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Le Diable au sang et corps 2-d

【2e-d Chapitre】


 イレーヌが目を覚ました。

「どうやら生きている」と認識する。イレーヌは意識が覚醒すると共にすぐに自分が戦場で倒れたことを自覚した。そして剣士として為す事を始める。まず最初のすべきこと。自分の置かれた状況確認である。どうやら天幕の中に寝かされているようだ。さらに周囲を確認すると、自分一人しかいない。ヘルヴェティア軍の手に落ちたのかと一瞬考えもしたが、この状況ではさすがに考え過ぎみたいだ。

 間違いなく、ここはトゥッリタ軍。

 ほっとするのも束の間、イレーヌは自分の身体の状況を確認しはじめた。両腕は動かせる。だが腕を動かせば胸の辺りに激痛が走る。思わずイレーヌは顔を(しか)めた。じっと痛みが和らぐのを待ち、それからゆっくり左腕を動かし右脇腹へと回し、自分を突き刺した矢の箇所を確認をした。そこに矢はなく、その代わりに止血の為だろうか、固く布が巻いてあった。それから今度は右脚を少し動かした。その時腰の位置がほんの僅かずれた。左脚に痛みが走る。

 イレーヌは眼を硬く閉じ、先程と同じ様に痛みが去るのをじっと待つ。

 その間に、このベルン門の戦いはトゥッリタ軍が優勢に終わったことを理解した。

 簡単な話だ。自分たちは敵陣の真っ只中で暴れ、その後、敵剣士と共に射抜かれ半死半生となった。その状態から助かったのだから、トゥッリタ軍がヘルヴェティア軍を蹴散らしてくれなければ助けては貰えない。誰が自分を回収してくれたかは知らないが、その誰かに心の中で感謝した。そして故意に考えから遠ざけていた事、自分を助けようと命を張った男の事を思い浮かべた。自分に向かって必死に駆けてくる姿は、ラディゲ伯には悪いが、あまりに出来過ぎた物語の一場面のようにやはり感じてしまう。そう思いながらもそのイレーヌの顔はまんざらでもない表情をした。それから自分に付き従った残り二名の剣士の事を思い浮かべるとイレーヌの表情は一転曇りがちになった。彼らの状況をきちんと見ていたわけではないが、自分と一緒にヘルヴェティア軍の矢の餌食になったように見えた。自分の眼で確かめた訳ではないのだから、そう決めつける事はしたくはない。ただ、その考えが正しいという事は余りに勝率の低いものにならざる負えない。

 イレーヌは目を閉じた。生きていて欲しいと思う。それだけをただ思う。イレーヌが心から深く願い、そしてその思いを彼女自身信じ切れていない神へ向けた時、イレーヌのいる天幕に誰かが入ってきた。咄嗟に出たイレーヌの、

「誰?」

 という言葉に少しかしこまった返答があった。

「ダンヴェール様、お目覚められましたか」

 イレーヌの前に姿を現したのは医術師だった。彼は遠慮がちにイレーヌの傍まで来ると、

「ダンヴェール様、どこかまだ痛みますか?」

 探るように問いかけてきた。イレーヌは、

「矢が(えぐ)った処がまだ痛む」

 と事務的に応えた。医術師は、

「そうですか、解りました」

 と言っただけで何も医療行為を施そうとはしない。医術師は混血に対しては一切医療行為は行わない。医術師はただイレーヌの状態を確認に来ただけであった。そもそも、医術師が混血に対して治療するより、混血自身の治癒力に任せた方が治りが早いのである。これで仕事は終わったと言わんばかりに背を向けようとした医術師をイレーヌが呼び止めた。

「医術師殿、ここはベルン門なのか?」

 医術師は足を止め、顔だけ振り返って、

「はい、ダンヴェール様」

「医術師殿、貴殿は左翼部隊の遊撃隊の事はご存じか?」

 今度は医術師は体ごと向き直って、

「かなりの損害を受けたとは聞いています」

「医術師殿は我が小隊については何か知っておるのか?」

 少しばかり詰問調になったイレーヌの言葉に何の感情も持たないような口調で、

「ダンヴェール様の隊の生存者はダンヴェール様自身とラディゲ様のお二人だけです、他の隊の詳細についてはわたしには判りかねます。申し訳ございません」

「ラディゲ伯について何かご存じか?」

 イレーヌは探るようで、そして少し不安の帯びた口調になった。

「ラディゲ様ですか、ラディゲ様は特に怪我もなさらずに追撃戦に参加されております」

 追撃戦という言葉に少し引っ掛かりを覚えたイレーヌだが、

「医術師殿、感謝を」

 顎を少し引き、頭を下げたような素振りを見せた。

 医術師は恐縮する様子を見せ、

「ありがとうございます、ダンヴェール様。長子様には私の方からダンヴェール様がお目覚めになったとお伝え致します。それでは失礼します」

 そしてそれから振り返る事もなく医術師は天幕を去った。

 イレーヌは「追撃戦」と言う医術師の言葉に引っ掛かり、違和感を覚えた事を思考の世界に流し込んだ。

 ベルン門での戦いはトゥッリタ軍が勝利したことは間違いのない事実。医術師の言葉から簡単に理解できる。そしてベルン門の天幕に寝かされていると言うことはまだベルンは落ちてはいない。そこで追撃戦か……掃討戦を実施しなかったと言う事なのだろう。そう考えると合点でいく。

 追撃戦が行われたという事は、戦場が移動したという事になる。

 ヘルヴェティア軍が敗走するなら? 北は元ラティーナ帝国の属州であるアクィタニア州国、ルグドゥネンシス州国、南と東はトゥッリタ公国の領地、西に行くしかない。そして西にはヘルヴェティア国の王都ジェヌアがあり、その地にはヘルヴェティア国教の総本山であるサン=ピエール大聖堂がある。そこに向かうのは火を見るよりも明らかだ。ただベルン門から王都ジェヌアまでの正確な距離については知らないが、おそらく馬を飛ばしても最低二日は掛かる距離だろう。

 再びイレーヌは目を閉じた。望む願いは叶わぬ事が多い。多くの仲間を失ったことに心が痛んだ。何度経験しても信頼する仲間の死に慣れることはない。同時に、イレーヌは意識を失う前の事を、また思い出していた。実のところ、イレーヌは思い出したかったのである。本人は「そんな事はあり得ない」と一言で否定するだろうが、ラディゲの熱い想いは確実にイレーヌの心を揺さぶったのである。もっと言えば、イレーヌは以前のように、ラディゲの想いに応える気などなく、そのうち冷めて諦めて欲しいなどと今は微塵も思ってもいなかった。

 必死に自分を見詰めるラディゲの瞳、その熱い視線。

 イレーヌは追撃戦に参加しベルン門をおそらく離れたラディゲ、それが何故だか残念で仕方がなかった。

 医術師はペトラルカにイレーヌが目を覚ましたことを伝える趣旨と戦場についての状況の言葉を口にした。ここでイレーヌも見落としたことがある。医術師は戦いの専門家ではない。選択する言葉が適切だとは限らないのである。そして隊の長子であるペトラルカが、ここベルン門に居ることを。


 翌日、イレーヌは朝食をベッドで取った。朝食で出されたものは粥とスープの中間のようなものだった。イレーヌの体を鑑みて出されたものだろう。今のイレーヌには少し量が多かったが、それでもお腹の中に押し込んだ。医術師か誰かが来たら、食事の量を少し減らして貰うように頼もうと思った時、

「ダンヴェール伯、天幕に入るが問題ないか?」

 遠慮がちの、聞き覚えがある声がした。

「どうぞ、長子殿」

 イレーヌの言葉には少しばかりの驚きが含まれていた。当然である。ラディゲが追撃戦に参加したのなら、その長子であるペトラルカも一緒に追撃戦に参加していると考えるのが自然であるからだ。

「お邪魔する、ダンヴェール伯」

 ペトラルカは小さく頭を下げながら天幕の中に足を踏み入れた。

「こんな事を聞いて失礼になるかもしれないが、身体は大丈夫なのか?」

 ペトラルカは女性のベッドにあまり近づくのは無礼と思ったらしく、ベッドとニピエ強ほどの距離を開けていた。

「痛みはまだありますが、月が変わる頃にはベッドから出られるでしょう。それに後遺症も心配ありません」

「そうか、それは良かった」

 それからペトラルカとイレーヌの間に沈黙が流れた。ペトラルカは何か言いたげな態度を取っていた。にも拘らず、中々切り出せないようだった。何度も右手を握りなおしている。それから息を吐き、イレーヌの眼を見据えた。

「自分は伯の隊が敵ともども討たれたと聞き、伯の隊を見捨てた。言い訳はない。許してくれとは言わない。ただ謝罪だけはさせて欲しい」

 ペロラルカは直角に腰を折り頭を下げた。

 この瞬間、ペトラルカの態度に少し感情的になったイレーヌは「長子」ではなく、敢えてペトラルカの名を当てた。

「ペトラルカ卿、(けい)は何か勘違いをしているのではないか? 我は長子殿を怨んでなどおらぬ。それに我が長子殿の立場であったなら、我も同じ様に隊を見捨ていた。それは最初から理解していたこと。長子殿、顔を上げられよ」

「しかし……」

「長子殿が顔を上げぬと言う事は、(こん)闘いに於いて、我の決意を軽んじると判断するが良いか?」

 ペトラルカは何とも言えぬ渋い顔をイレーヌに晒した。イレーヌはペトラルカの優しい心持ちに思わず笑みをこぼした。それから纏う雰囲気を変え、

「時に長子殿、ひとつに聞きたいことがあるのだが、我は医術師殿から追撃戦をしていると聞いた。その追撃戦に長子殿は参加しておらぬか?」

「追撃戦?」

 ペトラルカは不思議そうな顔をして、それから合点が行った表情に変化した。

「医術師殿はおそらく掃討戦のことを追撃戦と間違えたのではないかと。確かにリキメル万人長はジェヌアに逃げ込んだ連中を追い、ジェヌアの攻略を視野に入れているようです。しかし、それはベルンを完全に落とした後、準備を整えてからです」

 イレーヌは顔が少し赤くなるのを自覚したのか、視線をペトラルカから外した。この時、イレーヌの仕草を同性の女性が見ていたなら、イレーヌがラディゲを意識している事に気付いていた。女性はこの手のちょっとした仕草から相手の感情を読み解くに長けている。しかし男性のペトラルカにはそんな芸当はできるはずもなかった。

「時にラディゲ伯はどうしている」

 イレーヌの問いに、ペトラルカは、

「今はオッシュ卿の隊に編入し掃討戦に参加しています。掃討戦後予定されている追撃戦の参加については未定です」

「そうか、それは良かった」

「それと重要な件があります。近衛隊の事務局から辞令が出ています。これを」

「Comte d'Anvers Irène」と書かれた封筒の裏面には「Duc Turrita Odoacre Hérules」と花印が押されていた。その封蠟に押されている印は旧ラティーナ帝国正規軍の紋章の一つ、偉大な皇帝と評されるコンスタンティヌスⅠが制定した「ラバルム」が施されていた。打ち滅ぼした宗主国の名残を未だに紋章を使用するあたりトゥッリタ公国はラティーナ帝国の権威の名残を上手く利用しているようだ。

 イレーヌはそれをペトラルカから受け取り、封蜜を爪で紋章を傷つけぬように剥した。そして中にある辞令を読んだ。それからペトラルカに向き直り、その顔を見て、

「長子殿はこの辞令をもう知っておるのだな」

 ペトラルカは黙って肯き同意した。その内容は、今会戦に編成された隊からの除隊であった。この辞令はイレーヌが受領した瞬間に効力が発するものであった。「戦いの雌雄も決したし、十分闘かったのだから、もう休め」と言う気の利いた計らいである事は明白だ。しかし、イレーヌにはそれが少しだけ寂しかった。そして、今気付いた事があった。

「長子殿、我は失念していた。誰が我らを見つけ出してくれたか、長子殿はご存じか?」

「剛力のボッテキアです」

 勝ち(いくさ)では、戦場で物色が行われる。まず最初に行われるのが金属の回収と使える武器の回収である。次いで行われるのが、自軍兵の死体確認となる。それらを一式行うのが奴隷である剛力の仕事なのである。少し付け加えておくと、武器や金目のものなどは傭兵である義勇軍が懐にいれることは黙認されている。

「オッシュ子爵付の剛力だな。彼に礼を言わねばな……」

 イレーヌは右手を握り口許へ持っていき、少し考えてから、

「すまないが、長子殿お願いして良いか? 本会戦が終わったら剛力たちに酒の手配を、後ヴルストも。金銭は気にしなくても良い。親衛隊の事務局には話を通しておく」

 ペトラルカは言葉ではなく、口許の笑みで応えた。

「長子殿、感謝を」

 そしてペトラルカはイレーヌから離れながら、

「長居するのも、伯が疲れると思います、自分はお暇さて頂きます。それと、時間が許せばラディゲ伯に顔を出すように伝えておきます」

 ペトラルカは一礼をして天幕を出た。イレーヌはペトラルカの言葉を聞いて胸が高鳴るのを抑えられなかった。胸に手を当て、

「馬鹿だな、わたし」

 顔を赤くし呟いた。

 イレーヌは食事の量を減らしてもらうようペトラルカに言付ける事を昼食が来るまで完全に忘れていた。昼食は朝食の時とは違いに半分も残してしまい、周りの人たちに無用な心配をかける事になってしまった。


 ペトラルカが来訪してから数日間、イレーヌは時間を持て余していた。体に突き刺さった矢は意外に身体の内部深く刺さったらしく動けばまだ痛むのだが、大人しく静かにしていれば痛みは殆ど感られないのである。つまり、これと言って、やることがない状態になっていた。そうなるとやる事はひとつ、身体に負担を掛けず一人遊びする事、それに打って付けの遊び道具ある。自分の長い髪だ。こういう時には長い髪はとても便利になる。緩く髪を編み、それが終えると髪を解く。三つ編み、四つ編み、自己流の編み方や束ねる髪の量を変えながら、何度も繰り返す。これが意外に面白い。ほんのちょっと力加減変えたり、髪の毛の束ねる量を変えただけで、完成した髪型は大きく違ってしまう。その変化を楽しむのである。男性からすると同じ様な髪型に見えるかもしれないが、女性にとってはこの小さな違いこそが大きな差異となって感じられるのである。

 イレーヌが何度目かの三つ編みを解いた。ルノアールの「La Natte」の女性のように納得のいく編み方が出来ず、つい不満顔になる。胸に溜まった不満を吐き出すように大きく息を吐いた。まだ胸に痛みが残っている。イレーヌはよく矢が心臓に刺さらなかったと思い、自分の左胸に手を当て、心臓の鼓動をその手に感じた。一定のリズムで脈打つ心臓は、自分が絶命するまで動き続ける。それがいつになるかは知る由もない。イレーヌはもし自分が人であったなら、当にその役目を終えている胸の奥にある臓器に少しばかり申し訳なく感じた。

 他人からは若さを保ったまま不老であることを羨ましく思われる事が多く、妬ましく思われる事も少なくない。実際は中途半端に人の心を持ってるが故に、それは呪いと言っても過言ではなかった。人の心は無限に広がる器ではない。悲しみも喜びも受け入れる容量に限界がある。老いによる忘却は降り積もる思い出を記憶できなくからだ。それは人が悲しみも喜びも一定以上受け付けることが出来ない為の防衛本能でもある。つまり心には悲しみも喜びもその重みに耐えうる限界があるという事だ。だが、混血はその重みに永遠に耐え続けなければならない。混血は未だに寿命を全うしたことがないと言われているが、剣に生きるだけでなく、その重みが寿命を全うさせていないとイレーヌはぼんやりと心の片隅に思い浮かべた。

 イレーヌは目を瞑り、自分に言い聞かせるように、

「今は生きていることに感謝しよう……」

 再び、髪の毛を三つ編み結い始めた。一本だけ髪の毛の束を多めにして、ちょっとした実験だった。そしてその実験結果は、あまり芳しくないものだった。対称性が崩れ美しくなかったのだ。面白いと言えば、そういう感性の人もいるかもしれないが、イレーヌにはとてもそのような感覚は享受できなかった。「うん、失敗、失敗。今度は段々編み上げる力をもっと弱くしてみよう」イレーヌが髪を解き始めた時、天幕の外から声が聞こえた。

「医術師殿、ダンヴェール伯はここにおられるのか?」

「はい、そうです」

「医術師殿、感謝する」

「それでは私はこれで失礼します」

 イレーヌはすぐに自分の服装を確認した。みっともなく乱れている所はないか、確認したのである。問題がないことを確認すると、すぐに手櫛で髪の毛を梳き、顔を掌で軽く叩いた。最後に掛け布団を直した時、イレーヌに天幕の外から声が掛かった。

「ダンヴェール伯、お目覚めですか?」

「ラディゲ伯か?」

「はい」

「入るがよい」

「はい」

 イレーヌは今目が覚めたような顔をしながら、ゆっくり体を起こした。それを見たラディゲはイレーヌの優雅さは何時も見ても変わらないと、もはや盲目と言っても良い程の欲目を持って彼女を見詰めた。その視線に気付いたイレーヌがラディゲの顔に視線を移すと、ラディゲは反射的に下を向いた。

「ラディゲ伯、怪我は大丈夫なのか?」

 ラディゲは一瞬何を言われているのか理解できなかった。イレーヌは頭部に矢を受けその衝撃で気を失った事を言ったのだが、ラディゲにとってはあの程度では負傷した内にならなっかった。最もイレーヌの前で見っとも無く気を失った事の方が彼には恥ずべきことであり、消したい過去となった。しかし、それよりもイレーヌの身体の方がラディゲには心配であり、何よりも気になる事だった。一応、医術師からは彼女の容態を聞き、怪我は酷いが致命傷ではなく、彼女自身が混血でもあることから時間は係るものの完治するということであった。ラディゲも混血の驚異的な治癒力の事は知ってはいるが、何故かイレーヌと結びつかなかったのである。

「自分は特に怪我もありません。それよりダンヴェール伯のお体の方は?」

「伯も知っているのだろう、()は混血だ。この体は意外に丈夫にできていて、簡単には死ねぬ。ラディゲ伯、そんな顔をするでない。私は伯に尽きぬ感謝の念を持っている」

「いえ、その……」

「ラディゲ伯、私を護ってくれて、()()()()()

「っ」

 ラディゲは自分がそんなに風にイレーヌから思われていると思っていなかった。それ故に思わず声を詰まらせたのである。自分がイレーヌの役に立てた。楯となって護れたのたという、イレーヌの言葉はラディゲにとっては、どんな栄誉より価値のあるものだった。だが同時に、それは自分の力が為せた業績ではなく、偶然が与えてくれたものであることを痛感させたのである。それが何より悔しくもあった。そしてその想いはひとつの方向性をもたらせた。

「ダンヴェール伯のお役に立てた事、嬉しく思います」

 それだけを言葉にすると、深々と頭を下げ、イレーヌの許を後にしようとした。

 イレーヌはラディゲを引き留めようと声を掛けたが、ラディゲには届かなったらしく、彼は振り返る事もなく天幕を出た。

 イレーヌは少し唇を尖らせながら、手に何も持っていなかったことを後悔した。


 ※

 

 ベルン包囲戦。

 ラディゲはペトラルカの部隊に配置されたまま参戦していた。彼らの役目はベルンから逃げ出す兵、市民を捕縛することであった。しかしこの状況でベルンを逃出せる者は存在せず、事実上、後方へ追いやられたのである。ベルンを落とした際、金品の略奪の蛮行を行うのは義勇軍、傭兵部隊の褒賞でもあったからだ。勿論、公国や教会に上梓される報告書に一切記載されることはない。ただ、リキメル万人長はあまりこの手の蛮行を好ましく思っておらず、降伏の最後通告を勧告した。結局それは受け入れらず掃討戦がはじまった。

 幸運なのか、不運なのかは本人も判らずじまいだが、ラディゲはこの掃討戦の現場には参加していない。もしこの時まだ初陣の彼がこの手の蛮行を目にしていたなら、戦いに於いて、その現実を受け入れたのか、または嫌悪の情を持ったのかは半分半分と言ったところだろう。その結果はこの先に持ち越されただけで、いずれ彼の心に必ず決着がつくことに違いない。

 この空白的な時間は、ラディゲに武勲を立てるという気持ちより、ダンヴェール伯の為に強くなりたいという気持ちだけを急かした。そして、どんなに困難であってもやり遂げる自信がラディゲにはあった。彼の楽観主義の部分がそう感じさせたのだった。


 イレーヌはこの戦いから退ぞき、そのまま傷を癒す為、自分の村に戻った。イレーヌとラディゲ、二人は会う切っ掛けを失ったのである。

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