一章 闇の中掴む光
意識は覚醒しているはずなのに、あたりは真っ暗だった。
手を動かすと、誰かにその手が握られたのがわかった。
「目が覚めたか?」
声のする方へ顔を向けるが、相変わらず真っ暗だった。
「リティルだよ。わかるか?アシュデル」
リティルの声はこうやって聞くと、若いことは確かなのだが、落ち着いていてずっと聞いていたくなるような安心感があった。
「ああ、うん。イリヨナは?」
「悪いな、城へ一旦帰した。顔は元に戻ったぜ?」
「そう。よかった……」
真っ暗で、縦も横もわからなかった。「体、起こしてやるよ」と言って、リティルが背中に手を添えて動かしてくれたのがわかった。
「ごめんな」
「何が?この目のこと?ボクの両目で、イリヨナが消滅しないなら安いと思うよ?」
それは本当だ。顔に触れてみると、目の上に包帯が巻いてあるようだ。
「おまえ、そういうヤツだよな。あの闇、あいつを浸食してたのか?」
「うん。気がつかないイリヨナが信じられないよ。それとも、知ってて知らないフリしてたのかなぁ」
だから話し合う余裕はなかったのだ。罪の罰の取り合いをしている場合ではなかったのだ。突きつけられてるアシュデルが行動した方が、イリヨナの危機を早く回避できるとしただけだ。
「……オレは……無力だな……」
「ハハハ、あなたは無力なんかじゃないよ。見守るって、凄く大変だよ。ごめん。謝らないといけないのは、ボク達の方だ。好き勝手やって、あなたを傷つけてる。イリヨナが王の力を使ってしまったのは、ボクのせいだ。あの時、ボクが、今回救えないなら生け贄の命を背負って、死んでいくその人を踏み越えて進むなんて言ったから」
あれを、イリヨナに言うことはなかったのだ。救えない人の死など、グロウタースに暮らしているアシュデルはこれまでに何度も遭遇した。大魔導と謂われていても、力及ばないことは多々ある。今回はうら若き女性が犠牲者に選ばれていただけのことだ。
「それを言わせたのは、オレだぜ?」
「違うよ。リティル様は初めから警告してくれてたでしょう?インファ兄に泣いてほしくなかったボクと、兄さんのエゴだ」
兄さん――花の十兄妹、長男、牡丹の精霊・ペオニサ。風の城唯一の非戦闘員で、最高の治癒の力を持つ王妃、花の姫・シェラに次ぐ治癒能力を男性でありながら持つ、治癒師だ。
彼は、雷帝・インファの為に生まれた精霊であるということ、花の精霊は風の精霊のためなら散ることさえいとわないという精霊としての理によって、すべてからインファを守ろうとしてしまう。
巨人の捻れ角島を、生け贄を捧げるという血塗られた行為から解放しようと、孤立無援で調べていたインファは、ペオニサにそのことを知られてしまい、たまたまあの島に拠点を持っていたアシュデルは、インファの孤独と危ういペオニサを見かねて、深みへと足を進めてしまった。
手を引いてもよかったのだ。
珊瑚の姿をした精霊獣と同調し、霊力を奪われた時点で、手を引くべきだった。それをしなかったのは、確信へ近づいていて、なおかつ今回のタイムリミットが近づいていたからだ。生け贄として選ばれる、女性の命を忍びないと思ったから。アシュデルに良心と力がなければこの目を失うことはなかったのだ。
「ボクにもう少し勇気があって、イリヨナを遠ざけていなければ、彼女はボクに、助言するだけでよかった。ぼくが、イリヨナから逃げなければよかったんだ」
「勇気がなかったのは、イリヨナもだぜ?変身して別人を装っておまえに会ってたんだろ?あいつが力を使ったときだって『ツアナさん』だったんだからな」
闇は、産まれる命の姿形を決定する力だ。その為、闇の王であるイリヨナは変身魔法に長けている。イリヨナとしてアシュデルの前に立つ勇気を持てなかった彼女は、人間の女性・ツアナを演じて、アシュデルの営んでいた時計屋を訪れていたのだった。
「ハハハ、そうだね。気がつかなかったボクもボクだけど」
イリヨナへの恋心を諦めようとしていたアシュデルは、ツアナがイリヨナに似ていることを感じていながら、同一人物だと気がつかなかった。彼女がイリヨナだと悟ったのは、イリヨナが闇の王の力を使ってしまったその時だった。あの時は、まさか、越権行為とみなされて彼女が罰を受けるなど、思ってもみなかった。
「なあ、おまえは、イリヨナを……」
欲してくれるのか?大魔導の彼なら、この目に視力が戻らないことはわかるだろう。そして、戻す方法にもいずれたどり着く。それでも、アシュデルはイリヨナを選んでくれるのだろうか?
「くれるの?リティル様」
「あいつ、耐えられねーかもしれないぜ?」
「耐えてくれるだけ、そばにいたい。ダメだと思ったら返すから、あなたの娘、イリヨナをボクにください」
「……おまえ……男前だよ……」
「それは誤解だと思う。ボクは、陰気な中年男だよ。猫背だし、目つきが……って目つきもう関係ないね。この目を抜きにしても、いいの?イリヨナの魂、もらってもいい?」
アシュデルがイリヨナと婚姻を結びたいと、そう言ってくれたのは初めてかもしれない。
2人両思いなのは見ていてわかったが、2人はそれを口にしないようにしていたように見えていたからだ。
リティルは、フッと微笑んだ。おまえしかいねーよ。そんな顔をしていたのだが、視力を失ったアシュデルは見えない。
「おまえになら、やれるよ。アシュデル、本音で付き合ってやってくれ。あいつは……本音を子供っぽい言い訳で隠しちまう。オレが暴いてもいいんだけどな。おまえに丸裸にされたほうが、いいだろ?」
「お義父さんとする会話じゃないね。ただ、少しの間、自分の事で手一杯になるかも」
「そこまで薄情じゃねーよ。みんな味方だぜ?今も、部屋の外で待ってる奴らがいるからな。入ってこいよ!」
気配が増えたような気がしたが、誰が入ってきたのか、アシュデルにはわからなかった。声を聞き逃さないようにしようと耳を澄ましていると、いきなり力強くて温かいモノにぶつかられた。それも、1人ではないような気がした。
「アシュデルー!全然起きないから心配したんだぞー!」
これは、ペオニサ兄さんだ。全然起きないって、今はいつなんだろう?とアシュデルは思ってしまった。
明るい緑色の半端な長さの髪の、両耳の上に牡丹の花を1つずつ咲かせたとても華やかな人。アシュデルに負けない身長で、戦わないのに男らしい体格をしている。
「ペオニサの治癒でも治らないなんて、世界の罰って呪いか呪詛並みなんですねぇ!大丈夫ですかぁ?どこか痛くないですかぁ?ボクも治しますよぉ?」
これはインジュだ。体術で戦うくせに、アシュデルから見ても華奢だなぁと思える体格なのに、ペオニサよりも強い力で抱きしめてきた。
「痛くはないけど、苦しいよ。インジュが治してくれたの?どうやって目を潰そうか迷って、扉が破られそうだったから、物理でいったら思った以上に痛かったよ」
オウギワシはその優美な見た目に反して怪力だ。魔法で強化した扉を、物理で壊されるなんて、修行が足りなかったかなぁ?と、このままの勢いで飛び込んで来られたら怖いなぁと思ってしまった。
現に、あの太くて鋭いかぎ爪が扉を破壊して、ズボッとこちら側に現れたときは「わあ!」と悲鳴を上げそうになった。
「物理!こ、怖いですねぇアシュデル君!怒らせちゃいけない人ですねぇ!はい、綺麗に潰れてたんで治しておきました」
怖い?絶対明るく笑っているだろうこの人に、恐怖なんかあるんだろうか。と思っていたのだが、僅かに声に揺らぎを感じるような気がした。この人は恐怖を、笑うことで誤魔化して封じ込めているのかもしれない。気後れするほど輝くように強いと思っていたインジュも、ボクと同じでいろいろ怖いのかもしれないなと、少しだけ心が近づいた気がした。
「あ、インジュ離れて、オレ診るから」
温かかった2人分の体温が離れてしまい、少し心細くなる。それがわかったのか、女性のような手がアシュデルの手を握ってきた。これは、インジュの手だ。背中に柔らかな感触があり、どうやらベッドに寝かされたことを知った。
耳元で、シュルッという音が聞こえ、包帯が解かれた事がわかった。
「感触あるか?」
瞼に触れられている?「うん」と答えると、ペオニサはしばらく黙った。
「瞳が、何の反応も示さないなぁ。なんか、力を抜き取られたみたいな感じだ。違和感ない?何か感じない?」
「何も見えないだけかなぁ?他の五感は正常だと思うよ。え?誰?」
フワッと額に誰かが触れた。手の感触が、インジュとペオニサとは違う。かといってリティルでもなさそうだ。
誰だろう?拳で戦うくせに、すべすべしたインジュとも、グロウタースで官能小説家をしている為に、万年筆を握るせいか、少し指先がかさついたペオニサとも違う。
硬い指先だ。戦い続けてきた者の手?
「……インファ兄?もしかしなくても、責任感じてる?」
インファのことは、幼少期からよく知っている。年の離れた妹を気にかけ、風の王の副官という忙しい立場にありながら、よく闇の城に来てくれていた。イリヨナとほぼ同じ時期に産まれたアシュデルは、イリヨナの話し相手として、途中からは学友として、花の王家族が居候している太陽の城よりも闇の城に殆どいた。太陽の城と闇の城をほぼ毎日アシュデルを連れて往復してくれていたのは、ペオニサだった。故に、アシュデルは、面倒を見続けてくれたペオニサはもとより、イリヨナと共に気にかけ続けてくれたインファの事も、兄だと認識していた。
「何か喋って?教えてよ。怒ってる?インファ兄」
ハアと、ため息が降ってきた。
「……怒れたら、苦労しませんよ。アシュデル……1人で背負う必要がありましたか?」
「これが、失われるはずだった命を救った代償なら、安いと思うけどなぁ。ボクは大魔導だ。ここでは終わらない。視力に代わる目を手に入れる。手伝ってくれるよね?」
「もちろんだ」
思いもよらない声だった。
「……父さん……?」
人が動くような音がして、鼻孔を藤の香りがくすぐった。この香りは、花の王・ジュールだ。アシュデルは、うさんくさいほど優しい面立ちをした、女性を魅了してやまなかっただろうなと思える、華やかな若い男性の姿をした父王の姿を思い出していた。
慕っている兄のペオニサに、産まれる前から人体実験したことを知って、その所業が大魔導と呼ばれるほど魔法に精通していたアシュデルには許せなくて、ずっと疎遠だ。たまにフラリとグロウタースにある工房に現れたが、冷たい態度をとり続けていた。
「風一家の精鋭を躱し、目を潰したと聞いたぞ?思い切ったことをするヤツだ。風の心を傷つけ、愛する者の心にまで傷を負わせたとは、まったく……花の精霊か?おまえは」
「ちょっと、親父!」
厳しい正論を並べ立てる父と、それを止めようとするペオニサ。その構図を何度見たことか。
「ハハハ、その通りすぎて、怒りも湧かないよ」
許さないと嫌っている態度を取りながらも、アシュデルは父の言葉を軽んじたことはない。賢魔王という異名を持つ、イシュラース1の賢人を侮ったことなどない。憎いと、心からそう思えたらよかった。憎みながら尊敬してしまうなんて、自分の心ながら本当に思い通りにならない。父と顔を合わせると、虫の居所で沸き起こる感情が変わってしまって制御できず、アシュデルの中で1番会いたくない相手なのだった。
「翳りの女帝を捨てる選択をしなかったことだけは、褒めてやろう。よく守ったな」
「どうかな?これからイリヨナを傷つけ続けるボクは、潔く身を引いた方がよかったかもしれないよ?」
意地悪な本音を述べれば、父王・ジュールは思いもよらないことを言い出した。
「おまえの目、わたしが必ず取り戻してやる。だがその前に、元のように生活できるようにせねばな」
「できる?それ」
ジュールの頼もしい言葉に、平気で水を差したのはペオニサだ。
「治癒しかできんバカは黙ってみていろ。リャリス、ゾナ、知恵を借りるぞ」
思った以上に人が集まっていたようだ。
アシュデルは風一家の一員だが、一家に加わってから数えるほどしか風の城に帰ってきていない。交流がある者も、中核を担う風の精霊達と、グロウタースに気兼ねなく出入りできる精霊に限られていた。まともに言葉を交わしたことのない者までいるしまつだ。
そんな名ばかり一家で、敵対とまではいかないにしても、快く思っていない者もいるというのに、こんなイシュラースの三賢者そろい踏みで、風四天王も執事のラスはいないようだが、こんな破格の待遇いいのだろうか。
「ちょっといいかな?」
……ラス、いたの?控えめだが、存在感のある若い男性の声がアシュデルの耳に届いた。
風四天王、執事、旋律の精霊・ラス。風の上級精霊でありながら、六属性フルスロットルという、属性に縛られているはずの精霊という種族の理を破壊している人。アシュデルも六属性が使えるが、それは、魔導書に魔法の構築式を記し、そこから呼び出すという使い方でそれを可能にしているにすぎない。それをラスは、地でやってのける。魔導士としては非常に気になる人だ。
「出しゃばってごめん。視力に頼らずに景色を見る方法、知っているんだ」
温かな声のリティルとは違う、冷ややかで落ち着いた声色が近づいてきた。
「ああ、おまえ、人間時代それ使ってたよな?心眼って言ったか?」
すぐそばで、リティルの声がした。アシュデルが体を起こそうとすると、男性の手が手伝ってくれた。無言ではさすがに誰だかわからないが「ありがとう」と礼を言う。「いいえ」と帰ってきた声は、インファだった。
「うん。オレは事情があって、瞳を隠さなければならなかった。だけど、肉弾戦が得意な魔導士でもあったから広い視界が必要だったんだ。あの頃は、目をつぶっていても鮮明に景色が見えていたよ」
「でもそれ、風と闇の複合魔法ですよねぇ?アシュデル君、風魔法はどうなんです?」
花ですよねぇ?とインジュが口を挟んできた。
「花の精霊は、大地寄りなのだったね。だが、やってやれないことはないと、オレは思うがね」
この人の声は、こんなに冷ややかだったのだと初めて知った。声を聞くだけで冷静になれる。そんな声だ。
魔導書に宿る意志、魔人という存在である、時の魔道書・ゾナ。
イシュラースの三賢者の末席ながら、数々の魔法に精通し、初見でも構築式をもの凄い速さで紐解いてしまう脅威の魔導士。時という不可侵の力を司るがゆえ、風の王の預かりで隠者だ。大賢者の異名を持つ、アシュデルの師だ。
「うん。アシュデルならやれると思う。オレよりも力のある魔導士だから」
それ言いすぎ。ラスは魔導の天才だ。対するボクは秀才だと思っている。
「危険じゃない?オレ、2反属性フルスロットルだからわかるけど、反属性は共鳴すると結構痛いよ?」
痛いのか、反属性。話には聞いていたが、アシュデルは反属性を重ねて使うような初歩的なミスは犯した事がないので、その反動の衝撃をしらない。
だが、覚悟した方がよさそうだ。
花の精霊は、1属性から逸脱した精霊だが、その基本は、光と大地だ。
ラスの言った『心眼』は風と闇。そのどちらもアシュデルの基本属性とは反属性だ。
「おまえは魔法の扱いが雑だからな!特異体質なのだ。いい加減使いこなせ」
すかさず飛ぶ賢魔王・ジュールの檄。
「うるさいなぁ!オレ戦闘系じゃないの!無茶言わないでよ!だいたいなんで、光と闇ってこんなに相性悪いわけ?手が融解するかと思ったよ」
投げられた言葉を受け取って即投げ返すペオニサ。ついでに失言してないか?とアシュデルは静かに聞いていた。
風と大地はともかく、光と闇は魔導において続けて使ってもいけない禁断の反属性だ。手がなくなるだけで済めばそれは、かなりいや奇跡に近い運の良さだと思う。
「待ってください。ペオニサ、力をそんな使い方をしなければならない事態に陥った事がある。とそういうことですか?」
副官として一家を守るインファが、聞き捨てならないと反応する。
「うっわ!え……?ええと……な、なんの話かなぁ……?オレ、治癒と防御以外からっきしだよ?攻撃魔法になんて……」
途端に言い淀むペオニサ。
光と闇の重ね掛けに輪をかけて、攻撃魔法?これ、インファ兄の怒りは免れないんじゃ?ペオニサの凄まじいまでの癒やしの力は、相手の血によって穢され威力が落ちてしまう。故に彼は、非戦闘員なのだ。
インファは、彼を狩りに同行させることに細心の注意を払っていた。強敵と対するときは、いかに風の精霊であっても人数を揃えたとしても、傷を負わない保証はない。采配を担当するインファは、一家の怪我の状況なども把握している。それを隠されたのでは、今後に生かせない。インファの怒りはもっともだ。
「使ったんですね?インジュ、ラス、どちらですか?」
剣呑そのものとなったインファに水を向けられたのは、補佐官と執事だった。そういえば、インファはペオニサを風四天王以外とは組ませないらしい。なぜなのかは、城にいたことのないアシュデルにはわからないことだったが。
「ボクですよぉ。すみません。言い訳はしません」
潔いインジュ。でも、どうして隠したんだろう?とアシュデルの疑問はつきなかったが、さすがに口は挟めなかった。
「インジュは悪くないって!オレが黙っといてってお願いしたんだって!」
ペオニサが庇うのもいつものことだ。とすると、次ぎに口を開くのは……
「あはは。ペオニサ……インファに隠し事はダメだよ?でも、インファ、今はそれくらいにして」
控えめながら確かな存在感を放つラス。ペオニサの軽率な行動を諫めつつ、インファをヤンワリと慰める。
この4人って、バランスいいなぁ。幼少期からよく知っている4人の会話に、アシュデルは耳を傾けて、安心している心に気がついた。
「わかりました。ペオニサ、あとで話しましょう」
「うっ……はい……」
インファに厳しい口調で言われ、項垂れるペオニサ。これも、一家としての2人では日常なのだろう。その昔、インファに警戒されて口もまともに聞いてもらえなかったペオニサが、こんなに気にかけてもらえている現在に、アシュデルは改めて幸せだなと思った。
「失礼しました。アシュデル大丈夫ですか?休みますか?」
自分では気がつかなかったが、どこかおかしいのだろうか。インファの手が額に触れるのを感じた。
「まだ大丈夫。ここ、窓ある?開けてほしいんだけど、いいかな?」
答えが返ってくる前に、誰かが窓を開けてくれたらしい。少しヒンヤリとした風が吹き込んできた。
「……もしかして、今、夜?」
アシュデルは風の匂いで、朝か、昼か、夜かくらいはわかる。
「ああ、深夜だな」
シレッと、ジュールの声が告げた。
「あのさぁ……それ、早く言って……」
深夜?深夜って言った?どうして深夜に、これだけの人達がケロッと起きてるの!?驚愕と恐縮で目眩がしたアシュデルに、リティルが言った。
「何時だってな、構わなかったんだ。おまえな、無茶するから熱が引かなくてシェラが泣きそうだったんだぜ?」
「え?シェラ様、ここにいる?」
「寝てるぜ。さすがに疲れたと思うぜ?ペオニサとインジュが代わるって言っても聞かなくてな、寝ずの番だったからな」
目覚めてすぐリティルが気がついたということは、リティルもずっと寝ていないのでは?と勘ぐって、アシュデルは頭を抱えたくなった。自分がどんな状態だったのか、まったく今の今まで気を失っていたアシュデルには、わかるはずもなかった。風の王妃・シェラは、イリヨナの母親だ。闇の城でイリヨナと一緒にいたアシュデルにとっても、もう1人の母のような人だ。彼女ももしかすると、息子のように思ってくれているかもしれない。そんな人に、心配をかけてしまったことが、今更悔やまれた。
「……慣れないことはするものじゃないね……」
「そうだよ!なんだよ!?あの大立ち回り!あんなマネできるなんて知らなかったよ!?」
ペオニサの声が耳に痛い。
大量の蝶の幻術と化身と変身のコンボ。大して力は使っていないが、初めて使った魔法だったために、代わる代わる立ちはだかった皆を出し抜けたにすぎない。運がよかっただけだ。
「ははは……蒸し返さないで……あれ、もうできる気がしないから」
「ハハハハ!あれ、みんな凹んでたな!おまえ、普段動作ゆっくりなのに、あんな動けるんだな!」
ずっと傍観していたリティルは、アシュデルの幻術魔法に翻弄される皆を見ていた。しゃべりもゆったりなアシュデルが、あれだけ機敏に動けるとはしらなかった。彼は、攻撃魔法も使える魔導士だ。当然と言えば当然の動きなのかもしれないが、やはりグロウタースに殆どいる彼のことを、リティルは戦闘で使う気がなかったために、どれほどの戦闘能力があるのかあえて詮索はしていなかったのだ。それは、他の3人の四天王も同じだった。だから出し抜かれてのだ。
「無理……もう無理だから、やめて」
「あれ、カマイタチっていうんですねぇ。初めて見ましたよぉ。あれ、イシュラースにいるんです?」
やめて……食いついてこないで。インジュの明るい声が、今は頭に響く。
「風の領域にいない?昔、ルッカサンに習ったよ」
精霊獣図鑑という本が図書室にあり、アシュデルはルッカサンに聞いたのだ。彼は柔和な顔に笑みを貼り付けたまま「クーデターの手駒に使えないかと、その昔勉強しまして、知識だけは豊富でございます」と薄ら寒いことを言っていた。
アシュデルは「へえ、興味あるから教えて」とせがみ、特に気になったものは本物を観察しに行ったりした。あの頃は、父・ジュールともわだかまりがなくて、ジュールが付き合ってくれたことが思い出されて、苦い気持ちになった。
ジュールは精霊獣をおびき寄せるのが上手かった。幼かったアシュデルは無邪気にせがんだりもした。かまいたちもそうやって実物を見たその1つだったのだ。
苦い思い出だが、こんなところでその知識が役立つとは思わなかった。
「へえ、精霊獣に興味湧いちゃいまし――」
「おっひさー!ねえねえねえ、美形中年の顔面グチャグチャにしていいって聞いたんだけどさー、どこにいるのー?」
誰?とアシュデルは、突然インジュの声を遮って響いた幼い子供の声に顔を上げた。
風一家が、風一家と呼ばれているのには、所以がある。
風の城に住まう精霊が、風の精霊ばかりではないからだ。
イシュラースは、太陽王の統治する昼の国・セクルースと、幻夢帝の統治する常夜の国・ルキルースという2つの国から成っているのだが、セクルースに属する風の城には、ルキルースの精霊も暮らしている。例えば、インファの妻である雷帝妃・セリアは、宝石の精霊でルキルースの精霊だ。
そして、この毒の精霊・ナシャもルキルースの精霊だった。
「アッシュ?なになにどうしたのー?」
彼はアシュデルと同じ放浪の精霊だ。グロウタースの拠点を転々とするアシュデルとは違い、旅ガラスだが。
グロウタースの様々な土地に拠点を置くアシュデルに興味を持ち、まだ風一家に所属していなかったアシュデルのもとをよく訪れてくれた。彼とは直通の通信器を交換しているほどの仲だ。小さな少年の姿をした、額に捻れた白い角と、尻に白い馬の尻尾を生やした精霊だ。
「ああ、ナシャ、久しぶり」
「目、どうしたの?」
戯けるような口調だったナシャの声が、とたんに硬質になり至近距離でした。
どうやら、顔を覗き込まれているようだ。
「あ、ちょっとね」
言葉を濁すとナシャは低く言った。
「死神の毒、どこで冒されたの?」
「ナシャ、死神の毒とはなんですか?」
アシュデルの疑問を代わりに口にしたのは、インファだった。
「……治らない病の総称。グロウタースで何度か見掛けたー。アッシュ、目はもう諦めたほうがいいねー。見えるようにはならないよ」
「それは、覚悟してたからいい」と言おうとしていた。
「そんな……」
その、泣きそうな絶望した声は、とても小さかった。しかし、アシュデルには聞こえていた。
「イリヨナ?」
アシュデルの声で、皆の気配が動くのを感じた。
「イリヨナ?どこ?いるの?イリヨナ!」
部屋の入り口にいたイリヨナは、アシュデルの声に答えることができなかった。足が、勝手に踵を返す。そばに行きたかったのに、いけなかった。
心のどこかで、許されるような気がしていた。それを、打ち砕かれた。
アシュデルの瞳から光を奪ってしまった。彼から世界を、奪ってしまった!永遠に!!イリヨナは走り出していた。
走っていた足と、腕、体に何かが絡んできて、イリヨナは後ろに引っ張られて引き倒されていた。
「どこへ行くの?逃げるのか?アシュデルをあんなにしておいて、逃げるの?」
冷ややかな少女のようなみずみずしさのある声がかけられ、イリヨナは廊下に転がったまま見上げた。そこに立っていたのは、ゾワゾワと動く濡羽色の髪をした、黒い簡素なワンピースを着た美少女だった。滴る血のような赤い瞳が、怒りを浮かべてイリヨナを睨んでいた。
「カルシエーナ……姉様……」
破壊の精霊・カルシエーナ。風の王・リティルを父と慕い、養女となったイリヨナの血の繋がらない姉だ。
風の王夫妻を傷つけた女の欠片から生まれたイリヨナの存在を、容認できずにいる。それを知っているイリヨナは、姉ともう1人の兄の心を慮って、皆無というくらい風の城の敷居をまたがないのだ。
「アシュデルが呼んでる。会って」
グイッと生き物のように動く髪が、イリヨナを引き立てた。
「姉様……!カルシー姉様!嫌ですの!」
会ってどうなる?なんと声をかけたらいい?アシュデルは、闇に覆われた顔を治すために、その両目を捧げてしまった。あの、濡れたような艶のある綺麗な瞳に、2度と映してはもらえない。それを知り、彼から世界を奪ってしまった罪を突きつけられながら、彼のそばにいる勇気はイリヨナにはなかった。
突きつけられた現実を受け入れる覚悟が、まだ、決まらなかった。
「何言ってんだよ!」
肩を掴まれ、イリヨナはダンッと壁に背を押しつけられていた。衝撃に、溜まっていた涙の雫が散った。ハッと顔を上げると、目の前には、怒りと憎しみを滲ませた紫色の瞳があった。
風の王・リティルの養子の次男、空の翼・レイシ。イリヨナを認めていない、もう1人の兄だった。
「おまえのせいだろ!謝りもしないのかよ!」
謝って、どうなるのですの?イリヨナが受けるべき咎を代わりに受けて、永遠に光を失ったあの人に、何を言ったらいいのか、何も言葉は浮かばなかった。
グロウタースで殆どの時間を過ごしているアシュデルは、時計や装飾品を作ってはそれを売り、グロウタースの民に混じって生活していた。それは、様々な土地の空気を感じていたいからだと、そう言っていた。
あの目ではもう、物を作り出すことはできないだろう。もう、様々な土地の風景すら見ることは叶わないのだ!
アシュデルから奪ってしまったモノは、彼の世界そのものだ。謝罪のしようもない、大きな罪だ。
許されない……許されないのだ!
「消えろ」
イリヨナは涙に濡れた黒い瞳で、レイシを力なく見上げた。
「おまえは、みんな不幸にする。消えろ!」
――ああ……そうだ……私が消えれば……アシュデルの引き受けた罪は消える……
闇のような真っ暗な想いが、イリヨナの心を塗りつぶしていった。アシュデルと再会しなければよかった。心がなくなってしまうまで、目をそらし続ければよかった!
「はあ、それでどうにかなるのならば、そんな簡単なことはない。手を放せ、レイシ」
ため息とともに、静かで低い、とてつもなく威圧感のある声がした。
「部屋へ戻れ。おまえ達の所業、リティルに報告させてもらう」
レイシにぞんざいに手を放され、イリヨナはズルズルと壁を滑りながら膝を折っていた。夜に沈む草が、イリヨナの剥き出しの足にチクチクと当たる。
どうやら、外まで出てきていたらしい。
「なんで、そいつの肩を持つの?」
やめて、ノインにそんな口をきかないで。レイシの怒りが庇ったノインに向くのを感じて、イリヨナは声に出せないままただ座り込むしかなかった。
「わからないか?アシュデルの選択で、1番傷ついたのが誰なのか、おまえ達にはそんなことすらわからないのか?」
庇われる資格なんてない。もっと他に、やりようがあった。アシュデル達を助ける方法は、王の力を使う以外にあったはずだ。それなのに、軽率だった。
「傷ついたからって、それが何?アシュデルはこいつの為にやったんだろ?だったら、そばにいるのが筋なんじゃないのかよ!」
ノインは揺るがない。そんなノインの態度に、オレが間違ってるのかよ!とレイシはさらに苛立った。
「一理あるが、な。そんな単純なモノではない。おまえ達とここで問答するつもりはない。部屋へ戻れ」
ちっ!とレイシは舌打ちすると、高圧的な態度を崩さないノインを睨み、カルシエーナとともに去って行った。
2人が行ってしまうと、ノインが膝を折ってきた。彼の、仮面の奥の、インファによく似た切れ長の濡羽色の瞳が、気遣わしげにイリヨナを伺っていた。
「大丈夫か?レイシめ、ここまですることはないだろうに」
レイシに掴まれた肩が今更痛み出した。折れてはいないだろうが、打撲くらいにはなっているだろう。
「私のせいですの……アシュデルに、会わなければ……」
レイシの言ったことが正しいことは、イリヨナにもわかる。彼の言った言葉が、強かっただけだ。きっと、レイシは、妻のインリーが同じような目に遭っても、そばにいられる強さがあるのだ。それが、イリヨナにはない。ただ、それだけだ。
「無理をするな。アシュデルには言い分があるだろうが、直視しがたい現実だ。帰るのならば送るが?」
ノインは優しい手つきで、立とうとしたイリヨナを手伝ってくれた。肩だけではなく、足と腕にも痛みを感じた。なぜ、公平なはずのノインは、レイシを追い返し、イリヨナに優しくしてくれるのだろうか。アシュデルに会わない方がいいのだろうか。イリヨナは、ノインの優しさを邪推してしまった。
「ありがとうございますですの。でも……1人で帰れますの」
「今の君を、1人にはできない」
力の精霊・ノインの簡潔な物言いに、イリヨナは小さく息を吐いた。
こんな大人な人とイリヨナが、精霊的年齢が同じなどと、誰が思うだろうか。
「……ナシャの言ったことは、本当の事ですの?」
ノインは、何を知れと言っているのだろうか。城に帰ることはとめないが、どうあってもついてくるようだ。彼にも、レイシやカルシエーナと同じく、伝えたいことがあるのかもしれない。
イリヨナは、問うていた。
「確かめてはいないが、おそらく。ただ、アシュデルには些細なことのようだ」
「そんなはずは、ありませんの……」
「今はな。幼少期の彼しか知らないが、あの落ち着きようは、ある程度想定していたと見ていいだろう。現状に抗うつもりのようだが、君は少し休むか?」
イリヨナは答えられなかった。
「受け入れがたくとも、君も立ち上がる。オレはそれを知っている。アシュデルも、そんな君を待つと思うが?」
「私は、そんな強くは……」
「強い必要があるのか?」
「え?」
意外な言葉に、イリヨナはノインを見上げた。
「淡々としているアシュデルのほうが、君に謝罪をしたいと思っているはずだ。恐怖しているのは、おそらくアシュデルのほうだろう」
ノインはどこか面白がるような、そんな瞳をした。大事ではないというかのような彼の態度にも、打ちひしがれたイリヨナは沈むばかりで何も考えられはしなかった。
「なぜ……ですの……?」
「わからないか?君を失うと、気が気ではないだろう」
「私は……そばにいて、いい、のですの……?」
泣きたくないのに、堪えるそばから涙が零れ落ちた。
「ほら、懸念は当たっている。どんな取り乱しているか、見に行ってみるか?声をかけなければ、彼は気がつかない」
ノインの大きな手が優しくて、涙するイリヨナは思わず頷いていた。
アシュデルのいる部屋は、広大な風の城に数多ある、客室の1つだ。
それは、彼がここに居ついている精霊ではないということと、アシュデルが倒れた時そばにはインジュしかいず、怪物並みの握力だが華奢なインジュでは、アシュデルの細くても巨体といえるその体を運べなかったからだ。
ノインと戻ると、扉はイリヨナが来たときのまま開け放されていた。
しばし待てと言われ、イリヨナは部屋の中が見えない位置に立ち止まった。
「ノイン、イリヨナは?」
ノインが戸口へ立つと、すぐさまリティルの声がした。そして、ヒョイッとリティルが廊下を覗いた。イリヨナは逃げたくなる足を何とか動かさないように留まった。
「衝撃的な言葉だったからな。取り乱したが、今は落ち着いている。そっとしておいてやれ」
「わかった。ありがとな、兄貴」
イリヨナを見ていたリティルは部屋の中へ顔を引っ込めた。そして、ノインが手招いた。イリヨナは、怖ず怖ずと戸口へ立った。
「最悪だ……あの人、どうして間が悪いかなぁ……この目が治らないことなんて、どうでもいいのに……」
ベッドでは、苦悩するように両手で顔を覆うアシュデルがいた。そんな彼を慰めるように、その背を撫でているのはインジュだった。
「それは、ないんじゃないんです?ボクも引くくらい、衝撃的でしたよぉ?」
苦笑しながらも明るい声で、インジュが言った。
「もお!おまえ体大きいんだからさぁ、ベッドから落っこちないでくれる?戻すの大変なんだよ!インファを押し倒すなんて、羨ましいんだよ!」
ペオニサが僅かに息を弾ませながら、アシュデルの頭をグリグリと力任せに撫でた。
「兄さん……ボク今余裕ないから、返しに困ること言わないでくれる?ごめんね、インファ兄、押しつぶしたみたいで」
イリヨナの声がして、きっと逃げるだろう彼女を追いかけようとして、アシュデルは見事にベッドから落ちていた。落ちることを阻止しようとしたインファが巻き込まれて、下敷きになったのだった。「イリヨナ!イリヨナ!」と叫ぶアシュデルを「落ち着けって!」とペオニサがインファから退かせようとしたが、取り乱したアシュデルは暴れて、数人がかりでベッドに戻して今に至る。
「あなたが取り乱す姿は初めて見ましたから、驚きましたが問題ありませんよ?」
インファの様子はわからないが、怪我をしていたとしてもとっくにペオニサかインジュが治しているだろう。声の感じからは、まったく普段通りで何も感じ取れなかった。
「ごめん……イリヨナ、帰ったよね?」
「どうかな?」
アシュデルに答えたのは、苦笑するラスだ。
皆の視線が戸口に立つイリヨナに向けられたが、目の見えないアシュデルは知るよしもない。先ほどまで、溢れるほどにいた一家が、今は四天王とペオニサだけになっていることにイリヨナはやっと気がついた。
「アシュデル、1つ聞きたい。貴殿はどれくらいの条件を想定していた?」
イリヨナを置いて部屋に入ったノインが、ズバリと問うた。
「その声……ノイン?ボクのために力を使ったことが原因だったなら、ボクの命くらいまでは想定してたよ」
衝撃の上に衝撃を受けて、俯いて両手を強く握りしめて震えるイリヨナの体を、リティルが宥めるように横から抱いた。
「それは、賭けられた方はたまったものではないな」
ノインの声には、咎めるような音が混じっていた。
「だね。そうだった場合は、死を偽装していたね。あとは、両腕とか両足?なくなっても大して困らないなって思ってたけど、両目だったね」
「困らないんです?」
インジュは本当に?と言いたげだ。
「うん。義肢で何とかなるしね。目も、まあ、何とかなるかなぁ。ちょっと苦労しそうだけど」
「落ち着いてますねぇ」
それは皮肉だろうか?さっき取り乱したけど?とインジュに苦笑を返し、アシュデルは言葉を続けた。
「イリヨナが闇に飲まれてブラックホール化するより、何が来たってそれ以上に悪い事なんてないでしょう?こっちの方が気が気じゃなかったよ。自分の状態、わかってなかったのかなぁ?あの人、時々抜けてるんだよ。けど……これで婚姻どころじゃなくなったなぁ」
「それが1番堪える……」とアシュデルは立てた膝に顔を埋めた。
「どうしてです?イリヨナ、そのうち来ると思いますよぉ?あれでいて、根性ありますからねぇ」
チラッとインジュはイリヨナに意地悪な視線を向けると、手招いてみた。
あ、来た。ほら、根性あるんですよねぇ。躊躇いがちに、だがゆっくりと部屋の中に入ってくるイリヨナの様子に、インジュはほくそ笑んだ。
それにしても……何かありましたねぇ?インジュは、近くにきたイリヨナのドレスから覗く首筋に紫色の痣があるのを見て、顔をしかめた。
首というより肩?腕とあと……足。アシュデルの目が見えなくてよかったなと、インファ達に目配せすると、ペオニサがそっととんできて傷を癒やした。
「絶対怒ってる……目を治すまでおあずけだって言われる……」
イリヨナの存在に気がつかないアシュデルは、情けない声で呟いた。
「言うかなぁ?」
ペオニサはイリヨナを伺ったが、彼女は俯いたまま反応を示さなかった。
「絶対言う。素でボクを困らせるんだ。せっかくリティル様に許しもらったのに」
イリヨナが顔を上げる。彼女にとっても、思わぬ言葉だったようだ。
驚いたペオニサが、イリヨナの代わりに声を上げていた。
「えっ!?いつの間に?おまえ、こんな状態でよくそんな話できるねぇ」
「イリヨナが風の城に行きたがらないから、ずっとできなかったんだ。結局イリヨナ抜きで話すはめになるなら、ボクが話通してもよかったよね……」
口ぶりからすると、以前から考えていたことらしい。だとすると、リティルに話をするのが遅い。アシュデルは、普段動作は緩慢だが、行動力はあるのだ。
「だまし討ちすると、あいつ怖いぜ?」
「大丈夫。魂くれるまでプロポーズし続けるから。でも、しばらくボクは動けないからなぁ……。反属性かぁ……イリヨナに内緒にしてくれる?」
それは無理ですね。インジュ達は項垂れるアシュデルを見つめながら、苦笑した。
「内緒にするんですか?」
「格好悪いでしょう?それに、心配させる。あとは、実は闇と相性、壊滅的に悪いって知られたくないんだ」
「ん?そうだったのかよ?」
幼少期、殆ど闇の城にいたアシュデルの言葉に、リティルでさえ意外そうな反応をした。先ほどアシュデルが使った変化は闇魔法だ。あれだけ華麗に使って相性が悪いとは、にわかには信じがたい。
「うん。ミモザは、春の花で太陽が大好きだからね。日に当たらないと、花が咲かなくなるんだよね。まあ、グロウタースじゃ関係ないからいいんだけど」
「おまえ……それ……」
ペオニサの絶句するような、絞り出すような声に、アシュデルは首を傾げた。
「え?何か問題ある?ああ、あるね……心眼会得するのに時間かかるなぁ……。うん?ああ、そうか、イリヨナが婚姻結んでくれたら、闇の、しかも王の力が手に入るよね?それ使えば、案外簡単なんじゃ――」
「結びませんの」
アシュデルの隣まで歩みを進めていたイリヨナが、俯いたまま呟いた。
「え?イ、イリヨナ?」
真横からしたイリヨナの声で、アシュデルはやっと彼女がいることに気がついた。
「結びませんの!アシュデルのバカああああああ!」
怒鳴られて、アシュデルは途端に慌てた。
「え?え?いつからいたの?」
「ノインと一緒に戻ってきたのですの!」
「え?本当に?じゃあ、今の全部――」
「聞いていましたの!」
怒鳴るイリヨナ。苦笑しながら、リティルは助け船を出してやる。
「アシュデル、おまえ、隠しすぎだぜ?けどまあ、言えねーよな。イリヨナ、話すか?それとも帰るか?」
「帰りますの」
冷たい声に、アシュデルは手遅れな事を感じた。
「イリヨナ……」
「心配したのですの……。バカ……アシュデルのバカ!」
怒っているのに、「心配した」と言ってくれる彼女に、愛は感じるが、アシュデルには引き留める言葉が思いつかないようだ。
「はは、じゃあ、送っていってやるよ」
「ええ!?いいの?イリヨナちゃん!」
ペオニサが焦ってくれる。だが、リティルはイリヨナを帰すことを決めている。王の一声では逆らえない。
「今話しても怒鳴るしかできねーってよ。頭ひやしてーんだよ。なあ?」
「……はい……ごめんなさいですの……」
「そうだね……イリヨナ、歩けるようになったら行くから、それまで待ってて」
彼女に何かあった?もちろん、傷つけたのはアシュデルだが、それだけではない何かがあるように感じられた。見えないアシュデルでは、イリヨナが話してくれなければわかりようがない。
「それは、約束しかねますの!父様、行きましょう!」
イリヨナはリティルの腕を取ると、足早に部屋を辞した。
グイグイリティルを引っ張って、そして、階段を降りるころ、イリヨナは立ち止まっていた。
「大丈夫か?あいつらにも絡まれたんだろ?」
知っていたのか。ノインに付き添われて戻ってきたらわかってしまうだろう。ノインはあまり動かない。その彼が連れ戻してきたのだ。察するだろう。
「来たかったら連絡しろよ?オレが迎えに行ってやるからな」
抱きしめて、優しく労るような父の声を聞きながら、イリヨナの脳裏にはレイシに言われた言葉がグルグルと回っていた。
「おまえは、みんな不幸にする。消えろ!」
本当にそうだ。イリヨナは、父に縋りながらそう思ってしまった。
闇は心を蝕んでいく。
ゆっくりと確実に。しかし、にじり寄る闇に気がつかない。気がついた時にはもう、飲まれているのだ。
アシュデルは、自分で体を起こせるようになっていた。未だ何も見えないが、自分が寝ているのか座っているのかくらいはわかるようになった。それでもベッドから何度か落っこちたので、リティルが大きなベッドのある部屋を用意してくれたようだ。見えないために、どんな部屋なのかはわからないが。
アシュデルは、ベッドの上に体を起こすと、意識を集中した。精神を研ぎ澄ませば、気配くらいは感じられることに気がついた。失った五感を補うように、他の五感が研ぎ澄まされている?なんだ、世界は案外優しいんだな。と、アシュデルは前向きだった。
「何か用?レイシ」
イリヨナを物理的に傷つけたようだが、それを咎める気はない。恨まれて当然と思っている彼女は、レイシとカルシエーナから受けるすべての痛みに耐えることを選んでいるのだから。だが、だからといって、アシュデルが心穏やかでいられるのか、それは別問題だが。
それにしても、イリヨナが黙して耐えている現状がどういうことなのか、この男はわかっているのだろうか。
「イリヨナと婚姻結ぶんだって?」
情報が早い。誰かが故意に知らせたのだろう。リティルだろうか。
「リティル様の許しは得たよ。君にも許しが必要だった?」
あれから何日経ったのだろうか。イリヨナは来てはくれない。
「なんで、あいつなんだよ?こんな目に遭って」
自分にも妻がいるのに、それを聞くの?アシュデルは呆れた。むしろ、ここまでして離れる選択は、ないと思う。むしろ、イリヨナを手に入れる為に、ここまでしたのだ。打算だ。大きなお世話だ。
「愛しているから」
どうして怒るんだろう?アシュデルには、レイシが不可解だった。顔を合わせれば傷つけてばかりなのに、こうやって、イリヨナに言い寄る男には牽制に来る。
「都合のいい言葉だよね。そう言えば、すべて許されるみたいだ。ボクの想いはもっと直接的だよ。イリヨナがほしい。身も心もね。心は手に入れてるから、あとは体だ――」
アシュデルは気配でわかったが、避けなかった。さすがに、見えない相手を殴るのは気が引けたらしい。レイシの拳は、瞳を閉ざしたアシュデルの顔前で止まっていた。
「――殴ればよかったのに。42のおっさんが、27の花盛りの女性を精神論で愛してるとか言う方が気色悪いと思うけどねぇ。君はボクとイリヨナをどうしたいの?ボクとしては、絶対にペオニサ兄さんより年上になると思ったから、27才にしたんだって言ってきた彼女を、手放す気はないんだけど?」
なにか言ってくれないかなぁ?大きな感情の起伏は感じられても、さすがに細かい所まではわからない。
精霊を両親に持つ希有な精霊――純血二世。12年の幼少期を経て、一人前の精霊となる。イリヨナとアシュデルは、一人前となるその前日まで、幼女と幼児の姿をしていた。だが、イリヨナは、大魔導とすでに呼ばれていたアシュデルが、幼児の姿のまま定着するとは思ってはいなかった。花の精霊だから、他の兄弟達と同じように、二十代半ばから後半の姿になると踏んで、背伸びしたのだ。しかし、容姿までは弄れなかったらしく、27才にしては童顔でとても背の低いレディとなってしまった。
アシュデルはというと、彼女の予想を裏切り、42才の、大魔導と名乗っても誰もが納得する姿となってしまった。背も、驚くほどに伸びてしまい、アシュデルはイリヨナに会えないと、グロウタースに情けなく逃げてしまったのだ。
「子供のままがよかったと、心底思ったよ。ボクの知ってる彼女は、小さな女の子で、そんな彼女なのにボクはほしくてたまらなくなった。再会した彼女は、本当に綺麗で、募らせた想いは、彼女を穢してばかりだった。男なんて、一皮剥けばそんなものだ。君は十代だったよね?まだ子供の君には、わからない感情かもしれないね」
精霊でなければとっくに押し倒している。そんなアシュデルを、イリヨナもすんなり受け入れただろう。
しかし、アシュデルとイリヨナは精霊だ。
婚姻を結ばなければ交わってはならない。交われば、相手のすべてを奪って、下手をすれば殺してしまうから。精霊の交わりは、霊力の交換という特別な魔法だ。相手の霊力を自分のモノにできる奇跡の魔法で、婚姻魔法とも呼ばれている。
精霊の婚姻は、婚姻の証という、自分の霊力で作ったアクセサリーを贈りあうことで成立する。それは、2人の間に愛がなくてもいい。精霊は、不老不死であるために、子を遺す必要がない。故に、恋愛感情がない。という者までいるのだ。
花を咲かせ実を結ぶ花の精霊であるアシュデルには、恋愛感情がある。
そして、グロウタースで産まれ育った特殊な精霊である15代目風の王・リティルにも、恋愛感情がある。彼の妻は花の姫で、人間からの転成精霊の為に、両親ともに愛を知っていた。その子供達、長兄、インファ、長女、インリー、そして次女、イリヨナにも恋愛感情が当たり前のようにある。
だから厄介だった。
婚姻を結んでしまいたいのに、できない事態に陥ったのだ。
好きだと、相手を大切にしたいという想いが邪魔をして、顔をなくしたイリヨナは、こんな気持ち悪い女は抱けないだろうと、言葉なく拒絶してきた。顔など見えなくても、イリヨナならよかったアシュデルだが、それを言ったところで納得しないことはわかっていたために、押し切ったりはできなかった。イリヨナが好きで、傷つけたくないからだ。
とはいえ
「早く落ちてほしいよ。いろいろ許すくせに。ボクの我慢を、何だと思ってるんだろう?イリヨナは」
「アシュデル、おまえ、容赦ねーな」
「あ、リティル様。嫌だなぁ、聞いた?今の」
どっちを助けに来たのだろうか?そんなことがアシュデルの脳裏をかすめた。
「ああ。おまえも男だな」
苦笑するリティルからは、たまたま通りがかったとそれしか感じられなかった。
そんなはずはない。リティルは、イリヨナを傷つけたらしいレイシとカルシエーナを、監視しているはずだからだ。放浪の精霊であるアシュデルは、レイシとカルシエーナとはまるで接点がない。そんなレイシが、アシュデルを訪ねるのは不自然だ。
会話は初めから聞かれていただろう。と、すると、レイシを助けに来たのかもしれない。彼は口を閉ざしてしまった。何か、追い詰めるような事を言ってしまったのかもしれない。子供相手に、大人げなかったな。とはいえ、イリヨナを傷つける彼にいい印象は抱けない。
「男だよ?浅ましいほどにね。やり過ぎるボクを止めるのは、いつもイリヨナだよ」
「バカバカしい」
レイシは、あけすけなアシュデルに興ざめして部屋を出ようとした。それを、リティルが腕を取って止めた。そして「気配消してここにいろ」と耳打ちされた。何を?と思ったが、父に逆らえずレイシは命令を聞いた。
しばらくすると、アシュデルが探るような素振りを見せて口を開いた。
「……レイシは?」
レイシの気配がなくなり、アシュデルは彼が出ていったのだと思ったのだ。
「ああ、悪かったな」
リティルが言うと、アシュデルはあからさまに緊張を解くように猫背を更に丸めた。自分が訪ねたことで、彼に負担をかけたことを、レイシはやっと気がついた。
「ううん。ボクは、殴られてもいいよ。それだけ、イリヨナを傷つけた。会いに行けなかったこともそうだ。ボクは、彼女が辛かったときに、そばにいなかった。それからずっと逃げ続けた。再会した時ももろくに話しもしないで追い返して、嫌われたくないって思ってくれてたイリヨナを裏切り続けて。ははは。今も、この目を利用してイリヨナを手に入れようとしてる。ボクがイリヨナに、誠実だったことなんてない」
自分を嘲笑うアシュデルが、欲望だけでなくイリヨナを大切にしていることを、レイシは感じた。それを、聞かせたかった?レイシは、リティルの真意をわからず隣の父を盗み見た。だが、それを知ったとしてもなんだというのか。2人を認めたくない気持ちは、微塵も揺らがないというのに。ただただイライラする!
「おまえは、どうして逃げるのをやめたんだよ?」
「イリヨナがボクを選んでくれたから、一緒に生きたいって思ったんだ。ボクは、イシュラースを出て、1人になった時、どうしようもない怒りと憎しみに苛まれた。どうにか、邪精霊にならずにいられたのは、イリヨナがいたからだ」
リティルの隣で、レイシが息を飲んだ。もう、気配は消しきれていないはずだが、アシュデルは気がついていないようだった。
「今でも、兄さんを殺そうとしたリフラク、兄さんを人体実験して産みだした父さんを許せない。今兄さんが幸せでも、大魔導として、父さんの所業を許すことは未来永劫できないと思う。リフラクにも同じだ。リティル様の慈悲で、記憶も力もリセットされて以前のあいつが死んだのだとしても、兄さんにした事を許せない。何も知らないあいつに、過去を暴露して復讐しそうだよ」
薙いだように静かだった。瞳を閉じたアシュデルは、内に滾るような怒りがあるようには到底見えなかった。
「それだけのことを、おまえもペオニサもリフラクにされたからな。納得いかなくて当然だぜ?けど、おまえはやらねーよ」
「どうして?ボクには力があるよ?やろうと思えば、やり直してるリフラクくらい、今度こそ、殺せると思うよ?」
「おまえには、憎しみよりも怒りよりも大切なモノがある。それを壊してまで闇に堕ちられるほど、おまえの想いは薄っぺらじゃねーよ。それと、ジュールも許されようとは思ってねーよ。むしろ、許してやるな」
「ハハハ、そういうところも憎らしいよ。魔王でいられるあの人が、ボクは憎い。何かの拍子に刺しそうなくらいには。でも、できない。リティル様の言うとおりだよ。こんなボクを、思い出の中のイリヨナが止め続けるんだ。澱のように溜まる悪意を消化して、闇を悪者にしないように治めるんだって、口癖だった。ボクの悪意で、大切な友達を苦しめたくない。ボクが邪精霊に堕ちたら、彼女を泣かせてしまう。結構必死だったんだ」
レイシは、声をあげそうになった。
アシュデルの閉じた瞳から、涙が流れ始めたからだ。
「イリヨナへの想いは、割と簡単に変わってしまった。あの頃とかけ離れてしまったボクが、彼女を欲してはいけないと思ったよ。いや、欲望の湧かなかった想いのままでいたかったんだ。変わってしまった想いは募る一方で、これが全部イリヨナにむかってしまったらと思うと、ただただ怖かった。ははは、情けないよね。ボクはずっと弱いままだ。イリヨナがいなければリティル様、ボクはあなたに狩られてた」
アシュデルの静かな告白に、レイシは薄ら寒さを感じていた。なぜ寒いのかわからなかった。リティルがアシュデルの何を聞かせたいのか、わからない。何かが理解することを邪魔しているようだった。
「イリヨナがほしいんだ。彼女を傷つけることになっても、ほしい。わかってるよ?ボクは、イリヨナが理想にしている何もかもからかけ離れてる。グロウタースを放浪する生き方、年齢、背の高さもすべてね。ボクでいいのかなぁ?って思っていることも勘づかれてるから、色々理由つけられて躱されてるんだ」
「ホントに落としてねーんだな」
リティルは意外だと思った。意外以外のなにものでもない。2人は本当に離れている間にも、脇目も振らずにお互いが好きだったのに、想いを通じ合わせた今も、婚姻を結ばない。
顔のせいか?とも思ったが、そんなもの、アシュデルが言葉巧みに言いくるめると思っていた。
アシュデルが行ききれない理由があるのだ。それをイリヨナも感じている。
いや、もしかすると、アシュデルは『あのこと』を知ったのかもしれない。しかし、知っているならなぜ?ともリティルには思えた。色々と暴露してくれてはいるが、まだ、言ってくれていないことがありそうだと、リティルは思った。
「そうだよ。ボクが縛られないようにとか思ってるんだよあの人!既成事実がほしいのは、ボクの方なのに、わかってくれないんだ!イリヨナは!」
「あいつも臆病だからな。おまえに似合わないと思ってるんだろうな」
「手に取るようにわかるよ。今すぐキスして押し倒して、こんなに好きだって知らしめたい」
「やってねーおまえが信じられねーよ。お互いに初心な年でもねーだろ?」
言動は子供っぽいが、イリヨナはあれでキチンと年相応だ。求め求められることに、尻込みしないと思う。何が、2人のブレーキになってるんだ?何の障害もないように、リティルには見えている。それとも『あのこと』が障害に?探りを入れようかとしたところだった。
「バカって言われるから」
「それで止まるのかよ?」
「凄い冷静になる。イリヨナのあれ、固有魔法かもね」
……考えすぎかもしれねーな。リティルは気が抜けた。
「バカだな」
「ははは、本当に。だから、ボクには必要なんだ。今も、怖くてたまらない。バカって罵ってほしい……そしたら頑張れる気がする」
「おまえ、ペオニサの弟だな」
「フェアリアのいないボクなんて、こんなものだよ。インファ兄に好きだ好きだってぶつかれる兄さんが羨ましい」
ペオニサは、インファの容姿が異常なまでに好きだ。「綺麗だ」「好きだ」と際どい言動を繰り返し、傍目には口説いているように見えるが、至って健全だ。インファはそんな際どいペオニサを友人と呼んで、隣に置いて頼りにしている。
「フェアリアって言うと怒らねーか?」
「怒ってるっていうか、照れてるんじゃないのかなぁ?自分でもいけないとは思うんだけど、たまにボクのフェアリアって言っちゃうんだよ……今も言ったけど。危ない人だよね?」
フェアリアとは、アシュデルが小物を作るときのブランドの1つだ。妖精少女のモチーフで、人気が高い。そのモデルは、幼少期のイリヨナで、少し大人になったフェアリアも人気だった。
「イリヨナは……ボクが世界を失ったと思ってると思う。物作りは好きだけど、そんな重要じゃない。全部、イリヨナに縋るためにやってたことだ。イリヨナがそばにいてくれるなら、なくしていい。なのに、そう言ってもたぶん通じない」
「まあそうだろうな。おまえ、ずっとなんだかんだ作ってたからな。心眼会得しろよ。あいつに認めさせるには、見せるしかねーよ。言葉じゃあいつは惑わせられねーよ」
「イリヨナは優しくないからね。ねえ、リティル様、せめてイリヨナに会えないかなぁ?もうちょっと限界。心が荒む。レイシに殴られたくなる。あの人も不器用だよね。未だにお兄さんしてるのに、どうしてああなの?」
「さあな。焦れったいだけなんじゃねーか?」
リティルは隣のレイシに視線を向けたが、息子は俯いて何かを考え込んでいるのか、視線に気がついていないようだった。
大丈夫か?こいつ。それは、ことある事に少し前から感じていることだった。だが、精霊的年齢が18才だとしても、いつまでも子供扱いしてはいられない。傍観しているが、そろそろそれも限界に近づいている。リティルもまた、風の王としての選択を迫られているのだ。それに気がついていないレイシが、父親として心配だ。
「焦れったいって?」
「おまえとなかなかくっつかねーから」
「恋人じゃいけないのかなぁ?ボクは今でも十分幸せだけど。あ、ちょっと不幸か。イリヨナが会いに来てくれないから。リティル様、遠慮してるのは、ボクに?それともレイシとカルシエーナに?」
「全部だろ?おまえが盲目になっちまったから、ペオニサにもインファにも関わる全員に遠慮してるんだぜ?」
「妖精じゃなくて女神だったんだ」
しらなかった!と淡々と言うアシュデルにリティルは苦笑するしかない。
「はは、壊れてるぜ?しっかりしろよ大魔導」
「会いたい……とにかく会いたい……怒鳴られてもいいから会いたい。歩けるようになったら行くなんて、強がらなけりゃよかった……。罪悪感あるなら毎日会いに来てって言えばよかった……」
「連れていってやろうか?」
「絶対追い返される。せめて自力で歩けるようにならないと。ボクが選んだことだ。うん。リティル様、ありがとう。ボクはまた進めるよ」
アシュデルは、口元に寂しげな笑みを浮かべた。
押しつぶされそうになる。
アシュデルの目が、もう治らないのだという現実に。
その運命を導いてしまったのが、自分なのだという事実に。
なぜ、ここへ来てしまったのだろうか。
アシュデルをこんなふうに傷つける未来を作った、忌まわしき場所。
グロウタース・巨人の捻れ角島。
アシュデルは、この地に、時計屋を開いていた。弟子という、特殊中級と呼ばれる精霊を造り、身の回りの世話をさせながら、時計を作っていた。
『フェアリア』――イリヨナが、妖精少女に出会ったのは、この店だ。
一際存在感のあったガラスのフェアリア。彼女を一目見て「私ですの!」と思った。戸惑った。この場所でアシュデルに再会したとき「もう、2度と会わない」と何の言葉も聞いてもらえずに追い返されたのだから。
彼の心に、友達という形でさえも残っていないのだと思った。
だが「好き」という想いが募って苦しくて『ツアナ』という架空の人物に変身して、アシュデルの店に通った。そして、ガラスのフェアリアに出会ったのだ。
同じ空間にいられるだけでよかった。それなのに、もの凄い値段だったガラスのフェアリアが売れてしまった。アシュデルは、彼女を売らないつもりだと思い込んでいただけに、ショックだった。イリヨナが会いに行ったから、彼は思い出さえも捨ててしまうつもりなのだと思って、思わず声をかけてしまった。
「あの、あそこにあった時計、売れてしまったんですか?」
アシュデルは淡々と「宝城十華に売りました」と言った。
宝城十華?え?ペオニサに?なぜですの?疑問が怒涛のように駆け巡った。
アシュデルをどうしても諦められなかったイリヨナは、アシュデルと繋がっている彼に相談して、インファが『ツアナ』に扮して会いに行くことを考えてくれたのだ。
宝城十華とは、グロウタースで官能小説家をしているペオニサのペンネームだ。巨人の捻れ角島には、彼の名義の出版社があり、宝城十華とその恋人のインファは有名人だった。
ペオニサとインファはグロウタースでは、同性の恋人を演じていることが多い。それは、何もしていなくても、なぜかそうやって見られてしまうからだ。グロウタースでは、精霊であることを明かせないため、当たり障りのない人物を演じて潜入するのだ。インファは、そう見られてしまうのなら開き直ればいいと、巨人の捻れ角島では堂々と宝城十華の恋人を演じていた。
話が脱線してしまったが、イリヨナの秘密を知るペオニサが、このタイミングでその時計を買ったことに驚いた。だが、それは作戦だったのだ。
一向にアシュデルに話しかけない『ツアナ』に業を煮やしたペオニサが仕掛けたことだったのだ。フェアリアのモデルが自分であることに勘づいているイリヨナが、売れるはずのないフェアリアがいなくなれば、性格上きっと話しかけると、画策したのだった。
そして、その目論見は成功する。
フェアリアのファンだと思ったアシュデルは、ラフスケッチまで見せてくれた。生き生きと笑う『フェアリア』達。幼少期、アシュデルと過ごした日々が蘇った。
そして、その絵から、好きだと、イリヨナが好きだとそう言われているような気がした。さすがに自意識過剰だと思ったのだが、アシュデルがガラスのフェアリアに代わるフェアリアを作ると描いたラフスケッチを見て、確信に変わった。少しだけ大人になったフェアリア。その笑顔が少しだけ哀しげだった。
「好きだよ、イリヨナ……でも……でも好きだ」
アシュデルが、何を葛藤しているのかわからなかった。理由があるのなら、彼はそれを言うはずなのに言わない理由がわからなくて、イリヨナだと明かして、この絵はなんなのかと問いただす勇気はついに出なかった。
ようは、知ることが怖くて逃げたのだ。
その後、島を巡る事案は解決され、イリヨナは顔を失ったが、アシュデルとは気持ちが通じた。あれから、巨人の捻れ角島にも、顔をなくしたために『ツアナ』に扮して、アシュデルを訪ねていた。アシュデルと恋人になれて浮かれていた。だから、アシュデルがなぜ想いに蓋をしてしまったのか、その理由を問いただすことを忘れていた。
このときのイリヨナも、アシュデルの目のことが悔しくて、その違和感を忘れていた。なぜ、アシュデルのいないこの島に、来ようと思ったのかわからない。
だが、イリヨナは、グロウタースにあるアシュデルの工房に行ける魔法の鍵『アッシュの鍵』を使って、巨人の捻れ角島の彼の工房へ来た。この鍵は本来、アシュデルのいる工房へ繋げてくれるものなのだが、イリヨナは願いを込めると行きたい工房へ行けることに気がついたのだった。使い方は簡単だ。行きたい工房を思いながら、手近な扉にこの鍵を使えばいい。鍵を回して扉を開ければ、その場所へ繋がる。
「え?」
扉を開けると、窓ガラスを透過して届いた柔らかな日の光を浴びて、時計を作っているらしい小柄な青年と目があった。
巨人の捻れ角島の工房を任されている、特殊中級のミモザだ。『ツアナ』とは顔見知りで、アシュデルと恋人関係だと知っている。ミモザは人懐っこい顔に、驚きを貼り付けて、イリヨナを凝視して固まっていた。
「あ、あの、ごめんなさい、急に、わ、私は――」
イリヨナは慌てて名乗ろうとした。イリヨナとして彼に会うのは初めてだったことを、思い出したのだ。
「待って!え?嘘……あなた、フェアリアですよね?」
フェアリア?イリヨナは、アシュデルに「ボクのフェアリア……」と囁かれたことを思い出して、瞬間顔が熱くなった。あの人は大抵、後ろから抱きすくめてきたときにそう囁く。
やめてほしい。切実にやめてほしい!婚姻を結んでいないのに、抱かれてもいいかな?という気分になってしまう。これまで、何度流されそうになったことか!本当にあの人は、自分の魅力をわかっていない。アシュデルはどうも、自分の事を陰気な中年男性と思っているようなのだ。
一見、猫背で、結わえ損なった髪が顔にかかって目つきも悪いために陰気に見えるが、違う!あの、深い緑色の瞳にはえも言われぬ色気があるのだ。あの瞳で見つめられて微笑まれたら、もう!色っぽすぎて腰が砕ける!
イリヨナはそんな目に、もう何度も遭っていた。危険を感じると「バカ!」と言って何とか冷静さを取り戻しているが、本当にもう、貞操の危機なのだ。寂しげで、熱なんかないような、無害そうな人だが、その実、とんでもない危険人物なのだ。アシュデルは!
「違うのです!翳りの女帝・イリヨナと申します!」
「イリヨナ……?あ!やっぱり師匠のフェアリア!うわー!凄い!本物!」
ミモザは感激したように満面の笑みを浮かべた。そして「待ってて!」と言って、乱雑に積まれた本の上から真新しいスケッチブックを取り上げて、イリヨナに渡してきた。
戸惑っていると、ミモザは「見て!」と目を輝かせていた。
イリヨナは、促されるままスケッチブックを開いた。
「!?」
手が震えた。描かれていたのは、イリヨナだったのだ。しかし、描かれる瞳の形が様々に異なっていた。
瞳の形が違うことを、疑問に思ったとでも思ったのだろうか、ミモザがすかさず言った。
「師匠、瞳の形がわからないって言ってました」
イリヨナがアシュデルにイリヨナの姿で会ったのは、一度きりだった。その時も、俯きがちで薄暗くて、顔をよく見られなかっただろう。
その後、イリヨナは今の今まで顔をなくしていた。今のイリヨナをアシュデルが描くことは不可能なはずだった。
ページをめくると、瞳を閉じたイリヨナがたくさん描かれていた。
「まさか……」
イリヨナは手が震えた。アシュデルは、闇に侵食されたイリヨナの顔を両手でよく触っていた。そうすると、最後にはキスされるのでドキドキな時間だったのだが、あれは、イリヨナの顔がどんな顔なのか、触れて確かめていたのだ。見た目には、凹凸もない穴のような顔だったが、触れるとキチンと顔の形がわかるのだ。
「師匠、最後にこれだ!って。あなたにソックリです!」
そのページに描かれていたのは、微笑むイリヨナそのものだった。その絵を凝視していると、ミモザがジッと見つめていることに気がついて、イリヨナは顔を上げた。
「ツアナさん……ですよね?」
「え?」
「あ!いいです!答えなくて。精霊ですもん。いろいろあります。でもよかった……。あなたを描くとき、師匠は哀しそうで、儚さに磨きがかかって色気が凄くて大丈夫か?って心配だったんです。顔が見たい。なんてことも言ってましたし。イリヨナさんがそのままでいるってことは、師匠の願いは叶ったって事ですもんね!」
ミモザは心底嬉しそうに笑っていた。
顔が、見たい?想像で絵を描くくらい願ってくれたのに、今、アシュデルの目は何も見えない。イリヨナの顔も、なにも、見えない……。
「アシュデル……!」
イリヨナはスケッチブックを手にしたまま、扉を戻っていた。閉じられた、ただ、壁に立てかけてあるだけの扉を見つめながら、ミモザがポツリと言った。
「師匠……本望だって言うんですよね?たとえ、イリヨナさんの顔が、師匠には見えなくても……」
イリヨナは鍵を抜き、再び願いを込めて回していた。
そして開く。
「アシュデル!」
アシュデルが4人くらい寝られそうな大きなベッドの上に、1人で座り込んでいた。顔を上げた彼の瞳は固く閉ざされている。
「イリヨナ?」
声だけで、彼は誰であるのか見抜いた。「どうして?」と呟くアシュデルに、イリヨナは抱きついていた。
「え?兄さんのイタズラってオチじゃないよね?」
戸惑うアシュデルは、なかなか背中に手を回してくれなかった。
「そんなイタズラをされているのですの?」
「いや、まだされてないけど……本当に、君?」
「疑り深いですの!これでも、信じられませんの?」
イリヨナは、見えないことで無防備なアシュデルの唇を奪っていた。直視しがたかっただろうに、アシュデルは顔のなかったイリヨナによくキスしてくれた。
覚えていてくれている?私の唇の形!
「――あ、本物だ」
途端に彼の長い腕が、イリヨナの小さくて華奢な体に絡まってきた。そして、なぜか口づけを躊躇うような素振りが見えて、苛立ったイリヨナはアシュデルの代わりに距離をゼロにした。
「ごめん……見えなくて……」
それで、キスできなかったと、アシュデルはシュンと眉毛を情けなく下げた。
「見えないなら、私がしますの!問題ありませんの」
「そう?ハハハ、どうしたの?怒ってるかと思ってたけど」
アシュデルはイリヨナを膝に乗せたまま、抱きしめて離してくれなかった。押しつけられた薄い胸に耳を当てながら、イリヨナはため息をついた。
「怒っているなんて、そんなレベルだと思いますの?」
怒気を強めて言えば、アシュデルは生ぬるい言葉を使ってきた。
「哀しい?」
「絶望ですの!」
この男は!本気で見限ってやろうかしら!?
「え?そんなレベルだった?」
伝わったのかもしれない。抱きしめる彼の腕に力がこもった。放さないと言われている気がした。たったこれだけで、絆されてしまう。惚れた弱みとはいったものだ。
「そうですの!どうして風一家の皆さんは自分のことを顧みないのですの!?こと、怪我に関しては治癒魔法があるからとでも思っていますでしょう!体を傷つけても平気なことが風一家に加わる条件だとでも言うのですの!?」
「ははは……そういうわけじゃないと思うけど。ボクのことは、本当に大丈夫だから、絶望するのはやめて?怒っても、悲しんでもいいから」
「ごめん、ごめん」とアシュデルはイリヨナの頭に、スリスリと頬をこすりつけてきた。
「巨人の捻れ角島に、行ってきたのですの」
「……あー……十華とインファ兄が、ボクのことを説明しに行ってくれたんだよね?時計屋も閉めてるけど、ミモザには会った?」
「街には、出ていませんの。気がついたら、工房に行っていて……ミモザとはイリヨナとして会うのは初めてでしたけれど、私を知っていましたの」
「あれ?どこで知ったんだろう?」
とぼけては……いないようだ。あれだけあからさまに描いていて、かいがいしく世話を焼くミモザが何も思わないわけはない。
「スケッチブックですの!私の名前まで知っていましたの!」
「スケッチ……ブック……?あー……あれ?もしかしなくても、見たよね?」
「ええ、師匠のフェアリア!と、もの凄く歓迎されましたの。恥ずかしくって……」
「えっと……引いた?」
「引きませんの!アシュデルが乙女チックなことは知っていますの。絶望が深まってしまいましたの……」
「いや、だから……」
「ごめんなさい」
「え!?イ、イリヨナ?」
イリヨナが謝罪を口にすると、途端にアシュデルは狼狽えた。謝罪も必要としないほど、この目のことがどうでもいいというのですの!?とイリヨナは苛立ったが、感情を納めた。
「私が力を使わなければ、アシュデルから世界を、奪わずにすみましたのに……。世界は、よくわかっていますの。何が、1番の罰になるのか、よくわかっていますの……」
そっちか。と、アシュデルはイリヨナに気がつかれないように、ホッと胸をなで下ろした。
やはり一緒にいられない。と言われるかと思ったのだ。
あああ、よかった!イリヨナが罪悪感を抱いているのなら、まだ大丈夫だと安堵していた。しかし、イリヨナの気が変わらないうちに、早くこの目を何とかしなくてはならないことには変わりはない。
「うん……君がこんなに悔やむなら、そうなんだろうね。イリヨナ、付き合って」
「え?はい。何をすればいいのですの?」
腕を放され、イリヨナは不安げにアシュデルを見上げた。
「大したことじゃない。そこにいるだけでいいよ」
そう穏やかに言うと、アシュデルは黙ってしまった。微動だにしないその姿に、イリヨナは思わず息を止めてしまった。
「――うん……何となく、形がわかる……かな?」
アシュデルが集中を解くのを感じて、イリヨナははああと息を吐いた。途端にアシュデルが「息止めてたの?」と苦笑した。
「今ね、心眼っていう特殊な魔法を修行中なんだ」
「心眼……知っていますの!」
「え?知ってるの?」
「闇魔法ですの!風の力もいりますけれど。実は、アシュデルのことを知ってルッカサンが調べてくれて、ツェルも助言してくれましたの。けれども、アシュデルは……」
闇の大樹・ツェル。闇の領域の歴史を知る語り部だ。闇の知識も豊富で、腹心のルッカサンと共に、イリヨナを支えてくれている黒豹の姿をした精霊獣だ。
「うん。ボクはバリバリ光属性。でも、何とかなるよ。闇も、30パーセントまではいけるはず」
「光を――ううん、何もないですの」
せっかく高めた光の力を、捨ててもいいのですの?イリヨナはその言葉を飲み込んでいた。
「言って。イリヨナ、今のボクは、言ってくれなければ何もわからない。気配も消されたらそこにいることすらわからない。声と感触だけが、ボクと世界を繋いでるんだ。今まで、目に頼って生きてきたから、それが大きな損失になってる。認めるよ。でも、嘆くことじゃない。ボクは大魔導だ。失ったモノを、魔導で代用してみせるよ?」
穏やかに淡々と、アシュデルは瞳の光を失う前と変わらなかった。虚勢かもしれなくても、それを汲む以外にイリヨナにできることはなかった。
「アシュデル……心眼は、闇と風の複合魔法ですの。アシュデルの得意な力は、光と大地。そのどちらの力も反属性で、闇と風を鍛えれば弱まって……しまいますの……。他に、方法はないのですの?罪が許されること!あなたばかりが失って、私の咎なのに、私には何の責も負わされていないことが、苦しいのですの」
「責なら背負ってるよ。君は、ボクの姿を見て、苦しんでいるでしょう?それこそが、力を使ってしまった君と、使わせてしまったボクへの罰なんだ。これは、ボクが負うべきモノだよ。魔法のことなら大丈夫。視力さえなんとかなれば『魔書・デルバータ』から呼び出せるから」
アシュデルの手が、彷徨うように伸ばされた。私を捜している?そう感じて、イリヨナはアシュデルの大きな手を両手で取った。途端に指が絡まってくる。
「あの魔導書は、固有魔法ですの?」
アシュデルは魔法を使うとき、決まって左手に分厚い魔道書を開く。そこから魔法を使っていることは、何となくイリヨナにもわかっていた。
「そうだよ。あれに書かれた魔法は、属性に関係なく使えるんだ。だから、ボクは君が思うほど多くは失わないよ」
「でも……」という想いをイリヨナは飲み込んだ。
「あと、どうか、冷静に聞いてほしいんだけど」
グッと、アシュデルが絡めた指に力を込めた。逃げると思っている?逃がさないと言われている気がした。
「ボクが、迷わず視力を賭けたのは、どうしてだと思う?」
唐突に問われ、イリヨナは瞳を瞬いた。
「私が、危険だったからではないのですの?」
「ごめん、言葉が足らなかったね。リティル様が提示した条件は2つあったでしょう?1つは、ボクの両目の視力。もう1つは、永遠に会えない契約をすること」
そういえば、2つあったような気がする。アシュデルが選ぶまでもないと言って行動してしまったから、忘れていた。
「ごめん。君に選ばせたら、間違いなく会えない契約すると思って、強硬手段に出た」
確かに、アシュデルに目を捧げさせるくらいなら、もう1つを選んだかもしれない。
「あれはね、君が罰を受け続けるか、解放されるかの選択だったんだ」
「え?どういうことですの?」
「君は、苦しむボクを見て、苦しみ続けてるでしょう?もう1つの条件を飲めば、苦しみは一時的なモノで済む。ボクを忘れれば、それですむから」
スウッと血の気が引いた。体が、氷のように固まる気がした。イリヨナは、アシュデルにグイッと引かれて彼の腕の中に抱き込まれていた。
「もう1つの条件を飲めば、君を傷つけ続けなくてもよくなって、ボクも築いてきた生活を失わずにすんだ」
「そちらを選ぶべきでは?」
アシュデルの世界を失わせずにすむならば、そちらを選んだほうがいいはずだ。そう思うのに、なぜか心が壊れそうなほどに痛い。零れ出た言葉も、感情を纏えなかった。
「選べない」
「なぜですの?」
「わからない?ボクのフェアリア。やっと許されたのに、君を手放せと、君は言うの?」
イリヨナはアシュデルの胸を押して隙間を作ると、彼の顔を見た。
「そんな価値が、私にあるというのですの!?私は、まだ、あなたのことを何も知らないに等しいのですの!あなたも同じではありませんの?」
「そうだね。過去の君しか知らないね」
「だったら……だったら!」
築いてきた世界とイリヨナ。アシュデルが選ぶべきは、前者ではないのか?と選ばれたイリヨナは思ってしまった。
「ボクにとって君は、闇を照らす光だ。君が翳りの女帝だったから、ボクはボクの闇に飲まれずに済んだ。ごめん。勝手に君を理由にして。でも、だから、ボクは君を失う以外の苦しみは平気だ。でも、君は違う」
距離を取られながらも放さなかったアシュデルの腕が、解かれた。
「君が押しつぶされそうになったら、リティル様は、迷わず君に選択を迫る。ノインは、強硬手段に出るかもね。途中で降りてはほしくはないけど、これ以上は無理だと思ったら、解放されて?」
なぜ、そんな淡々と言えるのか、イリヨナは惨めになって俯いた。
「そんな……勝手すぎますの……」
「うん。ごめん。まったくその通りだね」
「私を選んでも、私は……一緒にはいられませんのよ?」
闇の王としての責務に追われるイリヨナが、アシュデルのそばにいられる時間は少ない。翳りの女帝として、アシュデルを優先することはできないのだ。
「それはボクのセリフだ。グロウタースを転々とする生活をやめられない。心眼を使いこなしたら、ボクはまたグロウタースへ行くだろうね」
「そんなこと、この鍵があれば、距離などないに等しいですの!」
鍵を取り出したイリヨナは、訴えかけるようにアシュデルに声を荒げていた。
「ハハハ。扉1枚隔てた向こうとこっちで、仕事してるだけって?なんだ、距離の問題は解決してたのか」
「父様と母様以上に、私達は近くにいますの!」
「ハハハ、さっき言ったことと矛盾してる」
アシュデルの指摘通りだ。やっと気がついて、イリヨナはバツが悪かった。一緒にいられないと言ってしまったのは、イリヨナが先だったのだ。
「バカ!」
「うん。バカでいいよ」
アシュデルの体重がのし掛かってきて、イリヨナは抱きしめられたままベッドに沈んでいた。「ひえ!?」とその先を想像してイリヨナは瞬間焦っていた。
「ア……シュデル!まだ昼間ですの!」
「夜ならいいの?」と返されても困るが、今は、まったくもって心の準備ができていなかった。いや、アシュデルが準備を待ってくれたことはこれまでも皆無だが!
「ええ?ボクってそんなに触ってる?」
アシュデルはイリヨナに触れられることが嬉しくて、触っている自覚はあるが、身の危険を感じさせるほどとは知らなかった。
「毎回スカートの中に手を突っ込む人のセリフとは思えませんの!」
「ははは……そうだった?キスしてるだけのつもりだったんだけど」
「あ、王冠が刺さりますの!待って!これで」
イリヨナは、頭に顔を寄せようとするアシュデルを制し、モゾモゾと彼の下から這い出し、アシュデルの頭を胸に押し抱いた。
「見えないと思って、揶揄ってる?」
見えなくても、イリヨナの胸が豊満さに欠けても、顔に当たるこれが何なのか、服越しだってわかる。しかし、イリヨナも負けていない。
「太ももの方がお好きですの?」
「やめよう。会話がどんどん下ネタになっていってるから」
横向きに抱き合いながら、イリヨナは、ささやかな胸にすり寄ってくるアシュデルの頭を撫でていた。黄色い光の粒のようなミモザの花が、彼の濃い髪色にとても映えて綺麗だ。
「アシュデル……私が婚姻を結びましょうと言えば、結んでくださいますの?」
「そんなに背負えないでしょう?」
「その方がいいかもと、思って……」
「どういう心境の変化?」
アシュデルとしては、心眼を会得するまでは避けたい。アシュデルにとって反属性である心眼を会得するのは、大魔導であっても一筋縄ではいかない。物理的に傷つき、苦しむ姿を見せることになる。アシュデルはイリヨナがそんな姿に心を病むなら、手放そうと覚悟していた。アシュデルにとって、視力を失う選択は彼女を手に入れる上での手段だったが、傷つくほどの罪悪感を抱いてほしいわけではないのだ。
「その……婚姻を結んでしまえば、流されてもいいのですのと」
「え!?そんなに感じさせてた!?」
予想だにしない返答に、アシュデルは絶句してイリヨナの胸から顔を放していた。
「際どいところをいつも触る人のセリフとは思えませんの!」
反論……できない……。最低だなとアシュデルは、イリヨナが手に入りそうで、思いの外舞い上がっていたことにやっと気がついた。
「ええと、自重する、けど?」
フウとイリヨナが小さく息を吐いた。
「大人になるとは、こういうことですの。だから、触れられると嬉しいのですの。花の精霊さんは、欲望のコントロールなどお手のものかも知れませんけれど!」
「それは……その……ごめん……。でも、そんな理由でいいの?」
「いけませんの?私たちは必然の関係ではありませんの。きっと、結ぶタイミングは、想いが通じ合ったときだったのですの。遅くなってしまって、ごめんなさい」
「……ボク達は精霊だから、準備とか何もいらないしね。でも、いいんだね?婚姻結んだら抱くよ?君のこと」
今なら、引き返せる。
イリヨナが沈黙した。言葉巧みに押し切れば、彼女は流されてくれたかもしれない。だが、アシュデルはそうしなかった。越権行為の咎まで利用したのに、狡猾にはなりきれなかった。アシュデルが後悔するとしても、イリヨナには、後悔してほしくないのだ。
なぜって?愛しているから――
「……見えないですけれど、できますの?私がしてもいいのですけれど?」
イリヨナは気遣わしげに、照れることなく聞いてきた。
なんてこと言わせてるの!?とアシュデルは頭を抱えたくなった。そうだった。知識はあっても、実践するのは初めてで手探りではおそらく難しい。イリヨナの懸念は最もだった。
それが即答できなかった理由だと知ったアシュデルは、恥ずかしいやら嬉しいやら、泣きそうだった。
「そうだったね!大人だったね!知識は十分だよね、うん!ははは……格好悪い……。イリヨナ、年上の矜持、守らせてほしいんだけど?」
初めてのイリヨナにさせるのは、さすがにプライドが許さないアシュデルだった。
「では、お預けですの。心眼を会得したら、アシュデル」
モゾモゾとイリヨナは身動きすると体を起こして、座り直した。アシュデルもそれに習う。
「私と、結婚してください。ですの」
「イリヨナ……それ、ボクに言わせてほしかったよ……」
「心眼を会得したら、プロポーズしてくださいですの!」
「ははは、やられたよ。今回は完敗だよ」
「負けっぱなしではないのですの!アシュデル、私、逃げません。夜はきっとここへ来ますの」
想いが通じてからずっと、執務を終えてアシュデルのいる工房へ行くことはイリヨナの日課だった。いろいろな工房へ行ったが、夜にしかいけなくては工房の外を観光することはできなかったし、弟子達ともミモザ以外交流できなかったが。
「うん。待ってるよ。君がいれば、頑張れる」
アシュデルはイリヨナに向かって腕を広げた。その腕の中へ飛び込み、イリヨナからアシュデルへ、唇を重ねた。
これは誓いの口づけ
どんな暗闇も乗り越えると、ずっと心を守ってくれたフェアリアへの誓い
たとえ、君が立てなくなって、離れるしかなくなっても、光だけは失わないと誓う
これは誓いの口づけ
どんな苦しみを見せられても、ずっとそばにいると誓う
たとえ、心がすり切れてしまったとしても、醜い姿となってしまったとしても
あなたへの想いだけは、守る、と、誓う