5「儀式の準備」
「なぁ、まだやるのか?」
夜中までついている灯りに目を覚ましたソラが、雪の魔女にぼやくように声をかけた。
「うん、もうちょっと」
机に向かったまま、雪の魔女は短く返事をする。
「昼間も『もうちょっと』って言ってたぞ」
「仕方ないでしょ。雪凪の儀式は、準備するものが多いの」
「でも、いつも粉みたいなの燃やしてるだけじゃないか」
「もっと色々やってるし、その『粉みたいなの』を作るのが大変なのよ」
ソラは「ふーん」と気のない返事をしながら、雪の魔女の手元を覗き込んだ。そして、机の傍らに置かれた小瓶を見て、首を傾げる。
「あれ、その瓶の中、雪を詰めてなかったか?」
「うん。今朝も入れたよ」
「でも、もうすっからかんで花だけしか入ってないじゃないか」
「そう。それがこの花の力だからね」
雪の魔女は手を止め、小瓶をそっと持ち上げる。休憩ついでに説明してあげようか、と思いながら、ソラの方を向いた。
「この花はね、『水瓶の花』っていうの。すごく強力な力を持ってるのよ。見てて」
近くの水差しを手に取り、小瓶の中へと水を注ぐ。満杯になったはずの水は、ほんの数秒のうちにみるみるうちに減り始めた。
「なんだそりゃ……」
ソラが目を丸くする。
「この花はね、異常なまでに周囲の水分を吸収するの。毎回この花を見つけると、どんなに雪の日でも周囲にぽっかり穴が空いたみたいに雪がなくて、地面は砂漠みたいにサラサラになっているのよ」
「……そいつが、あのデカい木を怒らせてた原因か?」
「怒らせてた、というよりも、苦しめてたって方が正しいわね。あの“森の精”は私が見た中でもかなり成長していたから、咲いた後に水分を取られ続けても、最初は耐えていたんだと思う。でも、やがてこの花の力に耐えきれなくなって……暴れ始めたのね」
「へぇ……村のやつらが出くわす前でよかったな」
ソラが淡白に言った。心の底から心配しているようには感じられなかった。村人の安全に関しては興味がないのだろう。
「そうね」
雪の魔女は同意しながら、もう一度小瓶を見つめた。
「……まぁ、そういうわけだから、これを早く使える状態にしないといけないの」
「……」
ソラは欠伸をひとつすると、暖炉の前へ移動し、くるりと丸くなった。
「聞いてた?」
「眠い」
「まったく……」
雪の魔女は半目で睨むが、当のソラはどこ吹く風。すでに心地よさそうに尻尾を揺らしている。
ため息をつきながら、雪の魔女は作業を再開した。
採取した水瓶の花の寿命は極めて短い。枯れてしまう前に、雪凪の儀式で使える状態にしなければならない。
タップダンスを踊るエンドテーブルを捕まえ、口笛を吹くフラスコで薬品を混ぜながら、瞬きするたびに並んでいる本が変わる本棚から、目的の書物を取り出す。机の上で寝息を立てているペンを起こす頃には、もう日が昇っていた。
――――――――――
リーベッド村が、祭りの熱気に包まれていた。
雪の魔女が、雪凪の儀式を行う。
その知らせが広まると、村人たちは一斉に動き出した。
アーサーの号令のもと、各家庭では宴の準備が始まり、村の広場には次々と食べ物や酒が運び込まれる。
つい先日行商人が持ってきた果物も惜しげもなく並べられ、村人たちは皆、活気に満ちた表情で行き交っていた。
子供たちは普段興じている雪遊びもやめて、笑顔で大人たちの手伝いをしている。どこからか陽気な歌声が聞こえ、「今夜は飲むぞ!」と笑い声を上げる大人たちの姿もあった。
それほどまでに、雪凪の儀式は村人たちにとって特別なものだった。
それはただの祭りではない。
この土地に、冬以外の季節をもたらす、神聖な儀式なのだから。
しかし、その光景をつまらなそうに眺める少年が、一人。
肉屋の一人息子、ルディ。
彼は窓際に肘をつき、退屈そうに頬杖をついていた。
「何が雪凪の儀式だ。一年の内、たった三ヶ月しか春がないこの村の祭りなんて、何が楽しいんだか」
王都から引っ越してきたルディにとって、この村は全てが退屈だった。
今年で九歳になる彼は、ここに来てまだ二年しか経っていない。
彼にとっての故郷は、もっと広く、活気のある場所だった。
それに比べ、この村は狭く、寒く、代わり映えのしない日々が続くだけの場所だった。
祭りだというのに、誰もルディを構ってくれない。
子供たちは家の手伝いに駆り出され、話す話題は「今年の儀式は楽しみだ」ということばかり。
ルディにとっては、うんざりするほど退屈な光景だった。
そんな中、ふと目に入ったのは、丘の上の雪の魔女の家。
あの魔女がこの村に春をもたらすらしい。
ルディは、前にこっそり覗きに行ったことがある。
その時漏れ聞こえてきたのは、「今度羽ペンと浮気してたら万年筆に言いつけるからね」
そして、まるで生きているかのように動くインク瓶を叱りつける姿だった。
——あんなの、まともな人間なわけがない。
魔女なんて、奇妙で胡散臭い存在だ。
そんなものがやる儀式に、村中が夢中になっているなんて、ルディには理解できなかった。
「……つまらない」
深くため息をついた。
その時、部屋の扉が、バタンと勢いよく開いた。
「おい、ルディ!」
顔を覗かせたのは、屈強な体つきをした父だった。
ルディは、迷惑そうに眉をひそめる。
「なんだよ、ノックしろっていつも言ってるだろ、父さん」
「何生意気を言ってるんだ。下に来て肉を運ぶのを手伝え」
父の言葉に、ルディはさらに顔をしかめる。
「……嫌だよ。どうせ雪凪の儀式の準備だろ?」
「そうだ。お前も村の一員なんだから、働け」
ルディはわざとらしく肩をすくめる。
それを見て、父は少し語気を強めた。
「今日の祭りは、雪の魔女様が村のために儀式をしてくださる大切な日だ。それに——」
父はどこか誇らしげに、こう言った。
「お前の母さんも、この村に来た時に雪凪の儀式を見てな、感動していたんだぞ」
ルディは、ぴくりと眉を動かした。
母の話になると、何も言えなくなる。
母は王都の人間だ。
この村に馴染めないのはルディだけではないはずなのに、母はこの村が好きで好きで堪らないみたいだった。
「……まったく、何が楽しいんだよ」
ルディは、小さくぼやいた。
この村に来てから、楽しいと思ったことなんて一度もない。
だが、結局やることもなかったルディは、しぶしぶ階段を降りた。
「ほら、これを広場まで運べ」
「重いんだけど」
「当たり前だろ、鹿肉だ」
ルディの父は、この村で肉屋を営んでいる。
村人たちが狩った獲物を捌き、売るのが仕事だ。
だが、今日はその肉を売るのではなく、祭りのために提供するのだという。
「いい鹿が獲れたからな。雪の魔女様にも食べていただくんだ」
「ふーん……」
ルディは興味なさそうに答えたが、父の目は真剣だった。
この村の人々にとって、雪凪の儀式は本当に大切なものなのだ。
そう、ルディには理解できなかったとしても、それがこの村での事実なのだ。
こうして、ルディはしぶしぶと肉の山を運び続けることになった。
「こっちだ、ルディ!」「次はあっちだ!」と、大人たちにこき使われ——
いつの間にか、日は傾き、辺りが暗くなり始めていた。
「……もう夜か」
干し肉の束を運び終えたルディは、疲れた腕をさすりながら夜空を見上げる。
そこには、星が瞬き、冷たい夜風が吹いていた。