Le Diable au sang et corps 1-c
【1er-c Chapitre】
レイモン・ラディゲは剣を構えた。相対する剣士との距離は一トワーズ半(一トワーズは約一.九メートル)ほど。剣先を今から勝負する剣士の顔に向けた。ラディゲはその顔を見る度に美しいと思った。初めて彼女の見た時、剣士ではなく、貴族の令嬢にしか見えなかった。今思えば、彼女は煌びやか服など着ておらず自分と同じような質素な服を着ていたはず……完全に見惚れていた。そう一瞬で彼女の虜になってしまった。彼女の名は、イレーヌ・ダンヴェール伯。混血と言う吸血鬼の血を引き継いだ人だった。
再び剣先にあるイレーヌの顔がラディゲの視界に入る。彼は彼女の動きに惑わされぬよう余計な事、特に彼女への恋慕の感情を力尽くで押し殺した。
イレーヌ・ダンヴェール伯、彼女は公国最強と言われたモントルイユの剣を引継ぎ、同門のノヴィス公のような救国英雄などと祭上げられる様な派手な活躍は残してはいない。確かに、模擬戦の記録からはノヴィス公の方がダンヴェール伯より剣の腕は一枚ほど上手である。しかし戦術感、状況判断の良さでは公国でもトップレベルと評されている。その素晴らしい資質も活かす場は意外にも少ない。ここトゥッリタ公国では混血を人として見なしている。だが混血たちは人の世界に溶け込む為に敢えて人の上に立とうはしない。人の反感ややっかみ、妬みを買わないように努める事は、混血たちの処世術であった。
イレーヌはノヴィス公に剣術では一歩劣るかもしれない。それは比較の問題であって、同門であるノヴィス公、マルティニ候の姉弟を除けば、模擬戦なら不敗に近いスコアを残している。それだけなく、会戦の重要なポイントでは堅実な働きをみせ、公国を幾度も勝利に導き、敗北から救っているのである。このような地味であるが、戦の鍵となるポイントでしっかりと実績を残せる剣士は、世間一般では知られることは滅多にない一方で、剣士間では一流の剣士として高い評価と尊敬を得、その可憐な容姿と相まって憧憬の念を抱かれている。
ラディゲもしっかりとイレーヌの功績を耳にしていた。その功績は両手でも足らないくらいだ。「しかし……」とラディゲは思う。「自分はダンヴェール伯のような実績もなければ、他の剣士からの高い評価もない。当然だ。自分はまだ一度たりとも敵と対峙したことがないのだからだ」この先、火蓋が開かれるであろう第二次ベルン門会戦が初陣となるのだ。そしてこうも考えていた。「誰しも初陣を経験する。目の前で剣を構える一流の名を与えられた剣士であってもだ」そう思うと緊張が少しばかり緩和した。かなり楽観的だが、准士として剣を学んでいた時、自分は模擬戦とは言え無敗という誰しも成しえなかった事をやってのけたのだ。彼は無敗という言葉に特別な価値を与えたかった。いま剣を交えようとするイレーヌに後れを取らない為にも。
ラディゲが無敗であり続けたのは、剣速が他の追随を許さないほどの速度であったことと、どんなに身体が揺れようと頭の位置、特に眼球の位置を無駄に揺らさない強靭な体幹があったからだ。そして何よりメンタル面で慎重でありながら楽観的でいられた事が挙げられる。この相反する心持ちが剣を鈍らせることなく闘争心の潤滑油と成り得たのだった。
ラディゲが機先を制しようと動いた。剣先が一瞬上に上がったかと思うと、次の瞬間には、イレーヌの頸にその切っ先が迫っていた。だが、彼女が剣をほんの少し動かしただけで、ラディゲの剣はイレーヌの頸から剣筋が外れた。ラディゲは信じられなかった。今までは、この技でどんなに敗色濃厚な場面であっても逆転勝利を得ることができたのである。それをいとも簡単に躱されてしまった。ラディゲは本物を持っている人の真の実力を今まで知らなかった。ラディゲは今、その圧倒的な力量の差を強制的に知らしめられたのだ。潔い性格の人間ならここで剣を下ろし、敗北を認めるだろう。しかし若気の至りなのか、負けず嫌いの性格なのか、敗北を知らぬ愚か者なのか、恐らく全てが正解なのだろう。ラディゲはイレーヌとの力の差を変則的な剣術、奇襲という形で埋めようとした。大胆にも身体を一回転させ彼女の脛に狙いを定めたのだ。そんなラディゲの捨て身の攻撃はあっさりとイレーヌに躱されてしまった。慌ててイレーヌの間合いから逃げようとするも、イレーヌは全くもって甘くなかった。何か光るものがラディゲの目に入った刹那、もうイレーヌの刃先がラディゲの頸にある動脈血を斬る寸前で止まっていた。ラディゲは剣を下ろして敗北を示すか、または敗北の意を口にするか、その二択を選択するまでに追い込まれていたが、そのどちらも出来ず、圧倒的なまでの実力の違いに茫然自失となり、ただ自分に向けられた刃先を力のない瞳で見つめていた。
イレーヌが剣を下ろした。それを見たラディゲも剣を下ろした。その時、見っともないことに指に力をうまく入れることが出来ず、掌からスルリと柄が滑り落ちた。カランと小気味良い金属音が響く。
ラディゲはその音で催眠状態から目覚めたように二、三度瞬きを繰り返し、悔しさを押し殺そうとして、それが余り上手くいっていない表情をしながら、
「参りました」
と大きく頭を下げた。イレーヌも、
「失礼しました」
小さく頷くように頭を下げた。
ラディゲは初めて敗北を喫し、その状況を上手く受け入れる事が出来なかった。今まで一度でも敗北をしていたなら、このような状態にはならなかっただろう。悔しいのか、悲しいのか、それとも何も感じないのか……それすらよく理解できなかった。だが彼を見た人たちは十人が十人「負けたのが、余程悔しいのだな」と思うだろう。
模擬戦も終わり、それを観戦していた剣士たちを含め論評が始まった。これは模擬戦の後に必ず行われ、剣の技術を磨く上で、客観的な視点からの、自分でも気づいていない長所や短所を知ることが出来る機会であった。
ラディゲは意外にもこの模擬戦を視ていた剣士たちからは悪評を聞くことがなかった。その一方で高い評価を得ることもなかったのだが……、それはイレーヌに少しでも勝つ為に、その可能性に賭けた捌きをみせたことへの評価だった。要約すると、絶対勝てない相手に対して、それなりに頑張ったな、このようなニュアンスになるだろう。
剣士たちの評論会も終わり、剣士たちの訓練もお開きとなった。奴隷である剛力たちが模擬戦の後片付けを始めた。剣士たちの剣を恭しく受け取る。そんな中で、ラディゲはまだイレーヌに敗北したことについて、まだ他人事にように感じられていた。ラディゲは部屋に戻る気もせず、目的もなく歩いていた。そして気が付けば、クレール要塞の中庭にいた。空は薄暮。気の早い星たちが輝き始めている。
イレーヌの剣先がどのような軌跡を描いて自分の頸まで向けられたのか、ラディゲは頭では理解できたものの、体感、感覚的には理解できなかった。先の評論会でイレーヌの剣の流れを知ることができたのだ。しかし現実問題として、彼女の剣をラディゲは視界で捉えることができなかった。まるで幻術のように思えた。これはイレーヌが何か魔術的な能力でラディゲを惑わしたのではなく、混血にそのような超能力はそもそも有してはいない、それは単に彼の思い込みによるものであった。誰しも自分が訓練により鍛えこんだ体の捌きを基本にして格闘する。ただし経験不足の初心者が陥る罠がある。対峙する相手も自分と同じように体を捌くと思い込んでしまうことである。その思い込みによって視野が狭くなり、その意図と異なる捌きの対応に後れを取ってしまう。オリヨンにあるという格闘術、功夫では、その錯覚を意図的に利用すると言う。ラディゲは先の模擬戦ではイレーヌには敵わなかったけれども、他の剣士に対して未だに無敗を誇った。その強さは命のやり取りを行う実戦では未経験であり、死線から学んだ格闘術の前では所詮紙くず並みの勲章でしかなかった。
ラディゲは星空を見上げた。先程までは薄暮という感覚であったのが、もう暗闇の方が優勢になっている。暦はブリュメール。東の空の低い位置にコル・タウリの赤みがかった星が瞬いている。視線を天頂に向けると薄黄色のカペラが天空を彩るように輝いている。
「自分は星を見上げ、星は自分を見下ろしている……、それだけの事か」ラディゲは美しく輝く星を見て、少しだけ自分を客観的に見ることができた。単に今の自分は本物の星として輝いておらず、地上で蝋燭を輝かしているだけ。その輝きを本物の星明りと思い上がっていただけだと。
再びラディゲは空を見上げた。星たちの鼓動に見惚れた。星たちの世界、それは地上から見上げることしか出来ず、その手に触れることが出来ない世界の存在を、ラディゲは再度認識した。ラディゲは自分がいかに小さな世界しか知らない事、目を逸らしていた現実に目を向けた。誰にも負けなかった、というプライドがその視野を覆い隠していたこと、その彼の視界を遮っていたものが今取り払われつつあった。そしてラディゲの眼に映った現実は、彼の心を奪った人物と彼のプライドを打ち砕いた人物、両者が同じ人物であったという事が、初めて彼女を見た時の感情と相まって、それは情熱を含んだ危険な感情、それは盲目的に彼女を受け入れてしまうという、依存とも恋愛とも見分けがつかなくなってしまう感情が彼の心の中で成熟しはじめていた。その状況は、ただただ崖から転がり落ち止まることを知らない滑落者そのものだった。そして気がつけば地面に叩きつけられ死あるのみ。恋に焦がれる者が必ず陥る恋の残酷な仕打ちだった。
「ラディゲ伯」
凛とした女性の声が響いた。ラディゲにとってその声は媚薬そのものだった。一瞬で胸が高鳴った。胸の高鳴りを隠すように口許を引締めラディゲは振り返った。ラディゲはイレーヌを見て、正直驚いた。いつもは長い髪が邪魔にならぬように巻いている。いまその髪を下ろしているだけなのに、まるで別人のように感じられたのだ。長く赤みがかった髪は緩やかなウェーブを描き背中に垂れている。別段、着飾っているわけでもないのに、まるで国中の男の虜にするお姫様のように見えたのだ。「痘痕も靨」ラディゲはこの諺を地でいっていた。イレーヌの容姿を痘痕に例えるには無理があるのだが……恋をすれば老若男女問わず、この熱病に罹ってはうなされるものである。
そんなラディゲの思いを知ってか知らずか、闘いを知らぬ乙女たちのように艶やかな容姿をしていても、そこは一流の剣士、発する口調は凛としていた。
「伯は占星術を嗜むのか?」
ラディゲがイレーヌの声に応えた。
「いいえ、ただ星を見ていただけです」
イレーヌは不思議そうな顔をしながらラディゲの顔を眺めた。あまりに意外な返答をラディゲがしたものだから、つい非礼な事を、相手の顔じっと見つめるという事をしてしまった。
古くはラティーナ帝国から現トゥッリタ公国に至るまで星を観るのは占星術師か農夫くらいで、まず星を鑑賞する習慣がない。このような習慣に似たものと言えば、絵画鑑賞が挙げられる。絵画鑑賞は諸侯と言われる程の貴族レベルの娯楽であって、それ以外の者には全く縁もゆかりない趣味であった。それだけでなく、画を描くことも趣味として認識されていない。画を描く行為、それは貴族に売る為か、後は教会に飾る為であって、それ以外の意味を持たないのである。そしてこのような珍しい趣味を持つ者と言えば、イレーヌの幼馴染であり、忘れえぬ恋の相手、シモーネ・マルティニだった。彼は画を描くこと趣味としている。シモーネは混血である為、公国の無言の社会習慣に倣い絵画工房に入ることは決してないが、その技術、腕前はどの工房に入っても充分に一線で通用するレベルであった。
全く似ても似つかぬ二人。なのに何故だか、イレーヌは二人が重なって見えたのだった。イレーヌがラディゲから視線を離さない。そしてラディゲの方も恋する女性から視線を向けられたなら、若い男性にありがちな行動を、彼もイレーヌをじっと見つめ返した。二人の心は全く重なっていない。しかし、第三者から見れば、二人は時を忘れて見つめ合う恋人たちのようにしか見えないだろう。そんな雰囲気を二人は作っていた。ラディゲの胸が更に高鳴った。ただ彼の場合、恋に焦がれる少年という単純な構造にはならなかった。もし単純な恋心なら彼もイレーヌを高嶺の花、ジナイーダ・アレクサンドロウナ嬢として一歩引くことが出来ただろう。このままラディゲが老いて若い日を振り返った時、イレーヌの事を、若き日の憧れた女性として思い起こすことになったに違いない。
現実世界では優しい思い出作りに手を貸してくれないものである。
ラディゲはイレーヌに対して恋心を抱いている。同時にラディゲとってイレーヌは今まで自己のプライドを支えてきた剣の実績を簡単に圧し折られた相手でもある。ラディゲは不思議な心持になっていた。彼女に対して恋慕の情は自覚している。その中に今まで自尊心として飾っていた剣への情熱、不敗であるという実績が自分の許から彼女の許に移り、その彼女と共することで、過去の自分を肯定したいという気持ちもあった。心理学の造詣が深くない為、その行為が同一視と呼ぶのか、代償行為と呼ぶのかは判らないが、ラディゲの中に愛情だけでなくイレーヌと共に居たいという気持ちを加速させる感情があった。その加速した感情は、若さが惑わすような無鉄砲な行動を引き起こす。いまラディゲの心を占めるのは若い男性が性急になることと等しく、イレーヌを自分の手で抱きしめたいという、ともすれば行き過ぎた情熱だった。
「ダンヴェール伯」
ラディゲの熱の帯びた声が響く。イレーヌはラディゲの雰囲気が変化したことに気付いた。彼女は外見はともかく、恋に初心な乙女ではない。ラディゲの発する男の匂いを敏感に反応した。ラディゲの言葉を遮るように、少し冷めたイレーヌの声がこの場に突き刺さる。
「ラディゲ伯、貴殿は私の年齢をご存じか」
その言葉はラディゲが引き起こしかけた暴走を止めるに十分だった。
「いいえ」
「伯の祖母様が幼児洗礼を受ける前から、私はこの姿だ。若さは特権だが過ちを犯しやすい。今の自分の気持ちを信じるなかれ」
イレーヌはラディゲに興味を失かったように背を向け来た路を歩き出した。ラディゲを冷たくあしらったイレーヌは、この年代の男性、と言うより青年の恋に掛ける情熱の熱量が半端な量でないことを辟易するくらい身に染みて知っている。思わず溜息が漏れた。この容姿のまま人の人生より長く生きていれば、この姿が異性からどのような眼で見られているか、否応なしに理解させられる。容姿の整った女性が外見だけで自分という人間を見てくれないと嘆くのを聞く事があるだろう。それは実のところ自分の容姿に自信があるからこそ発せられる言葉である。もし容姿でなく中身、人間性をアピールして恋愛するのなら、容姿に惑わされない男を選ぶからだ。外見の美しさは老若男女問わず異性を惹きつける上で強力な武器になることは今さら誰も否定できないだろう。
イレーヌは単にその手の男たちに興味がなかっただけで、もし運命の赤い糸で小指を結んだ相手と思い込んだ男性が現れたなら簡単に恋に落ちていただろう。イレーヌには既に運命の赤い糸を結んだ役になって欲しい人物がいた。その人物をその役から引き釣り下ろす事ができない限り、イレーヌの心を奪うことは出来ない。実に単純な話であった。
ラディゲは背筋を伸ばし、剣士の自信がそうさせるのか、颯爽と背を向け歩いていくイレーヌを見送るしかなかった。ラディゲの逸る心をあっさりといなしてしまったお陰で、逆にラディゲ自身にこの思いが一過性の熱病につかれた恋ではないと悟らせる結果になった。若い男性の性衝動、それは本能が理性を駆逐するといった衝動、その衝動が治まったのだ。嵐が過ぎ去った心には、純粋にイレーヌを想う心という底が見えるほどの澄んだ泉が残ったのである。再び、イレーヌの去った方向に視線をむけた。イレーヌの影すらもうそこにはなかった。そして初めて女性に見惚れた時のことを思い出した。その女性は近所の家に嫁ぐことが決まり、ご近所にお披露目を兼ねて挨拶まわりををしていた。その時、ラディゲは彼女を見て息が止まる程の衝撃を心に受けたのだ。もう五年以上の昔の話だ。初恋と呼ぶにはまだ幼く自己中心的な感情ではあった。寝ても覚めても彼女の事が気に掛かり、自分が狂ったのではないかと真剣に悩むことにもなった。だが、彼女は白いベールを被ることはなかった。彼女の住む村が妖魔に、フェンリルに襲われ誰一人生き残ることが出来ず、村人全員が帰らぬ人となったからだ。彼女を最後に見た記憶は、彼女が故郷の村へ所用で帰る後ろ姿だった。彼女は明日には幸せしかないと信じているような足取りで歩いていた。その姿が消えた時、ラディゲは言い知れぬ寂しさを感じた。そして何故だか彼女の姿とイレーヌが重り、虫の知らせと言うものか、第六感的な感覚が彼女と同じようにイレーヌが自分の前から突然消えてしまうと訴えてくる。ラディゲは左胸のあたりの服を強くつまみ、
「あの時はただの子供だった、今は違う。この手には剣がある」
それが全ての問題を解く魔術の詠唱のように何度も心の中で唱え、そしてラディゲはイレーヌの為に剣を取り闘い、楯になることを神に誓った。