2「使い魔ソラ」
小屋に帰ってきた雪の魔女を出迎えたのは、暖炉の前で不機嫌そうな顔をしている黒猫だった。
「今日はやけに素直に起きたのね。おはよう、ソラ」
雪の魔女の言葉に、黒猫ソラは真っ赤な目をキッと吊り上げた。
「そりゃ起きもするさ。朝から鍋で煮られるところだったんだぞ」
ソラの様子を見るに、先ほど雪の魔女から与えられた命令を銀の蝋燭立ては果たしたらしい。その手段は、多少手荒だったようだが。
「ったく、こんな朝早くからどうしたんだよ」
「ちょっと村で問題があってね。あなたの力が必要になると思ったから、起こしておいてもらったのよ」
頑固なコート掛けに雪の魔女がローブを引っ掛けると、手袋もブーツも自分の住処へと帰っていく。遠くからこちらを覗いている蝋燭立てに、「朝食をお願い」と雪の魔女が告げると、台所からは愉快な音が聞こえてきた。
そうして間も無く、黄金色のパンにたっぷりのハムとチーズを挟んだサンドイッチが、ふわりと宙を舞って雪の魔女の前に着地した。
暖炉の前に腰掛けた雪の魔女は、拗ねたように尻尾を揺らしているソラに、先ほど森であったことを手短に伝えた。
「ふーん。そうは言っても、オレサマは何も感じなかったぞ」
「そりゃ朝から晩まで寝ることしかしてなければ、何も感じないでしょうよ」
「オレサマは冬眠中なの」
「一年のほとんどが冬眠中じゃない」
「この辺りは一年のほとんどが冬なんだから仕方ないだろ」
そう言ってソラは窓の外に目を向けた。先ほどまで晴れていた空には雲が姿を表し、すでに小さな雪が落ち始めていた。
大陸の北の端に位置するこの村は冬が長い。一年中雪が降っていて地面が白じゃない期間など、ほんの数日だ。
「五十年前にお前が引っ越すって言うから付いてきたが、こんな土地とは思わなかったぞ」
「良い村じゃない。静かだし、助け合いで生きる優しい人ばかりだし」
「お前がやる二年に一度の儀式がなかったら、雪の無い日なんて十日間もないんだぞ。オレサマ寒いのは嫌いだ」
五十年前、雪の魔女がこの土地にやって来てから随分とこの土地は人に優しくなった。
雪の魔女が『雪凪の儀式』と呼ばれる儀式を二年に一度行うようになってからは、一年のうち三ヶ月も雪の無い日が生まれるようになった。
土が使えるようになった村の人々は短い期間で育つ作物で農業を始め、僅かな狩猟で成り立っていた生活は少し豊かになった。
「静かに暮らしたいのだからここがいいの。もう王都は疲れたわ」
雪の魔女は踊る包丁が持ってきた朝食のサンドイッチをつまむ。数口食べていると、膝に乗っていたソラがサンドイッチの下からはみ出したハムに食いつき持っていってしまう。
「あ、こら」
「オレサマ肉以外は嫌いだ。他は食べていいぞ」
「そのハムはソラのじゃないんだけど」
雪の魔女はソラの頬を引っ張るが、ハムに舌鼓を打つこの黒猫にはあまりきいていないようだった。
「それで、さっきのやつの元凶はわかってるのか?」
「うん。ある程度はね。現場の木は曲がってたけど、一本も折られているものはなかったの。通り過ぎただけで物を破壊する力を持ってるのに、植物は一切傷つけない存在なんて、この辺りじゃ一つしかないもの」
「ふーん。じゃ、頑張れよ」
もう仕事は終わりだ、とでも言うようにソラが立ち上がる。しかし、屋根裏に行こうとしたその足は、雪の魔女に尻尾を掴まれたことで止められた。
「ふぎゃ!! 何すんだよ! そこは敏感なんだ!!」
「何すんだはこっちのセリフよ。あなたの力が必要だって言ったでしょ? たまには使い魔らしいことくらいしてよ」
ハムの無くなったサンドイッチを口に放り込み、雪の魔女はソラの脇腹を抱え上げて捕まえた。
少なくとも、摘み食いしたハムの分くらいは働かせるつもりだった。
「ほら、行くよ」
「ちっ……」
――――――――――
渋るソラを連行した雪の魔女は、再び村外れの森へと足を踏み入れた。
この土地の気候は変わりやすい。朝の青空は既に薄い雲に覆われ、小さな雪がちらちらと舞い落ちる。森の静けさはいつもと変わらない。けれど、何かが違う。まるで森全体が息を潜めているような、そんな気配が漂っていた。
今朝の現場から東に少し進んだ地点に辿り着いた。恐らく、雪の痕跡的にも雪の魔女が探している何かはこっちの方向に進んでいるはずだ。
「……寒ぃ」
雪の魔女のローブの中で、ソラが文句を垂れる。
「引きこもってないで手伝ってよ。何のためにあなたを連れてきたと思ってるの」
「話し相手くらいにはなってやるよ」
「その小生意気な口より、鼻の力を借りたいの。この辺りに残ってる匂いを辿って欲しいのよ」
「オレサマ、この寒さに勝てる気がしないぞ」
そんな会話をしていると、村の方から人影が走ってきた。
人の気配に雪の魔女が振り向くと、そこには焦った様子のクロンが雪をかき分けてこちらに向かってきていた。
「雪の魔女様!」
「クロン、そんなに慌ててどうしたの?」
雪の魔女が首を傾げると、クロンは激しく息を切らしながら急停止した。
「子供が、子供が一人いないんです!」
クロンの言葉に、雪の魔女の顔が曇る
「それは本当?」
「はい。森に出ないようにみんなに伝えた際、念のために人数を確認したのですが、パン屋のルーシーだけ見当たらないのです!」
「わかったわ。すぐに探す。あなたはすぐに村に戻って、間違っても探しに行っちゃダメよ。みんなにもそう伝えて」
雪の魔女の言葉にコクコクとクロンは頷き、すぐに回れ右して村の方に走って行った。
それを見送った雪の魔女は、ソラをローブの中から引っ張り出すと、雪の上に放り投げた。
「ふぎゃ!」と寒さに毛を逆立てたソラは、恨みがましそうに雪の魔女を睨んだ。
「寒いって言ってるだろ!」
「そんなの、いつものことじゃない。さっきの聞いていたでしょ? 村人の安全がかかってるんだから、寒さに文句言ってる場合じゃないの」
「オレサマの肉球は繊細なんだよ! こんな雪に埋もれたら、オレサマの柔らかい肉球がカチカチになっちまうぞ」
「まったく、仕方ないわね」
雪の魔女は呆れながら、足元の雪をひとつまみ掬い上げる。そして、ふうっと息を吹きかけた。
瞬間、雪は淡い光の粉へと変わり、ソラの足元にふわりと降り注ぐ。降り積もった粉がゆっくりと形を変え、ソラの前足にぴたりと吸い付いた。
「……ん?」
その一連の様子を見ていたソラが、器用に前足を曲げて自分の足を眺める。するとそこには、ふわふわの雪色の靴下が生まれていた。
「……おお!? なんだこれ! あったけぇ!!」
ぱたぱたと雪の上で足踏みし、感触を確かめるソラ。途端に機嫌を直し、嬉しそうにシッポを揺らす。
「これ、永久装備か?」
「そんなわけないでしょ。日没には消えるわよ。急いで」
「おい、それを早く言えよ!」
急に焦ったように鼻をひくつかせ、地面の匂いを探るソラ。少し歩き回ると、ぴたりと動きを止めた。
「……この匂い、嫌いだ」
ソラが顔を顰める。
「どんな匂い?」
「古臭くて、やたら神聖っぽい。神聖だとかいう匂いは、オレサマの体質に合わないんだよ……胃がむかむかする」
雪の魔女は僅かに目を細め、小さく息をついた。
「……やっぱりね……でもどうして……」
正体が予想通りだとわかっても、いや、予想どりだったからこそ、納得しきれないものがあった。
――あれが暴れている理由がわからない。普段はとんでもなく大人しいはずなのに。
なぜ馬車を破壊し、奴隷商を襲うようなことをしたのか。
雪の魔女は一瞬だけ思案し、それから顔を上げた。
「とにかく、追いましょう」
そう言って歩を進めると、ソラは不機嫌そうに鼻を鳴らしながらも、再び地面の匂いを探り始めた。
森を進むにつれ、辺りの空気が変わっていくのを感じた。雪はまだ降っているのに、不自然なほど静かだ。
ここは雪の土地だとはいえ、動物たちは当然いる。しかし、その気配が全く感じられなかった。まるで、森には木々たちしかいないようだった。
「……匂いが強くなってきたぞ」
ソラが立ち止まる。その直後――
微かに、何かの声が聞こえた。
雪の魔女の眉が僅かに動く。風の音かと思ったが、違う。確かに、それは 悲鳴 だった。
「ソラ」
一言だけ言うと、ソラは雪の魔女のローブの中に飛び込んだ。
ソラと入れ替えるように雪の魔女は銅貨を取り出すと、指の間に挟んだ銅貨を雪の上に投げる。
銅貨が雪の上に落ちる音の直後、雪が盛り上がり、大きく膨らんでいく。
ぼそり、と雪が崩れ落ちたかと思えば、そこに立っていたのは巨大な人型の雪像だった。
雪の魔女は雪像に視線を向ける。すると雪像は、その意図を全てわかっているかのように無言で片膝をつき、差し出した手のひらに彼女を乗せた。
風が吹き抜ける。
「投げて」
そう言った瞬間、雪像は大きく振りかぶる。
次の瞬間、雪の魔女の身体が弾丸のように上空へと投げ出された。