1「雪の魔女」
その日、雪の魔女は針が十二本もある壁掛け時計が鳴る音で起こされた。
雪の魔女にとって朝とは天敵と言えるほどの関係性であったが、日が昇ると同時に灯る暖炉があれば勝てないことはなかった。
雪の魔女が作り出した壁掛け時計は、時間を示さない。「危険」とか「裏山」とか「遭難中」とか。そんな無秩序な言葉を針たちが教えてくれる。
今日は「村人」と「緊急」、それと「来訪者」だそうだ。
優しくウェーブした美しい白銀の髪。長いまつ毛の下には氷の結晶を思わせる美しいブルーの瞳がある。
彼女は、その名の通り魔女である。
子供達が寝る前に読み聞かせられる御伽話に出てくるような、そんな存在だ。まぁ、化物を倒したりなどはまだ数度しかないが。そんな英雄譚がある魔女は、別の魔女たちだ。
一枚の名画を思わせる美貌は魔法ではないが、そんな彼女のもとに独りでに歩いてくる雪色のローブには魔法がかけられていた。
厨房から飛び出てきた三又の蝋燭立てに櫛をもらって髪を梳かしていると、なにやら慌てたノックが聞こえてきた。
「はーい」
そう雪の魔女が返事をすると、家中に張り巡らされた蔦の一本がノブを回して扉を開けた。
開けた扉の向こうにいたのは、毛皮のコートで身を包み、肩に弓を引っ掛けた若い男だった。
「クロン。こんな朝早くにどうしたの?」
「あぁ、雪の魔女様。慌ただしく申し訳ありませ――」
クロンの言葉は、扉脇のコート掛けに襟首を掴まれたことで遮られた。支柱の天辺の辺りにちょび髭の印があるこのコート掛けは、家に一歩でも入った者がコートを着ていることを許さない。雪の魔女の家の中でも極めつけの頑固だ。
雪の魔女が手で制したことでクロンは解放されたが、当の彼はそんなことは些事とばかりに言葉を続けることを優先した。
「ケホ、ケホ、実は先ほど、村の外れで人死にがありまして……!」
「人死に?」
いきなり飛び出た物騒な言葉に、雪の魔女は背後の壁掛け時計を振り返る。しかし、どの針も「村人」と「死人」を同時に指している針はなかった。
「それが、死んでいたのは村の者ではないのです。先ほど我々狩人衆が見つけたのですが、なにぶん経験のないことでして。情けないながら、ご助力を頂くために走ってまいりました」
「そう。まぁ、村の人に被害がなかったならよかったわ。ちょっと待って、今用意するから」
雪の魔女がピーッと指笛を鳴らすと、コート掛けの近くの戸棚から手袋が飛び出して雪の魔女へと突進し、床下からは毛皮のブーツが顔を出した。
それらの防寒具を身につけた雪の魔女は、背後でかちゃかちゃと音を立てている蝋燭立てに告げる。
「朝食は戻ってから食べるわ。それから、私が戻ってくるまでにソラを起こしておいて」
命じられた蝋燭立ては、三又の一本を折り曲げて敬礼すると、その後に屋根裏に続く天井の隙間を見上げた。
「起きてこなかったら暖炉に放り込んでいいわよ。尻尾が焼ければ目も覚めるでしょ」
その言葉を聞いて、なぜか蝋燭立ては嬉しそうだった。
――――――――――
雪の魔女の小屋があるのは、この村リーベッド村から少し離れた丘の上である。
この土地の冬は長い。降った雪が溶ける前に次の雪が降ってしまう。そうなれば、必然的に雪は踏んだ足が見えなくなるほどに深くなる。
魔法に頼って道を開けることはできる。しかし、先導してくれるクロンのおかげでその必要はなかった。
「さすが、雪の村の住人ね」
「ここ数日は雪も穏やかでしたから。このくらいの雪除け、お任せください」
小屋を訪ねてきた時は慌てふためいていたが、雪の魔女が後ろにいると安心したらしい。雪の民流のエスコートは、慣れた手つきで実に頼もしかった。
クロンの服装は毛皮のコートを着てはいるが、狩人として動きやすいように生地は薄いし手袋もつけていない。やはり、寒い土地で育つと体の作りが違うようだ。雪の魔女は魔法を使って寒さに耐えることはできるが、そもそも寒さに強い体というのは魔法を使っても手に入らない。
村の近くを通ると、もう既に村人たちは起き出して仕事に取り掛かる時間らしい。雪の魔女の姿が見えると、皆作業を止めて手を振ってくる。
それに手を振り返しながら村の外れの森へと入っていく。
森に入ってすぐに、遠くに数人のクロンと同じように弓を肩に引っ掛けた男たちが見えた。村の狩人衆だ。
その中でも一際体つきのしっかりとした男が、雪の魔女を見つけて安堵したように息をついた。狩人衆のリーダーであり、村長でもあるアーサーだ。
「雪の魔女様、御足労ありがとうございます」
雪の魔女は姿を見るなり一礼する狩人衆の頭を「いいから」と上げさせると、目の前の光景に眉を顰めた。
「これは……随分と穏やかじゃないわね」
今いる場所が問題のあった場所だと、雪の魔女にはすぐにわかった。
なにせ、目の前には無惨に砕け散った馬車の残骸。その上に積まれていたであろう金属製の牢も、ひしゃげて潰れてしまっていた。そして、潰れた牢の下にも外にも無惨な死体が数体転がっていた。
さらに、東の方から西の方へと、木々が大きく曲がり、雪も凹んでいる。何か巨大なものが通り過ぎた跡だ。
雪の魔女は死体の一体へ近づくと、手を合わせて静かに目を閉じた。そして、優しくその首筋に手を当てる。
「今朝、狩りのために森へ入ったところ、発見しました。我々が発見した時には、もう既にこの状態で……」
アーサーの言葉の通り、雪の魔女が触れた限りではもう既に死んでかなりの時間が経ってしまっている。この雪に冷やされてしまったと考えても、死んだのは昨日の夜と考えるのが妥当だろう。
魔法は無限大だ。イメージ次第でどんなことだって実現できる。しかし、人を生き返らせることだけは出来ない。
死んで間もないなら、死人に口なしを覆すこともできる。だが、こうも時間が経ってしまっては魔法ではどうすることもできない。
「村で何か音を聞いた人はいるかしら」
「いえ、まだ狩人衆しか知らないのでなんとも……ですが、昨日は随分と風が強かったですし、窓が揺れる音で森の音はほとんど聞こえなかったかと」
「そう……この時期の山颪は一際強いものね」
音どころか、風に流された雪で足跡一つ残っていないだろう。
雪の魔女はローブの中から銅貨を二枚取り出した。
それを雪の魔女が指で弾くと、空中でぶつかり合った二枚の銅貨は砕け散り、キラキラと輝く粉が足元の地面に降りかかった。
すると、粉が降りかかった場所からアーサーよりも一回り大きい人型の雪像が現れた。
「少し力を貸してちょうだい」
雪像は短く頷くと、ひしゃげた牢を軽々と持ち上げ、誰もいないところにゆっくりと下ろした。
役目を終えた雪像はボロボロと崩れ去っていく。
雪の魔女はその横を通り抜け、牢の下敷きになっていた死体に先ほどと同じように手を合わせてから衣服などを調べた。
「この人たち、奴隷ね」
「どれい、ですか?」
聞き馴染みが無いらしいクロンが首を傾げる。しかし、事情がわかるアーサーを含めた狩人衆の数人は険しい表情になった。
「牛や馬のように調教され、こき使われる存在だ」
「そ、そんなこと、許されるんですか!?」
「もちろん違法よ。百年ほど前からね。でも、奴隷文化は根深い。違法になって変わったのは、取引市場が表通りから裏通りに変わったことと、あとは奴隷の番号が刻まれる場所が手首から首に変わったことくらいかしら」
雪の魔女が牢の下敷きになっていた死体の首筋をクロンに見せた。見窄らしい衣服を着ている死体の首筋には、五桁ほどの番号が入れ墨されていた。
「手首と首で、何が違うんですか……?」
「理由は簡単。用済みになった時に首を落としてしまえば、血で入れ墨が見えなくなって、奴隷がいた事実なんて簡単に無くせるからよ」
雪の魔女の言葉は、まだまだ若手でこの村のことしか知らないクロンには衝撃だったようだ。
そのままクロンは黙り込み、アーサーが顔を顰めながら唸った。
「となると、この一団は奴隷と奴隷商の一団、ということになりますね」
「身なりの差から考えてそうなるわね。こんな北まで奴隷を売りに来たのか、それとも進路を誤って森に入り込んでしまったのか……どちらにしても、こういう悪意を持ってる連中が村の境界線にある結界を踏み越えたら、少なくとも奴隷商はみんな雪だるまに閉じ込められることになるけど」
クスリと笑った雪の魔女につられるようにして、アーサーも思い出したように小さく笑った。
「そういえば二十年ほど前、村に強盗に入ろうとした連中がまとめて雪だるまに閉じ込められてお縄についたことがありましたな。いつも守っていただき、感謝が尽きません」
「雪だるまの姿のまま、村の中央で晒そうってあなたのアイデア、私は嫌いじゃなかったわよ」
そんなやり取りをしていると、場の空気が僅かに和む。しかし、そう笑い話ばかりもしていられない。
「さ、とにかくまずはこの通り過ぎていった何かを探さないと。って言っても、もうほとんどわかりきってるけど」
「わかりました。それでは、狩人衆はこの場所の片付けと、彼らの埋葬を致します」
「ええ、お願いね。それから、今日は誰も森には出さないで。危険だから」
アーサーが再度頷いたのを確認して、雪の魔女は一度小屋に戻ることにした。
まだ朝食を食べていないし、それに雪の魔女の予想通りなら、彼の力を借りた方が早い。
使い魔、ソラだ。