した。

「え?イリヨナ?」

「それは、つまりアシュデルが、熱烈に私を好きということですの!」

「え?あ、うん」

「私も、アシュデルが大好きですの!」

「あ、ありがとう……」

「だから、何か問題ありますの?」

「え?ないの!?」

「私がアシュデルを好きではなかったとしたら問題でしたの。気持ち悪いし怖いですの。でも、私、大好きですの!ですので、アシュデルの心に住まわせてくださいですの!そして、喜んで一緒に死にますの!」

「え?ええ!?い、いいんだ……」

アシュデルは、イリヨナに抱きつかれて頬ずりされながら、ホッとしてしまったのだった。しかし、なんだろう?抱きついてきたイリヨナを抱きしめながら、アシュデルは気持ちの悪さを感じていた。何か、重大なことを忘れていような……?

にじり寄るような恐怖を感じながら、しかし、闇の中温かなぬくもりを抱いて、安心してもいた。

そんなアシュデルの姿を、レイシは思い詰めた表情で、見つめていた。


 レイシは、自分の寝室へ戻ってきた。

「レイシ、上手くいった?」

駆け寄ってきたのは、シェラと同じ青い光を返す黒髪を、1本の三つ編みにした可憐な女性だった。金色と紅茶色の瞳が真っ直ぐにレイシを見ていた。

風の姫巫女・インリー。隠すところしか隠していないような軽装の彼女は、風の王夫妻の第1王女で、レイシの妻だ。

金色のハクチョウの翼を生やしていた。

「インリー、でも、これでいいの?これじゃあ、君は悪役じゃないか!」

インリーは眉毛を情けなく下げた。

「フフフ、レイシ、わたしが操っちゃってたのは本当だよ?そんな能力があるなんて、知らなかった……。でも、罪は罪でしょう?」

「ルキがいてよかった」インリーはそう言って、屈託なく笑った。この笑顔を見る限り、彼女が1度もイリヨナに会わずに、ロミシュミルだと決めつけて危機感だけを募らせていたなんて、とても思えなかった。

レイシの知る彼女は、どんなに我を失って猛り狂う魔獣も鎮めてしまい、花の姫・シェラに次ぐ慈愛を持つ心優しい風の精霊だ。そんな彼女が、レイシやカルシエーナの心に漬け込んでいたなんて信じられない。だが、おかしな点はずっとあったのだ。インリーは、イリヨナが稀代の大悪女の欠片から産まれながら、レイシが欲しても得られない風の王の血を引いていることに葛藤していても、それを、1度も諫めたり宥めたりしなかった。

実の父親から命を狙われ、拒絶され、自身に流れる血を憎むレイシは、憎しみと怒りに支配されやすい。そんなレイシを、インリーは妻となることで守ってきた。だが、インリーは、イリヨナに関しては本当に、レイシを止めなかった。情けないことだが、それだけでレイシはイリヨナに対して歯止めがきかなかった。

「でも、このままじゃ……」

「いいよ。わたしは酷いお姉ちゃんだから……」

「だったらそれはオレだって!」

「自覚あるんだ?レイシ」

インリーは意地悪に揶揄うように笑った。そんな妻の様子に、レイシはグッと気まずげに口を閉ざした。

「わたしが、イリヨナを悪い子だって決めつけたから、罰が当たったんだよ。でも、そのおかげでアシュデルをなんとか助けられたから、よかったのかな?」

「オレにも黙ってるんだからな!」

レイシは、自分の事しか考えていなかったことを、突きつけられて再び落ち込んだ。本当に、どうしようもないヤツだと自覚している。大人で優しい一家の皆に、甘えている自覚もある。寛大な父に甘え、罪を犯してきた。ノインは、父が決断したら誰よりも早く、斬り殺しに来ただろうと思う。

「フフフ、ごめん。でもレイシがアシュデルの過去を調べちゃうなんて思わなかった。それに気がつくの、お兄ちゃんかな?って思ってたのに」

「……たまにはオレも冴えてるんだよ!で、どうすんの?言われた通り、君に操られてたことにしといたけど」

「だから、事実だよ?もう、これでいいよ」

カルシエーナは、レイシよりも早く支配を解かれている。レイシは、インリーが黒幕だと伝えたことでラスが保護してくれるだろう。あとは、四天王の下す決断を待つだけだ。

「え?なんで?」

「わたしを警戒しておいてくれれば、会おうなんて思わないでしょう?アシュデルがあの日かけられた呪いは、わたしが頑張って封印したから、たぶん永遠に発動しないから。そうしたら、2人は幸せになれるよね?」

インリーは努めて明るく笑った。

「インリー……」

「これは、ひどいお姉ちゃんからイリヨナに、婚姻のお祝いってことで、いいと思うの。アシュデルはもう、兄妹のことで傷つかなくていいよ。もう終わったことだもん。知ったら、きっと辛い……ぶつける場所がなくて、未だに苦しんでる人、わたし、知ってるし」

インリーは意地悪な笑みをレイシに向けた。レイシはバツが悪そうに、プイッと横を向いた。

「オレはもう、大丈夫だよ」

「大丈夫なら、イリヨナをあんまり怒鳴っちゃダメだよ?わたしの分も、うんと可愛がってあげてよ」

「わかったよ!頑張ってみる」

「よろしい!」

「インリー……」

「うん?」

「大丈夫?」

「大丈夫。誰に非難されても、怒られても、わたし、正しいことしたんだもん。2人、傷ついてきたんだもん。もう、いいじゃない」

それが今の素直な気持ちだ。あの日、アシュデルと初めて会ったあの日、インリーは大事な心を思い出したのだ。

そのあとも、イリヨナに会うことはしなかったのは、アシュデルがきっとイリヨナのもとへ戻ってくると信じていたからだ。

インリーは、イリヨナをもう危険だとは微塵も思っていない。アシュデルを失っても正しさを失わなかったイリヨナは、ロミシュミルとは違うと言い切れるから。

もう、いい。成人前後のあのとき何があったのか、アシュデルが忘れているのなら、そのままでいいと思う。それはもう、戻らない過去だ。アシュデルもイリヨナも、真相を知ればペオニサもインファも傷つく。これは、インリーとアシュデルの秘密ではないのだ。

「あ、」

「ええ?なに?」

レイシの声に、インリーは「何かあった?」と小さな焦りと不安を感じた。

「イリヨナ、君に凸するかも?いや、たぶん来る」

「へええ?じゃあ、おもてなし、考えとかなくちゃかな?」

「本当に悪役を貫くのか?」

「お兄ちゃんからちょっと聞いたの。イリヨナ、アシュデルと結婚するといいこといっぱいなんだって」

「はあ?好きな奴と霊力の交換できる以外に、なんかあんの?」

「イリヨナは弱い立場で、アシュデルと結婚すると、弱くなくなる、みたいな?わからないから、お父さんかお兄ちゃんに聞いてよ」

「兄貴に聞いてみるよ。インリー、オレ、やっぱり納得いかないよ」

「そお?うーん、困ったな。じゃあ、お兄ちゃんになら話していいよ?たぶん、何もできないって結論になると思うから、そうなったら、レイシも納得できるでしょう?」

「兄貴にあれ、見せろって?」

そうそう迷ってよ。兄のインファを案じるレイシは、あのことを話すことを躊躇い続ける。このまま何事もなく、イリヨナとアシュデルが婚姻を結べれば、有耶無耶になるはずだ。

インリーは罰を受けるとしても、話す気はない。あの秘密は守られるはずだ。

「レイシ、ちゃんと説明できないでしょう?わたしは教えてあげないよ?今、ロミシュミルも真っ青な大悪女なんだから!」

「こんな可愛い悪女、いるかよ!」

「フフフ、ありがとうレイシ!」

満足そうに笑うインリーに、レイシは無力を感じて唇を噛んだ。

アシュデルの成人の日の前後何があったのか、それが原因でインリーが2人に会わないのだとそれを知ったとき、インリーも偉大な風の精霊の1人なのだと改めて思った。

妻に何もしてやれない。それが酷く哀しい。

しかし、レイシにはインリーの想いを汲んでやるしかなかった。


 インリーは、アシュデルを守れた気でいた。

あの時、彼の後にアシュデルを訪ねたのは、本当に偶然だった。あの日、訪ねていなかったら、今頃アシュデルは成人を迎えられずに殺されていた。

笑うペオニサにも、アシュデルと仲睦まじいイリヨナの笑顔にも会えなかっただろう。

思惑はどうあれ、アシュデルを助けることができたインリーは、誇らしかった。だが、誰にも黙ったままというのは、よくないことだったのかもしれない。

 ハッと、インリーは閉じこもった寝室兼自室で魔法が壊れたのを感じた。

アシュデルの部屋に飛ぶことに迷いはなかった。誰かに見られるかもしれないことすら、警戒していなかった。

ノックもせずに部屋に飛び込むと、アシュデルは案の定というか、ベッドの上に蹲って呻き声を上げていた。

「アシュデル!どうして?どうして封印が?」

ベッドの上に飛ぶとインリーは、すでに意識の混濁していたアシュデルを仰向けに寝かせ、躊躇いなく服をはだけた。

ジワリと、あの日見た巨大な虫ピンで貫かれた傷跡が戻り始めていた。インリーの目に、アシュデルの寿命が見えた。インリーには、命の期限を見ることのできる目があるのだ。そのカウントダウンが始まっていた。

「あの時と同じ……」

アシュデルに残された時間は10分。

この、幾重にも魔法がかけられた傷は、インリーでは癒やすことができない。その為に、インリーは封じることにしたのだ。まだ成人前日の、幼気な子供だったアシュデルの精神に傷をつけ、この記憶ごと封じてしまう事になるとは知らずに。

インリーはまだ、アシュデルを守れた気でいた。

「アシュデル!しっかりして!」

あの時と違うのは、アシュデルに意識がないことだ。あの時アシュデルは辛うじて意識があった。そして言ったのだ。

「イリヨナ……!イリヨナ!ボクは、こんなところで死ねない!君を置いて死ねない!」

だからインリーは助けた。イリヨナを得体の知れない悪いモノだと決めつけていたインリーは、アシュデルにイリヨナに今後近づかないようにお願いするために訪ねたのだが、あまりに必死なアシュデルの様子に気が変わったのだ。

彼の姿に、いつか憎しみに飲まれて、化け物になってしまうかもしれないレイシを守り続けようと決意したあの日の自分を、インリーは唐突に思い出したのだ。イリヨナが、無能と呼ばれた初代翳りの女帝・ロミシュミルになってしまうかもしれないことを、アシュデルなら未来永劫阻止できる気がした。レイシにとってのインリーが、イリヨナにとってのアシュデルなのだと、そう思った。

風の精霊にしか興味がないはずの花の精霊が、こんなにイリヨナを想って生きようとしている事実に、インリーはイリヨナは守らなければならない対象なのだと、やっと悟った。父も母も、兄もインジュもラスも、あのノインでさえ認めて愛している、1度も会ったことのない、いや会おうとしなかった妹を信じてみようと思った。妹のイリヨナが、ロミシュミルのようにどうしようもないモノに成り下がるなら、その時はわたしが引導を渡せばいい!そう思って、あの時、アシュデルを助けたのだ。

 今、なぜだかわからないが封印が解かれてしまったアシュデルを、インリーがもう1度救うには、もう1度同じ封印をかければいい!

インリーはアシュデルの胸に開いた穴に左手を押しつけた。そして、浅く息を吐く彼の唇に、唇を重ねた。心の中で、風の精霊力ある歌『風の奏でる歌』を歌う。インリーの歌う『風の奏でる歌』には、死へ向かう心を食い止める力がある。その歌を霊力と共にアシュデルの中へ流し込む。

「!?」

意識がないはずのアシュデルの手が、インリーの傷に押し当てられていた手を掴んだ。そして、キスするインリーは頭を押さえられていた。

ああ、これで助かると無意識に感じてるんだね?あげるから、ちゃんと受け取ってね?大魔導さん。貪るような積極的なアシュデルにインリーは笑ってしまいそうになった。

幼かったアシュデルには、この治療法は衝撃的だったようだが、中年へと成長を遂げた彼には、合理的だと思われたようだ。

どちらにせよ、インリーはただ助けるのみだ。この口づけは、甘やかなものではない。医療行為だ。ペオニサだって、治療のために意識のない一家の誰にだって、口移しで薬を飲ませるのだ。それと、同じだ。

これで、助けられる!インリーは、胸の傷を治癒魔法で癒やしきり、あと少しで魔法を封じ込める封印も完成させられる。そこまできていた。

「インリー……姉様?」

掠れた、目の前の光景を受け入れられないようなつぶやきを聞き、バッとインリーはアシュデルから唇を離していた。見れば、扉の前にイリヨナとレイシが立ち尽くしていた。彼女に会うのは初めてだが、闇の王の力くらいインリーにはきちんと感じられる。

レイシの隣に立っているあの小さな女性がイリヨナだと、インリーには初対面でもわかった。最悪の誤解だ。

 ベッドの上のアシュデルは意識を失っている。イリヨナの目には、今、不穏な思いしかない姉に何かされたと映るだろう。

「っ!」

インリーは咄嗟に金色のハクチョウの翼を広げると、何も言わずにバルコニーへ出る掃き出し窓へ飛んでいた。

「インリー!なんで!」

レイシがもっともな疑問を叫ぶ。インリーはチラッと夫を見たが、行動を止めずに掃き出し窓を引き開けると外へ飛び出していた。

「インリー!」

レイシは追いかけようとしたが、立ちすくむイリヨナと、意識のないアシュデルを置いては行けなかった。

なんで?インリー……。レイシも妻の真意がわからずに混乱していたが、危険人物として四天王にマークされているインリーと、アシュデルのキスシーンを見せられて、壊れそうなほどに動揺しているイリヨナを叱責する方が先だった。

「おい!イリヨナ、ボーッとしてる場合じゃない!」

両肩を掴むと、イリヨナは揺れる瞳ながら、必死で冷静さを取り戻そうとしているのがわかった。

「インリー……姉様、は……何を……?」

したのはインリーだが、アシュデルのあの手はいただけない。あれではまるで、同意しての口づけに見える。しかも、インリーはアシュデルの胸――素肌に触れていた。そしてその手を、アシュデルが押しつけるようにしていた。と、レイシにも見えた。

「アシュデルは、姉様を知って……?」

レイシはアシュデルの過去を見ていた。確かに、インリーとアシュデルは会っている。だが、アシュデルはそれを忘れている。記憶が戻った?戻って……だとしても、今キスに合意する理由がレイシにもわからなかった。何を言えばいいのか、レイシは思い浮かばなかった。

「ん…………イリヨナ……?レイシ……?」

 イリヨナの肩を掴んだまま、言葉を失っていたレイシは、アシュデルの声で我に返った。彼はどうやら、気を失っていたようだ。だとすると、あのキスの最中も意識はなかったのかもしれない。そうだと思いたい。

「アシュデル!おまえ、何ともないか?」

アシュデルは自力で体を起こしていた。

「え?別に何も……でもなにか、気持ち悪い……」

「吐く」と言い出したアシュデルのところへ走り「吐け!」と背中をさすりながら、レイシは水晶球を手の平に集めた太陽光の白い光から取り出した。

「兄貴!アシュデルが大変なんだ!ラスとペオニサ連れてきて!」

『了解しました』とインファの短い返答が聞こえ、兄は水晶球からいなくなった。

「おまえ、何か覚えてるか?」

嘔吐くが吐けないアシュデルを介抱しながら、レイシは問いかけた。アシュデルは辛うじて首を横に振った。嘘かもしれないと瞬間思って頭に血が上りかけたが、イリヨナを愛しているアシュデルがインリーとなど、まったくもって意味がわからない。

考えられるのは、インリーがアシュデルに何かしたということだ。だが、なぜ?

いったい何なんだよ!インリーがアシュデルにキスする理由を、レイシも思い至れなかった。レイシでそうなのだ。イリヨナにはもっと衝撃だっただろう。レイシは混乱する頭と心で、ほったらかしにしてしまった妹を見たが、彼女の姿はすでにどこにもなかった。

「どうしました!」

イリヨナのヤツ、どこへ!?と部屋の中を見回していたレイシは、ノックも無しに部屋になだれ混んできた3人に気圧され、イリヨナのことを忘れてしまった。

 駆けつけたペオニサにレイシは場所を譲った。ペオニサが、アシュデルの肩を掴むと、途端に険しい顔をした。

「おまえ……これ、いつやられた?」

「ええ?なんの、話……?」

吐き気が治まってきたのか、アシュデルは瞳を開かないままペオニサを見た。

「リフラクの呪いみたいな魔法だよ!おまえ、なんで?」

リフラクの呪いみたいな魔法だって!?レイシはインリーが関わった、アシュデルとの過去を思い出していた。知りたくなかった、見るんじゃなかったと後悔した過去だ。だが、だとすると、さっきのキスシーンは……。

「……ボクは、死ぬの?」

フリージアの精霊・リフラク。ペオニサ達花の十兄妹の長兄だ。

しかし、彼は今、ペオニサの弟、花の十兄妹の次男という扱いになっている。彼はペオニサと同じく、父王・ジュールの手によって実験を施された精霊だった。

雷帝・インファの為に生きる精霊となるようにというジュールの願いは、リフラクを蝕みその精神を壊してしまった。

リフラクは、インファに固執し、同じように産み出されたペオニサを目の敵にして、ついに亡き者にしようとした。ペオニサが身をもって体験したその魔法の痕跡を、今、アシュデルから感じている。あり得ないことだ。

リフラクは現在、風の王・リティルの手によって、存在をリセットされ、幼少期からやり直しリセット前の記憶は残っていない。それにより、あの忌まわしい巨大虫ピンに施された呪いの様な魔法も使える者はいないはずだった。この失われた魔法に対処できる者は殆どいない。解呪に不慣れなペオニサには到底無理だ。できるのは、記憶を失う前のリフラクか、ジュール、そして、あの時辛酸をなめたインファくらいだろう。

「いや、おまえは死なないよ。死なないように、誰かが何かしてる。心当たりあるか?」

アシュデルに施された処置は、かなりの力業だが、きちんと守っていた。だが、たぶん未完成だなとペオニサは見立てた。

「………………ない。でも、死ぬかと思ったよ。理由はわからないけど突然」

「おまえ、あれ!無意識なのかよ!?」

どう見ても、同意の、しかも濃厚なキスシーンだったのだから。イリヨナがいなかったら、どうなっていたかわからない。インリーに不信感を持ってしまっていても、彼女は妻なのだ。怒り狂って、2人とも攻撃してしまっていたかもしれない。

「何を見たんですか?レイシ」

しまった!と思ったが、もう遅い。この発言を逃してくれる兄のインファではない。レイシは冷や汗をかきながら言い訳を考えていたが、何も浮かばなかった。

「そうですか。だんまりですか。アシュデル、霊力を探ります。仰向けに寝てください」

冷ややかな瞳でレイシを見つめていたインファは、すぐに次の行動へ移ってしまった。

「ラス、ペオニサ、補佐してください。魔法が封じられているうちに解呪します!」

アシュデルは、3人に囲まれるのを感じた。自分に何が起こったのか不安ではあるが、いつの間にかいなくなった気配のほうが、気がかりだった。

「レイシ!イリヨナ、ここにいなかった?」

肩を押され、仰向けに寝かされながら、アシュデルはレイシに叫んでいた。アシュデルもレイシと一緒にいたはずのイリヨナの姿を見ていたのだ。その彼女がいないことを、不安がって見えた。

「あ、ああ、いたよ。でも……」

あいつ、どこに行った?インリーも捜したいが、インリーよりもイリヨナかと、レイシはいくらか頭が働くようになった。

「捜してきてやる。おまえは、大人しく兄貴の治療受けてろよ!」

「え?待ってレイシ!」

イリヨナの誤解を解かないと。レイシの頭にはそれしかなかった。「闇の城に行ってはいけない!」と叫んだアシュデルの声は、扉から出て行ってしまったレイシには届かなかった。


 どうしよう。どうしたらいいの?

風の城から、イリヨナから逃げてしまったインリーは途方に暮れて、常夜の国・ルキルースへ逃げ込んでいた。

風の城の中庭にあるバードバスは、ルキルースの王である幻夢帝・ルキの居城である、断崖の城の玉座の間に繋がっている。

「こんばんは、インリー」

白夜の光の中、影になった数段上に据え置かれた玉座のクッションの上から、子供の声がした。

「ル、ルキ……こんばんは……」

風の王・リティルとほぼ一緒の背の少年が、インリーの前に2股に分かれた尾を振りながら飛び降りてきた。彼の頭には、黒猫の耳が生えていた。

「ねえ、君は、イリヨナとアシュデルを引き離したいのかな?」

ルキの底冷えするような声と、ニンマリと笑った感情の読めないその顔に、インリーは愕然とした。

「ち、違う!助けたかっただけ!わたしじゃ、あの方法しかなかったの!アシュデルがショックを受けて、呪いを装った変身魔法を使ったことも、イリヨナから逃げてしまうことも望んでなかったの!」

ルキは、ギロリと猫の瞳でインリーを睨み上げてきた。

「ボクはね、インリー。レイシと友達だけど、君のことはよく知らない。それから、変身の呪いを解く手伝いをしたよしみで、アシュデルとも友達だ。風一家に入る前のアシュデルとボクは繋がってたから、よくわかるんだ。アッシュは、イリヨナを失っていつ崩壊してもおかしくない精神状態だったよ?記憶の中のイリヨナとの夢を見せて、アシュデルを邪精霊化させないように守ってきたのは、このボクだよ」

「そんなに……イリヨナが大事だったんだ……」

「ちなみにね、翳りの女帝と幻夢帝はね、番の関係なんだ」

「え?」インリーは驚いてルキの顔を凝視した。それでは、アシュデルとイリヨナは結ばれることはない?インリーは青ざめた。

あんなに、何を賭けてでもイリヨナのそばにいようとしているアシュデルの想いは、報われない?必然の関係である番という運命だ。それは、覆ることはない。

「2人の間を引っかき回した割には、そんな顔するんだ?安心してよ。ボクに恋愛感情はないんだ。アッシュと争うことにはならないよ。ああ、イリヨナはわからないけどね。ボクとイリヨナが番だって知ってるリティルは、ボクとイリヨナを引き合わせないんだよね。そろそろ会ってみようかなぁ……?」

「ルキ!」

インリーは咄嗟にルキの肩を掴んでいた。その途端に恐ろしい瞳で睨まれた。

「今更、何?レイシとカルシエーナを使って、ずいぶんボクの番をいたぶってくれた君に、何が言う資格があるとでも?イリヨナがボクを選ぶのなら、それは必然だからね。恋愛感情なくても、霊力の交換くらいはできるし?そして何より、ボクなら闇の仕事をサポートできる。もともと、そういうつもりで用意された精霊なんだよ。幻夢帝は」

「アシュデルより役に立つよ?」とルキは不安を煽るような笑みを浮かべた。

「初代翳りの女帝は、初代幻夢帝がお気に召さなかったみたいだね。いや、不相応にも、世界の刃に横恋慕してたんだっけ?ルディルの眼中になくて、それを逆恨みするんだから、初代翳りの女帝って何なんだろうね?ああ、無能の女帝だっけ?」

クククと嘲るようにルキは笑った。ルキは、現在夕暮れの太陽王をしているルディルに、ロミシュミルのことを聞いてみたが彼は「ああ?ロミシュミル?闇の中に引きこもってる、得体の知れねえ女っていうイメージしかねえわ」と殆ど知らなかった。

忙しい上にずぼらな初代風の王・ルディルが眼中にないのは、知れたことだった。それに、彼には唯一無二の愛する妻がいる。あの間に割って入ろうなんて、無謀すぎる。

「ねえ、イリヨナは、無能な上に阿婆擦れだったロミシュミルに似てるの?」

インリーは辛うじて首を横に振った。

「そう?だったらなぜなのかなぁ……?花の精霊と風の精霊が急接近したら、イリヨナはなんて思うのかなぁ……?君、イリヨナに何したのさ?闇の領域の闇が、力を増してるよ?レイシの力を感じるけど、太陽光っていっても、彼、混血精霊だからなぁ。負けちゃうよね」

それを聞いたインリーは踵を返そうとして、ルキに手を掴まれていた。

「おっと、逃がすと思う?君を行かせるわけにはいかないんだよね」

インリーの周りを、夜の闇が渦巻き、闇色の檻の中に囚われていた。

「どうして?わたしのせいなのに!」

「都合がいいから」

「え?」

「だってそうでしょう?君が壊してくれたおかげで、イリヨナとアシュデルは円満に別れられるんだ。そうすれば、アッシュの目は見えるようになるし、運命通りにボクとイリヨナは結ばれる。君は、正しいことをしたよ?」

シュルリとルキは毛足の長い、黒猫に化身していた。その姿が揺らめく。ルキの高笑いだけを残して姿が夜の闇に紛れて見えなくなった。

「わたし……取り返しのつかないことを、したんだ……」

力なく、インリーは冷たい夜の闇の檻の中、座り込んだ。


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