未知
ゲオルギオスの娘がドロボロスのもとを訪ねてきてから数日がすぎた。
アカネは最初は大人しくねぐらの前に座っているだけだったが、退屈したのか次第にあちこち動き回るようになった。
ドロボロスはそれを放置していた。
しかし……それが間違いだった。
しばらくして、ねぐらの奥からガリガリガリと耳障りな音が聞こえてきたのだ。ドロボロスは音の正体——黄金にガジガジと牙を突き立てているアカネのしっぽをつまみあげた。
「何をしている? 本当に、何をしている?」
ドロボロスは怒り半分、あきれ半分で聞いた。
「わたし気づいたの」
アカネはうれしそうに眼を輝かせた。
ドロボロスは頭が痛くなってきた。
「何にだ」
「あなたが協力してくれないなら、わたしが黄金を持ち帰ればいいんだってことによ!」
アカネはけずりとった一塊の黄金をひょいと口に入れ——
「おええええまっず!!!」
勢いよく吐き出した。
「呆れてものも言えん」
ドロボロスは尻尾をポイと放り投げた。アカネは黄金の山に頭から突っ込んだ。そしてこりずにまた黄金を口に運ぶ。
「はぐっ、まずっ、はぐっ、まずっ」
「理解できん。黄金は私にとっては栄養だが、お前にとっては毒だ。寿命を縮めるぞ」
「かまわない」
アカネは手を止めない。
「絶対にお母さんを助けるって、お父さんと約束したから」
「ふむ」
ドロボロスは眼を細めた。
「理解できんな」
「いい加減食べるのをやめたらどうだ」
「やめない」
アカネが黄金を食べ始めて十日が経った。きれいな桃色だったアカネのうろこは、くすんだ黄土色になってしまった。今にも吐きそうな顔をしているのに、眼だけは赤々と燃えていた。
ドロボロスはこの顔を知っている。戦場で何度も見た、命をなげうったものの顔だ。
実にくだらない、とドロボロスは思った。
「言い直そう。食べるのをやめろ! 私の食事を食い荒らすな」
「やめたら一緒に来てくれる?」
「ふ、私を脅すか」
ドロボロスは薄く笑って、見慣れた住まいを一瞥した。アカネが食べたのは全体の百分の一ほど。黄金はまだまだ残っている。
「よかろう。お前の挑発に乗ってやる」
ドロボロスが爪をくいと動かすと、山のような黄金がごっそりけずりとられ、轟音とともにアカネのすぐそばに落ちてきた。
「これは私が蓄えた黄金の半分だ。これをすべて失えば、流石にお前の要求を飲まざるをえなくなる。しかしこれをすべて食べれば、お前も無事では済まないだろう」
途方もない黄金を見たアカネの眼は、絶望に染まり——そしてさらに強く燃えあがった。
「龍に……おえっ。はー、はー、二言はないよね?」
ドロボロスがうなずくと、アカネは猛然と黄金を腹に詰め込み始めた。
ドロボロスは瞑眼した。
やはり似ている。お前はゲオルギウスの子だ。
瞬く間に過ぎる月日は、龍にとって関心を払うべきことではない。
アカネがやってきて半年。徐々にペースを落としながらも、アカネはドロボロスが渡したほとんどの黄金をたいらげようとしていた。
——驚異的な精神力だ。間違いなく途中で音をあげると思っていたのだが。
「これで……どうだあああああ!」
アカネが最後の一塊をごくんと飲みこんだ。
「……お前の勝ちだ」
ドロボロスは苦笑混じりに言った。アカネは歓声をあげ、ばたりと倒れた。
かつての輝きは見る影もない。アカネの全身はどす黒く変色していた。
「わたしが死んだ後でも……お父さんを救うって約束して……」
「何を言っている。やつを救うのはお前だ。私はお前に付いていくだけだ」
息も絶え絶えに訴えるアカネに、ドロボロスは爪をかざす。
とたんに、アカネの体から黄金の粒子があふれ出した。みるみるうちに、アカネの眼に赤みがさし、ウロコは健康的な桃色に戻っていった。
「岩よ戻れ」
それは夢のような光景だった。黄金の柱、黄金の山、黄金の屋根……それらすべてが美しく崩れ去り、ドロボロスの体へと吸収されてゆく。ドロボロスの体はまばゆく光り、アカネは眩しそうに眼を細めた。
そして光りが消えたとき、そこには二体の龍と果てしなく続く荒野だけが残された。
岩龍ドロボロス。岩を操るその龍は、かつて龍界を支配した四体の龍——その最後の一体である。
「あなたって気難しくて意地悪だけど、すごい力を持った龍だったのね……。気難しくて意地悪だけど」
眼を見開いて、翼をせわしなく動かしながら、アカネは皮肉っぽく言った。
「お前を試しただけだ。龍の挨拶にしては優しいものだぞ。普通は殺し合う」
「理解できないわ」
「ああ、私もお前を理解できない」
ドロボロスはにやりと笑って翼を広げ、アカネの首をつかんだ。
次の瞬間、二体は空を飛んでいた。
「わああ! 速い!」
アカネが無邪気に言った。
一時間ほど飛んだあたりで、ドロボロスは思い出したようにぽつりと言った。
「アカネ。私とお前の父は友達ではない」
それがどうしたと言わんばかりにアカネは首をかしげた。
「うん」
「親友だ」
それを聞いたアカネは、花が咲くように笑った。
ドロボロスは三日ほどたえまなく飛び続けた。
その間、眼下の龍界の景色はほとんど変わらなかった。そのぶん、ときおり気まぐれに現れる断崖や山脈にアカネが大げさなリアクションをした。
「初めて龍界に入ってあなたに会うまで、何にもなさ過ぎて気が変になりそうだったわ」
アカネがげんなりした口調で言った。空には満天の星が、無秩序に動き回っていた。
「ふむ。これが人界の大防陣か」
それは突如として出現した、薄く強固な円形の膜だった。
「そうよ。これを破れるのは、一部の特別な存在だけ」
アカネが挑発するようにドロボロスを見た。アカネがここにいるということは、少なくとも向こうに防陣を破ったものがいるということだ。
「あなたに同じことができる?」
アカネはそう言っているのだ。
——面白い。
ドロボロスは防陣に触れた。
とたんに、すさまじい勢いで力が奪われるのを感じた。
「なるほど」
ドロボロス防陣から手を離した。
「なに、もう降参?」
アカネがにやにやしている。ドロボロスはふんと煙を吐いた。
「この防陣は敵の侵入を阻むものではない。その力を奪うものだ。人界に侵入するのはたやすいが、力のほとんどを持っていかれる。そうなればもはや黄金を出すほどの力は残らんぞ」
「つまり?」
「無駄骨だ。私は帰る」
ドロボロスはイライラと言った。
アカネはまだ薄笑いを浮かべている。
「……何がおかしい」
「あなたほどの龍にも、この防陣は有効だって分かって嬉しいのよ。だってこれを作ったのはお母さんだもの」
アカネは口から何かを吐き出した。それは奇妙な形をした鍵だった。
アカネは自信満々に防陣に歩み寄った。
「これを刺して……回す」
鍵が刺さった場所を中心に、防陣に小さな穴があいた。
「急いで。すぐに消える」
アカネがドロボロスをうながした。
ドロボロスはあんぐりと口を開けていた。
自身の力が通じない防陣。それをたやすく開ける鍵。今までの常識が音をたてて崩れていく。
去りぎわのゲオルギウスの言葉が蘇る。
「最後にもう一度聞く。本当に俺と来ないのか?」
だから私は、あのとき未知を拒んだのだ。
「何度も言っているだろう。私は行かない。たとえ貴様の頼みであってもだ」
傷つく事を恐れたから……。
「この世は俺たちを凌駕する不思議に満ちている! 俺はそれが嬉しくてたまらないんだ!」
「はやくはやく!」
先に防陣をくぐったアカネに急かされ、ドロボロスは力を使い、身体を縮めて人界へと入る。
「まったく、お前たちには驚かされるばかりだ」
ドロボロスはアカネを見てつぶやいた。
「ん? 何か言った?」
「いいや」
ドロボロスは首をふった。
そして、これからもそうなのだろう。
たくさんの驚きと、わずらわしさと、あるいは少しの恐怖に出会うのだろう。
それはもしかしたら、少しだけ心躍る——いや、やめておこう。私はその感情と最も縁遠い龍だ。
ドロボロスは人界を見わたし、
「美しいではないか!」
さっそく驚いて叫び声をあげた。