72 因果 ※流雨(兄(仮))視点
人生は帳尻が合うようにできている――。
小さいころに、流雨の祖父はそう言った。なぜかその言葉を、父の命日が来るたびに思い出していた。いつか流雨にも、父を見殺しにした対価を払う時がやってくるかもしれない。
流雨の父は、流雨が小さい頃は普通の父だった。仕事は忙しいけれど、休みの日は遊んでくれたし、母とも仲が良かった。しかし父はある時から機嫌が悪くなった。父は仕事のできる人だったが、仕事の同僚に争っていたポジションを奪われたらしく、それからやる気がなくなったのか父は仕事も辞めた。
それからというもの、父は酒浸りになり、母が家計を支えるために働きに出るようになった。そして父は母と流雨に手を上げるようになった。母は流雨を庇い、それを母の反抗だと激高した父は母を集中的に攻撃した。そしてその時に、流雨が楽しみにしていた、生まれてくるはずだった弟妹も母のお腹で死んでしまった。
あの日は寒い日の夜だった。仕事と父の暴力に母は弱り風邪をひいて高熱が出ていたにも関わらず、父は自分の食事の用意が出来ていないと酔っぱらって罵倒していた。流雨も手伝って父の食事の用意をして、流雨と母も食事をした後、その日は流雨の部屋で体調の悪い母に寝てもらった。一緒に寝ていた流雨は、時々起きて母の様子を見ていた。
何度目かに起きた夜中、母の息遣いを確認して苦しそうではないと判断。そして流雨はトイレのために廊下に出た時だった。何かがおかしい。むわっとする。父には会いたくないが、そろっと父が泥酔して寝ているはずのリビングの扉を開けようとして声にならない悲鳴を上げた。
扉の取っ手が熱かった。服の長袖の布を伸ばし、皮膚で直に取っ手に触れないようにしながら扉を開けた。リビングは火が燃え広がっていた。奥にかろうじて寝ているであろう父が見えるが、火が広がっていて流雨が行ける隙はない。ストーブの辺りが一番火が強いように見えるため、ストーブ近くに部屋干ししていた洗濯が落ちでもしたのだろうか。
今なら、まだ大声を出せば、もしかしたら父は目が覚めて逃げられるかもしれない。しかし流雨はそっと扉を閉めた。そしてゆっくりと母の寝ている自室に戻り、母の隣に横になった。自分は今、何をしようとしているのだろうか。いや、いくら自分が小さくてもすでに小学生。これがいけないことくらい、分かっている。父を見捨てるなんて、本当はしてはいけないことだ。それでも。
日に日にひどくなる父の暴力は、いつか母と流雨を殺すかもしれない。母のお腹にいた弟妹を殺したように。
流雨はそのままじっとしていた。そして耳を澄ます。近所がざわざわとしている気がする。そして流雨がいる部屋にも熱が近寄ってきているのを感じていた。流雨は母を起こした。そして母と共に自室の窓から庭に出た。風邪薬が効いているのか、朦朧としている母を外で抱きしめながら、父が家から出てくるかもしれないと、必死に目をこらした。父が家から出てきたら、また暴力の日々が待っている。
しかし父は出てこなかった。流雨の希望通り、父は帰らぬ人となった。
それから父の命日のたびに思い出していた祖父の『人生は帳尻が合うようにできている』という言葉は、流雨に迫りくるスローモーションのようなトラックを前にして、再び思い出すことになる。
ああ、今なのか。これが因果応報――。
◆
次に流雨の目が覚めると、そこは見知らぬ場所だった。豪華な部屋、豪華な家具、そして自分のものではない膨大な記憶が一気に流雨の頭を駆け巡った。
その膨大な情報量に眩暈がして、流雨はしばらくベッドから起き上がれなかった。それから眩暈が落ち着いてきた頃、そっとベッドから足を下ろす。立ち上がって、鏡の前に立った。
「……ははは」
乾いた笑いが口から出る。自分ではない姿がそこにいた。しかしこれが誰だか知っている。さきほどこの体の記憶の全てを知ったから。
ルーウェン・ウォン・リンケルト。公爵家後継者。そして荒くれ者。
流雨はトラックに突っ込まれて死んだであろうことは理解していた。あの事故で生きていられるはずがない。
では、まさか流雨は転生したのだろうか。しかしそれも否だと思った。ルーウェンである時に流雨の記憶を思い出したなら転生した、と言っていいのかもしれないが、流雨の記憶の中にルーウェンの記憶が流れ込んできたということは、つまり。ルーウェンの体を借りてしまっている状態と言えよう。なぜかルーウェンの体を動かしている主導は流雨となってしまっているが、きっと体のどこかにルーウェンもいるはずだ。つまりいつかはルーウェンの体を出て行かなければならないのは流雨というわけで。
「また死ぬということか……」
しかし流雨は別に悲嘆にくれることもなかった。これは流雨の体ではない。持ち主に返す必要がある。そして、いまさら生にしがみつくつもりもない。ここはすでに地球ではないだろうということも予想していた。ということは、この世界に流雨が囚われるほどの惹かれるものは一つもない。
流雨はルーウェンの記憶のある通り、近くに置いてあったベルを鳴らした。そしてやってきた使用人に口を開いた。
「着替えを。あとアルベルトを呼んでくれ」
使用人に手伝ってもらい着替えを済ませ、やってきたアルベルトに流雨は自分はルーウェンではないことを告げた。
「………………………………ルーウェン様ではない? 何かの新しい遊びですか?」
「違う」
立ったまま、どうにかこちらの意図を読み取ろうとしているアルベルトは、考え過ぎてだんだんと体が傾いていく。
「……大丈夫か? お茶を用意させるから、落ち着け」
再びベルを鳴らし、使用人にお茶を用意してもらい、アルベルトをソファーに座らせた。こんな話、普通信じなくて当たり前だ。ゆっくりとお茶を飲んだアルベルトは、カップを置き、じっと流雨を見た。
「ルーウェン様の中身がルーウェン様でない、ということは理解しました」
「もう? 早くないか?」
「ルーウェン様に気遣われるなんて、私は経験ありませんから。お茶を用意してもらったのも初めてです」
「……」
あー、なるほど。と、ルーウェンの記憶から納得してしまう。
「そうか、ルーウェン様じゃないのか……できれば、そのままいてもらうことはできませんか?」
「他人が主人の体の中にいるんだぞ。気持ち悪くないのか?」
「私にはルーウェン様は手に負えなくて。いつもルーウェン様のやらかしの後始末で胃はキリキリするし、眠れないし、先日頭にコイン禿げができました」
「コイン……ああ、十円ハゲか。言っておくが、俺も会社では優しくないと言われていたぞ」
「それでもルーウェン様の上を行く手に負えない人なんて、いないと思います」
これはかなり嫌われているな。他人事ではあるが、苦笑してしまう。
「悪いが、俺はいつまでもこの体にいるつもりはない。いつか何かの拍子に出ていく可能性はあるが、早くこの体を出ていく方法があるなら、試したい」
「……どうしてもですか?」
「どうしてもだ」
アルベルトががっかり、といった体でしゅんとしている。
それから、流雨は普通の生活をした。しばらくメイル学園には行かないことにした。ルーウェンの家、リンケルト公爵家は建国貴族と呼ばれる家系で、魔法ではないが、地球にはなかった不思議な力を継いでいるのは記憶から知っていた。もしかしたら、流雨がルーウェンの体に入ったのは、その力の影響なのかもしれないと考え、リンケルト家にある図書室で調べ物をしたりして、数日を過ごした。しかし何もそれらしいものは見つからない。
ルーウェンの体にいる間、普段はめったに一緒に食事をしないルーウェンの父と姉と食事をしたが、大人しいルーウェンに始終家族は驚いているようだった。
家には手掛かりがなさそうだと判断し、アルベルトを連れて街に出ることにした。




