水銀灯
水銀灯
私は貧しいままだった。
こうして石を掘っているのもチャボが炭鉱夫だからだ。ここでは皆、貧しくて主人は出稼ぎに、女は炭鉱で働いている。
炭鉱の仕事は大きく三つに分けられる。掘るのと岩を運び出す荷車、それに鉱石の選別と水洗いだ。皆が貧しい。
今日は主人の帰ってくる日だ。この谷の狭間に。
茶色い家並みが続く・・。
「ほら、チャボ何ぼーっとしてんだい」鶴嘴を持つ手が止まっていた。これも信頼の証。ここでは女たちはたくましく、協力しないと生きていけない。
ようやく坑道を掘る時間が終わって、タオルで汗を拭き拭きゾロゾロと引き返していると、チャボは暗い横穴を発見した。
「こんなの、前にあったかしら」
誰かが新しく掘ったの? まだ天井の板張りもされていない。
ソロソロとチャボは列から外れて足を踏み入れた。
水洗いの係の者に「私のズボンも洗っといてよ」等々、女たちは仕事が終わった疲れで方々に帰る。ジーンズを脱ぐ者、タンクトップを肩にかける者、安全靴を脱いで靴紐を肩にかける者・・、その姿は様々だ。時に乳房を丸出しにして帰るのが常となっている。
チャボも遅れて泥に汚れた安全靴を水洗いの係に渡して引き上げた。炭鉱の入り口の近くには今日も物乞いのおっさんがいた。足が萎えて仕事に行けないので女たちにせがんでいるのだ。
誰も構わないが、今日は遅れて出てきたチャボにしつこく付きまとった。
「うるさいなあ、あっち行けよ」チャボはタンクトップを脱いで首にかけた。
「何の役にも立たん者はどうすればええんじゃ」いつになく負け犬の遠吠えが遠くに響いた。
夫は片手一杯の紙幣を持って来ていた。娘も大喜びだ。
「足萎えのおっさんに何もされなかったか」夫は膝の上で娘のアルマジロを遊ばせている。
「ああ」チャボは笑って蛇口をひねり濁ったこの沢の水で汗だらけの顔をゆすいだ。
アルマジロはチョコレートの口紅をしてまだ父親の腕に甘えている。
チャボはタオルで後ろ首をこすりながら気が気でなかった。今日、見たあの坑道・・。
戦時中のかしら?
あれ以上、近寄れなかったが中に入れそうな気がする。どこかに通っていたらどうしよう。
何が欲しいわけじゃない私は未来が欲しい。
チャボは古い石の下に紙幣を隠しながら後ろの夫を盗み見た。
私が欲しいのは・・、アルマジロを見た・・、私の未来だ。
夫はずっと下のアルマジロを見ている。アルマジロはインコのように鳴いている。
生きてくだけで精一杯。
私は壁の柱に寄り添って暗い部屋で夫とアルマジロが眠っているのを見ている。
チャボはそっと足を忍ばせて家を出た。それからは炭鉱まで走った。
未来が欲しい、未来が欲しい、と頭の中で鳴っていた。
夜の炭鉱には誰もいなかった。ただ覆い被さるように聳え、低くたれこめる夜空の一部みたいだった。
「銭、くんねえか」足萎えのおっさんだった。
あっち行け、と手で追い払うと「こんな夜更けにここに何しに来た? 何か盗りに来たんだろ。言っちまうぞ、何かくんねえと言っちまうぞ」としつこくねだった。
チャボは走って坑道に入った。追おうとしたのか、カラカラ・・、と小銭を入れる空き罐が鳴った。
あの横穴の坑道はポカンと口を開けていた。
スカートの襞を押さえながらチャボは中に入っていった。
未来が欲しい、未来が欲しい、と願いながら。
中は広くなっていた。水銀灯がチラチラと青白い光を放っていた。消毒された匂いがする。こんな匂い炭鉱では嗅いだことがない。
キョロキョロしながらチャボはどこかに通じる坑道を探した。あった。来た道とその行く道と二つしかない。チャボは手を握った。
まだ整備されていないその坑道を渡るとよく知っている場所だった。元の所だったのである。
夢だったのか。チャボは膝に両手を突いた。
仕方なく家の方まで歩いていくと後ろから手をかけられた。またあのおっさんかと思って、グイと振り向くと若い娘がいた。
目を丸くして、「もしかして、母さん?」
「ア・・」
「アルマジロだよ。戻ってきたんだ」若い娘に変身したアルマジロはまだチャボのことを見つめている。
チャボは横目で今来た炭鉱を見た。山の形は変わっていないが前の道具も変わっていないがアルマジロだけが年を取っているわけない。私は未来へ来たのだ、振り返った家が見慣れた家々とは街の形が僅かだが違っている。
チャボは唾を飲んでゆっくり肯いた。
アルマジロは下を向いてぼさぼさの髪を掻いている。
「嬉しいけど、何て言ったらいいか・・。こんな時、言おうと思ったこともあるけど、まあ、ともかく帰ってきてくれてありがとう」アルマジロはそう言って、チャボの肩に手を置いて私たちの家の方に連れて行った。
「懐かしいでしょう?」
チャボは我が家なのに落ち着かない。
「お父さんはまだ出稼ぎ?」
アルマジロはふっと黙った。
「実は、母さんが出て行ったすぐ後だけど、殺されたんだ。私が子供の頃だよ、まだ。知らなかった?」アルマジロの目が白い。
チャボは額に指を当てた。初めて知る事ばかりで追いつかない。どうやらここでは私はあの時から出て行ったままになっているらしい。私はずっといなかった。そして夫があの後、殺された。
「私は、・・まあ、色んな人にお世話になってここまで生きてこられました。安心してよ、母さんを責めるんじゃない。もうそんな気持ち、とうに・・」
チャボは素直に謝ることもできなかった。
なぜチョコレートの口紅だけで満足できなかったのか。
「ねえ、あなたには私は何歳に見えるの?」
アルマジロは穀物を叩きながら呆れた顔をした。
「さあ、40,50・・。安心しなよ、若く見える」
あなたと同じくらいの年頃なのよ、とチャボは言えなかった。
「働くっしょ?」
「え?」
「ここにいるには働くしかないよ。母さんくらいの年代でもまだ働いてる人いるよ。炭鉱の暮らしが懐かしくなったんじゃないの? 何があったか知らないけど」からかうようにアルマジロはため息を吐いて笑った。
「そうね・・、それは母さんも知ってる。それにしても、アルマジロ・・、大きくなった」
アルマジロは叩く手を止めないで笑った。
実の娘と一緒に坑道を掘ることになるとは思わなかった。チャボは昨日と同じように鶴嘴を握って岩と土を掘っている。横目ではあの出て来た坑道を探していたがそこにはなかった。
「そっちじゃないよ。忘れたの?」ヘルメットを被ったアルマジロが手で呼ぶ。
皆、アルマジロの母がこの街に戻ってきたと奇異の目で見るが、それは炭鉱のこと、皆、貧しさと仕事に疲れて何も聞かない。皆、逃げ出せるなら逃げ出したい、同じ気持ちなのだ。
「私の靴も洗っといて」ポンと洗い場に仕事が終わるとアルマジロが自分の安全靴を放り込んだ。
白のタンクトップをまくり上げて胸を露わにする。あの時の私と同じように。
チャボはそれを後ろから引っ張って胸を隠した。
驚いたようにアルマジロは振り返って胸を触って笑った。
「割り勘にするね」チャボは麦酒を飲み干して席を立った。
今夜は祝いに外で食事を取ったのだ。
アルマジロも少し酔った目でチャボを見て肯いた。
それからブラブラと何も言わないで炭鉱の辺りを散歩した。二つの岩に腰を下ろした。
アルマジロは鼻をこすって、煙草に火をつけた。
うまそうに煙を吐き上げると、チャボの顔を見てまた笑った。
「疲れたでしょ」
チャボは肩を上げて、「こんなの、いつものことだもの」
ヘヘヘ、と恥ずかしそうにアルマジロは笑った。
「私といてもつまらないでしょ? あんたを置いて出て行った母親だものね」
「いや、私は楽しいけどね」アルマジロは鼻をこすりながら言った。
「母さんとこうして話してるの楽しいよ」
チャボは目の辺りが熱くなって何も言えなかった。
アルマジロは夜空を見上げてまた煙を吐いた。
「うまく言えないけど・・、ま、良かったよ。良かった」
チャボはあの坑道のことを話した。自分でもこんなにスラスラと話せるとは思わなかった。
「でも、あんたたちを置いてきたのは本当だから・・」
「そんな坑道あるわけないじゃないか」
初めてアルマジロは怒りを顔に表した。
「嘘だけはつかないでよ、嘘だけは」
「嘘じゃないのよ・・」これ以上は言うまい、とチャボは心に決めた。
「ごめんなさい」
アルマジロは横を向いて煙を吹いていた。涙が目の辺りで光っていた。
「置いてかれたと思ってる自分が馬鹿みたいじゃないか・・」
アルマジロは気を取り直したように、「きれいなのは星だけだよ。あの炭鉱、幽霊が出るんだってさ。母さんの時にもいた?」
チャボは黙って首を振った。
アルマジロはニヤニヤ笑って、「何か、あそこには心の声を調べる実験室があって、今でもその幽霊が出るんだって。そこには水銀灯があって・・」
「まだ足萎えのおっさんはいる?」話を逸らそうとチャボは言った。
アルマジロは肩を上げて、首を振った。
「あの足首が曲がってる・・」
「んな人、いないよ」
「そう・・」
どこかでのたれ死んだか。
「私、あの金を持って母さんがお父さんを殺して逃げたんだと思ってた時期があるよ。でもそうじゃなかったんだ。今日で分かった」
「あの金?」
「そう、母さんが古い石に隠した」
「あれを盗られたの?」
アルマジロは唇を出して肯いた。
「私、実は見たのよ。お父さんを殺した人。変な影だった。お父さんが寝てるとこを・・。今まで黙ってたけど、私目を覚ましたんだ」
チャボはアルマジロの目を隠して抱きしめて泣いた。
「痛いよ、母さん」アルマジロは笑っていたが、目は濡れていた。
さあ、そろそろ帰ろう、明日の仕事に差し支える、と帰ろうとするとアルマジロが驚いた顔をしてチャボを振り返った。
「どうしたの?」
「母さん、この寒さだ。その人だ」アルマジロがチャボの後ろを指差した。
そこには、足萎えのおっさんが炭鉱から転げ落ちてくるところだった。きっとあの坑道を渡ってきたのだ、私と同じように。夫を殺した後。
「あいつか」
「待ちなよ、母さん!」
チャボは走って腰のベルトを引き抜いて鞭のようにしならせながら足萎えのおっさんに近付いていった。
あの坑道から寒い風が吹き抜けてきたのだ。それをアルマジロは感じたのだ。
この姑息な男が死んだらどんなに気持ちがいいだろうと思った。
眼下のおっさんの汚く伸びた爪があの紙幣を握っていた。
「ウヘー」足萎えのおっさんはまたあの炭鉱に逃げ帰っていった。それをチャボも追う。
「母さん!」後ろでアルマジロの声が遠くなるのを聞いた。
あの坑道に気が付かずに入っていた。足萎えのおっさんはいない。
腰のベルトを直して、また道を探しているとまた別のとこに穴が開いていた。
「殺してやる」
今度、出て来た所はチャボの故郷だった。嫁入り前までここにいたのだ。
海に近い島だった。
「いい人じゃない」母の声が聞こえてくる。
私はまたこれからあの炭鉱街に行かなくてはいけない。未来には逆らえないことを知っているのだ。
ここは万華鏡のように見える過去と未来の繰り返し。
このまま海に飛び込んでしまおうか。チャボは手を握った。崖際にいた。飛び込まねばまたあの未来のない・・。
「青してる」耳の中に突風のように声が。
何の役にも立たん者はどうすればええんじゃ。
「ウワー!」チャボは足がすくんで動けなかった。横から崖の下の海に飛び込んだのはあの足萎えのおっさんだったのだ。
「あ――・・!」チャボは声を上げた。
水銀灯のような波の光が砕けている。
無様に波の間に落ちていったおっさんは目の中に隠れた。