3「森の精」
今回からしばらく21時投稿になります。
森の静寂を切り裂く足音が響く。
幼い少女の小さな靴が、雪を踏みしめて必死に駆けていた。息は荒く、頬は真っ赤に染まっている。指先はかじかみ、足はもう何度ももつれそうになっている。それでも、少女は振り返ることすらできなかった。
背後から響く、鈍く重い音。
大地を揺らすような音とともに、巨大な影が迫る。
それは樹木の怪物。まるで生きた大樹のような存在。民家ほどもある幹がゆっくりとうねり、地を這う根が脚のように動く。その一歩一歩は大地を震わせるほど重く、雪を砕きながら確実に少女を追い詰めていた。
腕の代わりに無数の枝が伸び、それらが触手のようにしなる。その枝は、少女が進む道を遮るように振り下ろされた。
細い枝が空を切る音が、まるで鋭い剣が振り抜かれる音のようだった。
少女は悲鳴すらあげられなかった。
恐怖で喉が固まり、ただ走ることしかできない。
しかし、その限界はすぐに訪れた。
足が、雪に取られる。
バランスを崩し、前のめりに倒れ込んだ。
その弾みで、少女のポケットからいくつかの木の実が飛び出して転がった。
必死で手をつこうとするが、指が雪に沈むだけ。どうにか立ち上がろうとするが、足が震えて動かない。
そして、怪物の影が少女のすぐ後ろに迫った。
幹が軋み、大きな枝が振り上げられる。
今度こそ、逃げ場はない。
少女は、ぎゅっと目を閉じた。
泣きたいのに、涙すら出なかった。
次の瞬間――
風を切る音が響く。
そして、少女の身体が、ふわりと浮いた。
ドォンッ!
大きな衝撃音。
雪が抉られ、白い粉雪が宙に舞う。
しかし、少女の身には何の痛みもなかった。痛みの代わりに、肩を抱く優しい温もりがした。
「大丈夫?」
耳元で、優しい声がした。
目を開けると、そこにいたのは、雪色のローブをまとった女性――雪の魔女だった。
優しいブルーの瞳が少女を見下ろし、ふわりと銀色の髪が揺れている。
抱き上げられた少女は、ようやく息をすることができた。
雪の魔女は、彼女がいた場所を振り返る。
そこには、二人の身代わりとなって真っ二つに切断された雪だるまが転がっていた。
「……やっぱり、“森の精”だったのね」
彼女は、目の前の怪物を見上げながら呟く。
“森の精”。森を守る精霊の化身。
森の木々が強く願うことで生まれる存在であり、本来はとても大人しい。
森に害をなす存在には容赦しないが、それ以外の者にはほとんど関わることがないはずだった。
だが今、目の前にいる“森の精”は、明らかに様子が違う。
――なぜ、暴れているの?
「なんだありゃ……」
雪の魔女の肩に、黒猫のソラが飛び乗る。
赤い瞳で“森の精”を睨みつけながら、呆れたように言った。
「“森の精”よ。森を守る存在。都市の衛兵隊が総出で戦っても、勝てるかどうか怪しい強敵ね」
「……そりゃまた厄介な」
“森の精”は、大きな幹を軋ませながら、再び枝を振り上げた。
雪の魔女は、その動きを冷静に観察する。
その時、彼女の目にスカイブルーの花が映った。
“森の精”の幹の上部に、一輪だけ咲いている。
――ああ、なるほど。やっと見つけたわ。
納得した雪の魔女は、そっと“森の精”に手を向けた。
「ねぇ、落ち着いてくれないかしら。私たちはあなたの森を傷つけるつもりはないの。もし、あなたが私にほんの少しの時間をくれるなら、あなたの苦しみを解決してあげられるわ」
雪の魔女の訴えに、“森の精”は応えなかった。
むしろ、自分の獲物を庇った雪の魔女を新たな敵としたようだった。
再び枝が振り上げられる。
「……やるしかない、か」
雪の魔女は小さくため息を吐くと、肩のソラを見た。
「ソラ」
雪の魔女に呼ばれソラは肩から飛び降りると、その赤い瞳でジッと“森の精”を見つめた。
たったそれだけで、“森の精”の動きが止まる。
この場で最も体の小さい一匹の猫の存在を、“森の精”は無視することができなかった。
ソラの真っ赤な瞳に覗かれると、“森の精”に本来あるはずのない根源的な恐怖が湧き起こり、動くことすらも禁じられたような錯覚を覚えた。
ソラはそんな“森の精”を鼻で笑うと、
「弱っちいくせに調子に乗ってると、食っちまうぞ」
脅すように歯を剥き出しにした。
目の前の悪夢を振り払うように動こうとした“森の精”だったが、ソラに気を取られているほんの数瞬の間に、自身の足元まで近づいていた雪の魔女に気づかなかった。
そっと“森の精”の幹に雪の魔女の細い右手が触れる。
「ごめんね」
その直後、ドッという鈍い音と共に、“森の精”の体に強烈な衝撃が駆け抜けた。
痛みを感じることのない“森の精”は、幹のど真ん中に大きな穴が一つ開け抜かれていることにだけ気づくと、そのまま自重を支えきれずに真っ二つに折れ、雪煙を上げながら地面に倒れると、そのまま動かなくなった。
雪の魔女は“森の精”の体をよじ登ると、幹の上部に咲いていた一輪の花を摘み取った。瑞々しいスカイブルーの花だが、その根元である“森の精”の体はまるでミイラのように干からびていた。
雪の魔女はその花をローブから取り出した瓶に入れると、さらに周囲の雪で瓶の中身をいっぱいにし、しっかりと蓋を閉じた。
「殺してよかったのか?」
「まぁ、“森の精”はこの程度じゃ死なないから」
「完全にバラバラになってるけど」
「宿っていた樹木の方はね。“森の精”は森の木々が生きたいと強く願うことで生まれる存在だから、二、三日もすればまたどこかで姿を変えて復活するの」
ふーん、と、ソラは既に興味を失っているようだった。自分より格下の存在にはとことん興味のない猫である。
一通り安全確認を終えた雪の魔女は、襲われていた少女の側に戻ってきた。
少女は呆然とした様子だったが、雪の魔女が戻ってきたのを見ると、目を潤ませて頭を下げた。
「ゆ、雪の魔女様、ありがとうございます!!」
まだ震えている少女を、雪の魔女は優しく抱きしめた。
「あなた、パン屋の娘さんのルーシーね。怖かったわね。もう大丈夫」
きっと、雪の魔女の言葉で緊張の糸が完全に切れたのであろう。ルーシーの目から大粒の涙が溢れ始めた。
「わたし、お父さんの誕生日だから木の実が欲しくって、それで、それで……」
「大丈夫、わかってるわ。森が危険だって知る前に来てしまったのよね。無事でよかったわ」
雪の魔女たちが村に戻ったのは、ルーシーの涙が枯れた頃だった。