二章 闇の中彷徨える
風の王夫妻には、3人の血を分けた子がいる。
長兄、雷帝・インファ。長女、風の姫巫女・インリー。次女、翳りの女帝・イリヨナ。
3人とも、精霊達の覚えがめでたい、優秀な精霊達だ。
長兄のインファは、その容姿も優れているが、副官としての手腕、精霊としての知識も豊富で、様々な精霊の悩み相談に乗れるため、精霊大師範という名で呼ばれていた。
次女のイリヨナは、無能と言われた初代翳りの女帝・ロミシュミルを討ち、賢聖母と呼ばれた2代目翳りの女帝・シェラの娘で、シェラの意志を受け継ぎ、健気に闇の領域を統治している。
そして、長女のインリーは、風の魔女と呼ばれるほど、霊力が強く、風の城を守る要であるため、滅多に城の外には出ない深窓の姫だった。
アシュデルの修行は順調だった。
というより、それしかできないので、それをこなし続ければ自ずとできるようになっていくものだ。
「アシュデル、ごきげんよう!」
扉が開閉する気配がして、元気なイリヨナの声がした。
扉の開いて閉まる時間から、この扉は大きそうだなとボンヤリ思った。そして、イリヨナの声から、気配がベッドの隣に立つまでの時間で、部屋もそれなりに広そうだなと推測していた。
これは、心眼で見えるようになったら、こんな部屋にいたのか!と恐縮しそうだ。
だが、花の香りがしていたり、雰囲気は清涼でとても居心地がいい。
「考え事、していますの?」
邪魔をしては悪いと思ったのか、ややあってイリヨナの控えめな声がした。
「え?ごめん、部屋の広さを測ってたんだ」
イリヨナがベッドに上がってきたのだろう。たゆんと緩やかにベッドに波が走った。
「上がってきてくれたところ悪いんだけど、窓開けるの手伝って」
「ハイですの!」
ベッドの上をゆっくり移動して、イリヨナに導かれて裸足の足を床に下ろす。毛足の長い絨毯がひかれているようで、裸足でもまったく問題ない。
イリヨナに手を取られ、彼女の小さな、けれども温かい体温に寄り添われて一歩一歩暗闇の中を歩く。
「アシュデル、手を」
彼女に握られていないもう片方の手を少し上げると、イリヨナはその手首を掴みそっと導いた。カタンと、手が硬くて冷たいモノに触れた。探ると丸い突起に触れた。掴んで回し、ゆっくり押すと、風がアシュデルの顔を撫でた。
この先はバルコニーだ。この部屋は3階だと聞いた。風が運んでくる香りはバラの花の香りだ。この下には、バラの庭園があると聞いた。
温かな日差しが顔を温めた。
「……今は、昼間?」
「そうですの!今日は、ルッカサンが半日お休みにしてくれたのですの。だから、明日の朝まで一緒にいられますの」
翳りの女帝として、闇の領域を運営するイリヨナは基本、執務を終えた夜にしかアシュデルのところへは来られない。だが、腹心のルッカサンはこうやって、時間を捻出して長く会えるようにしてくれていた。彼の中ではアシュデルはもう、女帝の夫なのだ。幼少期ずっと面倒を見てくれていた人であるだけに、何とも照れくさい。
「そう。じゃあ、いろいろ付き合って」
「そのつもりですの!まずは髪を縛りましょう」
城の中を歩き回るだけだというのに、イリヨナはデートでも行くようにウキウキとする。欲がないというか、いや、彼女に何もしてやれないことが歯痒いのだ。
想いが通じたあとも、イリヨナの顔のこともあったが、アシュデルはグロウタースにある工房を転々とする生活をやめなかった。夜、執務を終えたイリヨナが『ツアナ』の姿でやってくるのを待っていた。たしかに、罪の償い方は調べていたが、イリヨナにアシュデルから与えたモノは少ない。
「……もしかして、編んでる?」
「バレましたの?でも、インファ兄様ほど長くもなくて、量も少ないですもの。同じようにはなりませんの……」
この部屋には、壁際以外、家具が置かれていない。それは、見えないアシュデルに配慮してのことだ。今、アシュデルが座っているのは、ベッドの隣の壁に置かれた、ライティングデスクの前だ。
「髪の毛が薄いみたいに言わないでよ。年齢感じる……」
「アシュデルは時々、グロウタースの民みたいなことを言うのですの」
精霊は不老不死。霊力が絶不調になれば、痩せたり髪が抜けることはあるだろうが、基本的には見た目は変わらない。象を拳一撃で倒せるインジュが、非戦闘員のペオニサよりも華奢な姿をしているように、精霊の能力は高めても見た目に反映されるかどうかは未知なのだ。
「君は若くて綺麗だ。だから、気になるよ」
隣にいて、どう見られるのか。グロウタースでは、親子と見られてもおかしくないくらいの身長差と見た目だ。夫婦と初めから見てくれる者はいないだろう。
「バカ……」
イリヨナは三つ編みに編んでいた髪が手からこぼれ落ちて、解けるのを見ながら、アシュデルの広い背中にポスッと額を押しつけた。
恥ずかしかった。「綺麗だから、気になる」なんて、どう聞いても隣に並ぶ事を意識している発言だからだ。
「変なこと言った?」
これでとぼけていないアシュデルは、天然タラシだと思う。
イリヨナは解けてしまった髪を解いて、彼が以前していたように、襟足でそっと束ねて幅広のリボンで巻くようにして結った。
「もう、いいのですの!行きましょう」
乱暴に手を取ると、アシュデルは瞳を開かないまま少し困ったような顔をした。
「怒った?」
「怒っていませんの!そんなに、気を使わないでくださいなのですの」
ギュッと首に抱きついてキスすると、アシュデルも背に腕を回して応えてくれた。
幸せだ。今、もの凄く幸せだ。
こんな気持ちをくれるアシュデルを、どう捨てられるというのか、イリヨナにはわからない。
「――このまま触ってたい」
「もお!手!本当に太ももが好きですのね!」
その位置が、手を置くのに楽なのかもしれないが、アシュデルはキスすると高確率で太ももに触れてくる。
「ごめん。自分がこんなに欲望まみれだったなんて、知らなかった」
「それにしては、胸ではないのですのね」
「うーん……そこ触っちゃったら、もう脱がすしかなくなるよね?」
「スカートに下から手を突っ込むのは違うのですの!?」
「……お尻は触ってないでしょう?」
「当たり前なのですの!」
「ごめん、無意識なんだ。すべすべしてて、温かくて、吸い付くみたいで、気持ちよくて――いたっ!」
「ご、ごめんなさい!つい……」
イリヨナは叩いてしまったアシュデルの左頬に、慌てて手を当てた。イリヨナは肉体を癒やす治癒魔法を使えない。赤くなってるどうしよう!とオロオロしていると、彼の大きな右手が重ねられた。見れば、左手に魔導書が開かれている。
「……治すのは勿体ない気がするけど、誰かに見られると冷やかされるからね」
独りでに繰れたページに書かれた文字が、緑色に淡く輝いていた。精霊の言葉で書かれたその文字は『治癒』と読めた。
「ごめんなさいですの……」
「ははは、いいよ。ボクが卑猥なこと言ったからだし。行こうか」
表情が見えていれば、彼女が羞恥で混乱する前に発言を止められたんだけど……と、後悔する声色で謝るイリヨナにアシュデルは罪悪感しか湧かなかった。
「行こう」という言葉に頷き、イリヨナは手を取りゆっくり導いてくれた。
廊下に出ると、ヒンヤリと感情でいうなら冷静な空気が漂っていた。
この城は不思議だ。自室に入ればホッとするような、気の抜ける空気が支配していて、廊下はこの通りピリッとしている。この目になってわかったのだが、部屋部屋、場所場所で支配している空気が違うのだ。
「どこへ行きますの?」
「うーん。天気いいよね?バラの庭園に行こうか」
「ハイ!……あの、アシュデル、応接間へは行ったりしますの?その、インリー姉様やレイシ兄様に会ったりするのかと……」
聞きづらそうにイリヨナが問うてきた。
「エーリュが誘いにくるから、案外行くかな」
「え?エーリュが?」
歌の精霊・エーリュは、風四天王、執事の旋律の精霊・ラスの妻だ。緑がかった金色のふわりとしたショートヘアーで、快活で明るく可愛らしい容姿をしている。ラスと同じ、二十代前半の姿をした風の精霊だ。
「ラスは基本、応接間勤務でしょう?応接間に誰もいないとラスに呼び出される。だから、喧嘩になりそうな人達には、会わないかなぁ。……もしかして、妬いた?」
精霊的年齢はイリヨナより年下となるエーリュだが、人間からの転成精霊で、人間時代プロの歌手をしていたためか、イリヨナの目からも魅力的な容姿をしている。そんな人に手を引かれて歩くアシュデルを思い浮かべてしまい、あり得ないのにモヤモヤしてしまった。
「えっ?いえ、エーリュはラスの奥様ですし……。そ、そんなことより、誰もいないときなのですの?」
なんて心が狭い……。嫉妬心をアシュデルに見抜かれて、イリヨナは慌てて次の話題を振る。
「うん。ボクは放浪の精霊だし、今はこんな状態だ。仕事の話、聞かせたくないんじゃないかな?応接間は割と好きだよ?なんていうか、凄い刺激になる感じなんだよね」
一家が集い、訪ねてくる精霊達の対応もし、リティル達四天王がデスクワークし、時にラスやシェラの入れてくれる紅茶で寛ぐ、この広大な風の城の中心にあるような部屋だ。外から内からの様々な力や感情、空気にさらされるあの部屋は、行動を制限されているアシュデルの精神に様々な刺激を与えてくれる。
六属性フルスロットルという特異な力を持ち、天才と大賢者・ゾナに言わしめているラスは、それをわかっていてアシュデルを呼ぶのだろう。
ゆっくりと慎重に、階段を降りる。
「イリヨナは?って、聞くまでもなくボクと常に一緒にいるね」
アシュデルはなぜ、申し訳なさそうなのだろうか。
「一家のみんなとは――」
迷うような素振りを見せたアシュデルが口を開いたとき、進行方向に気配が現れた。アシュデルが一瞬緊張するのがわかった。
見れば、ヌッと大きな黒い塊が視界に入ってきた。
白銀髪の短い髪のガッシリとした体躯の大男。ペオニサとアシュデルと同じくらいの身長の、袖が大きく開いた黒のロングコートを着た男性が現れた。「ひっ!」と驚いてしまったイリヨナは足を踏み外していた。落ちる!と思ったイリヨナは、アシュデルを咄嗟に後ろに突き飛ばしていた。
「イリヨナ!」
バランスを崩した状態でアシュデルを後ろに突き飛ばした為に、反動で小さくて体重の軽いイリヨナの体は、空へ放り出されていた。
「おっと。お転婆なレディだなぁ。アシュデル!そのまま動くなやぁ。おめぇまで落っこちてこられたらよぉ、オレ様でも受け止めきれねぇからよぉ」
ニヤァと笑う、凶悪犯罪者のような壮年のこの男性は、再生の精霊・ケルディアス。ケルゥの愛称で呼ばれている彼は、落ちてきたイリヨナを難なく抱き留めると、巨体を揺らしながら、階段に座り込んだアシュデルのところまで上がった。
「大丈夫かぁ?脅かしちまったみてぇで、すまねぇ」
「ケルゥ、アシュデルごめんなさいですの!」
イリヨナは、ケルゥの丸太のような太い腕から降りながら、ケルゥに引っ張り上げられるアシュデルの体を支えた。
「一緒に落ちても大丈夫だから、手を放さないで。ありがとう、ケルゥ……」
探るように触れられ、アシュデルの手がイリヨナの肩に落ち着いた。ギュッと掴まれた手から、安堵が伝わってきていたたまれなかった。
「ワハハハ。小っこいとでかいじゃあなぁ。カルシエーナは小っこいが、可愛げがねぇ。その点、おめぇは気が気じゃねぇなぁ」
揶揄うように笑う彼は、破壊の精霊・カルシエーナの恋人だ。番という、必然という関係の為に、婚姻の証が必要ない番と呼ばれる関係性だ。
ケルゥとカルシエーナも精霊的年齢が大分離れている。
カルシエーナは精霊的年齢17で、精神年齢がもう少し幼く、対するケルゥは29だ。そのためなのか、ケルゥはカルシエーナに婚姻の証を贈っていなかった。
必要ないからと言われればそれまでだが、同じく番であるラスとエーリュも婚姻の証を贈り合っていないが、夫婦だと名乗る。ケルゥにはなにか、思うところがあるらしい。
「どこ行くんだぁ?って聞くのは、野暮か?」
ケルゥは、人懐っこい大きな犬のようだ。彼にはイリヨナも警戒心はなかった。
「いいえ。天気がいいのでバラの庭園へ行こうと思いまして……」
「バラの庭園に行くのか?わたしも行く」
ヒョイッと、ケルゥの肩に濡羽色の髪の美少女が現れた。
やはりいた。それがアシュデルの率直な感想だった。
「カルシー姉様、ごきげんよう」
アシュデルは警戒気味に耳を澄ましていた。イリヨナの心の機微を、感じ損ないたくはない。カルシエーナは、イリヨナに幾度となく危害を加えてきたのだから。
「おい、カルシエーナ、デートの邪魔してやるなやぁ」
ケルゥはやはり諫めてくれた。
「デート……では、ダブルデートしませんか?」
イリヨナの声に、緊張はない……と思う。
「いいんかぁ?」
ケルゥが伺うような声色で問うた。
「はい。姉様との誤解はもう解けていますの!」
誤解……そんな生易しいものか?とアシュデルは呆れたが、イリヨナの頑張りに水を差すことはない。
カルシエーナは精神面が幼く、善悪の定義が極端だ。
あの日、アシュデルが意識を取り戻した日、イリヨナが攻撃されてしまったのは、アシュデルがイリヨナの為に両目を捧げたのに、そんな彼が呼んでいるのに逃げたことに腹を立てたのだ。アシュデルのもとへ連れていこうとしていたのだ。
彼女は破壊の精霊であるがゆえに、体を破壊されないため、怪我というものが苦痛を伴うことはわかっても、完全には理解できない。そして、髪が手足の代わりにもなって、あれくらいで痣になるような柔肌の者は風一家にはいないが故の悲劇だといえば、そうだった。
翌日、ケルゥに伴われて、カルシエーナはアシュデルに謝罪した。そして、これから闇の城に行ってくると告げられた。
それで、和解できたというのだろうか。そんな簡単なものなのだろうか。アシュデルには、カルシエーナを受け入れることはできなかった。
「アシュデル、その、いいでしょうか?」
……きっと上目遣いに、こっちを見ているんだろうな。そう思って、アシュデルはため息をついた。
「いいよ。行こう?」
まったく情けない。これではどっちが大人かわからない。
「苦労するなぁ。おめぇもよぉ」
カルシエーナに腕を取られたらしいイリヨナが先に行ってしまい、ケルゥがアシュデルの手を取った。少し上から落ちてきたため息に、アシュデルは「そうだね」と返した。
前を行く気配に意識を集中していると、ケルゥが落ち着いた声色で声をかけてきた。
「破壊の精霊だからよぉ、許してくれとは言わねぇ。それを差し引いてもあいつは、イリヨナにひでぇことしてきたからよぉ」
「ケルゥ、誰が陽動してるのか、教えてくれる気はない?」
「兄ちゃんとラスが秘密裏に動いてんぜぇ?」
やっぱりそうなのか。アシュデルは、イリヨナをこの城からなのか排除しようとしている者がいるのでは?と考えていた。それは、レイシの態度を四天王が詫びてくるとき、インジュが「昔は、あんなじゃなかったんですけどねぇ……」と彼を案じるような素振りを見せたからだ。
そしてラスが「このままではマズいと思う」と意味深な事を言っていた。
リティルは気にするなと言ったが、気になるよ?とアシュデルは思ってしまった。レイシは誰かに踊らされているのでは?と希望的観測を導くに至った。しかし、アシュデルが1人では部屋を出ることもできない。協力者が必要なのだ。
「誰になら話してもいい?」
「オレ様でもいいけどよぉ、兄ちゃん、インジュ、ラスってとこだなぁ。リティルは知ってるかもしんねぇけどよぉ、最後まで動かねぇ。動いたら最後だかんなぁ」
「わかった。ありがとう」
口を閉ざしたアシュデルにケルゥがククッと笑った。
「イリヨナ。あいつはやっぱリティルの娘なんだなぁ。そんで、選んだヤツがおめぇってのもなぁ」
「イリヨナがリティル様の娘で、とんでもない人なのはわかってた。幼少期からね。だからボクは……結局捕まったけど。何かあっても、ただの花のボクじゃ助けられない」
「ただかぁ?」
「非凡じゃない。ボクの見えているモノが正しいのだとしたら、ボクじゃ助けられない」
「だったらやるこたぁ1つだなぁ」
アシュデルは見えない目でケルゥを見上げた。
「風一家はよぉ、チームなんだなぁ。誰がいいんだぁ?正統派なら兄ちゃん、暗躍ならラス、ぶっ壊してぇならインジュだなぁ」
「じゃあ、ラスかな。インファ兄にはもれなくペオニサ兄さんがついてくる。インジュはリャリス姉と父さんと繋がってるから」
インファを選べないのは、もう、巨人の捻れ角島のことを悔やんでほしくないからだ。今回の生け贄に選ばれた女性は、アシュデルの知り合いだった。それを知ったのは、イリヨナが越権行為とみなされたあとだったが、彼女の命を救えたことは確かなのだ。失敗していたら、アシュデルは、彼女の父親が天寿を全うするまで、あの地の土を踏めなかったかもしれない。それくらいの救えなかったという罪の意識に囚われただろう。
死を導く風の精霊が涙しながら背負うモノを、たかが花の精霊のアシュデルでは背負いがたい。インファが、これ以上アシュデルに罪悪感を抱くことはないのだ。まして、償ってもらうことなどない。
インファをこれ以上傷つけたくなかった。彼もまた、アシュデルにとって、ペオニサと同じくらい大事な兄なのだ。
「インジュじゃねぇんだなぁ?」
「アシュデル君はボクの可愛い義弟ですから」そう言って協力してくれるインジュは、たしかに頼りやすい。しかし、インファとペオニサに最も近い。彼を選ぶことは、アシュデルには危険だった。
「ラスは、ケルゥ、あなたとエーリュ、それからノインだよね?」
「オレ様を信用するってかぁ?カルシエーナの番だぞ?」
「あなたはたぶん、頃合いを見てインファ兄とインジュに情報を漏らすと思うしね。ラスだけかな?全員動かさずに全員と繋がれるのは」
「イリヨナは蚊帳の外かぁ?」
「イリヨナは、ボクの闇を見ようとしないんだ。今の彼女を、巻き込めないよ」
「直視すんには弱すぎるってかぁ?」
「逆かな?イリヨナが見ないことで守ってるのは、ボクの心だ。ずっとずっと強いから、その強さに甘えたくない。かなぁ?」
「メロメロなんだなぁ。そんでリティルが安心してんのかぁ」
「……待って。安心する要素ある?危険だと思わない?」
「さっさとくっつけやぁ」
「……ボクの評価、きっと絶対間違ってると思う」
イリヨナには、婚姻前の今すでに、破廉恥な中年男というレッテルを貼られているというのに。
「そうかぁ?大魔導の花の精霊でよぉ、落ち着き払った見た目も心も大人でぇ、イリヨナが1番大事とくりゃぁ、逃す手はねぇなぁ」
色々反論はあったのだが、前から「わあ!」という楽しそうな感嘆の声が聞こえてきて、意識をそちらに奪われた。
サアッと風が吹き抜けていく。芳しい香りが体を包んだ。
「そういえば、薔薇の花の精霊はいないんだよね」
なぜかそんなことを呟いてしまった。
バラの庭園は、バラの木で作られた垣根で道を作り、つるバラで所々にアーチが作られている。入り組んだ垣根の道を進むと、中心は広場になっている。
「おめぇ、裸足だけどよぉ、足の裏大丈夫なんかぁ?」
道は石畳で、中庭と違って柔らかな草では覆われていない。
「ああ、大丈夫。障壁魔法で膜作ってるから。感触がわからないと、歩きづらいんだ」
「魔法ってよぉ、便利だなぁ」
「ケルゥは使えないの?」
「だなぁ。部分変化で火が吹けるくれぇだなぁ」
「治癒能力……じゃないか、再生だったね」
「オレ様、適当に使ってっからなぁ」
「ハハハ、適当に使えるケルゥは凄いね。ボクは紐解かないと何の魔法も使えないよ」
「おめぇは褒め上手だなぁ。おめぇとも、一緒に狩りしてぇなぁ」
「それはちょっと……怖いなぁ」
「ワハハハ!おめぇ、絶対ぇ嘘だろう?」
これはマズイ。何かわからないがロックオンされた気がする。とはいえ、この目では言いくるめられることはないだろうと思っていると、思わぬ声がした。
「ケルゥ、アシュデルを巻き込んではいけないよ?」
「……ラス?」
スルリッと、ケルゥの力強い手の感触が離れ、アシュデルよりも小さい男性に手を取られていた。
「茶会を開くというから、用意して待っていたよ。大丈夫、カルシエーナはオレとエーリュには逆らわないから」
え?と思って意識を集中すると、確かにエーリュらしき気配が、イリヨナとカルシエーナのそばにあるのがわかった。
「ま、オレ様もケーキ食ってくるぜぇ」
ケルゥの気配が遠ざかっていった。
ラスは、ケルゥから十分距離が取れるのを待っているのか、一向に動き出さなかった。
「――ケルゥに呼ばれた。何かあった?」
いつの間に?だが、彼ならありのような気がした。ペオニサが昔、ケルディアスという精霊は、いい奴だが何か凄く怖い人のような気がすると言っていた。
どう怖いの?と問うたのだが、ペオニサは何となくというだけで、答えらしい答えは持ち合わせてはいなかった。だが、いい奴だと念を押すように繰り返していた。風一家の古株だというが、確かに侮れない何かの片鱗を見た気がした。
「イリヨナが階段踏み外して、空飛んだくらいかな?」
「え?」とラスが絶句した。
「ケルゥが受け止めてくれた。みたい?焦ったよ」
「それは、うん、そうだろうね」
ラスが手を引いた。ここには確か、広場の端にベンチがあった気がする。やはりと言うべきか、ラスはそこへ導き、自分も隣に座った。
風が心地いい。やっはり外はいいなぁと思っていると、隣に座ったラスから風が緩やかに解き放たれたのを感じた。
「さて、内緒話しようか?」
どうやら、防音の風魔法を使ったらしい。この魔法は、なぜかアシュデルの部屋にもかけられている。しかもかけたのはリティルだそうだ。王は「念のためな」と明るい声色のまま言っていたが、念のためとは何の念のためなのだろうか?
「ラス、知らない気配が2つあるんだ。ボクと会ってない人って、誰と誰かなぁ?1人は地下から動かない。もう1人は、1階から3階をみんなと同じように移動してる」
ラスは黙ってしまった。
「……それ、オレの他には?」
いつも薙いだように穏やかなラスの声色が、怖いくらいに低かった。
「まだ、ラスにだけだよ。ケルゥには、誰になら話していいのか聞いた」
「今、その人はいる?」
「地下の人はずっと動かない。もう1人は、ボクとイリヨナが部屋を出ると、近くにいる。さっきまでいた。たぶんだけど、ボクが気配を探れることを知らないんじゃないかなぁ?」
「だろうね。君が地下まで気配を探れることを知ってるのは、四天王だけだ。アシュデル、このまま誰にも明かさないでくれ。それから、イリヨナも知らないなら、知らせないでほしい」
ラスの言葉に、アシュデルはため息をついた。
「ごめん。パンドラの箱を、開いたみたいだね」
「ううん。むしろ、助かったかな?結末はわからないけど、内部の膿は出せそうだよ」
ラスは少し、哀しそうな声で答えた。
「風の城は、風の王・リティルを王と傅く精霊の暮らす城だ」
「うん。ボクとナシャは放浪の精霊だけど、忠誠は誓ってる。リティル様を裏切ることは絶対にない」
今のところは。未来永劫、そんな日が来ないことを祈るばかりだ。
「アシュデルとナシャを疑ってないよ」
「ありがとう。ボクの場合は動機が不純で、リティル様に協力精霊でもいいんだけど?って一家入り拒否されそうだったけどね」
「あはは。ペオニサの為だよね?君が加わった頃は、かなり不安定だったから。今は、どう?入ってよかった?」
「……花は、風を傷つける……ボクがこの城に関わらなければ、均衡が崩れることはなかったよね?」
ラスは「ちょっと待っていて。すぐに戻る」と言って、答えずに席を立っていった。
これは、かなりマズいことになったかもしれない。イリヨナを受け入れられない者がいるこの城から、イリヨナは均衡を守るために距離をとっていた。
それを、蔑ろにしているのは、視力を失ったアシュデルだ。
リティルには、一家を守る義務がある。一家であるアシュデルを保護し、問題を解決するのは当然の行動だった。アシュデルを訪ねるイリヨナは、今でも極力一家と関わらないように努めている。
「お待たせ。はい、紅茶」
ラスの声がして、手が取られ、グラスを握らされた。火傷しないようにとの気遣いだろう。アイスティーだった。ありがとうと言うと、ラスは再び隣に座った。
「オレは、たぶんもの凄く酷いヤツだ」
「えっと、どうかした?」
突然の告白に、危うく紅茶を吐き出しそうになった。
「独り言。リティルのしようとしていることを塞ぐモノすべてを、斬り殺せる」
「撲殺の間違いじゃない?」
確か、ラスの得物はクオータースタッフだったはず。と、アシュデルは紅茶を飲んだ。薄ら甘い?いったい何種類の茶葉を常備しているんだろう?と思ってしまった。
「あははは!そうとも言うね。だから、リティルの大切なイリヨナを害するモノも、攻撃対象だよ?」
アシュデルはなぜか、難色を示すような表情をした。
「うーん。それはちょっと……どうなんだろう?イリヨナにはたぶん、心に作用する固有魔法があるよ?ラスも、それにやられてない?」
「そうかもね。ちなみに、それは本当の事?」
「未完かもしれないけど、命名するなら、愛され気質とかじゃないかなぁ?」
隣で変な声がした。ラスが苦しそうに呻く声がする。
「大丈夫?どうかした?」
「いや……アシュデル……それってたぶん……気のせいだよ……」
ああ、笑ってるだけか。ビックリした。しかし気のせいは解せないと、アシュデルは思った。
「そうかなぁ?幼少期から疑問だったんだ。可愛すぎるって。あれはきっと固有魔法だ。だから、みんなにチヤホヤされてるんじゃないの?」
「あはははは!ア、アシュデル……ペオニサの弟だね」
「それ、リティル様にも言われたけど、解せないなぁ。ボクもあんなに変態?」
アシュデルは嫌そうに、インファに「今日も綺麗だね!」と言い続ける兄のことを思い浮かべていた。さすがに人前でイリヨナを、口説いたりはしていないつもりだ。
「ペオニサのあれは、崇拝の粋だね。君のは、イリヨナにだけ向かう分には、いいんじゃないかな?でもわかったよ。リティルが安心するわけだね」
「それも解せない。ボクはイリヨナにとって、全然安心じゃないと思う。ああ、そうじゃなくて。イリヨナの可愛さは妖精クラスだけど、惑わされてはいけない。闇の女王だからね、魔性だよ?」
ああこれか!ラスは、インジュが「アシュデル君は面白いです。ずっと話聞いてたいです」と言っていたことを思いだした。
受精させる力の化身であるインジュは、幸せな恋愛話が大好物なのだ。人の惚気を引きだして「ごちそうさまです!」と心底幸せそうに笑う。官能小説家で恋愛脳のペオニサとは、インファが見初める前からの大の友達だ。架空、現実問わず恋愛話に花を咲かせて、大いに癒やされている。
花の精霊は、風の精霊にとって癒やしだ。
死を導く仕事をしている風の精霊と、実を実らせ産み出す仕事をしている花の精霊は、基本元素の属性だけでなく存在からして反属性だ。花は風に尽くそうとし、風は花が散らないように護ろうとする。その、1度は途切れて拗れた太古からの関係性を、2代目花の王・ジュールは蘇らせてくれた。
戦い続ける風を守るために、ジュールはペオニサとリフラクという2人の息子に、人体実験した。そして、一方は壊れ、一方は雷帝・インファが好きすぎる変態になった。その自他共に認める変態、ペオニサは、最強の癒やしの力を持つ花の姫・シェラに迫る癒やしの力を持つに至っている。ペオニサが、百華の治癒師という異名を持つまでに治癒の力を高めたのには、彼の「オレがインファが泣かないように、みんなの命を守ってやるんだ!」という決意の表れだ。
そして、視力を失うに至ったアシュデル。
一見、イリヨナだけしか見ていないようでいて、風の精霊の、特に中核にいる精霊のことを気にしている。
アシュデルは一家に入る際、動機が不純だったと言ったが、あの時不安定だったペオニサがインファにかけてしまう負担を減らすためだった。
あの頃はまだ、イリヨナを拒否していて、イリヨナの父であるリティルの配下に加わることは、彼にとって、イリヨナに見つかってしまうリスクのあることだった。リティルは、だからこそアシュデルに「協力精霊でいいんだぜ?」と言ったのだ。配下に入ってしまえば、リティルの命を聞かねばならなくなる。協力なら、リティルの要請を突っぱねることもできる。風の王と繋がっているというところは同じだが、自由度がまったく違うのだ。それでも一家に入ることに拘ったのは、絶対に風を裏切らないという決意の表れだったのだ。
ラスは、幼少期のアシュデルのことをよく知っている。
今でこそ、淡々として余裕がありそうだが、以前はもっと前のめりで、貪欲で、魔導にのめり込むあまり周囲に対して冷ややかな、可愛げのない子供だった。しかし、真面目で、イリヨナに対して挑戦的な物言いをするが、彼女の事を、とても大事にしていた。ラスは、いや、リティルも、腹心のルッカサンが、当時からアシュデルを女王の王配にと望んでいたことを知っていた。イリヨナは幼女の姿で定着するのでは?と思われていたが、アシュデルは大人と言える姿になることは皆予想していた。もし、イリヨナが幼女の姿で成人したとしても、アシュデルは愛しただろうなと思う。
それにしても、さすがは花の精霊というべきか、アシュデルは大いに真面目に話しているつもりなのだろうが、随所に散りばめられるイリヨナを愛でる言葉がこそばゆい。
可愛さが妖精クラスってなんだ!?とインジュとペオニサを呼びたい気分になった。
もう、笑わずにはいられない!笑いは癒やしだ。彼は本当に素だろうか?重い話をしたから、和ませようとしているのでは?と勘ぐりたくなる。
どうしよう!この、誰がどう見ても力ある魔導士然とした、自分より遙かに年上の容姿をした理性的で落ち着いた彼が、好きになった人に振り回されて、頭の中お花畑な言葉を吐く姿が、可愛く見えて仕方がない。
「あはははは!これ、独り占めは怒られる……!アシュデル、安心していいよ。オレは、心を惑わされないから。だからこそ、影者なんだ」
「そう?なら、安心した。ところで、ボクは関わってもいいの?」
ラスは、アシュデルの手から飲み終わったグラスを取り上げた。
「関わるざるを得ない状況だね。でも動かないでほしい。もしかするとその人は、君だけじゃなくイリヨナにも危害を加えるかもしれないから」
「……本命はイリヨナ?」
「そうかもしれないし、違うかもしれない。アシュデル、オレのいない場所で何か聞かれても答えないでくれ。この件で、君と話すときはオレが絶対に関わる。オレ抜きで何か聞かれたら『紅茶が飲みたい』って言ってくれ。オレと繋がってる者なら『ラスを呼ぶ』って返す。でも、オレが来るまで話さないでくれ」
「それは、インファ兄やリティル様が相手でもってことかな?」
「うん。そうしてほしい。オレは、心を惑わされない。惑わされていない者を、見抜くこともできる。その能力を買われて、リティルに、単独行動を許されてる精霊なんだ。オレを相棒に選んでくれてありがとう、アシュデル」
……これはもしや、1番選んではいけない人を指名してしまったかなぁ?見えないが、きっと暗いところなく憂いを帯びた瞳で笑っているだろうラスを思って、アシュデルは薄ら寒くなった。
時刻は深夜を回っていた。
四天王がこうやって1つの事案で顔をつきあわせることは、最近ではあまりなかったかもしれない。
「それは、気がつかなかったな」
ラスは、四天王のリティル、インファ、インジュの他に、ペオニサとノインとケルゥ、暖炉のそばの肘掛け椅子に常にいるゾナに声をかけていた。アシュデルが会ったことのない一家がいると告白してきた事を話すと、ノインが腕組みをして、興味深げに呟いた。アシュデルには告げなかったが、ここにいる全員が、それが誰かわかったのだ。
「絶対に会ってると思ってましたよぉ。でも、だとすると、どういうことになるんです?」
インジュはいまいち危機感なく、キョトンと首を傾げた。
「今までノーマークだっただけに、闇が深そうだってことだな。カルシエーナとレイシが目立ちすぎてって言っても、全員気がつかなかったんだからな」
リティルは、腕と足を組んでソファーに深く身を沈めた。
「父さんは動かないでください」
「ああ。オレは動けねーよ。動いたら最後だからな。さすがにキツいぜ?」
インファの険しい声に、リティルは苦虫をかみつぶしたような顔で答えた。
「けどさぁ、ホントに?……ってヤバイ……オレもあんまり記憶にない……」
半信半疑ながら、一家に入ってからの記憶を呼び起こしたようだったペオニサが、ガクリと項垂れた。
「ごめん!もしかしたらさぁ、オレのせいじゃない?オレ、インファに付きまとってたし、オレ自身も、気持ち悪いヤツだってわかってるし」
あの人にとっては、インファを穢されているように感じていても不思議はなかった。ペオニサは、これでも葛藤はした。インファから離れようともした。それをことごとく阻止してきたのは、迷惑を被っているはずのインファ自身だ。
「オレの交友関係に、誰であってもとやかく言われる筋合いはありません。あなたにいてもらわなければ困るのは、オレの方ですよ?ペオニサ」
罪悪感を抱いた顔で上げた顔を再び下げてしまったペオニサの肩に、インファは手を置いた。顔を上げたペオニサと、至近距離で目が合う。
「インファぁ!嬉しすぎて散れる!」
感涙するペオニサだが、彼からは絶対にインファに触れない。こんな、言動なら抱きつきそうなものだが、徹底してインファに自分からは触れないペオニサなのだった。
「明日にはまた咲いてください。それで、影響下にあるのはレイシだけですか?」
「カルシエーナもだと思う。ただ、彼女は単純だから、接触さえ断てば何とかなると思うよ?」
ペオニサをすげなく切ったインファの問いに、ラスは答えた。
「んじゃまぁ、オレ様とカルシエーナは降りるぜぇ?ジュールんとこにでも行っとくぜぇ」
あいつのところは、安全そうだと、ケルゥは何か企んでいそうで企んでいない顔で笑った。
「危ねー橋は渡れねーな。ジュールは死神の毒を調べてるよな?そっちの手伝いってことにしといてくれよ」
離脱すると言ったケルゥに、リティルは申し訳なさそうな視線を向けた。
「気にすんなやぁ。アシュデルの目を治す手伝いだって言やぁ、カルシエーナも納得するぜぇ?あいつはあれで、アシュデルのこと気にしてっからなぁ」
アシュデルを気にするなら、イリヨナに物理的に無体なことをしないでほしいと、全員が思ったが口に出す者はいなかった。
「実際の所、アシュデル君の目はどうなんです?」
インジュはどうしても納得いかないらしく、本当はジュールのところに行きたいのを我慢している。それは、妻のリャリスもゾナも来るなと言うからだ。イシュラースの三賢者であっても難航していることは、嫌でも知れた。
「オレの知る限りじゃ、戻ることはねーな」
リティルの苦しげな声に、皆は無言で俯いた。
「あのさ!あいつ、大丈夫だと思うよ?うん。視力は戻らなくても、心眼だっけ?それで前以上に見えるようになるって!ねえ?」
明るく振る舞うペオニサに、皆は顔を上げ「そうだな」と頷いた。
「そうそう!」と笑うペオニサを、インファは見上げて、そして小さく笑った。
呟いた「ありがとうございます」の言葉は、たぶん、ペオニサには聞こえなかった。
暗闇の中、誰かの声がした気がした。
「う……あ……あ……」
苦しげな声に、ハッと意識が覚醒する。イリヨナは、慌てて当たりを見回した。
翳りの女帝であるイリヨナは、闇の中でもモノの形を見ることができる。広いベッドの上、1人分の隙間のその先にアシュデルがいた。
「アシュデル!」
瞳は固く閉じて、苦しげにうめき声を上げていた。アシュデルの目は、起きていても寝ていても開くことはない。
イリヨナは、アシュデルの肩を揺さぶった。
「アシュデル!」
「う……え?……イリヨナ……?どうかした?もう、朝だった?」
はあー……と脱力しながら、イリヨナはアシュデルの頬に触れた。
「うなされていましたの。何か夢を?覚えていますか?」
「え?うーん……覚えてないなぁ。ごめん、うるさかった?」
この人は!イリヨナは苛立って、触れていた手を引っ込めた。
「そういうことを言いますと、本気で見限りますのですの!」
「えっ!?覚えてないといけなかった!?」
いかないで!と言いたげに、離れたイリヨナを追ってアシュデルは慌てて体を起こした。そんな彼の様子に、イリヨナはため息をついた。
「そこじゃないのですの!うるさくないのですの。苦しいことも全部、教えてくださいですの……」
こっちは見ている事しかできないのに「大丈夫」だなんて言わないでほしかった。
「ごめん……イリヨナ、謝るから、触って?君の気配が今、わからないんだ。世界に1人のような気がする。怖いんだ」
「っ!アシュデル……!」
イリヨナは、アシュデルに覆い被さるように抱きついていた。長い腕が体に巻き付いてきて、ギュッと抱きしめられた。
「ごめん……泣かないで。ボクは……弱いね……だから、どうしようもない弱音を吐いてしまう……」
「泣かせてくれたらいいのですの!弱さを見せて、アシュデルも泣いてくれたらいいのですの!ずっと……ずっと一緒にいますの……!アシュデル!アシュデル……!」
重なった口づけが激しくて、見えないはずなのに器用に寝間着を脱がされかけたイリヨナは「ばかー!」と悲鳴を上げながらアシュデルを引っ叩いたのだった。
闇の中、アシュデルに横向きに向かい合って抱きしめられて、再び襲ってきた眠気に微睡んでいると、彼が小さく笑った。
「覚えてる?夜中にいきなり大雨が降って、雷が怖くて、2人して怖い怖いって言って、こうやって抱き合って寝たこと」
覚えている。雷とは――とアシュデルは懇切丁寧に、魔導における雷のことを説明してくれたのだが「原理がわかってても怖いモノは怖い!」と言って、イリヨナに抱きついてきた。そうやって2人ベッドの中で震えていると、いつの間にか寝ていて、いつの間にか朝だった。目が覚めると目の前に互いの顔があって、2人とも気まずげに「おはよう……」と言って笑ったことを覚えている。
「覚えていますの。アシュデルあの時、怖い怖いと言いながらも、私に始終、大丈夫?大丈夫?と聞いてくれましたの」
挑戦的で、張り合ってばかりいた学友のアシュデル。だが、イリヨナが怖がるモノからは守ってくれようとしていた。
「そうだっけ?ボクの方が怖くて、君に抱きついてたと記憶してるけど?」
いつだって、イリヨナの方が勇敢だった。立ち向かう彼女を見て、アシュデルもなんとかその場に踏みとどまっていたにすぎない。きっと、それは、今も変わらないとアシュデルは思っている。最後の最後で勇敢なのは、イリヨナであって、ボクではないのだと、アシュデルは心苦しく思う。
「そんなことありませんの。アシュデルはいつでも、私を、守ってくれようとしてくれていましたの」
そっと、イリヨナの気配が胸に寄り添ってくれる。それだけで安心する。
「ボクはいつも逃げてたと思うけどなぁ?君の方が、勇敢だったよ。ほら、闇黒蛇に遭遇したときだって、ボクは君の後ろにいたでしょう?」
「剣が使える私が前衛ですの!アシュデルはちゃんと追い払ってくれましたの」
「……物はいいようだ」
本当にそうだ。イリヨナが逃げないから、徐々に冷静になったアシュデルが魔法で追い払ったにすぎないのだ。それが、紛れもない真相なのだ。
「前になど、出なくていいのですの……あなたは後ろでふんぞり返って魔法を使って、美味しいところを持っていけばいいのですの。矢面に、立たないでくださいですの……」
温かい。このぬくもりは幼少期から変わらないとイリヨナは思う。アシュデルが闇の城に泊まることは少なかったが、泊まってくれるときは嬉しくて、2人してベッドに潜り込んで、寝てしまうまでいろいろな話をした。
欲望なく抱き合って笑っていたあの頃……。
今、体温をくれるアシュデルは、作り笑いしか浮かべなくなってしまったが、ぬくもりは変わらない。あの頃は、同じくらいの背格好だったが、今のアシュデルは簡単にイリヨナを包み込む。ああ、安心とはこういうことをいうのですの。イリヨナは目を閉じた。
「立ちようがないでしょう?1人で歩けもしないのに」
「それでも……約束……して……」
温かくて、イリヨナの意識はまどろみの縁に吸い込まれた。
スウスウと規則正しい寝息が、闇の中聞こえた。
寝たのか。とアシュデルは理解して、そっとイリヨナの体から手を放す。
このまま抱きしめていたら、顔を探り当ててキスしてしまう。そしてそれからきっと止まれなくなって、色々触ってしまう。
どうして、こんなすぐ食べようとするオオカミの前で無防備な姿を晒せるな。と思う。
いや、違う。イリヨナは食べられてもいいと思っているのだ。「バカ!」と言って行動を諫めるが、それは、婚姻の証がないからだ。
それも、アシュデルがプライドを捨てれば、解決してしまう。
私が抱いてもいい!と豪胆なことを言ってくれた彼女だ。初めてでも、どうにかしてアシュデルの欲望を受け止めてくれるだろう。
「手が届くなんて……本当に?」
許されるの?本当に。アシュデルは、イリヨナの隣にごろりと闇の中仰向けになりながら、不安の正体を探っていた。イリヨナの父である風の王・リティル、母である花の姫・シェラ、イリヨナの腹心のルッカサン――アシュデルが許しを請わねばならない3人が、アシュデルを翳りの女帝の王配にと望んでくれている。一介の花の精霊でしかないアシュデルだが、元素の王の伴侶となる覚悟は当に決まっている。許されるなら。
イリヨナは、アシュデルにとって、初めて出会った時からお姫様だ。その関係性は何も、伴侶ではなく、騎士でもお抱え魔導士でもただの友人でもなんでもよかった。
ただ、イリヨナが困っていたら助けられる存在になろうと思った。
だから、勉強に苦労して励むイリヨナと共に学ぼうと思った。学ぶ内容は違っても、助けになれる何かがあると思ったから。その後、魔法の才能があることがわかり、大賢者と名高い、風の城の居候、時の魔道書・ゾナに師事できた。
大魔導、稀代の天才などと持て囃されることになったが、アシュデルはただ、イリヨナに置いていかれないように必死だっただけだ。成人直後、いろいろあったが、その前日までは、確かに何があってもイリヨナのそばを離れない!と誓っていたはずだった。
「それが……どうしてだっけ?」
あんなに、イリヨナのそばにいようと思っていたのに、成人したらなぜ、色々理由をつけて彼女から離れなければと思ってしまったのだろうか。
何か、誰か……何かを、忘れている?
「う……あ……イリヨナ……」
怖い……どうしようもなく怖い!アシュデルは闇の中手探りで彼女を捜した。手が、彼女の体を探し当てた。
必死にたぐり寄せて腕の中に抱き込んだ。
「イリヨナ……」
名を呼び、小さな体温を感じると、いくらか恐怖は和らいだ。しかし、まだアシュデルを掴んで放してはくれなかった。
「イリヨナ……!」
手に入れてはいけないの?ボクは誰の許しを得たいの?その人の許しがなければ、そばにいてはいけないような、イリヨナの身に危険があるような、後ろめたいようなそんな恐怖を感じていた。『あのこと』とは違う、何か?それとも『あのこと』の妨害?
いったい、誰の……?父王・ジュールも祝福してくれている。インファも、インジュもラスも、あのカルシエーナの番のケルゥでさえ、早くくっつけ!と言ってくれている。
レイシ?いや、違う。彼のことなど眼中にない。第2王子という立場だが、風の精霊でない彼に、これからも従う気などない。
風の精霊……?アシュデルは、蝶の羽根をもぎ取られるような恐怖を感じた。
「あ……っ……ああ……イリヨナ……!」
朝、アシュデルはイリヨナに叩き起こされた。
何事?と寝ぼけた頭で、怒り心頭の彼女の言葉を聞いた。
「アシュデル!これは、どういうことですの!?」
「え?どういうことって、何?ボク、何かした?」
記憶にない。記憶にないが、彼女がこんなに怒っているのだ、何かしたのだろう。
「私を裸にしたあげく体中にキスマークをつけるなんてどういうことかと聞いているのですの!」
なんですと?アシュデルは一瞬で頭が真っ白になった。
「………………え?……え?……嘘……だよね?」
身に覚えがない。そんなけしからん事をしたことを、覚えていないなんてなんて勿体ない!ではなく、本当に身に覚えがなかった。
「もおおおおおおお!性感帯を避けてキスするなんて本当は見えているのではありませんの!?まったく気がつきませんでしたの!そんなに触りたいなら、起こしてくださいですの!」
「え?怒るとこそこなの!?」
「もう、プライド捨てたらいいと思いますの!無意識に触るほどでしたら、意識して触ってほしいですの!」
キャンキャンと魅力的な申し出を怒りながらするイリヨナに、アシュデルは目眩がした。
「待って!待って待って…………寝てる君に、キス……したとこまでは、なんとなく、覚えてる……でも、それ以上……」
「アシュデル、最近おかしいですの。うなされていましたし、四天王の誰でもいいので相談してくださいですの」
「うん……わかった」
アシュデルは、怒りを収めて優しく諭すように言葉をくれたイリヨナの気配に、手を伸ばした。すんなり囚われてくれる彼女の背に手を回す。
「!?どうして服着てないの!?」
両手が、明らかに素肌に触れていた。
「脱がせたのはアシュデルですの!見事に全裸に剥かれましたの!」
ぜ、全裸!?下着まで脱がせたの!?どうやって?まったくわからなかった。今、同じ事をしてみろと言われても、できないと断言できる。
「わかった!わかったから、服を着て」
アシュデルは降参するように、イリヨナの体から手を放していた。しかし、イリヨナは、胡坐を掻いた膝から降りようとはしなかった。
そして低い声でとんでもないことを言い出した。
「試しに触ってみれば、よろしいのですの」
何言い出すの!?悪女だ!悪女がいる!いや、それほど怒らせたのだとすぐに察した。
「ごめん!婚前交渉する自信あるから無理だよ!止まれない!止まれないから!」
「でしたら、婚姻の証をくださいですの!」
「ああああ……どうしてそんなに男前!?こんなプロポーズあんまりだ!」
「今更、ロマンチックも何もありませんの!と思うのですけれど、アシュデルは、大事にしてくれようと思うのですのね」
ため息交じりに、呆れたような彼女の声が胸に突き刺さる。そして、イリヨナはアシュデルの膝から退いた。
「ごめん……ごめん……ちゃんとするから……もう少し待って……」
アシュデルは顔を両手で覆いながら、懇願するように頭を垂れていた。
覚えていなくても、してしまったことがしてしまったことだ。謝り倒すしかない。
そして、こんな、売り言葉に買い言葉のような状態で、彼女に、婚姻の証を渡すわけにはいかない。ロマンチストと言われても、どう見られても、せめてイリヨナに、喜ばれるプロポーズをしたかった。
「はい、いつまでも待ちますの!私、お仕事に戻りますけれど、大丈夫ですの?」
「え?うん……大丈夫……」
絶対に大丈夫じゃない。どこかアシュデルは上の空だ。だが、イリヨナは女王としての責務がある。行かなければならない。行かなければならないのだが、後ろ髪を引かれていた。
「きちんと、うなされていること相談してくださいですの」
「わかったよ……君の言うとおりにするから……」
しばらく、イリヨナが着替える衣擦れの音がしていたが、不意に、俯いていたアシュデルは頬に触れられた。
「――また夜には来ますの」
「うん、待ってる」
ベッドに上がってきたイリヨナの熱が、すっと引いた。
どこまで男前なんだ?と思った。イリヨナは行ってきますのキスをしてくれたのだった。パタンと、扉が閉まる音がして、イリヨナの気配が部屋の中からなくなった。
イリヨナを見送って、アシュデルははあ……と大きなため息をついた。
これはもう、一緒に寝られない。無意識に彼女を全裸に剥いたあげく、所有印をつけまくったなんて、自分が信じられない。
「婚姻の証があればいいなんて、どうしてあんな許せるの?」
イリヨナは怒るが、それはアシュデルが触るからではない。許せば、イリヨナも止まれなくなるから怒るのだ。今でこれでは、正式に夫婦となったとき、どうなってしまうのか、アシュデルは自分が怖くもあった。
もう1度大きなため息をついて、アシュデルはいつものように精神統一を始めた。その矢先だった。部屋の扉が開いたのだ。
「おや?ご一緒ではありませんでしたか。アシュデル様」
聞き慣れた、落ち着いた男性の声がした。
「……ルッカサン?イリヨナ帰ってないの?」
「さようです。あなた様にも無断でとは、何かございましたかな?」
ゆったりと声が近づいてきた。
「……下世話な話なんだ……自分が信じられないよ……」
「おや?それは、めでたいですな」
情けなく項垂れるアシュデルに、ルッカサンはどこか嬉しそうに返してきた。
「ルッカサン、ボクでいいの?ボクは、大魔導なんて持て囃されてはいるけど、一介の花の精霊だよ?」
「何か、問題がございますかな?あなた様のことは、幼少のみぎりよりよくよく存じ上げております。女王陛下もそれはそれは想っておいでです。反対する理由がありましょうか?」
「……今は……自分のことすら満足にできない、お荷物だよ」
「女王陛下を救われた代償でございましょう?後ろめたく思うことはございません。それに、あなた様はここでは終わられないお方だ」
「ハハハ。まあね。ごめん、ちょっと落ち込んでたんだ。イリヨナには与えられてばかりだから、不甲斐なくて」
心眼を会得する。反属性の魔法だ、簡単でないことはわかっている。焦ることはないのだというのに、どうにも、不安が拭えない。
久しぶりに会ったルッカサンと、近況報告などを交えて談笑していると、部屋の外が騒がしくなった。
「――ってくださいですの!――様!」
イリヨナの声?ただ事ではないと身構えると、バンッと扉が乱暴に開けられた。
「おまえ!イリヨナになんてことしたんだよ!」
彼はいつも怒っている。スウッと頭が冷えていくのを、アシュデルは感じだ。怒りに燃えて部屋に突撃してきたのは、風の王の養子の次男であり、イリヨナの兄・レイシだった。状況はアシュデルには見えないが、ルッカサンの気配がスッと動くのが感じられた。
「女王陛下をお離しください。レイシ」
昔は”様”をつけていたと記憶していたが、今のルッカサンには敬意を払う相手ではなくなったようだ。
「ルッカサン?どうしてここにいるのですの?」
気配の位置からして、イリヨナはレイシの後ろにいるらしい。
「無断欠勤なさるからでございます」
ルッカサンは柔和な顔にきっと、うさんくさい笑顔を貼り付けているだろう。だが、声はとても冷たかった。
「ご、ごめんなさい!アシュデルの状態を、私の口からインファ兄様に――きゃあ!」
イリヨナが悲鳴を上げた。咄嗟にアシュデルは動こうとして、ルッカサンに腕を掴まれた。ベッドから落ちそうだったのかもしれない。
「そんなことより、おまえ、これはなんだ!」
これ。と言われても見えない。もっと具体的に言ってくれないかなぁ?と思っていると、ルッカサンが口を開いた。
「愛し合うさいつけられた、所有印だと存じますが、それがいかがいたしましたかな?」
……服で隠れない位置にもつけてたのか……。最低だなと、アシュデルは頭を抱えたくなったが、レイシに咎められる事ではない。
「レイシ、女王陛下をお離しください。淑女の腕をそのように掴み、袖をまくり上げて肌を見せるなど、紳士のすることではございません」
袖をまくり上げて肌……だって?アシュデルはイリヨナの服装を思い出していた。
彼女はミニスカートで、袖も肩を覆う程度のパフスリーブだ。まくり上げる袖など、ない。
それをまくり上げる?肩を露出させられている?
既婚の兄だとしても、それは……!アシュデルは、怒りが頂点に達するのを感じた。
やれやれ、困りましたね。イリヨナの腕を力任せに掴み拘束したあげく、アシュデルを怒りに満ちた瞳で睨んでいるレイシに、ルッカサンは心底呆れていた。
下賤の血……というと、慈悲深いリティルを貶めるようで気が引けるが、ルッカサンにとって、勝手に勘違いして勝手に身を滅ぼしていくグロウタースの民は、下賤以外のなにものでもない。
風の王・リティルの第2王子は、その下賤の血――人間の血の混じった精霊・混血精霊だ。目覚めた時から女王の腹心であるルッカサンは、混血精霊を見下していた。
なぜなら彼等は、自身の感情に周りを大災害規模で巻き込んで、そして破滅していくからだ。力も手に負えないほどに強く、現在15代目となる風の王も、何人狂った混血精霊にその尊い命を奪われたのかしれない。無能の女帝、初代翳りの女帝・ロミシュミルは、その様を楽しそうに眺めていたが、ルッカサンは吐き気がしていた。
敬愛するリティルの息子だというから、今まではその不遜な態度にも目をつぶってきたが、主君であるイリヨナに対する態度に、もう我慢の限界だ。しかし、どうしようもないバカとはいえ、相手は風の王の懐刀とまで言われている、風一家の主力の1人だ。戦いを知らないルッカサンには、実力行使はできない。
さて、どういたしましょう?影法師の精霊・ルッカサンにできるのは、精神破壊だけだ。
しかし、これをしてしまうと、さすがに奇跡の癒し姫のシェラにも、百華の治癒師のペオニサにも治せない。このままご臨終となってしまう。そんな愚行を、犯すことはできない。とするなら、そのうち駆けつけてくれるどなたかを待ちましょうか。と、ルッカサンはレイシを適当に牽制して時間を稼ごうと考えていた。
「――う……」
しかし、イリヨナをどう救出しようか、考えあぐねいていると、目の見えないアシュデルが背後で呻いた。
「アシュデル!?いけません!やめて!」
イリヨナが悲痛に叫んで、レイシの手を逃れようとするが、彼はまだ解放してくれない。ルッカサンは、アシュデルを振り返った。そして、ハッとした。アシュデルの開くことのない両の目から、血の涙が滴っていたのだ。そして、漂う闇の力!
「アシュデル様!おやめください!闇は!あなた様にとって毒でございます!」
そうなのだ。闇の力は、光の力を持つアシュデルには毒なのだ。しかし、心眼を会得するには、闇の力が不可欠で、アシュデルは無理をして、少しずつ慎重に闇の力に霊力を馴染ませている最中だった。
イリヨナとルッカサンの制止する声に、アシュデルもこれがいかに危険な事かは重々承知していた。アシュデルは大魔導だ。魔導のことなら教えられるほどに精通しているのだから。だが、イリヨナがレイシに何をされているのか、彼女の婚約者として見なければならないと思った。見えないままでは、どんなことをされているのか、誰かの言葉に惑わされるしかない。
そして、この場を治めなければと思った。
ルッカサンが、昔からレイシを快く思っていないことは知っていた。
闇の領域は、負の感情が世界を滅ぼさないように、集め、消化する役目を担っている。初代女帝が無能だったということもあるが、負の感情に常に晒される闇の領域は他の領域よりも荒れ果てていた。ルッカサンは、負の感情の殆どを生産するグロウタースの民を嫌っている。彼が、精神破壊を司る精霊だということもあるのだろうが、感情を制御できない者を見下している。
その最たるモノが、混血精霊だったのだ。
混血精霊が長く生きられない生き物だということは、アシュデルも学んで理解していた。精霊に近い力と、永遠の寿命。しかし、心はグロウタースの民。混血精霊達は、移りゆくグロウタースで心を病み、やがて化け物となって周囲を巻き込み大災害を引き起こしては、風の王に狩られてきた。今代のリティルも、その息子インファも、混血精霊を殺めている。殺める以外に、救いようがないのだ。ルッカサンがレイシに対して、なんとか思いとどまっていたのは、明るく笑うペオニサがいたからだ。
「あいつ、ああ見えていい奴だよ?」
当時、インファに言動のせいで警戒されていたペオニサは、レイシにいつか刺される勢いで嫌われていた。その彼が、闇の欠片もない笑顔で言うのだ。イリヨナの剣の師匠も務め、アシュデルを可愛がっていて、ゾナにも認められていたペオニサは、軽薄な服装と言動だが、柔和な顔ながら、厳格で厳しいルッカサンの信頼を得ていた。
ペオニサもアシュデルも風一家となった今、ルッカサンはペオニサが不当な扱いを受けていないか気にしていた。イリヨナに会いに、よく闇の城を訪れていたペオニサはいつも明るく笑って「楽しいよ?」としか言わないからだ。アシュデルも聞かれたが、アシュデルは放浪の精霊で風の城へは、目を失うまで滞在はおろかあまり帰ってもいなかったために、わからないとしか言いようがなかった。
その中でこの騒ぎだ。レイシは本当に、何の恨みがあるのだろうか?
ここでルッカサンが主君を守るために攻撃を仕掛ければ、勝つのはルッカサンだ。そして、レイシは死ぬ。ルッカサンの能力は良くも悪くも一撃必殺なのだから。そうなれば、正当防衛だったとしても、闇の城と風の城は遺恨を残すことになる。なぜならレイシは風一家で第2王子だ。そしてルッカサンは翳りの女帝の腹心なのだから。
この目が少しでも見えれば!とアシュデルが考えるのは当然だった。目が僅かでも見えれば、相手の位置を正確に知ることができれば、魔法でこの場を治められる。
「心眼は、読んで字のごとく、心の目を開く魔法だよ。イメージは、瞼を閉じたまま、目を開く感じかな?」
心眼を会得しているラスの、落ち着いた耳に心地いい声が蘇る。
イメージトレーニングはすでにすんでいる。あとは、闇の力と風の力を体に馴染ませるだけだ。固有魔法・魔書・デルバータを使いこなすアシュデルは、生まれ持った属性の力を捨てることに抵抗はない。風の力はすでに50パーセント物にしていた。
残るは闇だが、それが……厄介だった。
「くれぐれも、ラスかゾナがそばにいるときだけにしてください」と心配そうに警告してきたのは、インファだ。インファの――精霊大師範の言葉に背くことはしたくなかったが、アシュデルは男を見せるしかなかった。
瞼の裏の目を開くようにイメージすると、ボンヤリと、視界が明るくなるのを感じた。そして、瞳を細い刃で貫いたような痛みが、アシュデルを襲った。閉じそうになる目をこじ開けるように、徐々に開く。痛みに、脳さえも痺れるようだったが、白いだけだった視界に、次第に色が現れ始めた。誰かが叫んでいるが、声だということがわかるだけで、言語が理解できなかった。
もう少し……もう少しで……!曖昧すぎる輪郭の色が、人の形を結び始める。
君の顔が見たい……!見たいんだ……イリヨナ!
アシュデルの願いは、届かなかった。
ああ……遅かった。それが、駆けつけたラスの、1番始めに感じた感想だった。
レイシに腕を掴まれながらアシュデルに手を伸ばし泣き叫ぶイリヨナと、アシュデルを止めようとその肩を掴み声を荒げるルッカサンの姿。そして、血の涙と、口からも血を滴らせるアシュデルの姿。扉から飛んだラスは、一瞬でアシュデルの背後に回ると、手刀を首の後ろに落として意識を奪った。同時に駆け抜けたキラキラ輝く金色の風が、レイシの手からイリヨナを攫っていた。
「ぜぇはぁ――仰向けに寝かせて!」
開け放たれた扉に滑り込んできたペオニサが、息を切らせながら叫んだ。ルッカサンとラスは、ベッドに突っ伏しているアシュデルの体を慎重に仰向けに寝かせた。つんのめりながらペオニサが到着する。
「はあ……はあ……ああ、口の中は切れてるだけか……。問題は……目だよねぇ……」
呟いて、ペオニサは顔を上げた。目の前には、ルッカサン、ペオニサの隣にはラスがいた。インジュに確保されたイリヨナとレイシは、最初の位置から動いてはいなかった。
「見ない方がいいよ?」
ペオニサの瞳は真剣だった。
「というか、出てって。邪魔なんだ」
顔を上げたままペオニサの大きな手が、アシュデルの口から垂れた鮮血を拭い、同時に傷を癒やしているらしく、かざす手の平にボンヤリと緑色の光が灯っていた。アシュデルの容態は急激に悪くなっていっているのが、ルッカサンにもわかった。アシュデルの閉じた瞼を中心に、皮膚が黒く変色を始めていたからだ。
「おい!――」
「あんたが1番邪魔なんだ。それ以上言わせないでよ。ラス、インファ大至急連れ戻して」
治癒師の顔のペオニサには、逆らえない雰囲気がある。口を開きかけたレイシを黙らせ、ラスに短く指示を出した。
「わかった。ルッカサン、ペオニサに従うんだ」
ラスは、苦渋の表情を浮かべるルッカサンを促した。ルッカサンは悔しそうに瞳を伏せると「アシュデル様をお願いします」と言った。そんなルッカサンにペオニサはいつものように「任せなって!オレ結構やるからさ」と明るく笑った。
「ペオニサ!私――」
インジュの腕の中で、イリヨナが藻掻いた。
「イリヨナ、今はダメです」
「インジュ!お願いします!」
答えないペオニサに代わり、インジュが否と言い強引に、懇願するイリヨナは部屋の外へ連れ出されていった。
「アシュデル!アシュデル!」
インジュに抱きかかえられて連れ出されながら、イリヨナの目に、顔を上げないペオニサが、アシュデルの瞼を開くのが見えた。
黒く変色した血が、新たにアシュデルの顔を汚した。イリヨナは悲鳴をかみ殺した。
瞼の中、瞳があるはずのそこには、ただどす黒く汚れた血が溜まるばかりの、穴があるだけだった。
どれくらい時間が経ったのだろうか。
そんなに経ってはいないのだろうか。応接間のソファーでただただ座っていると、玄関ホールへ続く白い石の扉が開き、インファが飛び込んで来た。
「インファ兄様……!」
立ち上がったイリヨナは、すぐさまインジュに確保されていた。
「詳しいことはペオニサに!お願いします、お父さん」
インファは舞い降りないまま頷くと、もの凄い速さで城の奥へ続く扉を抜けていった。彼にしばし遅れ、開け放たれた玄関ホールへの扉を閉じてソファーへ飛んできたのは、リティルだった。
「……なんてメンバーだよ」
ソファーに集まった人々を見て、リティルはため息とともに呟いた。
「リティル様、申し訳ございません」
立ち上がり、深々と頭を下げたのはルッカサンだった。インジュに手を離されたイリヨナも、慌てて居住まいを正す。
「誰のせいでもねーよ。悪いなルッカサン、イリヨナ連れて帰ってくれねーか?」
「父様!?」
リティルの瞳には、怒りはなかった。ただ、イリヨナに向けられる瞳には同情があった。
「その痕、消えたら来いよ。その頃にはアシュデルも目が覚めてるはずだぜ?」
フフと、リティルは揶揄うような声色で苦笑する表情を作ると、トントンと自分の首を指さした。
イリヨナはハッとすると、両手で首を隠すように掴んだ。顔の温度がみるみる上昇するのがわかった。イリヨナは、普段剥き出しの腕と足にもキスマークがつけられているのを見て、咄嗟に魔法で袖とスカートの丈を長くして隠したのだが、首はしらなかった。
「はは、あいつに大事にされて、幸せだな、おまえ」
この痕を見てもその反応……!父様、大好きですの!とイリヨナは思ってしまい、こんな状態でも祝福してくれるリティルに、羞恥を感じつつもホワリと心が温かくなった。
「ああう……はい……。ではなくて!その……アシュデルのことなのですの。大人しく帰りますの。でも、お耳に入れたいことがありまして……」
イリヨナは両手で首を覆ったまま、言い辛そうに俯いた。
「ん?……そっか、なるほどな。レイシ、おまえは席外せ」
「はあ?なんでだよ!」
「二度、言わせるつもりかよ?それと、理由がわからねーほどバカになっちまったのか?」
イリヨナは「ひっ!」と上げたかった悲鳴を飲み込んだが、ビクッと身を振るわせてしまった。立っているイリヨナの隣に座っていたインジュは、小さくため息をついた。
リティルの瞳は、いつも以上に燃えるようだった。命を無慈悲に奪う死を導く王の瞳だった。レイシは息を飲むと。「フンッ!」と不機嫌そうに立ち上がり、ガラス戸を開けて、中庭へ出て行ってしまった。
「あ、あの……ごめんなさい!」
レイシを追いだしてしまったと、イリヨナは誰に謝っているのかわからなかったが、勢いよく頭を下げた。
「言っただろ?誰も悪くねーってな。アシュデルのことって、どうしたんだよ?」
レイシの隣にいたラスは、すでに紅茶を淹れるために席を立っていた。その、誰もいなくなったソファーに、リティルはストンッと腰を下ろした。
座れと促され、イリヨナとルッカサンはソファーへ腰を下ろした。
「アシュデルが、うなされていたのですの。起こしたのですけれど、本人は覚えていないみたいでして……。四天王のどなたかに相談してとは言っておいたのですけれど、軽くみて、話さないような気がしてしまって、帰る前に誰かに話しておこうと……」
「それで、廊下を歩いてたら、レイシに遭遇しちゃったんですかぁ?」
災難でしたねぇと、インジュが苦笑した。
「兄様にご挨拶したら、いきなりそれは何だ!と言われて怒鳴られて、わけもわからずアシュデルの部屋へ……」
それを聞いたリティルは、盛大にため息をついた。
「……だいたい状況は掴めたぜ?」
「はい、まあ。レイシ、イリヨナの首のそれ見て、カッとなってアシュデル君のところに行ったんですねぇ?」
インジュにフフと微笑まれて、イリヨナはいたたまれずに顔を赤くして俯いた。
「なぜあの者に意見されるのか、理解に苦しみますな。わたしは、帰ってこない女王陛下をお迎えにあがった次第です。アシュデル様のお部屋にいらっしゃらなかったので、少しお話を。そこへ、件の者が女王陛下を引きずってこられました」
ルッカサンは抑揚なく淡々と告げたが、その気配は怒り狂っていた。
「悪かったな、ルッカサン、うちの不良息子が礼節をかいて」
「わわわ私は大丈夫ですの!それより、あの……アシュデルは……どうして……」
「止めようとしたんですよぉ、ルッカサンとレイシを。アシュデル君は何も見えませんよねぇ?怒り狂ってレイシが来て、レイシにイリヨナが捕まってるのを察して心穏やかじゃいられませんよぉ?それに、レイシを嫌ってますよねぇ?ルッカサン。それはもっともなんでいいですけど、あの状況じゃ、あなたがレイシと対峙してましたよねぇ?あなたの能力何でしたっけ?使わせるわけにはいかないですよぉ。だとしたら、アシュデル君が魔法を使って、その場を何とかしようと思い詰めてもしかたないですねぇ」
見えない。ということが、アシュデルを追い詰めたのだと、イリヨナはやっとわかった。イリヨナには、なぜ魔導に精通しているアシュデルが、命を失うかもしれない愚行を侵したのか、わからなかったのだ。
レイシが、イリヨナに乱暴なのはいつものことだ。それを、イリヨナが甘んじて受けていることも知っている。イリヨナも、レイシの視界に入らないように努力はしているが、それでもぶつかってしまうことはある。アシュデルはいつも、イリヨナを抱きしめるばかりで、それに対して、意見したことはなかった。それなのに……と思っていた。
レイシの怒声と、イリヨナを放せと訴えるルッカサンの声、そして、イリヨナの上げてしまった悲鳴……見えないアシュデルは、イリヨナを救うために、ルッカサンがレイシを害すかもしれないという最悪の事態を想像してしまったのだ。ルッカサンは、それが間違いなくできる精霊だ。主君を守るためなら何でもする。アシュデルはそれを理解していた。
アシュデルは、あの場にいた全員を、守ろうとしてくれたのだ。
「光と闇は表裏一体。均衡を保つために引き合う四大元素とは違う。光と闇は、両方持つことは不可能な力だ。オレが六属性フルスロットルなのは、魂が6つあるからなんだ。それぞれの魂が違う属性を担ってる。ペオニサは、彼は本当に特殊な精霊だね。光と闇がフルスロットルで同居しても平気な体質なんだ。でも、アシュデルは違う。光を持ってる彼は、本来は闇に触れられない。それでも心眼を会得するために、光の力を持つ者にとっては、毒みたいな闇の力を、少しずつ取り込んで体に馴染ませている最中だった。それがいきなり、あんなふうに急激に取り込んだらどうなるか」
皆に紅茶を運んできたラスが、憂いを深くした表情で辛そうに瞳を伏せた。
「一気に毒が回って死んじゃいますねぇ。見ましたぁ?ラス。アシュデル君の眼球、溶けちゃってましたねぇ。相当痛かったと思いますよぉ?」
リティルは、痛いですむかよ!と思ったが、インジュにツッコんでもしかたがない。
「何かあったらオレを呼べって、言っておいたんだけどね」
ラスは寂しそうに笑った。
「治り……ます……?」
怖ず怖ずとイリヨナが問いかけた。
「治りますよぉ!治してるのペオニサですからねぇ。あの人凄いですよぉ?それに、お父さんが行きましたし、霊力を侵した闇の力は治まります。ってことです!ルッカサン、すみませんねぇ、アシュデル君をここへ預けておくのは、嫌だと思うんですけど、アシュデル君、風一家なんですよねぇ……」
申し訳なさそうに、インジュはルッカサンを伺った。
「存じ上げております。理解もしております。が、感情とはどうにもならないものですな」
ルッカサンは、柔和な顔は崩さずに、しかし、天井を仰いでふーと息を吐いた。
「大人って、こういうとき損ですよねぇ……」
インジュは申し訳なさそうにため息をついた。
「まったくですな。女王陛下、お暇しましょう」
ルッカサンは、インジュに穏やかな苦笑を返すと、イリヨナを促して立ち上がった。
「はい……。皆さん、アシュデルのこと、お願いしますですの……」
ルッカサンに従い、イリヨナも立ち上がった。そして、深々とお辞儀した。
闇の精霊が帰ってしまうと、リティルは、ソファーに埋まってしまうのではないかと思えるほど深いため息をついた。
「もう、何とかしないとですかねぇ。リティル、自分を責めちゃダメですよぉ?」
気落ちと疲労が見て取れるリティルを正面から伺いながら、インジュは声をかけた。
「わかってる。けど、哀しいよな……。それに、気がつかなかった自分に、腹が立つぜ」
「風の精霊って、精霊的年齢20以下って、リティルが産まれる前はいなかったんです?」
悔しそうなリティルに、インジュは慰めるような声色で声をかけて。
「オレも……本来なら25だったんだ……」
「そうだったんです?予定より早く風の王になったって聞いてましたけど、お父さんと同じ年齢だったんですかぁ。イリヨナの年齢詐欺は父親譲りだったんですねぇ」
イリヨナは見た目が年齢詐欺だ。中身は大人だ。彼女はアシュデルと引き離されるとき取り乱したが、1度も泣かなかった。この応接間で、始終気丈にしていた。
結婚しているくせに、所有印を見たくらいで怒鳴るレイシとは雲泥の差だ。インジュも、今回のことは呆れてしまったくらいだ。そういうインジュは、受精させる力の精霊であるため、事故を起こさない戒めに魔法をかけているため、不能だ。
「はは。オレは、おまえから見て、大人なのかよ?」
「大人ですよぉ?十代じゃぁないですねぇ。ボクは、リティルのそばにいますよぉ?どんな、刃を握るとしても、その手を支えますから、壊れないでくださいよぉ?」
「インジュ……あいつらはオレの得物だ」
『あいつら』もう、そこまできてるんですかぁ。インジュも哀しい。それを押し込めて、インジュはフワリと柔らかく慰めるように笑った。
「わかってますよぉ。ちゃんと、みんなの腕は折りますから、心配しないでくださいよぉ」
「ありがとな。嫌なこと頼んで、ごめんな……」
「気にしないでくださいよぉ。持ちつ持たれつなんですからぁ」
フワリと飛んでリティルの隣に舞い降りたインジュは、ギュッとリティルを抱きしめた。
「でも、ちゃんと見守ってくださいよぉ?きっとみんな、まだ、何とかなると思ってますからねぇ?」
リティルは、力なく、インジュの腕の中で頷いた。
アシュデルのベッドの傍らで、ペオニサは泣いていた。
その背に触れ、インファが寄り添っている。
「インファぁ……なんで……なんでこんな……」
ペオニサには、傷は癒やせても、傷ついた霊力構造を正すこと、毒や発熱などの状態異常は癒やせない。できて、痛みを和らげる程度だ。アシュデルの目は癒やしきった。駆けつけたインファが、霊力を侵していた闇を抜き取り、馴染ませられる分は馴染ませた。
だが、アシュデルの体や精神が受けた衝撃は凄まじく、それは、高熱となって現れた。この高熱では、意識は、熱が下がるまで戻らないだろう。意識がないだけ、まだマシですとインファは慰めてくれたが、こういう事態にならないように、気を配っていたはずだった。
「大丈夫です。アシュデルは問題なく目覚めます。オレが保証しますよ。ですから今は、そばにいられるだけいましょう」
副官なのに「オレもいます」と休暇宣言してしまうインファに、ツッコむこともペオニサは忘れていた。
「うん……うん……アシュデル……」
弟の手を握って泣くペオニサの背を、インファは撫でた。
それにしても。インファはチラリと扉を盗み見た。
この部屋に、レイシは入れないはずだった。イリヨナが一緒にいたとしても、レイシは絶対に入れないはずだったのだ。そういう魔法を、この部屋にはかけている。それをかけたのはインファだ。
そんな魔法をかけたのは、視力を失ったアシュデルをレイシが訪ね、リティルが何も起こらないように助けに行ったからだ。また同じようなことがあり、リティルの手を煩わせるわけにはいかなかった。かといって、始終監視しているわけにもいかない。だからこその結界だった。インファの結界魔法は、この城で3番目に強い。敗れるとしたら、インファよりも強い結界魔法が使える2人だけだ。
母である花の姫・シェラ。妹である風の姫巫女・インリー。
どこまでが狙いだったのか。彼女は、アシュデルの命をとるつもりだったのか、それとも、ただイリヨナを傷つけたかったのか、それとも、2人に嫌がらせしたかっただけなのか、悩むところだ。
だが、どの程度の悪意だったのかは問題ではなく、アシュデルは命を落としかけ、たまたま居合わせたルッカサンはレイシを殺す口実を手に入れた。
それは、本位だろうか?
とはいえ、アシュデルは全力で助けるし、ルッカサンに申し開きもしない。そろそろ、守るのはやめよう。
「……オレもまた、風ですね……」
思わず、呟いてしまった。
「インファぁ……もしかしてなくても、自分を薄情だとか思ってんの?」
涙を拭いながら、ペオニサがいつの間にか見下ろしていた。
違うと否定してもよかった。だが、彼には心を偽れない。偽りたくないのだ。彼を心配させ、傷つけることになっても。
「そうですね。情に厚いと言われていますが、オレは冷徹でも知られる、風の王の副官です。今、この現状で誰を守ればいいのか、オレは決めねばなりません」
偽りたくないと言ったが、言ったそばから偽ってしまった。
決めねばなりませんではない。もう、決めている。
「アシュデルやオレを、選ばなくていいよ!元はと言えば、オレのせいだ!」
そんなあなただから、オレは手放せないんです。インファは、力なくも笑うしかなかった。
「ペオニサ……オレには、あなたの方が必要です」
「ダメだよ!オレだって怒るよ?憎んだりするよ?同じだって!オレだって、レイシと同じだよ!」
インファは、首を振った。
「違います。あなたは、明らかに違いますよ。あなたは関係者の中で唯一、レイシを憎んではいません」
「イリヨナちゃんだって!」
「イリヨナは、おそらくレイシを見限りましたよ。妹は、自分が傷つくのはいいんです。しかし、アシュデルを傷つける者は許せないでしょう。イリヨナは翳りの女帝です。おそらく一生、その事実は誰にも見せません。伴侶となるアシュデルにもです。ただし、アシュデルが気がつかないかどうかは、別の問題ですが」
インファは、優しい笑みをペオニサに向けた。
「憎しみへと変わる怒りを抱けないのは、あなたの、光と闇を百パーセント使える能力の歪みです。ですが、感情の一部が壊れているあなたに、オレは救われてしまいました。すみません……」
「壊れてないよ!失礼だなぁ!オレの小説読んでるでしょ!?ドロドロの愛憎劇だって書いてるじゃない!……最後はハッピーエンドだけど……脇役はそれで身を滅ぼしたりしてるし……」
同じ同じ!とペオニサは強がるように声を荒げた。そんなペオニサに、インファはフフ笑った。彼が、どうあっても慰めようとしてくれていることがわかるからだ。
「ペオニサ、あなたはレイシをどう見ているんですか?」
「え?ええと……不器用だなぁって。イリヨナちゃんのこと、とっくに認めてるのに、なんでああなっちゃうんだろうねぇ?……あれ?もしかして……」
「どうしました?」
「え?うーん……もしかしてだけど、レイシのあれ、演技とか?」
「………………そうは見えませんが……」
さすがにペオニサも「だよね」とインファを肯定した。
「ねえ、今回のこれ、なんでこうなったの?」
「インジュはあなたに聞けと言っていましたが、しらないんですか?」
「オレが来たときは、終わってたよ。それからアシュデルにつきっきりで、それでインファが来た。インファこそ、聞いてないの?」
「ここへ直行しましたから。応接間にいた面々を見て、レイシが何かしたことだけはわかりました」
「ふーん?って今気がついたけど、インファ、近い。オレ、思考回路止まる」
インファは未だにペオニサの背に手を添えて、そして寄り添っていた。ペオニサはそんなインファから離れるように、あからさまに上半身を離す。しかしインファはお構いなしに、彼の背から手を放さなかった。これは、インファのペオニサに対する嫌がらせだ。
「休めていいですね。そろそろラスが情報収集を終えていますかね……」
「まだ休めないって!あああでも嬉しくて拒めない!」
「そのまま喜んでいてください。ラスを呼びましょう。ペオニサ、一緒に聞いてください」
「いいけど、オレさ、インファ」
真面目な声色に、インファはやっとペオニサの背から手を放し、健全な距離に離れた。彼の顔を見上げると、彼は真剣な眼差しでこう言った。
「オレ、レイシはいい奴だと思ってるよ?」
だから、あなたを手放せないと言っているんです。インファは、泣きそうになるのを堪え損なった。
「――っ…………ありがとう……ございます……」
いつの頃からか、四天王と心が離れてしまったが、レイシは今でも、インファの大事な弟だった。
混血精霊の末路が、救いようのない悲惨なものでしかなくても、守りたいと、今でも思っている。
――レイシ、あなたを信じていてもいいですか?
向かう運命が変えられなくとも、今は、ペオニサの言葉に許されたかった。
レイシは、白夜の中に佇む城を訪れていた。
「おやぁ?レイシ、こんばんは」
玉座の上に置かれたクッションの上に、小柄な少年が、猫のように丸まって乗っていた。
「こんばんは。ルキ、頼みたいことがあるんだ」
ルキ。と呼ばれた少年は、眠そうな目をパチパチと数回瞬きした。
「何かなぁ?」
ルキは、トーーンと、クッションの上からレイシの前まで、数段の低い階段を猫のような軽い身のこなしで飛び降りてきた。彼の頭には、黒猫の耳が生え、尻には2股に分かれた毛足の長い尾が生えていた。
「アシュデルってヤツ、知ってるよね?あいつの夢を、覗いてほしいんだ」
「アシュデル……ああ、ペオニサの弟の。ふーん?いつの夢?」
ルキは、ニヤァと感情の読めない笑みを浮かべて、レイシの顔を舐めるように見上げてきた。なかなか思い出せないような素振りをしたが、これは嘘だとレイシは知っている。
なぜならルキは、アシュデルとそれなりに深い間柄なのだから。
「それは――」と言いかけると、2つの気配が生まれてレイシはハッと身構えた。
「その話よぉ、オレ様達にも噛ませろやぁ」
現れたのは、白銀髪で黒ずくめの大男と、その肩に乗っかる美少女だった。
「こんばんは、ケルディアス、カルシエーナ」
常夜の国・ルキルースの支配者、幻夢帝・ルキは、彼等の姿にニンマリと耳まで裂けた笑みを作った。