妹が心配だからとドタキャンばかりの婚約者。よろしい、ならばお見舞いして差し上げましょう!
エリスは激怒した。
「まったくあの方は、この婚約の意味がわかってらっしゃらないの!?」
必ず、かの無知蒙昧な婚約者にわからせねばならぬと決意した。
エリスは政略結婚の意味がよくわかっていた。
だが婚約者であるディオンはどうやらそうでないらしく、今日も今日とて親睦を深めるための茶会を当日ドタキャン。
彼は政略というものに対して人一倍鈍感であった。
「あんなのが跡取りだなんて、伯爵家もお先真っ暗ですわねまったく!」
エリスがそう吐き捨ててしまうのも無理はない。
複数の大きな港を持ち海運業の中核となっているエリスの侯爵家と、陸路の輸送を担うディオンの伯爵家。
この二つの家が手を結べば国内の物流がさらに円滑となり、各地の産業が盛んになるのは目に見えている。
当然それは国力増大につながり、その先の国家戦略にも大きな益となるはずであった。
だが、まさかそれがこんなところで暗礁に乗り上げかけているだなどと、普通は思いもしないことだろう。
貴族たる者、家と国が最優先。それが貴族の常識である上に、この政略がもたらす金銭的利益は大きく、かつ、わかりやすい。
おまけにこういってはなんだがエリスは長い金髪に碧眼、抜けるような白い肌のナイスバディと絵に描いたような美人であり、若い男であれば放っておくなどありえないはず。
だから大人達は婚約が成った時点で両家の確固たる協力体制は万全だと安心しきっていた。
だが、何事にも例外というものあり、不幸なことにエリスの婚約者殿はその例外に当たる存在だったわけだ。
「全くです。それも真っ当な理由でのキャンセルならばまだしも……毎度毎度、妹様の具合が悪くなったから側に居てやりたいだなどと!」
憤懣やるかたない顔で、エリスの侍女が同調する。
そう、ディオンのドタキャンは、今日が初めてではない。
むしろ侍女の言うように毎度のこと……婚約が結ばれてから数ヶ月、今まで二人が茶会やデートをまともにこなせた試しがないのだ。
確かにディオンの妹であるセリンが病弱であるとは聞いていたし、最初の数回は仕方のないこと、妹思いの人だなどと感心することすらあった。
だが、それが毎度毎度となれば話は変わってくる。
ここまでくれば病弱にも程があるし、そこまで酷いのならば入院させろというレベルですらあろう。
だというのに入院させるでもなく、在宅で療養をさせているというのだから意味がわからない。
「いっそ、妹さんが仮病を使ってディオン様の気を引いているだとかの可能性すら考えてしまうわね……」
「まさかそんな愚かしいことを……いえ、あの方の妹君であればその可能性も捨てられませんね……」
婚約を結んだ場でディオンが見せた言動からも微妙にお花畑の気配を感じていたが、その後のこれを見るに、本当にお花畑なのだろう。
であればその妹も、と思ってしまうのも無理はない。
「もしそうなら……ちょっと色々考えないといけなくなるわね」
「いえ、もうとっくに考えてもいいと思いますよ?」
辛辣な侍女の意見に、しかしエリスは首を振って見せた。
「そうもいかないわ。これは王家も絡む婚約、憶測だけで動くのは……」
そこまで口にしたところで、エリスがはっとしたような表情になる。
「そうよ、そうすればいいのよ! なんでこんな簡単なことに気がつかなかったのかしら!」
急に声を上げたエリスに、侍女は一瞬驚いたような顔になるが、すぐに表情を戻した。
もちろん淑女として褒められた行動ではないが、今ここにいるのは侍女を始めとする侯爵家の使用人ばかりなのだ、問題はないだろう。
「一体何に気付かれたのです?」
「ふふ、本当に簡単なことなのよ。あのね……」
少しばかり悪戯に微笑むエリスが思いついたことを口にすれば、侍女は一度目を見開き、それから、なるほどと頷いたのだった。
それから数日後。
「申し訳ございません、本日もまたセリン様のお加減が優れず、ディオン様は……」
「あらそう、相変わらず大変ですのね」
仕切り直しの茶会だったはずなのに、やはりディオンはドタキャン。
そんな失礼な連絡をしにくる羽目になった伯爵家の使いは顔を青くしながらダラダラと冷や汗を流している。
いくら婚約が成ったとはいえ、相手は目上の侯爵家。
こうもドタキャンが続けば流石に切れ散らかされても文句が言えない。
なんなら彼の首がこの場で飛ぶことすらありえる事態なのだ、肝が冷えるどころではないだろう。
だが、彼に対面したエリスは至極落ち着いた態度。
それどころか。
「こうも頻繁に体調を崩されるなんて、セリン様のことが心配ですわ。
いかがでしょう、今からわたくし、お見舞いに伺いたいのですが……」
と、気遣う言葉まで発してくれたのだから、使いの者の感動たるやいかばかりか。
シュザッと音がするような勢いで背筋を伸ばし姿勢を改め、思わぬ僥倖に目を潤ませすらしてしまう。
「な、何と寛大なお言葉!
きっとセリン様も喜ばれます、い、今から急ぎ戻りまして先触れをいたしますので、ゆるりとお越しいただけましたら!」
若干上擦り気味な声で言うのも仕方がないところ。
また、本来であれば彼が来訪に許可を与える権限などないのだが……そこに対して誰も何も言わなかった。
婚約者の家に、格上の侯爵令嬢が、お茶会の約束がある日に訪れる。
そこには何も問題があるわけがない。
むしろここまで格上相手に失礼を重ねているのだから、ここで相手の言うことを通さないわけにはいくまい。
少なくとも貴族的な常識に照らし合わせればそうなるはずであるから、使者がそう判断したのも仕方がないところだろう。
こうして、若干無理矢理にエリスは伯爵邸へと訪れたのだが。
「なんですの、この部屋は!?」
エリスは激怒した。
何やら微妙にお見舞いを嫌がっているらしい婚約者を押しのけて、やがて義妹となるはずであるセリンの部屋へと強引に乗り込んでみれば、とても療養に向いているとは言えない部屋であった。
部屋の作り自体は、間違いなく豪華というかきちんとしたものではある。
だが、そんな印象など吹っ飛んでしまうくらいに部屋の空気が悪い。物理的な意味で。
カーテンがぴっちりと閉じられて薄暗い室内、窓もきっちり閉められているせいで空気も淀んでいる。
掃除はちゃんとしているようだが、それでも湿気に満ちたようなカビ臭さ一歩手前の匂いが鼻を突く。
そして、この部屋の主であるセリンは、悪い意味でこの部屋に馴染んでしまっていた。
薄暗さの中に溶け込んでしまいそうな黒髪は艶やかというよりもじっとりとしており、白い肌は文字通り病的なほど。
美しい顔立ちだろうにその表情は儚げを通り越して生気が薄く、この世とあの世の境に横たわっているかのよう。
確かにこれでは何かある度に体調を崩すだろうと納得もしてしまうが、それはどう考えてもこの環境のせいである。
当たり前だが、こんな部屋に病人を置いておくわけにはいかない。
「とっととこの陰気くさいカーテンを開けなさい! それから窓は開けて風を入れる! ただし強い風が直接セリン様に当たらないように!
とにかく換気、それから日光を入れる! こんな部屋で病気が良くなるものですか!」
言いながらエリスはカーテンを勢いよく引いて日光を呼び込み、窓を開ける。
エリスに付き従っていた侍女も同じくカーテンを開き、風の様子を見ながら窓を開閉して。
あっという間に、部屋の中に充満していた澱んだ空気が刷新された。
「な、何てことをしてくれるんだ!? こんなのセリンの部屋じゃない!」
「黙らっしゃい! 何がセリンの部屋じゃないですか、そんな部屋にしておくことを許すだなんてどうかしています!
あ、そこのあなた、伯爵様に面会のお約束をいただいてください、それも明日! 必ず明日にお会いできるよう調整してくださいな!
さもなくばこちらも実力行使含め色々検討致しますので、そのこともお伝えなさい!」
「は、はいぃぃ!」
遅れてやってきたディオンが文句を付けてくるも、バッサリ斬り捨てたと思えば近くにいた執事風の男性へとアポ取りを圧力高めで要請。
そんなことを侯爵令嬢からされて、頷く以外の選択肢は彼にはない。
こくこくと頷いた後執事が出て行った後、エリスは突然のことに呆然としていたセリンの側へと跪いた。
「初めまして、セリン様。この度そこで突っ立っているディオン様の婚約者となりましたエリスと申します。
突然あれこれ指示を出して申し訳ございませんが……あなたのご病気は治ります。必ず、治してみせます。
どうかわたくしを信じていただけませんか?」
ベッドに横たわったまま突然のことに驚き目を瞬かせていたセリンは、そのまま視線をエリスへと向ける。
しばし、その瞳を見つめて。
それから、ゆっくりと頷いてみせた。
「……はい、エリス様……私、あなた様を信じます」
「セリン!? そ、そんな女の言うことを信じるんじゃない!」
「あら、婚約者に対してその物言いはどうかと思いますが?」
エリスの言うことを受け入れたセリンへとディオンが慌てて駆け寄るも、口走った言葉はどうにもまずいもの。
婚約者であり格上の侯爵家令嬢に対して言う言葉ではない。
そのことを指摘されてもなお、ディオンは不服そうな顔を隠そうともしないが……それでも反論しなかったのは、まだ僅かばかりでも理性が残っていたからだろうか。
あるいは、反論出来るような言葉が出てこなかっただけかも知れないが。
「ともかく、明日改めてお話をさせていただきます。
準備がございますので、今日のところはこれにて失礼させていただきます!」
そう宣言して、エリスは颯爽と身を翻し、辞去した。
後に残されたのは、呆然とする伯爵家の面々。
いや、幾人かはどこか希望を得たかのように顔を輝かせていて。
その内の一人が、渦中の人であるセリンであった。
「セリン、落ち着いて考えるんだ、初対面であんなことをする人間なんて、ろくなもんじゃないだろう?
そもそも元から気に入らなかったんだ、侯爵家令嬢だからって自分が正しいとばかりに上から目線で……男を立てるだとかそんな気遣いの出来ない人間がまともなわけがない!」
などとディオンは説得……だと本人は思っている主張をするのだが、セリンは頑として首を縦に振らない。
というか、こんな言い分に同調する人間はあまり多くないだろうが。
「いいえ、お兄様。確かに強引ではありましたけれど……エリス様がいらしてから、呼吸がしやすくなったのは事実なのです。
今まで生きてきた中で、一番気分がいいくらいなんですよ?」
と、愛する妹にそこまで言われてしまえば、ディオンも流石に返す言葉がない。
それでも彼はエリスを信じられない、と言い捨てて撤退するしかなかった。
そして、翌日。
「どんな判断ですかこれは! セリン様の命をドブに捨てるおつもりですか!」
エリスはまたまた激怒した。
いかな侯爵令嬢といえども、爵位持ちである伯爵家当主は社交界のルールでは格上にあたる。
だが、その伯爵を相手に、エリスはバシンと書類を叩きつけた。
もちろん比喩であり、叩きつけたのは応接室に置かれたテーブルに、ではあったのだが。
「お待ちいただきたいエリス殿、セリンの命をドブに捨てるだなどと酷い言いがかりです、我々はセリンのことを考えてですね」
「考えた結果最悪の環境に置いていたとはどういうことですか!」
「最悪とはどういうことですか、あの部屋こそセリンがもっともセリンらしくある部屋ではありませんか!」
「何をどうしたらそんな結論になりますの!?」
キレ気味にエリスが説明を促した結果聞き取れたのは、それはもう頭を抱えたくなる主張だった。
いわく、病弱なセリンに陽光は似合わない。そもそも病弱な者は暗い部屋で寝ているべきである、と。
なお、勿論医者を呼んだことはあり、医者はそんな環境は駄目だと言っていたのだが、伯爵の信念に背くため追い返したのだという。
伯爵がこんな世迷い言を言ってしまうのもある意味で仕方がないところもないではない。
この国では魔法が発達しており、大体の怪我や病気は魔法で治る。
もちろんそれはそれで良いことなのだが、結果、『何故治るのか』に関してはあまり研究されていなかった。
だから『喉や肺の病であればまずは換気して新鮮な空気を』といった知識が、特に地位と年齢が高い貴族ほどない。
彼らは、魔法による治療を十分に受けられるからだ。
逆に、体質だとかに由来する慢性的な病気は、一時的には治るもののセリンのようにぶり返しては長引くことがあるのだが……健康で、魔法で治る人間は、そんなことに理解が及ばないわけだ。
そのせいで主張された、あまりに主観的で明確なエビデンスなど欠片もない言い分に対して、エリスが見せた反応は言うまでもない。
何しろ彼女は国の玄関口を担う侯爵家の人間、国外から入ってくる最新の医学情報に触れることが出来る立場にいるのだから。
「それは最早虐待すら越えて緩やかな殺人ですわよぉぉぉぉ!!!」
エリスは、激怒した。
それはもう、これ以上なく激怒した。
迫力美人な彼女がマジギレすればそれはもう恐ろしいほどの圧があり、ディオンはもちろん伯爵ですら言葉を失い、縮こまるばかり。
そこに更なる追撃、先程テーブルに叩きつけた医学論文を端的に説明し、連れてきた国内でも最高峰にある名医にもそれが確かであると保証させる。
伯爵達はそれでもなおも反論しようとするも、それらの言いがかりに対して徹底的に理詰めでボッコボコに論破。
話が終わるころには、伯爵もディオンもすっかり真っ白に燃え尽きていた。
「ということで、セリン様は今後わたくしどもで治療させていただきます。文句はございませんわね!」
最早言葉も出ず、伯爵もディオンもコクコクと頷くばかり。
こうして、セリンは侯爵家が保有する海辺の別荘で療養することになった。
それから一年ほど経過した後。
「エリスお姉様、早くいらしてくださいな!」
「ま、まってセリン、あなた足が速いのだから、もう少し落ち着いて!」
明るい日差しの中砂浜を駆けるセリンと、彼女を追いかけようとして追いつけないエリス。
なんということでしょう。
海辺の気候、適切な治療とリハビリがセリンの身体に合ったらしく、セリンはすっかり元気を取り戻したどころか、エリスを置いてきぼりに出来る程の活発さを手に入れていた。
これにはエリスもにっこりである。置いて行かれている今は苦笑気味だけれども。
「まったく、もう。すっかりお転婆さんになっちゃって」
「あら、お転婆な私は、お嫌いですか?」
「いいえ、あの頃のあなたよりも、ずっとずっと、今のあなたの方が好きだけれど」
息を落ち着かせるために足を止めたエリスの元へと、朗らかな笑みのセリンが戻ってくる。
……好き、と言われて一瞬身体が固まり、頬がほんのりと赤くなったけれども。
その笑みには、一点の曇りもない。
「だけどそれはそれとして、今度の舞踏会はどうしたものかしら」
エリスが懸念するのは、その一点。
すっかり日に焼けた肌、艶やかで神秘的なストレートの黒髪のセリンはどこかエキゾチックな魅力を纏った美女へと成長していた。
それはそれでもちろん魅力的なのだが、今都で流行っているようなドレスは似合わないような雰囲気にもなってしまっている。
「あら、いっそ欠席してしまってもいいと思うのですけど」
「そうもいかないわよ、あなたが元気になったと聞いたらしくて、絶対に連れてきてくれと婚約者殿も伯爵様も煩いのだもの」
「別に無視してしまってもいいのでは?」
「流石に、元気になった顔を見たいという親心を無下には出来ないわよ、ほんとにそう思ってるかはわからないけれど」
あっさりとしたセリンの答えに、エリスは苦笑して返す。
この一年ですっかりたくましくなったセリンは、精神的にはすっかり親離れしてしまっていた。
まあ、この港町に来て一年もの間に一度もホームシックにならなかったのだ、彼女にとってあの家がどんなものだったかは想像に難くない。
だから出来れば意向に沿うようしてやりたくもあるのだが、王家主催の舞踏会となればあまり簡単に欠席するのもよろしくないだろう。
それに、伯爵が心を入れ替えたのであれば会わせてやりたいとも思う。……どうも婚約者殿は拗らせてしまっているようだから除外してしまいたいところだが。
「う~ん……あ、それなら着ていくものはこちらで選ぶという条件ならばどうでしょう。
父や兄の選んだドレスだと、一年前の私に似合うものか、あの二人の好みを押しつけてくるものになりそうですし」
「……それは全く以て否定出来ないのが辛いところね……。
わかったわ、向こうもセリンの元気な顔が見たいというのが一番大きいでしょうし、頷くんじゃないかしら」
「でしたら、元気であることをアピールするためにも、ですね……」
そんなやり取りの後、二人は舞踏会に参加することとなった。
そして、ディオンは激怒した。
エリスではなく、その婚約者であるディオンが、である。
「どういうことだエリス! 婚約者である私を置いてそんな優男と入場してくるなどと!」
「あらどの口がそんなことをおっしゃっているのかしら、ディオン様。
そもそもわたくしのエスコートをしないと言ってきたのはそちらが先。
腕に見知らぬお嬢さんをぶら下げていても説得力がありませんわよ?」
「ぬっ、ぐぬぬ……」
何がぐぬぬだ、と言いたくなったが、エリスはぐっと堪える。
ここは茶化さずに問い詰めるべき場面と、彼女はよくわかっていた。
どうやら浮気をしているらしい、とは聞いていたが、まさかエリスが参加する夜会に堂々と連れてくるとは。
もしや、最近劇だなんだで流行っている婚約破棄の茶番でもするつもりだったのだろうか。
そんな愚にも付かない考えが頭をよぎるが、あまり大きく外れてもいなさそうなのが頭の痛いところである。
「だ、大体何故お前だけなんだ、セリンを連れてくると言っていたじゃないか!」
「重ね重ね、何をおっしゃっているのやら……セリンならここに居ますわよ?」
「どこにいるというのだ、適当なことを抜かすな!」
話を逸らそうと喚くディオンへと、エリスが小さく溜息を吐いて見せて。
す、と彼女をエスコートしていた人物が前へと進み出る。
「ここにおりますわよ、お兄様」
「……は?」
すらりとした優男風の姿から聞こえてくる、聞き覚えのある声。
いや、ディオンが知っている声よりも随分と生命力に溢れてはいるが。
「そ、その声……まさか、セリン、か……?」
「はい、その通りです。まさか気付かれないどころか男性と間違われるとは思いもしませんでしたけれども」
若干嘘である。
この1年ですっかり健康になっただけでなく、身長まで随分と伸びたセリンは、今やエリスから頭半分は高くなっていた。
そんな長身で男装をし、艶やかな黒髪を首の後ろで縛った格好でキリリとした表情を作れば、中性的な美少年に見えなくもない。
もちろんこれはわざとなのだから、男性と間違われたら面白いなとすら思っていたのだが。
しかし、まさか実の兄に間違われるのは、流石に想定外である。
もっとも、今のセリンは、それを面白いと思ってしまうような図太さも身に付けてしまっていた。
「まあ、療養中に一度も顔を見に来てくださらなかったのですから、それも仕方ないのかも知れませんが」
「そうよねぇ、お忙しい伯爵様は仕方ないとして、まさかあれだけ大事だと言っていた愛しの妹のところに、1年の間に一度もいらっしゃらないだなんて。
そういえば、伯爵様はお手紙を月に一度は送ってこられたけれど、ディオン様からは……。
ディオン様の『大事にする』って一体、ってセリンと何度も言い合ったものだわ」
セリンが言えばエリスが物憂げな顔で応じる。もちろん、演技だが。
それでもディオンの浮気相手には効果抜群だったらしく、彼の腕を離してじわりと距離を取る。
もちろん周囲で見ている人々がディオンを見る目も冷たいものや白いものがほとんど。
己の不利を悟ったディオンは……。
「う、うるさい、生意気なことを言うな! 私を馬鹿にするなら、婚約を破棄するぞ!?」
逆ギレした。
その態度に、ますます周囲の視線は冷たくなる。
王命でこそないものの、二人の婚約は王家も注視する政略的意義の大きなものであることは当然知れ渡っていた。
それを己の感情一つで破棄しようというのだ、次期当主としての資質を疑われても仕方がない。
当然そのことを指摘してエリスがディオンを罵倒するなり嘲りすると周囲は思ったのだが、そうは問屋が卸さなかった。
「とっくに婚約解消の申し入れはしてますし、伯爵様と我が父との間で話は進んでおりますわよ? なんで当事者のあなたがご存じないのかしら」
「は、はぁ!? お、おまっ、じ、事業提携はどうする気だ!?」
自分から婚約破棄を口にしておいてこの言い草に、周囲のあちこちから失笑だとかが漏れ聞こえてくる。
もう滅茶苦茶だな、と誰かが口にしたのだが。
「大丈夫です、私とエリスお姉様で婚約いたしますから!」
「はぁぁぁ!!!???」
更に滅茶苦茶なことをセリンが言い出し、ディオンの顎は今にも外れんばかり。
流石にそれも無理からぬこと、周囲の人間も訝しげな顔をしている。……何人かは思い当たることがある顔をしているが。
「先日、辺境伯様が実は女性だったと公表され、それに会わせて爵位継承に関する法律も変わりましたでしょう?
その伴侶となられた元子爵令嬢のキャロル様、実はわたくしのお友達でして。女性同士で子を生す魔法を教えていただいたのですよ」
「これでエリスお姉様が入り婿として我が家に来ることが出来るようになった上に、私とお姉様で、その……子を生せば、跡継ぎも問題なし、ですので!
ですので、お兄様と結婚する意味が全くなくなったのです!」
「なんだそりゃぁぁぁぁ!?」
思わずディオンは叫んでしまうが、残念なことにこれはただの事実である。
二年程前に結婚し爵位を継承した男装の辺境伯ジュリアスは、継承直後のまだ落ち着いていないだろうタイミングを狙って攻め込んできた蛮族の大軍を完膚なきまでに叩きのめし、追い返した。
その多大な戦果に王家も脱帽し、ジュリアスが女性であることを公表した上で、その功績を称え継承に関する法を改正したのである。
ちなみに、ジュリアスとは男性として育てるためにつけられた名前であり、婦婦の時間においてはジュリアと呼ばれていたりするのだが……これは当の二人しか知らなくてよいことだ。
それはともかく。
ディオンが婚約者にも妹にも不誠実であり、エリスとセリンの仲が良いのであれば婚約相手を入れ替えても家同士の付き合いとしては何も問題はない。
むしろ仲違いをする可能性が低いのだから、その方がいいまである。
「ということで、破棄するまでもなくあなたとの婚約はなくなりますの。ディオン様、おわかりになりまして?」
満足げな顔で問いかけるエリスに、ディオンは言葉を返すことも出来ず、その場で両膝をついたのだった。
「まったく、我が兄ながら軟弱でいけません」
「そうねぇ、もう少し世間の荒波に揉まれたりした方がいいんじゃないかしら」
数日後、侯爵家のタウンハウスでセリンとエリスはお茶を楽しみながらそんな会話をしていた。
舞踏会の翌日には婚約解消に向けた話し合いがされたのだが、心が完全に折れたディオンは部屋に引きこもり、当事者不在のまま当主同士の話し合いでエリスとの婚約は解消、新たにエリスとセリンの婚約が結ばれている。
そのことが更にショックだったのか、ディオンは今や食事もろくに喉を通らない有様らしい。
「それに比べて、セリンは本当にたくましくなったわね」
「そうですか? ……でも、そうだとしたら……それは全部、エリスお姉様のおかげです。
あの日あの時、私を暗い部屋から解放してくださった、お姉様のおかげ……」
そう言いながら目を伏せれば、あの日の記憶がセリンの脳裏で鮮やかに蘇る。
解き放たれた扉、開かれていくカーテン、窓……光で溢れかえる部屋に、流れ込んでくる新鮮な空気。
それを吸い込んで肺を満たせば、身体の中にまで光が差し込んだような気がした。
あの日から全ては変わり、セリンは今こうして、エリスの隣にいる。その資格を手にしている。
「だから私も、誰かの光になれたら、なんておこがましいことも考えちゃって」
「なるほど、翻訳をしてみたいっていうのはそれが理由なのね」
得心したようにエリスは頷いて見せる。
海の近くで療養している間に、セリンは海外からもたらされた様々な書物に触れていた。
それらは異国に通じる扉が開かれたかのごとき感動を与えてくれるもの。
幸か不幸か、伯爵家にいたころ部屋に籠もりきりで本ばかり読んでいた結果として教養が身についていたセリンは、それらの書物を読むことができ、知的好奇心を大いに満足させていた。
そして同時に、その書物を翻訳して、人々に未知への扉として紹介することが出来たら、と思うようにも。
もちろん、そんな前向きな夢をエリスが応援しないわけがない。
「いいと思うわ、どんどん翻訳しちゃいなさい」
「お姉様、ありがとうございます!」
「ついでに辞書を作ってもらって、それを売りに出したら大もうけ出来そうじゃない?」
「……さっき私にたくましいとか言いましたけど、お姉様の方がよっぽどじゃないですか……?」
きっと、話を聞いていた人間がいたら、どっちもどっちと言ったことだろう。
たくましく前向きな二人は、夢を語る。二人で歩いて行く未来の夢を。
もっとも、若い二人はそれだけでは終わらないのだが。
「もちろん、たくましいお姉様も大好きなんですけど、こう、夜の方はもう少しお淑やかにしていただけたら……こないだも、首筋に付けられた痕をメイドに見られちゃいまして」
そんなことを言われて、エリスはひどく赤面した。
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また、本文中に出て来たジュリアスやキャロルが出てくる短編へのリンクを下の方に貼っております。
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