Le Diable au sang et corps 2-a
【2e-a Chapitre】
トゥッリタ公国とヘルヴェティア王国はさかのぼること四十年程前、両国は存亡を賭けるような大きな戦争をした。国力では圧倒的にトゥッリタ公国が上であったが、事前の予想を覆し、緒戦はヘルヴェティア王国が歴史的な大勝利、トゥッリタ公国側からすれば歴史的大敗北を演じてしまった。最終的にはトゥッリタ公国が勝利を手にしたものの、その後勃発したトゥッリタ公王の後継者争いの為、ヘルヴェティア王国を亡ぼすまでには至らなかった。それでもヘルヴェティア王国の半分近い領土がトゥッリタ公国に併合された事は言うまでもない。この敗北はヘルヴェティア王国の積年の恨みとして、彼らの心に刻まれることとなった。
そして丁度一年前のフロレアールの月に第一次ベルン門会戦と言われる戦闘が勃発した。事の起こりは四十年前の時と同じ宗教問題であった。前回の戦いと等しく、事件が起こって一週間も経てば皆から忘れ去られるような些細な事が原因だった。しかし両国民の心中にある互いに感じる憎しみと嫌悪する感情を一気に爆発させるのには十分だった。それからは群衆心理によくある事象、一度動き出した流れを、例え多くの人が間違っていると解っていてさえも、誰もその流れを止める事の出来ない状況が濁流となって両国を呑み込んでいった。
ヘルヴェティア軍は四十年前の戦争でトゥッリタ軍の精鋭部隊、公王直属の近衛隊に、特に吸血鬼と人間の両者の血を引き継いだ混血に煮え湯を呑まされた経験がある。混血の超人的な身体能力は剣士として比類なき強さを示し、小隊であっても会戦の行方を大きく左右する凄まじい破壊力があった。その脅威を第一次ベルン門会戦では抑え込むに成功したのだ。実に簡単な話であった。一対一で剣を交えては混血の超人的な身体能力の前に人間の剣士は歯が立たない。逆に密集集団戦にしてしまえば、個ではなく集団の有機的な機能性が強者の論理となる。この戦術は古代の戦争で用いられたファランクスに類似していた。ただヘルヴェティア軍の集団密集戦における練度が低かった為、ヘルヴェティア軍は勝ち切ることができず、トゥッリタ軍の、混血を主力とした小隊に反撃を許す結果となり、会戦はトゥッリタ公国とヘルヴェティア王国は痛み分けと終わったのである。
そして今さらながら、今日ベルン門でトゥッリタ公国とヘルヴェティア王国の講和の為の交渉が始まろうとしている。両者とも軍を率いていた。それは交渉が決裂した場合、即時に軍事行動が執れる為である。当然の帰結として、この外交交渉は第二次ベルン門会戦の前哨戦と等しい位置付けになる。
トゥッリタ公国の使者は枢機卿フェリクスⅢであった。彼は僧会の中でも公王親派の人物として現公王オドアクレ・ヘルリ殿下の信頼も厚かった。フェリクス卿が交渉の席に着いた。彼の前には既にヘルヴェティア王国の使者が着席していた。名は知らぬが、当然のことだが、それなりの地位のある貴族なのだろう。
お互い儀礼的な挨拶さえなく、不穏と張り詰めた空気がこの場を覆っていた。
「Salve,Nomen mihi Felice Ⅲ」
フェリクス卿が最初に口を開いた。何とも素っ気ない挨拶だった。彼の話した言葉はラティーナ語と言われる言語である。トゥッリタ公国の公用語はロマンス語、ヘルヴェティア王国の公用語は西方ゲルマニア語としている。一般に国家間の交渉では、トゥッリタ公国やヘルヴェティア王国が建国される前に世界の半分を支配していた帝国の公用語だったラティーナ語が今なお使用されている。洗練された言語ではないが、古くから外交折衝に用いられた歴史から、異文化間で言葉の意味を取り違えることが少ない言語でもあった。
予想通り、両者の交渉は自国の主張を繰り返すだけで、お互い全く歩み寄りがなかった。オドアクレ公王の全権委任と言う形でこの場の席にいるフェリクス卿は、交渉をまとめ会戦を回避する意思など微塵も持っていなかった。彼は公王の意思を引継ぎ、ヘルヴェティア王国が本気で会戦を望んでいるか否かを知ることに専念していた。ヘルヴェティア軍が撤退するも良し、会戦の火蓋を切るも良し、それは自席の対面に座る奴が決めることであって、彼には何の責任も感じていなかった。時間にして一鐘(約九十分と設定)足らずで、お互い面前に置かれたシャスラ・ブランの葡萄酒を手にすることもなく交渉は決裂という形で終焉を迎えた。
「会戦をする上での形式的な手続きは終わった。後は軍の仕事だ」とフェリクス卿は席を立ち、無礼にもヘルヴェティアの使者を無視をして、この会議の場を離れた。すぐさまフェリクス卿のもとに伝令師がやって来て、フェリクス卿の前でうやうやしく首を垂れた。
フェリクス卿は伝令師に会戦の意を伝えた。伝令師は緊張した面持ちで、
「仔細承りました、猊下」
さっと立ち上がり深々と礼をした後、踵を返し全速力で駆け出した。その後姿を見ながらフェリクス卿は肩の力を抜くように息を吐き、頸を回した。その時、ポキッと心地の良い音が彼の全身に響き渡った。
トゥッリタ軍の司令官はフラウィウス・リキメル卿、義勇軍の万人長(司令官の意)である。ここ数年、指揮官、司令官として台頭してきた人物で、平民の出であるが、数々の戦場での功績に、特に作戦立案より、一代限りの名誉称号、騎士爵を叙任されている。リキメル卿は前回の第一次ベルン門会戦では自分の慢心によって敗北を帰するところだったと自覚している。自分が過去の栄光の上に胡坐をかき「敵を知り、己を知る」兵法の基本中の基本を怠っていたことを認めざる負えなかった。そして彼はそれを是正すべく直に第二次ベルン門会戦の作戦立案に取り掛かった。優秀な戦略家ほど自己の反省を客観的に行えるようだ。まずは第一次ベルン門会戦の戦況を分析を行い、第二次への作戦案の基本項目を作成していった。
本来ならこれだけで軽く百ページを超えるものになるが、ここでは概略に留めておく。第一次会戦ではヘルヴェティア軍の主力は密集隊形を取り、楯と長い矛でトゥッリタ軍を寄せ付けず、そして力押しでトゥッリタ軍の統率を乱した。これによりトゥッリタ軍は本陣近くまで前線を下げることになる。それは同時にヘルヴェティア軍は敵陣への突出することとなり、部隊の側面や背面の守備力が削がれることになった。だが、この混乱する戦況の中で、敵陣自陣の状態を冷静に分析するには、前線に居ながら戦闘をこなしつつ、尚且つ空から全体を俯瞰し把握する能力を有しなければらない。神がかり的な能力である。そんな逸材が僧会の子飼、親衛隊の中にいたのだ。その優秀な指揮官とそれを実践した剣士のおかげで、ヘルヴェティア軍への側面攻撃が有効に働いた。そして一気に集団密集での乱戦になったのだ。ここでは両者痛み分けとなる。両軍の剣士たちは超近接戦、集団密集の乱戦を想定しておらず長剣を主武器していた。その為、集団密集での乱戦では長い剣を振り回すだけの空間が存在しなかった。簡単に言えば剣が役に立たず、拳による殴り合いという先史以前の格闘戦となり勝負がつかなくなったのである。ここで言えることは、間違いなく一ピエ強程度の短剣の方が密集戦では有効である(一ピエ、約三十センチメートル)と云う事。敵も無能でないだろう。超接近密集戦では短剣を用いることは間違いない。そして側面からの攻撃の弱さに対して策を弄ずるは当然だろう。
彼は頭の中で戦線のシミュレーションを始めた。密集集団戦に対抗する最良の策は騎馬隊による側面攻撃による攪乱になる。しかし、トゥッリタ軍では騎馬隊は貴重なうえ、主力部隊はヒスパーナの防衛遠征に出されている。大規模な騎馬隊の支援がない軍運営では、剣士による対抗案が最も適切な戦術となる。戦力分散の愚を犯さない事を鑑みれば、こちらも密集戦で対応するのが一番良い手立てだろう。
真っ向から相対した場合、問題となる側面の攻防は機動性や敵を引きつけさせない点を踏まえれば、数少ない騎馬隊を配置するのが良いだろう。そして騎馬隊は側面の守備を主な任務として、隙あらば瞬時に敵側面の攻撃隊として駆け上がることが出来る。極妥当な戦力配置に思える。その時、彼の中でひとつの案が閃いた。騎馬隊が側面攻撃を行なっている時に敵に楔を打てる近衛隊、混血をけしかけたらどうだろう。密集隊形の裏で敵が暴れていたら、前線の剣士は逃げ場のない状態闘わなければならず、心理的な打撃だけでなく、戦線維持に対しても大きな一撃を加えることが出来る。また密集戦の練度では、軍組織構造の違いから敵に一利あるのは、トゥッリタ軍関係者は絶対に認めないだろうが現実の差である。是非とも側面の一撃は必要だ。しかし、この有効な作戦も問題点がないわけではない。トゥッリタ軍は一枚岩ではない。混血を中心とした近衛隊、貧乏貴族で構成された親衛隊、義勇軍とは名ばかりの傭兵部隊、この三軍組織は、各々近衛隊は公王一族、親衛隊は僧会、義勇軍は貴族院と所属する組織が異なる。そして各軍特長がある。混血の身体能力は人間とは比べ物にならないくらい優れている、即ち近衛隊は最強の剣士を有した軍であり、また親衛隊は貧乏貴族の反骨精神がそうさせるのか、不屈の闘志を持った最強の軍である。この特長を書き出せば近衛隊と親衛隊の二隊あれば、十分に思えるかもしれない。だがこのニ軍は小数精鋭と言えば聞こえはよいが、圧倒的に数が少ない。言い替えれば混血や親衛隊の剣士は貴重な人的資源である。またどんなに一剣士が優秀であっても数の力押しの前ではやがて力尽きてしまう。これが現実である。数が揃えれば、それだけで大きな戦力となり脅威となる。その部分を支えるのが義勇軍なのである。
リキメル卿は敵側面、敵が楯でなく剣を持つ側、即ち敵左翼面から切り込む役目を近衛隊に命じたかったが、近衛隊がそれを呑むとは思えなかった。数年前の妖魔狩り、フェンリルを打ち滅ぼした時、多くの優秀な混血の剣士たちが命を落とした。云わば現在混血の剣士は少数になった貴重な人材である。そんな剣士を一歩間違えば敵に四方を囲まれるような作戦、親衛隊からあればまだしも、義勇軍からの提案の作戦に投入することを近衛隊が認可するとは思えなかった。
しかし意外なことが起こった。リキメル卿が思案していた作戦と同じ内容の作戦が親衛隊から提案されたのだ。彼が作戦案に目を通した時、どこにも修正点は見当たらなかった。満点の作戦案であった。しかしリキメル卿は、この作戦案を見落としや勘違いがないか確認するようにと差し戻したのだった。彼はこの作戦案の有効性は認めている一方で、完全に信頼も信用もしていなかった。つまり作戦が失敗する危険性も高いとも考えてもいたのだ。彼は作戦が成功した場合より失敗した時の責任分散を謀ったことになる。戦場だけでなく軍組織内でも世渡り上手でなければ、烏合の衆のような義勇軍では伸し上がってはいけない。
ここでトゥッリタ軍の独特な軍構成をもう少し掘り下げておく。
近衛隊、親衛隊、義勇軍の所属組織が異なるのは前に述べた通り。対外戦争では少数精鋭の近衛隊、親衛隊では数において不利となり、数で対抗出来る義勇軍が主力部隊となる。その義勇軍だが、兵は名と異なり傭兵で成り立っている。そして傭兵も個人ではなく数十人から百人近い傭兵団を雇うのである。そしてその傭兵団を纏め上げるのが貴族院から派遣された上級士官である。一般にこの手の士官は貴族が任じられるものだが、トゥッリタ軍では軍の指揮能力や作戦立案能力を貴族院が認めた者がなり、完全な実力主義であった。そして貴族院は前線における軍事行動については全く口を挟まなかったのである。ただし、プリンケプスと言う軍の行動を監視する役目を負った者を派遣することも忘れていなかった。
その為、貴族の素人司令官が軍の主流であったこの時代において、トゥッリタ軍は歪な軍として見られてはいたが、宗主国、ラティーナ帝国を打ち倒し周辺諸国、諸侯を力で配下に治めていくその勢力を止めることは、隣国の強豪国、先代である世界帝国、ラティーナ帝国をトゥッリタ公国と共に継承する西ゲルマニア帝国であっても至難の業であった。
ヘルヴェティアとの交渉に当っていたフェリクス卿からの伝令師がリキメル卿の許に来た。伝令師はフェリクス卿の言葉を一字一句違わずリキメル卿に伝えた。リキメル卿は無言で頷き、今度はリキメル卿が伝令師に封書を渡した。封蝋された封書の宛名先には「Duc Turrita Odoacre Hérules」現トゥッリタ公王名であったが、実は伝令師は情漏洩対策の為に字が読めないのである。
「これを公王殿下へ」
この伝令師には任が重すぎたのか顔を引き攣らせながら何度も頭を下げた。
「リキメル卿、この封書は必ずや公王殿下の許にお届けします」
リキメル卿が無言で頷くと伝令師は一礼をした後、フェリクス卿の時と同様に踵を返し走り始めた。リキメル卿の背後にまるで首席参謀のように一分の隙もなく直立不動で立っている壮年の男性がいる。彼の名はネアポリス辺境伯ジャンバティスタ・バジーレ、公国配下の中南部の一領主である。そして第二次ベルン門会戦のプリンケプスに任じられているのである。
ジャンバティスタ・バジーレが保持する称号、辺境伯について爵位に明るくない方々には耳慣れない爵位であるかも知れない。辺境伯は侯爵の下位、伯爵の上位になる爵位であり、辺境と名がついているが、実際は人里離れた僻地の領主ではなく、交通や商業、軍事上の重要な要所となる都市を有する領主である。それ故に、辺境伯の領主には他領主以上に政治力、行政能力が求められるのである。ジャンバティスタ・バジーレはその手腕を貴族院に高く評価され、プリンケプスの役職を命じられたのである。プリンケプスに任じられることは、貴族院に所属する貴族にとって名誉であり固辞することなどありえない。彼はプリンケプスを任じられた時、より名誉と気高い誇りを手にする恰好の機会であるとほくそ笑んだ。
「辺境伯」
リキメル卿が振り返りネアポリス辺境伯バジーレに呼び掛けた。辺境伯バジーレは無言のままリキメル卿の方に顔を向けた。
「戦います」
リキメル卿の、これ以上ない程の簡潔な言葉に辺境伯は小さくともはっきりと頷いた。
ベルン門。
その門の前に広がる平原、通称、ベルン門平原と言い、教会に記される正式な名称はあるが、教会関係者を含め、面白い事に誰一人その名を知らないのである。因みに、正式名称はグラスブルネンである。
一年前に起こった会戦の時と同様に、トゥッリタ軍とヘルヴェティア軍はここで対峙していた。両軍、前面に密集陣を敷いた戦術、それはまるでヘレニズム時代の戦闘を再現しているようだった。
ヘルヴェティア軍の弓兵がトゥッリタ軍が初期配置が整う前にまず先制の矢を放った。それが今会戦の開始の合図となった。矢による攻撃に対しては楯で簡単に防ぐことが出来、敵に大きな損害を与えることが目的と言うより、今回見られるように会戦の合図や挑発行為に使用されるのが一般的である。その両軍の陣形だが、面白いほど似通っていた。宗教や政治、文化が違えども人間、所詮考え付く先は同じということなのだろう。中央は密集隊形の主力部隊、密集隊形の弱点である側面を守るのは騎馬隊となる。当然、騎馬隊は守備隊から状況によっては瞬時に機動攻撃隊に変わる。一点差異があるとすれば混血を中心とした遊撃隊がトゥッリタ軍に隠し玉として存在していたことだった。トゥッリタ公国以前のヘルリ伯領時代から、どの会戦に於いても、混血を中心とした部隊を有効に使えるか否かで、勝利の確率は大きく変動する。第二次ベルン門会戦にもそれに違うことはない。
リキメル卿が密集集団戦ではトゥッリタ軍よりヘルヴェティア軍の方が有利であると言葉を残しているが、ここでその意図を説明しておく。
それは軍の構成による違いから生じたものである。対外戦のトゥッリタ軍主力は義勇軍である。義勇と名はあるが実情は傭兵団の集団である。傭兵団は雇い主である貴族院には良い顔をするが、傭兵団同士は戦場では味方同士ではあると同時に戦果を争う敵でもある。また指揮系統も傭兵団内であれば団長の命令一下、鉄の意志を持つ親衛隊には流石に及ばないものの、素晴らしい統率力を見せる。それに反比例するように傭兵団同士の連携はお粗末なものであった。貴族院の雇われ司令官はこの問題を上手く処理する能力が求められるのである。そして密集集団戦はそれらの集団を一つ纏め上げ有機的に稼働させなければならない。幾ら司令官が傭兵団を纏め上げても、傭兵団同士の根底にある敵愾心までは取り除くことまでは出来ない。これが密集集団戦に於けるトゥッリタ軍の弱点である。
そして一方のヘルヴェティア軍も主力部隊はトゥッリタ軍同様義勇軍と呼称している。トゥッリタ軍とは違い本物の義勇軍である。ヘルヴェティア王国は半世紀近く以前にトゥッリタ公国に敗戦し、王国の半分をトゥッリタ公国に併合され、王都を奪われるという屈辱を味わっている。さらに両国の国教は同じ神を祀っているとは言え、聖典の解釈からトゥッリタ公国は旧教保守派、ヘルヴェティア王国は新教革新派と宗教面でも対立している。新教革新派は他の新教の一派とは異なり旧教保守派に対して過激なまでにその教義を否定している。
一兵の能力では戦争の専門家である傭兵の方が義勇兵より強靭である。しかし宗教による動機付けは強力な鉄の意志を持ち、さらに個々を一つの目的に集約させることに非常に有効な手段である。身近な例として、トゥッリタ公国の親衛隊があげられる。
密集集団戦では隊が一つの生き物、一つの有機的機構として稼働させることが勝利への条件となる。密集陣に於いて、各部隊の意思が統一されていないトゥッリタ軍より心をひとつにしたヘルヴェティア軍の方が有利であることは自明の理となる。
トゥッリタ軍左翼部隊。この独立部隊を率いる長子(隊長の意、親衛隊の独特の言い回し)は親衛隊のフランチェスコ・ペトラルカ子爵。彼は貴族院の軍、義勇軍のリキメル卿と等しく、僧会の手持ちの軍である親衛隊の出世頭である。その両者は有能である事は言うまでないが、得意とする分野がやや異なっている。
リキメル卿は作戦立案、所謂戦略家としての能力が高い。反対に前線で敵を打ち倒す能力はさほど高くなく経験値も低い。実践部隊の事実上の指揮は傭兵の団長が執っているのである。一方、ペトラルカ卿は作戦立案だけでなく、前線指揮官として有能でもある。欠点を上げるとすれば騎士道精神に溢れている事。それは良い意味でも悪い意味でもノブレス・オブリージュを体現していることであった。
混血を中心とした部隊を敵左翼から敵陣の後方内部に突入させ、密集陣を背後からかき回す案を正式に提案したのが、このペトラルカ卿であった。当然彼は混血と共に敵陣の中に切り込むつもりでいたのだが、これはラビ(貴族院のプリンケプスと同じ権限を持つ僧会から派遣された軍監視者および指導者。ラビはプリンケプスと違い親衛隊の行動に意見する)によって却下されてしまった。今回のラビはベルン門でヘルヴェティア王国の使者として交渉を行ったフェリクス卿であった。ラビに意見することが許されない立場であるペトラルカは渋々のその決定に従った。そして遊撃部隊に選出された九名の剣士たち一人ひとりに、
「もしその身が敵に落ち時、これを使えば楽になれる」
と彼らに言い聞かせるように薬草を固めた錠剤を手渡した。それはヘカテーの花と言われる毒草から作られた薬だった。一粒呑めば鼓動が百を刻むまでに死に至る劇薬であり、トゥッリタ公国に限らず周辺諸国でも自決する時によく用いられていたものだった。
ラディゲは敵陣内に切り込む遊撃隊、イレーヌの隊に任命されていた。模擬戦ではあるが、混血の剣士、イレーヌには敗北を喫したとは言え、親衛隊の剣士同士なら全勝でないものの不敗である。その天賦の才を見込んでの任命であった。この遊撃隊の人選は小隊の実質的リーダーである近衛隊の剣士、混血の剣士と隊の長子であるペトラルカが行っていた。即ち、ラディゲは自身の評価はともかく少なくともイレーヌからは背中を任せるに値する技量を持ち得ていると評価されているのである。しかし見方を少し変えれば、剣の腕が立つとは言え、初陣の剣士を最重要な任に就ければならないという御家事情は、親衛隊の剣士の人材不足はかなり深刻なものと捉えても決して間違いではないだろう。
ラディゲはペトラルカから作戦全体の内容と自身の部隊の役割、そしてラディゲが属する小隊の任務の説明を受けた。まさか、敵陣に一番深く切り込む小隊に配属されるとは思ってもみなかったのだ。ラディゲ自身は自分が初陣であることを鑑みれば、切り込み隊を敵陣まで導き、退路の確保する部隊に配属されると思っていたのだ。その意に反して、切り込み隊に配属されたのである。このような大任を任されるとは剣士としての誉れであり、ラディゲはその事を素直に喜んだ。嬉しい誤算とはまさにこの事を云うのだろう。そして、恋に初心な男性にありがちな勘違いした。以前イレーヌに取り付く島もなく、恋心を告白する前にあっさりと振られた事があった。男女問わず恋の成就を強く願う者にありがちな、良く言えばポジティブ、悪く言えば自己中心的な、自分の都合の良いように物事を解釈してしまうことがよくある。ラディゲはそんな精神状態に陥った。「少しは脈があるのではないか」と。
年の功か、意外にもイレーヌはラディゲのそんな心の内を知ってはいた。しかしイレーヌはラディゲの剣の腕を求めたのであって、男としては興味を引くほどでもなかった。背が高く筋肉質で剣士として容姿が整ったラディゲと貴族の令嬢と見紛う程のイレーヌは、二人が並んで見れば年若のカップルとしてお似合いであることは否定できない。一方実年齢はイレーヌがもし混血でなく人であったなら、イレーヌとラディゲは決して出会うことの出来ない年齢差がある。彼女の容姿はうら若き恋を知らぬ乙女のよう、その実、心は十分に老成している。そのギャップを知らず恋の知らぬ乙女のように簡単に口説けると、恋多き男たちや恋を知らぬ男たちを引きつけて止まない。当然、そのような男たちの下心はイレーヌに簡単に見抜かれ、悉く辛辣な言葉によって失恋という谷に完膚なきまで叩き落されるのである。
イレーヌがラディゲに対してそこまできつく当たらなかったのは、イレーヌがラディゲを誰かと重ねて見たこともあって、ラディゲが下心なしに純粋に自分を想っていると感じたからであった。だからと言ってラディゲの熱い思いを受け入れる気は更々なく、そのまま冷めてくれたら良いとさえ思っていた。
トゥッリタ軍の初期配置が完了した。
集団密集戦に備えたファランクス、それは壁となった兵団を中心に両翼を騎馬隊が配置されている。後方には弓兵。教科書通りの基本に徹した配置。隠し玉の近衛隊は左翼部隊の背後に隠れるように身を潜めていた。斬りこむ遊撃隊三隊は、混血の剣士一名に親衛隊の剣士三名で編成を組む。親衛隊の剣士に求められることは混血の剣士がその破壊力を十二分に発揮できるよう楯となることである。当然腕のある剣士しか出来ない。親衛隊は貧乏貴族を中心として構成されている。僧会所属である為、神への忠義を徹底的に教え込まれ、それは自己犠牲を美徳とする一種の自己陶酔である信仰と言う名の麻薬だった。さらに貴族社会での敗者であるという現実から爵位を全く考慮に入れないことが不文律なっている。剣の腕前、指揮能力、作戦立案などあらゆることが完全な実力主義であった。
ラディゲは戦闘前の殺気と不安、恐怖が入り混じった独特の雰囲気に呑まれていた。この独特の雰囲気は戦場以外では決して知ることなど到底不可能なものだった。言い替えれると、この雰囲気に慣れるには場数をこなす以外はないという事になる。初陣のラディゲはこの雰囲気に呑まれていたことを緊張の余り理解できないでいた。気が付くと指が小刻みに震えていたのだ。どんな剣士、兵士であっても初陣は必ず経験する。その時、程度の差はあれ必ず緊張してしまう。逆に全く緊張しないのは豪胆などではなく、単に神経のタガが外れているだけと言って問題ない。そういう意味ではラディゲの反応は特に気にするものでなく、普通の反応であった。しかし指が震えている事に対して、ラディゲはそんな自分が許せなかった。まだ未練がましく、模擬戦での強さに頼っていたのだった。人はどんな形であれ一度栄光の美酒の味を知ってしまうとその媚薬の効果にも似た心の高揚から得られる快感に酔いしれ、その味が忘れられなくなるようだ。ラディゲは周りを気にしながら指を噛んだ。震えを抑えるために。だがあまり効果がなかったようだ。ラディゲは少し自棄になって指でなくその根元となる手首を噛みつこうとした時、視線を感じ慌てて手首から口許を離した。その視線の主はイレーヌだった。ラディゲは顔から火が出るような思いをした。もしここが戦場でなければ、全力で走り出し、どこまでも逃げ出したいそんな心境だった。ラディゲの、のたうち回るような心の内など全く興味を見せず、イレーヌはラディゲの真横まで来て耳元で囁いた。
「ラディゲ伯、貴殿は私に惚れているのだろう。なら私を護れ」
一方的にそれだけ言うとラディゲから離れ元の位置についた。それからはラディゲに興味を失ったかのように一瞥すらない。そのような状態だったにも関わらず、ラディゲは顔を伏せたままじっと時間が過ぎるのを待った。意中の相手に自分の気持ちが筒抜けだったのが、それが初めての事だった故に、恥ずかしさと照れがラディゲの心に響いたのだった。気付いた人もいるだろう。先日ラディゲはイレーヌに自分の心の内を伝えようとし、イレーヌにそれをさせてくれなかった。つまりその時点でイレーヌにはラディゲの気持ちはばれていたのである。ラディゲはその事を完全に失念していた。つまりラディゲはこの緊迫した雰囲気にまだ呑まれていたということである。
初期配置が完了した銅鑼の音が自陣に響く。その音をラディゲが聞いた時、一気に緊張感が高まった。これでもう後戻りできない。そう思うと、さらに緊張の度合いが上昇していく。それが今度は良い方に弥次郎兵衛の腕は傾いた。ラディゲの性格は慎重であると言う一面と楽観的と言う一面、その両極端な性格が微妙なバランスで成り立っていた。無論、剣術に於いても同じことである。そしてこの戦場に於いてでも。
銅鑼が鳴り終わった週間、ラディゲの身体からふっと余計な力が抜けたのだ。息を大きく吐くと、体中に充満していた緊張が吐く息ともに身体から排出され、その反動で息を深く吸い込むと、新鮮な空気と共に活力、やる気、モチベーション等と言葉に表される感情が一気に全身に巡り、そして心に火をつけた。
ラディゲはイレーヌの後姿をまるでそこに狩るべき獲物がそこにいるような鋭い目付きで見つめた。一人前の剣士のようなそれは、強靭さを感じさせる。先程まではまるで別人であった。
「私を護れ」イレーヌのその言葉から引き出されるように、「彼女を傷つけない!!」今ラディゲ自身が信ずる神に誓いを立てた。その時、再び銅鑼が激しく打ち鳴らされた。それが終った途端、風を切る音が耳についた。その音に釣られて空を見上げると、味方の矢が青い空を物凄い勢いで横切っていく。ラディゲはそれを最後まで見届ける事はせず、直に身を屈め楯の陰に隠れた。トゥッリタ軍がヘルヴェティア軍の挑発を受け矢を仕掛け、それをまたヘルヴェティア軍が反撃くると予想したのだ。この弓兵の闘いは前哨戦的な意味しかない。この矢で撃たれることはほぼなく、偶発的な事がない限り人死にどころか負傷者すらでない。矢の雨が止み、暫くの間両軍沈黙の時間があった。その間、まるで両軍の兵士たちは呼吸をするのさえするのを躊躇するような、緊張の糸が張り詰めた空気が覆っていた。その静寂が突然破られた。進撃命令が発せられたのだ。進撃命令を皮切りに勝鬨を上げるような雄叫びが起こった。その雄叫びは自分を鼓舞するもの、恐怖に対抗するもの、自暴自棄になって叫んでいるもの、様々な色を含んだハーモニーとなっていた。それ故に多くの兵士に共鳴し、雄叫びは徐々に大きくなり、最後には鉄砲水となって両陣営を襲った
両陣営のファランクス隊が歩を進める。遠くに見えていた敵兵の姿が距離が縮まる度、敵の姿が鮮明になっていく。楯の隙間から敵剣士の顔が見えるまでになった。前線の剣士たちが戦線を開く前の雄叫びとは質の違う闘争心丸出しの叫び声を上げた。もう逃げる事は出来ない。生きたければ敵を斃す以外道はない。闘争本能のみに突き動かされる剣士たち。その肉食動物のような殺気がぶつかり合った。
ファランクス隊の闘いは楯を矛を使い相手と命を懸けて押し合いへし合いのするのである。倒れたら最後、恐らく絶命するまで踏み続けられるのだろう。そんな混戦が始まった一方、側面を護る騎馬隊がまだ出撃することなくその場で互いに睨み合っている。
トゥッリタ軍左翼の騎馬隊、その後方に混血の部隊が息を潜めるように騎馬用の馬にいつでも跨れる状態で固まっていた。自軍の騎馬隊が敵陣に穴を開け、敵陣に乗込める状況になるまでこのままで待機である。彼らが動ける戦況を見極めるべく左翼隊の長子ペトラルカ卿がいる。彼は混血の突撃命令を一任されており、今作戦を成功に導くか否か、その鍵を握る最重要人物である。
敵右翼部隊は全く動く気配がない。ペトラルカも万人長であるリキメル卿と同じく中央のファランクス隊の闘いでは贔屓目無しで敵に一日の長があると認めている。敵も無能ではない、恐らくはヘルヴェティア軍も自軍がファランクス隊の闘いでは自軍の方が優勢であると認識しているのだろう。敢えて側面での闘いを仕掛けてこないのは、もし側面での闘いに敗北しここを突破されたなら前回の二の舞を踏むことになる。守備を固め敵の出方を見るのは当然の策だろう。
ペトラルカは敵を挑発の意味を込めて、弓兵によるロングレンジの投矢を二度ほど実行した。ヘルヴェティア軍も軽率な行動を取ることなく、戦略的に無意味な戦闘を避けている。ここで挑発に簡単に乗るようなら、ファランクス戦など思いつきもしなかっただろう。ペトラルカもこの挑発が上手くいくとは考えてはいなかった。万が一敵の無能なら成功するだろうと考えていた程度だった。
ペトラルカは右翼部隊に伝令師を走らした。右翼へ作戦を伝達する為だ。右翼部隊はフェンリル討伐で次子を務めていたブルーノ卿だった。右翼部隊も左翼部隊同様、敵は徹底的に守備に徹していた。ペトラルカが伝令師への言付けとは「敵が守備に徹している。攻撃を仕掛けたいので、囮を頼む」というものだった。その伝令を受け取ったブルーノ卿は「成程な」と口の中でそう呟いた。左翼の攻撃を少しでも成功させる確率を上げる為に反対側の右翼にもっと注意を向けさせたいのだろう。
「派手に暴れますか」
ブルーノ卿は独り言ちて、伝令師を呼んだ。伝令師はブルーノ卿の言葉を確かめるように何度も頷きながら聞き終えると、さっと踵を返し軽やかに走り出した。
ペトラルカが伝令師から聴いた内容は「伝令師に伝言してから一刻後に突撃する」だった。ペトラルカは伝令師が右翼から左翼部隊までの時間をざっと計算した。まだ時間としては早いが、先にこちら側が動いても問題はない。「決まりだ」ペトラルカは騎馬隊の先頭に立ち、白地に赤い十字が意匠の親衛隊の軍旗を掲げ、声を張り上げた。
「穴蔵にいる敵を叩き出す。遊撃隊とその補佐部隊は隊の殿に居ろ。他は、我に続け、声を上げろ」
ペトラルカを先頭に立ち、荒々しい叫び声をあげながらトゥッリタ軍左翼騎馬隊は突撃をはじめた。この時、ペトラルカは彼特有の悪い癖が出た。騎士道精神に溢れたペトラルカは他人の背中に隠れる事を嫌い、無意識の内に前線に躍り出てしまう。この手の士官は兵には信頼があり人気もあるが、上官からして見れば、もし彼を失いでもすれば、有能な戦術家であり、卓越した戦略家を失うことになり、軍としての人的損失が大きいのである。さらに付け加えれば自分の失点にもなってしまう。ラビばかりでなく、実は万人長であるリキメル卿からも隊の先頭に出て敵の標的になることのないように念押しされていた。ペトラルカもその事を忘れてはいなかった。しかしながら、どうしてもペトラルカは味方の背中に隠れることが出来なかったのだ。勿論彼も猪突猛進のだけの剣士ではない。もしペトラルカが万人長の立場なら、今回のような事は決してしないだろう。今は前線指揮官、兵を引っ張っていくのも役職の務めでもある。その事がペトラルカを心を、使命感を、一層掻き立てるのだった。上官から才能を認められ兵からは信頼されたペトラルカは、もしかしたら彼自身が一番自分の真価を知らないのかもしれない。
ペトラルカを先頭に騎馬隊が敵を押し込んでいく。敵ヘルヴェティア軍も密集陣の側面が弱点であることをしっかり理解している。押し込んでくるペトラルカの部隊を最後の一線で支えている。ペトラルカは自軍の損害が次攻撃への大きな影響がでる前に撤退の命令専用の鏑矢を放ち、声を張り上げ、
「撤退しろ」
と叫んだ。
それを次々と騎馬隊の面々がその言葉を繋げていく。そして撤退戦が始まった。殿の部隊は当然ペトラルカが務め、トゥッリタ軍最強の騎馬兵と名高い剣士が護衛についた。彼の名はリッピ男爵、旧ルッカ伯エトルリア家に仕えていた騎士の家柄の出身であった。ルッカ伯領はトゥッリタ公に軍事力によって占領されヘルリ家の配下となった。そして、ルッカ伯領に代わりトスカーニュ辺境伯領が封地されたのが今から六十年ほど昔の話である。その時ルッカ伯領主エトルリア家と彼に仕える家臣は放逐された。それは公爵家の配下地域拡大時に発生したありふれた出来事だった。その中でリッピ家はエトルリア家、旧ルッカ伯領主とはあっさりと縁を切り、トゥッリタ公爵、即ちヘルリ家に鞍替えしたのだが、貧乏貴族に成り果て今日の食事にも困窮する有様だった。そこに手を差し伸べたのは僧会だった。彼らにそこに縋ったのだ。元々優秀な騎士の家系もあったのだろう、代々リッピ男爵家から優秀な騎馬兵を排出すこととなったのだ。彼のその中の一人であった。
だが、敵騎兵隊は戦略的に無意味な追撃戦を行わなかった。
トゥッリタ軍の苦戦。
ヘルヴェティア軍では、この展開は既に予想範囲であった。ファランクス戦では自軍が有利に戦況を進められると踏んでおり、トゥッリタ軍はその不利な戦況を挽回すべく左右両翼から攻撃していくるはずだと。そして懸念の化物たちは側面部隊にいると、ヘルヴェティア軍作戦参謀たちはそう結論付けた。
ただし現状の両軍の展開状況から鑑みて化物は敵右翼部隊、自軍の左翼側に居ると判断されていた。ファランクス隊は自軍の右翼、敵陣からは左翼側が構造的な弱点であることは両軍既知である。にもかかわらず何故そうような判断をヘルヴェティア軍が下しのか? 理由は自陣の右翼にはアーレ川の流れていたからだ。川幅は三トワーズ程あるが、水深浅く一ピエもない小川である。当然晴れた時の状態でのアーレ川の状況である。
ベルンではここ二週間雨も降っていない。雪解け水も引いている。こんな小川でも吸血鬼の一族である混血は渡れないという風聞をヘルヴェティア軍は信じていたのである。宗教上、混血を妖魔と見做している国の人間に混血の実態など正確に把握など出来はしない。それはやむを得ない事なのかも知れない。この情報の欠落は兵法の基本「敵を知り己を知る」に反する事である。結果、ヘルヴェティア軍は自軍の左翼には対化物部隊の屈強な剣士を置き、右翼には最強の騎馬軍団を配置したのだった。
ペトラルカは一度撤退をし体制を立て直しを図った。撤退の判断が早かった為人死はでなかったが、三名ほどが怪我をし後方の医術師の許に送られる結果になった。「敵兵の損失も似たようなものだろう」ペトラルカはそう判断した。強ち間違った判断ではなかった。ヘルヴェティア軍もトゥッリタ軍と同数の兵を怪我で失っていたのだった。
「一刻後に再突撃する。逆Ⅴ字陣形で突撃する。我に続け」
ペトラルカが大きな声で怒鳴りながら指示していると、
「長子様、ラビのフェリクス猊下からのお言葉があります」
伝令師がペトラルカの言葉を遮った。その言葉にこたえるようにペトラルカが伝令師に、
「伝令師、フェリクス卿のお言葉を」
「はい、長子様、ペトラルカ卿、卿の突出を自重しろ。との事です」
ペトラルカは自分の行動を完全に読まれていると苦々しい顔をしながら、
「伝令師、フェリクス卿に、承知した。と伝えてくれ」
「長子様、伝言承りました」
さっと身を翻し伝令師はあっと言う間に去って行った。ペトラルカは苦虫を嚙み潰したように、
「リッピ卿、すまない。逆Ⅴ字の先頭を頼む」
「はっ。長子様、敵陣を必ずや穴をあけてみせます」
リッピ卿は胸を張って応えた。
第二次左翼突破作戦が始まった。他に適当な呼称がなかった為、この名が使われることになったのである。初期配置から逆Ⅴ字展開状態になっており、右翼の最後尾に混血の遊撃部隊が就くことになった。遊撃部隊はⅤ字の左右どちらかの最後尾に就く事になるのだが、左翼より右翼の方が敵陣に乗込む時に敵陣に近くなると言う理由から右翼についたのだった。案外安直な判断ではあった。しかし時間を掛けて事案を練ることは出来ない。この直感的な判断の良し悪しが生き死にの境界を分けることになる。そして生き残った軍側の上官の直観力が敵より上回っていた証拠となるのである。
「突撃」
リッピ卿の咆哮にも似た叫び声と共に左翼部隊は突進を始めた。トゥッリタ軍の二度目の突進に対してヘルヴェティア軍は戦線を自軍に引き寄せず、自軍から距離を置いて展開するように行動を取った。前回の突撃を受けた時、結果としてトゥッリタ軍の進軍を完全に撥ね退けたものの、実態は完全勝利とは程遠い内容であった。トゥッリタ軍の突進力は尋常ではなかった。もしヘルヴェティア軍の最強の騎馬兵団で対応していなかったら突破されていたのか知れない。前回敵を引きつけたが、剣を交えた結果、それは危険だと判断されたからであった。例え騎馬隊を突破されたとしても、距離があれば投矢などの対応策が打てるからである。
この時トゥッリタ軍右翼側では騎馬での闘いはヘルヴェティア軍よりトゥッリタ軍の方が一枚上手だった。そしてトゥッリタ軍が騎馬隊を蹴散らしたまでは良かった。しかし思わぬ反撃を喰らう事になる。ヘルヴェティア軍の最強剣士たちが馬防柵の向こうに待ち構えていたのだ。
今時点の戦況を纏めておく。
中央のファランクス隊の闘いでは、リキメル卿やペトラルカ卿の予想通りヘルヴェティア軍がじりじりとトゥッリタ軍を押し込んでおり、やや優勢を保っている。トゥッリタ軍から見て左翼にヘルヴェティア軍は騎馬隊最強の兵を配置した為、トゥッリタ軍左翼部隊は騎馬隊の攻撃を跳ね返され、右翼騎馬隊の闘いではトゥッリタ軍がヘルヴェティア軍を打ち破りその側面を攻撃したが、そこに配置されているのはヘルヴェティア軍最強の剣士部隊だった。ここでトゥッリタ軍右翼部隊の進撃が止まる。
第二次左翼突破作戦も結果から言うと、リッピ卿の、
「申し訳ございません」
の謝罪の言葉通り、トゥッリタ軍は又もやヘルヴェティア軍の屈強な騎馬軍団の前に屈したのであった。今度は数名の死傷者が出た。やはりここでも無駄に損害が出る前に撤退をしたわけであるが、三度目の攻撃はもっと策を練る必要性に迫れることになった。時間のない中で、閃きと言う直観力がペトラルカに問われることになった。
ペトラルカは支給された水を一口飲みその皮革を縫い合わせて袋にした水筒を部下の兵士に手渡した。水を序列順に飲むのは親衛隊に限らずどこの軍でもある事である。軍によっては下っ端の兵に水が行き届かない事があっても問題視されないこと等ざらにある。ただこの鉄の団結を誇る親衛隊では有り得ない事だった。
ペトラルカは三次攻撃の作戦案を頭の中で展開させていた。
正面から敵騎馬隊に穴をあけるのは難しい、この二回の突撃が教えてくれた。奇襲か? しかし、このベルン門の草地に隠れる場所などない。敵に姿を丸見え状態で奇襲はないだろう……ペトラルカは自身の考えに思わず苦笑してしまった。ならばと思う。作戦の目的は何だ、遊撃部隊を敵ファランクス隊の裏で暴れさす事。そこに敵騎馬隊に穴をあける必要があるのか? それは……否だ。一度のその事を認識すると、作戦案が自然とペトラルカの頭の中に浮かんでくるのだった。