08.海の向こうに
(眠れない……)
宿のベッドに入ってしばらく経っても、眠気は訪れなかった。
体は疲れているはずのに、やけに目がさえている。
そんな可憐をよそに、メッシーは床の上で腹を上にして舌をだらんと出して爆睡している。その愛らしく無防備な姿に、少しだけ慰められた。
眠れない一番の理由は、罪悪感。
せっかくジークが日本の料理に近いものを用意してくれたというのに、郷愁を覚えたのを見抜かれ、気を遣わせてしまった。
日本のことはあまり考えないようにしていた。
両親もすでに亡く、社会人になってからは仕事の忙しさから友人とも疎遠になっていた。
だからといって、日本に何の未練もないわけではない。
とにかく必死で見ないふりをしてきたものが、懐かしい味にふっと気が緩んで表に出てきてしまったのだ。
だが、ジークの気遣いがうれしかったのは嘘ではない。
「どうしよ……」
謝りに行った方がいいのか。
でも、ジークのあの性格なら謝罪されればかえって落ち込みそう。
そんなことを考えていると、部屋の扉がノックされた。
返事の後に部屋に入ってきたのは、女性騎士セーラ。
「こんばんはぁ、聖女様。夜分に申し訳ありません。起きていらっしゃいましたよねー? 声が聞こえたし」
「ええ。どうしたんですか? セーラ」
「あははー、わたしに敬語なんて使わないでくださいよぉ。そのほうが親しくなれたみたいでうれしいですし」
「そう? じゃあそうする」
セーラがえへへと笑ってピンク色のふわふわな髪を指でもてあそぶ。
かわいいな、と思った。
「えっとぉ、聖女様が落ち込んでいらっしゃるかなと思って、ちょっと来ちゃいましたぁ」
「あー……」
だめだな、と思った。
あちこちに気を遣わせていると。
掛け布団をどけて、よいしょよいしょとベッドの端に腰掛ける。メッシーが膝の上に乗ってきた。
温かいふかふかを撫でながらセーラにも座るよう促すと、彼女はベッドの近くにある椅子に座った。
「心配してくれてありがとう、セーラ。でも、故郷を懐かしんで落ち込んでいるわけではないの。ただ、ジークさんに申し訳なくて」
「団長は団長で聖女様に申し訳ないと思ってるから、おあいこですねぇ」
「ふふ、そうだね」
「聖女様はすごいですねぇ。前向きに頑張っていらっしゃって」
「ただ突っ走っているだけ。振り返ると、怖くなるし色々考えたり思い出したりするから」
「あーなんとなくわかりますぅ。わたしも騎士になることだけを目標に突っ走ってきましたから。あ、わたし、小さな村の出身で、そこが魔獣に滅ぼされちゃったんですけどー」
「えっ!?」
さらりと重大な過去を話すセーラ。
だが、その表情に悲しみはない。少なくとも、見える限りでは。
「あ、故郷がないのは聖女様と同じだなんて言うつもりはありませんよぉ? 聖女様は丸ごと違う世界に無理やり連れてこられたんですから。それなのにこの国を魔獣から守るために旅立つと決めてくださった聖女様を、心から尊敬してるんです」
「セーラ……」
セーラがにっこりと笑う。
「だから騎士になってよかったーと思って! 聖女様のお傍近くでお守りできるんですから。これからも全力で聖女様をお守りしますねぇ。恋の悩みだっていくらでも聞いちゃいますよぉ!」
「ありがとう、セーラ。でも……恋の悩みって……」
セーラはそれには答えず、むふふぅと笑う。
「そういえば、団長が宿の近くの海辺で佇んでいましたけどぉ。聖女様もわたしと一緒にそちらまでお散歩なさいますかぁ?」
「えっ……」
佇んでいるということは、彼は落ち込んでいるんだろうか、と思う。
すれ違いや誤解は早々に解決したほうがいいことは、人生経験から知っている。
「わかった、案内してくれる?」
「はいっ!」
セーラと二人、宿を出てすぐの海岸へと向かう。
魔道具のランプを持った彼女と並んで歩いた。
穏やかな波の音が心地いい。
ジークはすぐに見つかった。ただし、佇んではいなかった。
砂の上に同じく魔道具のランプを置き、一人で剣を振るっている。
真剣が風を切る音が止み、彼がこちらを振り返った。
「……カレン様」
剣を収めたジークが、もの言いたげにセーラを見る。
だが彼女はどこ吹く風で「じゃあわたしは部屋に戻りまーす」と宿へと入っていった。
しばし、波の音だけが響く。
「訓練中だったんですね」
「いえ……訓練というほどでは。ただの日課です」
「あの、ジークさん。夕食のときはごめんなさい。せっかくお刺身を用意してくれたのに」
「……こちらこそ、申し訳ありません。カレン様の故郷への思いを、軽く見ていたのだと思います」
可憐は首を振り、さらにジークに近づく。
歩くたびに、砂がサクサクと音を立てた。
「たしかに故郷を懐かしいと思う気持ちにはなりました。それは止めようがありません。でも、私が嘆き悲しんでいるとは思わないでください」
「……」
「ジークさんのお気遣い、うれしかったです。お刺身も美味しかった。だから、また美味しいものを一緒に食べたいです!」
「カレン様……ありがとうございます」
ジークが少しうつむく。
「ジークさんは食べ物で何がお好きですか?」
「はい? そうですね……鶏肉などが好きです」
「美味しいですよね! 私は鳥皮が好きなんです」
「では今度鶏肉料理を出す店に行ってみましょう」
「ええ、是非!」
ようやく微笑みあって、そこで会話が途切れる。
先に視線をそらしたのは可憐だった。
闇の色に染まった海を、しばし無言で見つめる。
同じ色をした髪が、さらさらと風に舞った。
「海は……広いですね」
「……そうですね」
「この海を行けば、別の大陸にたどり着くんでしょうね」
「はい」
「もしかしたら、私がいた国にもつながっているのかもしれません」
「……?」
「この海の先をすべて知るのは、人間にはきっと無理なのだと思います。でも、自分が一生行くことがない場所にも人がいて、様々な文化を築いている。その中の一つは、私がいた国、私がいた世界なのかもしれません」
「……カレン様……」
「だから落ち込まないよってことです。遠く離れていても、私の故郷はどこかには存在していますから」
たとえ帰れなくても。
美味しいものと便利なものであふれていたあの国は、海の向こうではなく時空の向こうかもしれないけれど、消えたわけではないのだから。
そう考えると、少し元気が出た。
「やはりあなたは素晴らしい方です、カレン様。心から尊敬いたします」
ジークが胸に拳をあて、頭を下げる。
可憐は焦った。
「そ、そんなたいしたものじゃないですよ」
「いいえ。あなたのお傍にいられることを、幸せに思います」
「は、はい……ありがとうございます……」
ジークがどんな表情をしているのか。
ランプのわずかな灯かりでは、伏せた彼の顔はよく見えなかった。




