Le Diable au sang et corps Épilogue
【Epilogue】
公国東部、ゲルマニア帝国ヤーノシーク公爵領に隣接するモラヴィア辺境伯領。シモーネはこの地で吸血鬼調査があることを知ったのは十日前だった。数々の功績を打ち立てた剣豪のシモーネを公国はいつまでも自由にさせておく気はなかった。そんな公国、近衛隊の思惑を無視してシモーネは公国の近衛隊事務局に無理を通して、モラヴィア辺境伯領での吸血鬼調査に出かけた。我儘以外何ものでもないシモーネの申し出を事務局が許可した背景には、今までの音信不通の状態より本来の義務を果たすことになると判断があったからだった。もっと本音だけを晒せば、シモーネの頸に鈴をつけておきたかったのだ。
シモーネが昼夜問わず身ひとつで馬をいくつも繋いで駆ける。この時代、鐙がまだこの地域に伝わっておらず、足で馬を挟んでコンロールするのである。その疲労は言葉で聞く以上のものである事は言うまでもない。それでも混血の肉体を駆使し、二百リュー以上をたった四日足らずでモラヴィア辺境伯領に着いた(一リュー、約三.九キロメートル)。いくら混血の肉体が人間離れした強靭であってもこの強行軍は堪えた。ただ肉体の欲するまま眠りにつきたい心を無理やり叩き起こし、モラヴィア辺境伯邸に向かったのだった。
シモーネがモラヴィア辺境伯領に行く数日前。
サンピエール教会に立ち寄ったシモーネは、近衛隊の事務局に向かい自分が今までどこで何をしていたのか報告した。その後、僧会の事務局関係者からペトラルカの執務室に行くように言われたのだ。ペトラルカの執務室に行く途中懺悔室を抜ける時、壁に掛けられていたアリギエーリ卿の地獄画が目に入った。悪魔に追い立てられる咎人たち。シモーネは自分が咎人でなく悪魔になったような気がした。今自分がして来た事が多くの人たちに不義理をしていると心の底のどこかで感じていたからだった。その罪の意識はシモーネが知らぬ振りをしたところで、消えるわけではない。だが、それを認めたくなかったシモーネは足早に懺悔室の前を通り過ぎた。ペトラルカの執務室の前まで来ると、突然その扉が開いた。ペトラルカは手にした書類に目を落としていた為、目の前にいるシモーネの存在に気付くのに遅れた。
「失礼した」
ペトラルカが顔を上げると、
「お久しぶりになります。ペトラルカ卿」
「あっ、マルティニ候」
ペトラルカは一歩足を引きお辞儀をした。
「お久しゅうございます。マルティニ候」
顔をあげ、少しすまなさそうな顔をしながら、
「マルティニ候、申し訳ございませんが、下名は少々所用がありまして、席を空けることになります。一刻もすれば戻りますので、どうぞこの部屋で寛いでいて下さい。後、お口に合いますかどうか……、氷室の棚にはバローロがありますので、もしよろしかったらどうぞ」
「是非味合わせて頂きます」
ペトラルカはシモーネに少し笑みを浮かべながら再度一礼をして足早にシモーネの許を離れた。
シモーネはペトラルカの執務室に入ると、一目で来賓用と判る椅子が一脚置いてあり、その後ろの氷室棚に小さなワイン樽が置いてあった。ここだけ切り取ってみると、完全に酒場だと言っても違和感がない。そしてその樽には白地に赤十字、それを囲む冠、サヴォイア伯の紋章が刻印されている。シモーネはペトラルカが何か武勲を立てたか、民を救ったのだろうと推測した。
「それにしても、ここまで特別扱いされているとは……」と思う。ペトラルカの僧会内での地位の高さを示していた。
小さな陶器のコップにバローロを少し注いだ。濃い紅玉色がコップの中で踊る。それをゆっくり口に含み、少しひんやりとした宝石を口の中で転がすように味わった後、ゆっくりと飲み干した。シモーネ自身、ワインの上品で繊細な味はよく解らないが本音である。それでもこの赤ワインの味わいが濃厚なことだけは理解できた。言い替えると、その他の事は全く解らずじまいだった。二杯目は注ぐことなく、ペトラルカの席の後ろに飾られている十字架、その十字架はペトラルカを崇光な人物に見せる為の巧妙な演出である、をただ心なく眺めていた。そんな時でも、姉、ラウラの事が心に引っ掛かるのである。「何処にいるのだろう」と。
ペトラルカの言葉通り、一刻ほどでペトラルカは自分の執務室に戻ってきた。
「マルティニ候、お待たせして申し訳ありません」
深々と一礼をした。
シモーネは立ち上がり、
「ペトラルカ卿、お久しぶりです。お元気でしたか?」
ペトラルカの手を両手で取り、固い握手をした。
「お陰様で」
シモーネの手を力強く握り返し、何度も頷いた。それから軽く肩を合わせような抱擁を交わし、それぞれの席についた。すこしばかりの時間、当たり障りのない世間話をした。お決まりの天候の話、近くある祭りの話などを。それらの話がひと段落つくと、ペトラルカは口をつぐみ、顔をシモーネから少し背け、唇を固く結んだ。それからゆっくりシモーネの方に向き直り、
「マルティニ候、不愉快な質問で申し訳ないのですが、立場上確認しなければなりません。ご理解頂くよう願いします」
シモーネは目を瞑って覚悟を決めたように肯いた。
「ノヴィス公の事です。僧会としては、候には姉上の捜索を一旦中止して頂けないかと。そして、公王殿下に正式に嘆願することを進言致します。どうか、ご一考の程を」
シモーネは目を瞑ったままだった。そして、
「ペトラルカ卿、貴殿の言は諒解した。しかし……もう少し、好きにさせてはくれないだろうか?」
目を開けた。しかし視線を落とし足許を見たまま、決してペトラルカの方を見ようとはしなかった。そして二人の間に、重苦しい空気が流れた。それは瞬く間に部屋全体に充満し、ペトラルカもシモーネも息苦しさを感じ始めた頃、扉をノックする音が聞こえた。
「マルティニ候、少し失礼します。入れ」
ペトラルカは声は少しだけ掠れており、誰が聞いても疲れが感じられた。
「失礼致します、ペトラルカ様」
入室して来たのは、駆け出しの幼さが残る修道士だった。
「書類が整いましたので、事務局まで取りに来て頂けますようお願い致します」
「解った。後で取りに行く。ご苦労」
修道士はこの重苦しい雰囲気を察したのか、すぐに頭を下げそそくさと部屋を退出した。その様子をペトラルカとシモーネはどこか和んだ表情をしながら眺めていた。二人の心理には間違いなく嫌な事に少しでも先送りにしたい気持ちが強く働いた。
パタンとドアが閉まった瞬間、再び重い空気が冷気のように足許から這い上がってきた。蜘蛛の糸が纏わりつ不快感や嫌悪感、それは条件反射ように思わず手を振りたくなるような粘り気のある重たい空気が体に纏わりついてくる感覚だ。その感覚をぐっと両手を握り堪え、ペトラルカは口を開いた。
「ノヴィス公の事は親衛隊として出来得る事、勿論私の権限の届く限りの事をさせて頂くつもりでいます」
シモーネはペトラルカの心使いが心底嬉しかった。自分一人がただ苦しんでいたのではなく、姉の事を心配してくれている人がここに居るという現実に心を慰められた。
ペトラルカは先程口にしたことを早速実践した。
「候の耳に入れたいお話があります。モラヴィア辺境伯で吸血鬼らしきものが出没したという噂があります。今ダンヴェール伯がその調査に出向いています」
さすがにペトラルカも、その吸血鬼騒ぎが転化したラウラかもしれない、とは言えなかった。
それから一枚の書類を書き上げ、その書類をシモーネに手渡した。書類の文字はペトラルカの性格を表しているようで筆記体で書かれているのに関わらず読み手に判り易く書かれており、一目でモラヴィア辺境伯宛てと判るものだった。ぞの一枚の書類はシモーネが行動する上で身分を保証してくれるものである。
「ペトラルカ卿、感謝してもしきれません。本当にありがとうございます」
シモーネは深く頭を下げた。
ペトラルカは小さく左右に振って、
「下名には、これくらいの事しか出来ません」
二人は同時に立ち上がり、再び握手を無言で交わした。それからシモーネは自分の行く先を見つけた冒険者の目になり、ペトラルカの執務室を後にした。
モラヴィア辺境伯邸に到着したシモーネはモラヴィア辺境伯コンラード・プシェミスルに会見を直ちに求めた。シモーネはペトラルカの依頼書を持っていた為、イレーヌたちのような扱いは受けず、すんなりと辺境伯邸に通された。しかし、辺境伯は貴族らしく一日置いてからシモーネに会った。そこでシモーネは辺境伯からイレーヌの調査隊がワラキア村に向かった事を知る。身ひとつでここに来たシモーネに対して、辺境伯は彼に剣を与えただけでなく馬車と馭者を提供したのである。近衛隊の剣士とは言え貴族、平時に剣をぶら下げたまま出歩くのはあまり褒められたものではないからである。辺境伯のちょっとした気遣いであった。
※
シモーネがイレーヌたちが調査しているワラキア村に入ったのは、イレーヌたちが宿にしている教会に戻らなくなってから一日が過ぎた時だった。結果から言うとシモーネはイレーヌたちに会う事も、姉ラウラの所在を知ることも出来なかったのである。
シモーネが教会の司祭からイレーヌたちが前日戻らなかったと聞き、全く根拠はないが、何となく嫌な予感がした。捜しに行こうかとも思ったが、この時、シモーネはイレーヌたちと行き違いになるでは思い、教会に留まることにした。こういう場合、こちらが心配するまでもなく、案外あっさり帰ってくるのではと、楽観的に考えたのである。それに暗い事ばかり考えても気が滅入るばかりで、精神衛生に良くないと思い至ったからであった。それだけでなく、司祭もこういう場合良く行き違いなると思い当り、シモーネに此処に留まっておく方が良いと進言した事も影響していた。
翌日、シモーネが教会の食堂で司祭と固く焼き締めたパンと味の悪いワインの朝食を取っている時に、司祭を大声で呼ぶ声が教会の講堂から聞こえてきた。
「何か、あったのか?」
司祭の言葉に村人が応えた。
「死体が見つかった。教会に来ていた剣士様たちじゃ。司祭様、ご確認願えるかのう?」
この遺体を見つけたのは、村外れの森に薪拾いにいった少年だった。すぐさまシモーネはその森に案内するように言い、彼は剣を持つことさえ忘れたまま、イレーヌたちの許に向かった。
遺体はイレーヌとラディゲのものだった。剛力のボッテギアと下男のレオシュは今なお行方知れずであった。
二人の遺体は共に仰向けに寝かされ、右側にイレーヌ、左側にラディゲ、イレーヌと右手とラディゲの左手が絡み合うように握られていて、両者の顔は向かい合っている。この描写では、ヤン・ファン・エイクの夫妻像に描かれた美しい一対のように思われるかもしれないが、イレーヌの左胸正面と左脇腹から剣が深く刺さっており、その剣は心臓まで達し、そして頸筋には刃創から夥しい出血がみられる。またラディゲ伯も頸筋に食い千切られた傷が生々しくあり、そこからイレーヌ同様夥しい出血が確認できる。彼らが亡くなった時間までは判らないが、これだけの血を流して獣、特に死肉を漁る狼などに襲われなかったのが奇跡に思える。そしてこうも思った。あのイレーヌの頸に剣を浴びせることが出来る剣士はそうはいない。シモーネの脳裏には自分自身と姉のラウラが真っ先に名が挙がった。姉ラウラの顔が浮かぶ。思わず下を向き、奥歯を食いしばり目を閉じた。どうしても、姉の顔が頭から離れない。
シモーネは今此処に存在する現実を見たくはなかった。この場所に居たくはなかった。過去、現在、未来に於いてでもだ。だがどこにも行きたい場所もなく、どこに行けば良いのかも判らなかった。同時に何もかも忘れて眠りたい衝動に駆られた。眠って、眠って、眠って、朝の光を感じ目覚めた時、懐かしい時代に戻っている事を願わずにはいられなかった。母親が居て、姉とイレーヌが楽しそうに笑っていた頃に……それがもう手の届かない夢のような幻影であっても、そう望まなくては、シモーネはこの現実に立ち向かうことが出来そうになかった。
シモーネは膝を折り顔をイレーヌの顔に近づけた。蒼ざめた顔色だった。生を感じさせない、魂を抜きとれた人形ようだった。にも拘らずイレーヌの顔の造詣は美しさを失っていなかった。恋愛感情は抜きにして、シモーネはイレーヌの顔を美しく感じていた。不思議な事に、姉ラウラのようにその表情をカンパスに残したいという画師が持つような心の底から肉体全体へと湧き上がるよう熱い情熱を持てなかった。それがシモーネがイレーヌという女性をどのように見ていたかを端的に表していた。
混血が今回のような形で死を迎えるのは珍しい事ではない。なのにシモーネはイレーヌと死を結び付けて考えてはいなかった。それは愛した女性の吸血鬼の転化という「人の死」言い替えれば「心の死」が生々しい現実と姉の失踪と言う現実があった為、それらから逃避する対象として無意識にイレーヌを死とは無関係な存在として位置付けていたのだった。シモーネは自分の顔に手を当て、乱暴にくしゃくしゃともみ下した。その仕草は明らかに後悔に苛まれている人の行動そのものであった。
愛した女性が吸血鬼として頸を刎ねられた時も、姉が失踪した時も、そしてイレーヌの死もシモーネは何も出来なかった。その重く息苦しい思いが彼に圧し掛かった。当然だ、彼は疎遠とはなったとはいえ、幼い頃の記憶を共にし家族とそれに等しい関係の者を失ったのだ。
シモーネはイレーヌの左胸に突き刺さった剣の柄を右手で持ち、そこに額を当て、大きな声で何かを叫んだ。それが何かの言葉だったのか、ただの咆哮だったのかはその声を直に聞いた者でさえ全く判断がつかなかった。それもそのはず、叫んだ本人も何を叫んだかは解らなかった。心の底、いやもっと精神の奥底から出た、それは音の塊だったからだ。声が潰えた時、彼は限界を超えるように全速力で駆け抜けた時のように浅い呼吸を繰り返した。それが徐々に治まり、やがて彼の呼吸が落ち着き始めるとそれと比例するように彼は目を閉じていった。まるで眠りにつくように。それから、ゆっくりとシモーネは右手に剣を持ったまま立ち上がり瞼を開いた。そしてシモーネはもう言葉を交わすことのない恋人たちを見下ろした。時間が止まった。風の音、小川に流れる水の音、鳥の鳴き声さえ一切の音が色を失った。
どのくらいの時間が過ぎたかは人によっては、刹那の時間から一刻まで開きがあるが、それは時間そのものが相対的であり、人間の感覚的な時間の動きも同じく相対的である証左なのかも知れない。
突然、何の前触れもなくシモーネは顔を上げた。まだ姉の顔が頭から離れない。付き纏う影のように。
シモーネは右手を見た。もし姉ラウラが吸血鬼に堕ちていたなら、自らの手で姉の心臓に剣を突き刺すことを、自分たちに不条理という名の運命を与える神に誓うのだった。
了
血と肉体の悪魔をお読み頂きありがとうございます。本編はここで結末を迎えますがシリーズ編としては続編があります。
人魚の話を本作の後完成させ公開させると告知しましたが、未だプロットが完成しない状態で2021年末に完成することははっきり言って私の実力では不可能です。そこで予定を変更し、禁じられた・あそびを先に創作します。短中編のボリュームです、公開予定は2024年夏頃になります。お読み頂ければ幸いです。




