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Le Diable au sang et corps 5-b

【5e-b Chapitre】


 イレーヌたちはモラヴィア辺境伯邸に一番近いモラヴィア教会に足を運んだ。辺境伯の名を冠にしたその教会はロマンス語圏様式の色よりゲルマニア語圏様式の方が色濃く影響している。共に曲線美を基調としており、華やかさでロマンス語圏様式、華麗さではゲルマニア語圏様式が秀でている。その差異は建築様式に通じた者には全く異なるモノとして目に映るからしれない。しかし得てして素人にはその違いなど判らず、同じように見えるものである。どちらも美しい建物だと。

 イレーヌたちは、モラヴィア教会の司祭からこの町で噂になっている幽霊少女の情報を得ようとした。まず、一番信頼できると思われる人物から情報を得ることにしたのだ。様々な情報に振り回されそうなので、一本柱になる情報を置いて、そこから様々な情報を位置づけようとしたのである。

 この司祭は自分たちが辺境伯の依頼で幽霊騒動を調査している事をイレーヌたちが伝えると、喜んで情報を提供してきた。ここはモラヴィア辺境伯邸のお膝元、媚を売って損はないと踏んだのであろう。司祭とて人の子、損得勘定で動く事は致し方無い事。まず彼は先日ミルチャⅠ司祭から「吸血鬼の被害ないか」と問い合わせがあった事を報告した。これはペトラルカがイレーヌとラディゲには事前に伝えてあったので特に気にする情報ではなかった。それから幽霊騒動については、かなり街中に知れわっている事、幽霊を見た者は口を揃えて少女と呼べる年齢くらいであると言っている事を伝えた。これもイレーヌたちが辺境伯邸で聞いた通りだった。

 イレーヌたちは、それらの話を検討して、辺境伯邸で見かけた幽霊少女と町を騒がす幽霊少女が同一であると確信した。

 神隠しについても、司祭は当然知っており、幽霊少女との関係は不明であると答えたのである。イレーヌたちも神隠しと幽霊少女の関係については答えを保留にした。

 司祭は少し考え込んだ後、探るような目をしながら、

「ダンヴェール伯爵様、幽霊少女は吸血鬼とお考えですか?」

「吸血鬼なら多くの死人が出ていると思います」

 イレーヌは虚勢を張って応えた。無駄に吸血鬼の噂を立てぬ為である。あくまであれは幽霊だと……

「そうですね」

 と自分自身を納得させるように司祭はイレーヌに言葉を返した。


 それから三日ほど、教会の修道士の力を借りて幽霊少女の姿を捜した。イレーヌたちはここモラヴィア辺境伯領に住んだ事もなければ、ラディゲやボッテギアに至っては一度も訪れた事すらない。イレーヌも遥か昔に一度訪れただけである。この町の人の顔をなど知りはしない。そうなると幽霊少女を見分ける事など出来はしない。手助けをしてくれる人を必要とするのは当然の事となる。そこで司祭が修道士にイレーヌたちに同行し手伝いをするように命じたのである。

 イレーヌたちは町を隈なくと言うレベルではないにしろ、それなりに町を見回った。

 ただ町の住人からイレーヌたちは不思議な集団だった。見知った顔が一人居る。教会の修道士だ。後、辺境伯のお屋敷の者が一人、残り二人は剣士ようだ。男性は引き締まった大きな体躯で剣士と言う言葉が良く似合う。問題は女性の方だった。やたら綺麗な顔をしていて、剣士より姫君と言った方が良く似合う。ついつい不躾けにも、その顔を見惚れてしまう。そんな視線に慣れ果ててしまい、もはや気にもならくなったイレーヌは、自分が注目されていることに気に掛けなかった。

 イレーヌの噂には事前に下地があったにせよ、一気にイレーヌの容姿についての噂が町に広まった。イレーヌは皮肉にも自分が件の人と為ってしまったのだった。

 外野の雑音を余所に、幽霊少女の痕跡を根気よく捜したのだが、残念ながらイレーヌたちは全く成果は上げられなかった。

 その間、イレーヌは何となく落ち着かなかった。件の幽霊少女がラウラでない事を祈りながらも、その一方で気を抜いた瞬間、ラディゲの動作一つ一つが気になるのだ。イレーヌはこんな自分がとても疎ましかった。さらに言えば、全く気に入らなかった。時折、小さな石ころを蹴飛ばしては、憂さを晴らすイレーヌだった。

 教会に寝泊まりしているイレーヌたちは、食事も教会でしている。パンは焼き固められたものに、朝と昼はパンにワインが付く程度、夜はそれに旬の野菜が入ったスープが付く。極まれに、肉を食べることがあるが、基本質素な食事である。イレーヌは特に食事に不満などなかったが、若いラディゲと剛力のボッテギアには少々ボリュームも内容も不足気味だったようで、決して不満の言葉を漏らす事はないが、その表情は素直だったようで不満たらたらだった。

 イレーヌはそんな彼らを見て、思わず笑いそうになり、それを堪えるのにとても苦労したのだった。


 ラディゲは出来るだけイレーヌに対して持っている恋心を、自分を鍛えてイレーヌに相応しくなる、と言うその力で抑え込んでいた。本心はイレーヌと一緒に居られて嬉しくて仕方がないのだが、そんな浮かれた姿を彼女に見せる訳にはいかないと気を張っていたのである。もっと端的に言えば、情けない姿を晒せば、恋愛対象として見てもらえないかもしれないと言う脅迫めいたものが心を鷲掴みしていたのだった。

 剛力のボッテギアはラディゲの行動を見て、イレーヌに惚れているのは見え見えなのに、一生懸命に自分の気持ちを殺してイレーヌに付き添っている姿を見て、出来るだけラディゲとイレーヌを二人にしてあげようと考えていた。何より他人の恋路は遠くから見ている分には、無責任に見ていられるのである。言葉は悪いが身も蓋もない言い方をすると、恋路を邪魔して馬に蹴られるわけでない分、身近な娯楽として楽しめるのである。


 イレーヌたちがこの町で調査をはじめて四日後。

 彼らの許に、幽霊少女が出没したという情報が舞い込んできた。昼の食事を取っている時だった。この日は珍しく茹でた卵が出ており、ラディゲとボッテギアはその卵を親の仇のように口の中に入れ、ワインでお腹に流し込んだ。それから直に席を立ち、出立の準備に取り掛かった。

 幽霊少女が出没したのは、馬車で半日ほどの距離にあるワラキアという村だった。そして司祭はワラキアにある教会の司祭宛てに、イレーヌたちのことを記した書をしたためてくれた。

「この書をワラキア村教会の司祭に渡して下さい」

 これでイレーヌたちがワラキア村で拠点となる宿を、無論教会に宿泊するつもりであったが、手を煩わすことなく確保できるのである。

 当然、ワラキア村の司祭でも自分の領主が掲げる家紋くらいは知っているだろうが、イレーヌは司祭の気遣いが有難く素直に嬉しかった。

「司祭様、心遣い感謝痛み入ります」

 深々と頭を下げた。

「ダンヴェール伯爵様、ラディゲ伯爵様、お気をつけて」

 小さく頭を下げてイレーヌたちに返した。

 すぐに準備は整い、イレーヌたちはワラキア村に向かって出立した。


 半日馬車に揺られる。その間、ラディゲはモラヴィア辺境伯に向かった時と同様に馭者をしている剛力の横に陣取っていた。剛力のボッテギアはラディゲを横目で見ながら「素直になれば、いいのに……」と思わずにはいられなかった。そして「ふっ」と溜息をついた。

 ボッテギアは一瞬、自分がこの先伴侶を得る事があるのだろうかと考えたのだ。剛力は僧会付の奴隷である。僧会に属するには、表向きではあるが、性行為はご法度である。よって僧侶たちは皆独り身である。当然の事ながら、僧会も奴隷である剛力に同じ様に純潔を求める。ボッテギアは何れ今までの働きが認められ剛力の任から解放された時、きっと素敵な女性と出逢ると根拠もなくそう考えると、きっとラディゲ様とダンヴェール様も上手く事が運び結ばれるのだと確信し、胸元で小さく十字を切って祈ったのだった。


 太陽が西に幾分傾いた頃、ワラキア村に着いた。しかし、すぐに教会がどこにあるか分からなかった為、村人に教会の場所を聞くことにした。寂しい道を進んでいくと、ボッテギアが村人らしい農夫を見つけた。幾分くたびれた姿は日頃の農作業の過酷さを体現しているようだ。

「お前さんは村の者だな?」

 農夫はその声に振り返った時、面倒くさそうな顔をしていたが、その馬車に領主の家紋を掲げているのを認めた途端、顔つきが変わった。

「はい、そうですが。辺境伯様の馬車ですか?」

「そうだ。すまないが、教会の場所を教えてくれ」

 ボッテギアが尋ねると、村から少し離れた場所をその農夫は教えた。

「つかぬ事をお伺いします。こんな村にお越しになったのは、幽霊少女の件ですか?」 

 この農夫の問いに関しては、ボッテギアは口を噤みラディゲの方を向いた。それを受けて、ラディゲが応えた。

「貴様はその幽霊少女について、何か知ってるのか?」

 農夫はラディゲの方に目をやった。

「はい、少しは……」

 まずい事になったと彼の顔にその文字が浮かび上がっていた。この若者の服装は貴族のよく着る派手な服装ではなく質素で動き易そうな服装ではあったが、返された言葉の言いようが完全に貴族のそれだったからだ。彼は貴族様のような雲上の人と関わるのは荷が重く、それにお偉いさんに関わると碌な事がない、と一種の宗教のように信じていた。領民、平民と言うのは、どこでも変わらないものである。

「その幽霊少女はどこに現れた?」

「教会の反対の森だそうです」

「人死には出たのか?」

「いいえ。誰も死んだとは聞いておりません」

 ラディゲはちょっと考え込んだ後、

「貴様に、感謝を」

 農夫は恐縮した様子を見せた後、ボッテギアは馬車を動かした。農夫は何度も頭を下げながら辺境伯の意匠がある馬車を見送った。

 イレーヌたちが教会に着いた。一応十字架は掲げてはいるが、大風が吹きばいとも簡単に崩壊しそうなくらい、はっきり言ってオンボロで小ぢんまりとした建物だった。イレーヌは「クレール要塞とどっちが先に崩れるのだろうか?」と要塞関係者や教会関係者が聞けば気を悪くするような第一印象を持った。そのような失礼な事を思った事など微塵も表情に見せず、あまつさえ屈託のない笑みを見せながらイレーヌは早速モラヴィア教会の司祭からの書をワラキア村の司祭に手渡した。すぐに司祭はイレーヌたちの状況を理解したらしく、手放しにイレーヌたちを歓迎した。イレーヌは直に司祭にこの村に出没したという幽霊少女について問うた。返ってきた内容は、

「出没した場所は教会の反対側の森」

「時間は昼餉どき」

「出没した幽霊は少女と言って過言でない年齢」

「この少女が微笑んでいるその表情が幼かった」

「いつの間にか、居なくなっていた」

 以上五点だった。この内二点だけではあったが、辺境伯邸周辺で見たという幽霊少女と一致する点があった。そしてイレーヌは教会の司祭から村人に「この幽霊少女を見たら、絶対近づくな」と通達を要請した。

 こういう場合、教会の権威を利用するのは便利が良い。司祭様の言う事ならと、村人たちは素直に言葉を聞いてくれるからである。

 イレーヌは剣を二本持った。それを見てラディゲは自分の剣とイレーヌの剣の各々一本を持ったのである。各自剣を二本しか持ったなかったのは、村人に出会った時に威圧感を与えない為と、妖魔狩りに来たと思わせない為である。

 もし()の幽霊少女が妖魔であった場合、ラディゲではあまり戦力にはならない。イレーヌがその責務を負うのである。当然、イレーヌの剣を多く持つのは当然の事となる。そして剛力のボッテギアは馬車で留守番することになった。剣持ちとして連れていくことも考えたのだが、先の理由でこの案は取り止める事にした。

 イレーヌは司祭に誰か人を貸して欲しいと願い出た。モラヴィア教会の時と同じ様に()となる人間が欲しかったのである。この小さな教会には司祭のみで修道士はいなかった。司祭は代わりに教会で働く下男にイレーヌたちを補佐するように命じたのである。

 下男の年齢はラディゲくらいで、背はラディゲより少し低くボッテギアくらいだった。その下男はイレーヌたちの前にでると可哀想なくらい緊張していた。

「そなた名は?」

 イレーヌが下男に名を聞くと、

「ダンヴェール伯爵様、レオシュと申します」

 恐る恐る応えた。

「レオシュ、我々は村の少女と幽霊少女の区別がつかぬ。貴様にそれをしてい欲しい」

「はい、ダンヴェール伯爵様」

「すぐに幽霊少女が出たと言う処を見回る。ボッテギア用意を頼む、レオシュ貴様もだ」

 レオシュはカクカクと頷きながら、

「はい、ダンヴェール伯爵様」

 と口許が少し震えていた。


 夕餉を取る事もなく、イレーヌたちは馬車で教会の反対側の森に行き、そこで馬車を降り、イレーヌとイレーヌとラディゲ、レオシュはその周辺を見回ることにした。時刻はもう夕闇さえその時を終えようとしている。夜目が利く混血のイレーヌには、それ程問題はないが、人間のラディゲとレオシュには少々きついものがあった。松明なり、何か灯を用意しとくのだと思ったが時既に遅し。はっきり言えば、言い訳できない位イレーヌたちの過失であった。嘆いても反省しても、今は何も生まない。仕方がないので、ラディゲはイレーヌのすぐ後を彼女のナビゲイトで進むことになり、その後ろにレオシュが従った。

 レオシュにしてみれば暗闇の中を歩くより、伯爵の爵位を持つ二人と一緒に居る方が神経を使ったのである。

 夜間、灯のない森を歩くのは中々骨が折れる。例え(みち)を歩こうとしても足許が見えないのは、特に見知らぬ土地では人は当然歩きづらい。それはラディゲも同じだった。さすがにレオシュは地元であった為、ラディゲほどではなかったが、それでも歩きづらい事に変わりはなかった。

 時間にして、三刻ほど森を歩いてみたが、幽霊少女どころか人っ子一人出会わなかった。収獲なしである。

 イレーヌたちは教会に戻り、遅い夕餉を取った。はやりここでも夕餉のメニューは固く焼き締めたパンとまずいワイン、野菜スープだった。ラディゲとボッテギアの愛想笑いが良く見ると、微妙に引きつっていた。


 一夜明けると、イレーヌたちの事は村中に知れ渡っていた。

 幽霊退治に領主様が乗り出してくれたと。それは強ち間違っていないが、討伐する化け物が幽霊とは限らない点を除けばであるが……。どういう訳なのか、イレーヌが村人に顔を晒していないはずなのに、イレーヌの容姿の事についても村人たちは知っていたのである。閉鎖的なコミュニティの恐ろしところであり、また「幽霊少女に絶対近づくな」など緊急な要件を村中に伝達するのに便利な側面もある、村特有の文化だった。

 こうなれば逆にイレーヌたちは活動しやすくなった。剣を持っていても、村人は幽霊退治をしているのだと思ってくれる。そして剣は何本あっても邪魔になるどころか頼もしいものである。それからイレーヌ、ラディゲ、剛力であるボッテギアは役割を明確にし確認しあった。実際闘うのはイレーヌ、その補佐全般をラディゲが負い、戦況に応じて必要な剣をボッテギアがまずラディゲに届けるのである。当然レオシュは見ているだけ。また戦況が不利になったなら、ボッテギアは剣士二人を見捨て、レオシュを連れて逃げ、その状況を村人と司祭に知らせる役目を負う。下男は当然として、剛力は親衛隊付の奴隷ではあるが、剣を持たぬ者を闘いで護れぬと言うには剣士、特に親衛隊の剣士としても矜持が許さない。またイレーヌがそうであるように混血の剣士も親衛隊の剣士と同じ精神を持って闘いに挑んでいる。故に剛力は剣士達の名誉の為にも、生き延びる事は大切な仕事なのである。

 朝食事を取った後、イレーヌたちは幽霊少女を見たと言う教会の反対側の森を重点的に見回った。夕餉時を超えても、かれらは森を探索した。前日の失敗を受けて、今日は松明を用意していた。しかし今日一日、出会ったのは、森に薪を拾いに来た者、水を汲みに来た者、山菜を求めに来た者だけで、結果は空振りに終わった。彼らもそもそ一日で決着が付くなのど思っていない。それどころか長期戦になることさえ覚悟していたのである。

 翌日から調査する地域を教会と反対側にある森でなく村を囲むように茂っている森全てを対象とするとイレーヌたちは決定した。教会の反対側の森から時計周りに捜査域を展開していった。


 数日が過ぎた。

 爵位持ちのイレーヌとラディゲをまるで猛獣か何かのように恐れをなしていたレオシュもさすがに慣れてきて、まだ緊張はするものの、カチコチに固まったり、必要以上に怯えなくなった。人間案外、本人が思う以上に環境に適応するものらしい。また剛力であるボッテギアとは友人のような打ち解けた関係ではないものの、それなりに友好な関係を築いていた。

 これはボッテギアの手柄であった。イレーヌたちに対してあまりも緊張した状態では、緊急事態に陥った時に支障をきたすと考えたからだった。無論、ボッテギアは馴れ合うつもりなど微塵なかった。適度な距離を取りつつ友好関係を築くべきだと判断したのだ。これも仕える剣士様の為だと思えば大したことではなかった。

 剛力は剣士や教会、僧会に尽くすように、神の名に於いて徹底的に教育されている。結果、盲目的な従順さを持つ人間が出来上がっているのである。

 

 イレーヌたちは朝太陽が昇る前から陽が沈み夕餉の頃を過ぎても幽霊少女を捜していた。結果はやはり成果はなかった。もう五日も続けている。イレーヌはまだ体力は十分に残っているが、剣士であるラディゲや剛力のボッテギアはまだしも、下男のレオシュにはかなり堪えてきたようだ。

 簡易の防具をイレーヌとラディゲだけでなくボッテギアやレオシュを付けていたのである。レオシュはラディゲの予備を借り受けた。サイズは彼には大きいが戦闘するわけではないので、問題にはされなかった。実はレオシュは剣士のような格好が出来て内心満更でもなかったのである。イレーヌたちは何となく気付いてはいたが、そこは武士の情け、黙って知らない振りをしたのだった。

 ここ数日の強行軍的な行動でレオシュが疲労したのは、当然の結果と言えよう。戦場でその身を置く人間の体力は力仕事を糧としている人間であっても対抗できない。実はそれくらい基礎体力に差がある。戦場に身を置くということはそれだけ過酷ということなのである。

 イレーヌは幽霊少女捜しを一日休むことにした。

 休みと言っても、レオシュだけで、剛力のボッテギアは馬車の点検などの雑用を一気にこなしていた。

 イレーヌとラディゲは剣の練習をしていた。主に連携の確認だった。色々な場面を想定し、各々どう動くのか、何をすべきなのかを互いに確認しながらの訓練となった。

 イレーヌもラディゲも相手と一緒に居たいが本心である。イレーヌは何となく自分からそういう事を言うのはプライドが許さないし、一方のラディゲはまだ自分は彼女の傍にいるのはまだ力が足りていないと思っているのであった。それはプライベートの話であって、二人とも公の理由があれば、一緒に居る事はやぶさかではないのである。その辺りは二人とも似たり寄ったりだったりする。案外、容姿でけでなく性格もお似合いなカップルかもしれない。

 その日の夕餉には干し肉が出た。ラディゲもボッテギアも干し肉であっても肉を口にすることを素直に喜んだ。この干し肉は村人が幽霊少女について調査してくれいると感謝の心から届けてくれたものであった。

 ワラキアの村ははっきり言って貧しい村だった。互いに手を取り合わないと生活が成り立たないくらいである。そのような村に領主様が調査隊を送り込んできた。しかし村人は通り一遍ですぐに引き上げると思っていたのだ。自分たちの村が重要な地位でないことを村人自身が一番理解している。そんな彼らの予想に反して、イレーヌたちは腰を据えてきちんと調査してくれているである。村人が喜び感謝するのは理解できるだろう。


 翌日、いつものように朝の礼拝を終え、イレーヌたちは幽霊少女の捜索に出掛けた。一応、時計回り側の調査を終えたことにより、今日から捜索範囲を幽霊少女を見た森から反時計回りに切り替えるのである。反時計回りの調査も不発に終わった時に、その後予定は立ててはいなかったが、イレーヌはもう少しここで調査するつもりでいた。それが終わった後はモラヴィア辺境伯邸に戻り、そこからペトラルカに文(密書)を送り指示を待つことになると考えていた。そして恐らくは、モラヴィア辺境伯邸で待機命令が出るのではと推測していた。

 イレーヌは個人的な理由からそのようになれば良いと思っていた。


 教会の反対側にある森に向かっている途中、村人が馬車を追いかけてきて大声で呼び止めた。すぐに追いつくと、息も絶え絶えにしながら、

「伯爵様はいらっしゃいますか?」

 ボッテギアが応えようとしたのをラディゲが制して代わりに、

「何用だ?」

「伯爵様ですか。先程、幽霊少女が出ました。お日様が昇る方の森です」

「貴様が見たのか?」

「いえ。わたしの息子です。水汲みに行った時に見たそうです」

「貴様、その場所が分るのか?」

 村人はひと呼吸おいて、

「はい」

 言いにくそうに答えた。

「すまぬが、その場所まで案内(あない)を頼む」

 村人は何度も声を出そうとして詰まった。そして大きく息を吐き覚悟を決めたように、

「はい」

 と応えた。

 ラディゲはそんな村人を見て、仕方ないなという表情をしながら、

「何も心配するな。我らが貴様を必ず護る」

 とそれが当然のような口調で言い放った。

 自信たっぷりのその口調と剣士らしい体躯の良さ、きりっとした鋭い眼つきが村人に安心感を与えた。人間外見の印象は重要である。それは古今東西、変わらぬ常識と言っても誰ひとり否定しないだろう。


 幽霊少女が出たという場所に着いた。そこは小川が流れ、その岸に水汲みがし易いように石が積まれいた。皆が足を置く石は一目で判るほど、擦れて削れており、それは明らかにこの水汲み場が村にとって重要な場所であることを示していた。その場所の対岸に幽霊少女が立っていたらしい。イレーヌたちはこの場所を中心に()の少女を捜索することにした。それからこの場所を案内した村人に「この場所に近づかないように村に知らせてくれ」と(ことづ)けをした。水が汲めないのは問題だが、命には代えられない。

「解りました、伯爵様」

 と彼は言い残して足早に村に向かった。

 幽霊少女が出没した場所、さすがに緊張状態が続く捜索となった。体力より神経がくたびれる事となった。イレーヌたちは目となるレオシュの様子を見ながら彼らは捜索を行い、レオシュが少しでも疲れが見えた途端すぐに休憩を取った。長期戦を見越しての行動だった。レオシュに無理をさせて動けなくなるような愚作を犯さないようにである。言い替えれば、少しでも長くこき使おうと言うのが本音となる。そこは使う側の人間、イレーヌとラディゲは口にも顔にもそのことを出すようなヘマを決してしない。演技力に問題があったとしても、誰しもその位の事はできるものである。

 昼が過ぎ、太陽が西に傾き、やがて太陽も自身を赤く燃やしながら、明日の朝再び顔を見せる事を知らぬかのように地平線に沈んでいった。闇が空を覆った。雲がない晴天で星が輝いていた。美しく瞬く星たちの輝きは地上を照らすには残念ながら力が足りない。夜のもう一つの雄、月は朔だったらしく、その姿を見せなかった。

 ボッテギアが松明を持ち、イレーヌたちは幽霊少女の捜索を黙々と続けるのであった。


 イレーヌたちは長い時間を掛け丁度一回りした。件の水汲み場に戻ってきたのだ。川の流れる音が昼に比べ大きく響いているように彼らに感じた。視覚が効きにくい夜の闇に対応して、その分聴覚が研ぎ澄まされていくのはごく自然な事である。それだけなく闇を制する何かがそこにいる場合にも、静寂は忍び寄ってくる。

 ボッテギアの松明が突然消えた。

 その瞬間、イレーヌとラディゲは剣を鞘から抜き、どこから攻撃を受けても良いように背中を合わせ剣を構えた。

「ボッテギア、レオシュ、健在か」

「はい、ダンヴェール様」

 ボッテギアが応えた。

「その場でうずくまり動くでない、指示を出すまでそのままにしておれ。良いな」

「はい」

 レオシュは何とかうずくまったものの、恐怖のあまり声を出す事が出来なかった。

「ラディゲ伯、無駄に動くな。相手の出方を見る」

「了解」

 木の葉が地面が落ちた音さえ聞こえそうな緊迫した空気が一面を覆う。

「どこからくる」イレーヌとラディゲは神経を極限まで研ぎ澄ました。背を会わせた相手の心音さえ耳が捉える事ができそうな、そんな精神状態に昇華させたのである。

 ラディゲは今、彼の心持ちは緊張に覆われ神経過敏になっている、と同時に、どんな化け物が襲ってきても負ける気がしなかったのだ。それは彼特有の「慎重でありながら大胆になれる」の性格の顕れだった。この相反する気性を含む性格が幸いし、剣の腕を高みまで上げてきたのである。しかし勝負事は「強い者が勝つのではなく、勝った者が強い」の結果主義でしかない。どんなに才能があろうが、事前に保有する才能は勝利を得る必要条件となり得るが、十分条件にはなれない。それが勝負事の恐ろしい所であり、また人によって面白く感じるのである。

 不意に、足音と剣の背が擦れるがイレーヌの耳に届いた。一瞬、自分を凌駕する気配、それは達人が纏う相手を呑む気迫であり同時に無邪気な幼子のような相反する雰囲気を併せ持った一種の恐怖を持った気配に押され、自身の意思とは関係なく肉体の意思が大きく距離を取った。直に振り返り剣を構えた時は、既に勝負が決まっていた。

 ラディゲの体は力なく引き綴られようにイレーヌから遠く離れていく。ラディゲの頸から夥しい血が流れていた。イレーヌがラディゲを助ける為にも、彼を引っ張る()に剣による打撃を加えようとしたが、突然足を止め、その場から再び大きく足を後ろに捌き距離を取った。

「来るな」

 ラディゲの小さくとも力強い声が響いたのである。

 その()が剣をイレーヌの脚目掛けて投げてきたのだ。

 イレーヌは初手の動きが終わり次の動きがあるまのでの間隙、その間を利用して、ラディゲを救出の為に攻撃するよりも剛力たちを逃がす事を選んだ。イレーヌの剣士としての高いプライドと義務感が女の感情を抑えそうさせたのだった。それだけでなく、ラディゲも同じ様に考えると思ったからだ。

「ボッテギア、レオシュ、逃げろ」

 ボッテギアは何も言わず後ろを振り返ることなく走り出し、レオシュは何度も躓きながらも必死になって彼の後を追った。

 イレーヌはボッテギアたちが十分離れたことを確認すると、ラディゲを救出すべく素早くその間合いを詰めた。が、その足が突然止まった。まるで金縛りにあったように彼女の全身が固まった。彼女の一点を見詰るその瞳の先にはラウラの姿があった。ラウラはゆっくりと息も絶え絶えのラディゲの頸に口を付け血を吸い始めた。

 イレーヌはただただ呆然とその様子を見ていた。言葉なんて出なかった。手も足も身体も硬直している。呼吸しているかも怪しいものだ。それだけでなく、悲しくて悲しくてやりきれないのに一粒の涙が出ない。イレーヌは自分の心がこんなにも乾いているとは思わなかった。しかし、この考えはイレーヌの誤謬以外何ものでもない。人はあまりに大きな悲しみに出会った時、心を悲しみに潰されない為に、無意識の内に心の機能を停止を、または心の反応を鈍くしてしまう。簡単に言えば、心の防衛反応。イレーヌが悲しみによって拒否した感情の動きは、家族に似た愛情を持った人と男性として愛した人を失った二重のショックを和らげる為の心の反応そのものだった。

 一方でラウラへの激しい怒りの感情がイレーヌの意識されることなく、無意識という心の奥底で煮えたぎっていた。憎しみ、恨みと言った攻撃的な感情については、心の防衛反応のような機能は存在しない。心の中にある憎しみや恨みの感情は、復讐が果たされるまで増幅される事があっても、時が解決するまでは減少する事は皆無と言って過言ではない。ましてや永遠の若さの呪縛を受ける混血たちにとっては、精神が時間と共に老いていく生命としての流れ、それが老成するには精神と肉体が互いに絡み合い、どちらかが欠けたなら、時が解決するという事は手の届かない境地となってしまう。例えるなら、若い時に手の付けられない乱暴者が年を取り性格が丸くなり好々爺となることがある。それは精神的な成長や暴力の虚しさを知り、それだけでなく肉体が若い時のように動かなくなった事、この両者が相まって老成した人間と成り得るのである。混血はこの条件を決して満たすことはない。心がどんなに枯れていこうが肉体は若いまま。そのバランスの悪さを永遠に抱え続けてしまうからだ。それは一種の呪いであり、不幸の呪縛でもあると言って過言ではないだろう。

 

 ここで注意点をひとつ述べておく。

 格闘術において、体術や剣術に関わらず、一つの方向性が存在する。今回は剣術ではあるが、一流の剣士と三流の剣士の違いは一撃の威力の差である。斬れ味の差と言い換えても何の問題もない。(くど)くはなるが、例えるなら一流の剣士の一撃は装甲の厚い戦車を一撃で葬り去る砲撃のようなもの。人が直撃を喰らえば身体は木端微塵になり、至近弾であっても致命傷になる。一方で三流の剣士は玩具の銀玉鉄砲で相手を撃つようなものであり、何発銀玉を浴びようと痛くも痒くもない。もし強力な砲弾で撃ち合えば、ほんの僅かの差が命取りとなり、またその僅かの差を剣豪ゆえに見逃さすことはない。よく劇中で最強の剣士同士の闘いが、何度も剣を合わせ立ち廻る演出をする。確かに剣豪同士が幾度も剣を合わせるのは画になるし、何より主人公たちの強さや格好良さを引き立てるの都合が良い演出である。現実は三流剣士のお遊戯に等しくなる。まだ両者一撃必殺で勝負が決まる方がまだしも剣豪同士の闘いを的確に表現をしている。また攻撃後の決めポーズを取ることや、ましてやそのまま停止してしまう事などは、愚の骨頂でしかない。先ほどと同じ様に、決めポーズとしては格好良く、画にもなるかもしれないが、あまりにも非現実的な行動である。なぜならば、攻撃の直後ほど危険な時間帯はないからだ。攻撃は隙を必ず生む。そして攻撃後は一連の剣術動作が終えた状態であり、攻撃も守備もどちらの準備も全くできていない格闘時に措ける一種の虚無状態である。それゆえ、攻撃後は直に態勢を整え次の攻撃に備えるか、即時攻撃に出るか、または守勢に徹するのである。格好をつけ決めポーズを取っても、後ろからグサリ。それで終わりである。間抜けな話であり、笑えない喜劇であり、ある意味悲劇的でもある。


 ラウラが息をする事を止めたラディゲの腰剣を鞘から抜いた。それは皮肉にもラウラが吸血鬼に堕ちた時に対応する為に用意したイレーヌの剣だった。イレーヌは苦々しく舌打ちをした。ラウラは要らなくなったおもちゃを子供が捨てるように、ラディゲの体を投げ捨てた。イレーヌはまるで塵のように捨てられるラディゲの亡骸を見た時、ラウラに対して、幼い頃を知っているからこそ、裏切られたという感情を伴って、無意識に沈めていた感情が湧き上がる強烈な殺意と重なり、それ故に「容赦する」という言葉は存在しなかった。

 イレーヌが切っ先をラウラに向けている。それに対峙するようにラウラはイレーヌに剣先を向けた。ラウラはこの世にある悪意があることを知らぬ子供ように微笑んだ。幼さの残るラウラの雰囲気に相まって、他人を傷つける事などできない無垢さを演出していた。イレーヌは下唇を少し噛み無理やり自身を叱咤するように痛みを与えた。ラウラが故意か無意識かは知る由もないが、虫をも殺さないような無垢さにイレーヌは惑わされることはなかった。ラウラの幼い頃を知るイレーヌにとって、ラウラは年齢の関係から姉の立場ではあったにも関わらず、ラウラは何をやらせても鈍くさく不器用で、そして何より一生懸命に取り組む姿は無駄に庇護欲をそそられ、母性本能を刺激した。そんなラウラではあったが、剣を持つとまるで別人だった。母親であるモントルイユ候、トゥッリタ公国において剣豪の名を挙げれば必ずその名が出るほどの天才剣士の血を引くことだけはあった。イレーヌもモントルイユ候も剣の手解きを受け、モントルイユ候ほどでないにしろ一流の剣士として呼称されても恥ずかしくないどころか誇っても十分にお釣りがくるほどの実力を身に付けた。ただ直系の遺伝子がなせる業なのか、イレーヌの剣はラウラの剣に肩を並べるには、幾分か才が足りなかった。

 イレーヌは腸が煮えくり返るくらい怒り心頭していも、剣士として一歩引いた視点でこの状況俯瞰することも忘れていなかった。この二重人格のような冷静さがなければ、戦場をそれも過酷な最前線で生き残ってはいけない。

 再びラウラが無垢を思わせる笑顔を見せる。ラウラとイレーヌが引き継いだモントルイユ候の剣術は一撃で致死に至る豪剣ではない。動脈血を斬り失血死を狙う剣術に特化しており、後はせいぜい眼球を抉るか腱を斬るくらいである。イレーヌが一気に間合い詰めた。同門の格上相手に勝利を狙うなら、正々堂々正面からモントルイユの剣術で闘いを挑むのは愚の骨頂と考え、イレーヌは剣を全く振らず突きの要領でラウラの顔の中心線目掛け剣先を突き刺しに掛かった。間違いなく二度目は通じないであろう、このイレーヌの捨て身の攻撃はラウラの裏をかき、イレーヌの剣はラウラの柔らかい顔の肌を、その頬を抉った。イレーヌとしては、勿論一撃でラウラに致命傷を与えることなど微塵も考えてもいない。うまく片方の眼球をつぶせば剣の実力差を詰めれると判断したのだ。

 だが、イレーヌの剣が見慣れたラウラの頬を抉った瞬間、何とも言えない不快感が爆発的にこみ上げてイレーヌを背後から抱き留めた。ラウラは今や転化し吸血鬼への成り下がってしまったが、幼い頃は本当の姉妹のように育てられてきた間柄である。その優しい思い出まで自分の剣が容赦なく斬りつけ二度と取り返しのつかないことをしているように感じたのだ。一瞬、煮えたぎる怒りの炎が途切れた。その為だろうか、または別の理由があるのだろうか、イレーヌの剣はラウラの頬を抉りはしたものの、眼球を傷つけるまでには至らなかった。その状況を自覚した刹那、イレーヌは頸筋が熱くなる感覚を認めた。咄嗟に熱くなった頸筋の部分を左掌の底で頸が痛むくらいの力で押さえつけた。ねっとりとした感触が手の平全体に広がっていく。イレーヌはラウラの剣がどこから攻撃してきたのか全く解らなかった。理解した事はラウラより自分の方がより深く傷つき、この勝負、敗色濃厚となったことだ。

 もしこの闘いに第三者がいたならラウラの剣がイレーヌの剣の下側を沿うように流れていたことを認める事になるだろう。

 イレーヌはラウラの追撃を警戒するように左半身になり右腕を伸ばし切っ先をラウラの視線に上に重ねた。

 ラウラも剣をイレーヌに向けているが、そこに攻撃の意思が感じられない。イレーヌは頸筋を抑えている反対側の手、右手でラウラに剣を投げつけた。意表を突く攻撃のように一瞬感じられたが、イレーヌはその結果を見ることなく素早く体を反転させ一気に駆け出した。これ以上の闘いは無用と言えば聞こえは良いが、実のところ敗走以外何ものでもないその行動に一番驚いているのはイレーヌ自身だった。

 これでも剣士の端くれ、命の引き際はわきまえているつもりだった。そんなプライドはかなぐり捨ててでも逃げたかった。

「ここでは死ねない」ラディゲの顔が浮かんだ。彼の傍で死にたかった。何もかも忘れて泣きたくなるのを堪えた。そして走る。どこに向かって走っているかは全く解らない。死を支配するラウラから逃げきる事だけで、その他の事は考える事を今は故意に放棄した。

 どのくらい走り続けたのだろうか。時間の感覚が麻痺していて全く判らない。そして血を流し過ぎたのだろう、イレーヌの足が徐々に遅くなりやがて足が止まった。意識していなかったが、呼吸もかなり荒れている。首を垂れながら近くにあったブナの木に右手をつき、イレーヌは呼吸を整えた。ブナの幹はゴツゴツとして硬い。それが男性的な感覚を呼び起こした。

「レイモン……」

 今なら胸を張って言える。誰に対しても、例えシモーネに対しても「シモーネを忘れる為の恋ではなく、心からレイモン・ラディゲを愛している」と。それだけでなく、一番伝えたい相手、過去の自分に対しても。

 こんな状況でないと、自分の心に素直になれないなんて、本当に自分は馬鹿だと思う。全てを失ったのに……。蘇るラディゲの姿。笑った顔、真剣な顔、不安げな顔、優しい顔、全てが愛おしい。また涙がでそうだ。泣いていても、死から逃れることは決して出来はしない。

 再び蘇るラディゲの姿。ラウラに抱きかかえるラディゲの頸に血痕。息のない彼の体はラウラに投げ捨てられた。それは余りにぞんざいに、乱暴に、粗末な扱いだった。一秒でも早く彼の許に行きたかった。彼の体を抱きしめたかった。力一杯抱きしめたかった。もう彼の腕が自分を抱きしめることがなくとも……

 その為には、まずはラウラから逃げきらないといけない。それだけでなく剛力のボッテギアと下男のレオシュの事も気になる。今はただ、彼らが逃げ切ってくれることを願うのみ。

 一歩右足を出そうとした瞬間、イレーヌは意識が遠のく感覚に襲われた。

「血を流し過ぎている」イレーヌは頸筋に当てた掌にさらに力を込め、歯を食い縛った。少しでも出血を抑える為に。だが、そんな儚い望みは一瞬で砕け散った。少し首を傾げ、不思議そうにイレーヌを見るラウラが剣を右手に、まるで幼児のおもちゃのように剣を弄びながら立っていたのだ。現実はどこまでもイレーヌに情け容赦なく冷たかった。

 イレーヌは長剣を腰から抜きラウラに向けた。全く同形状の剣が合い対する。ラウラが頬から血を流しながら小さく口許に笑みを称えた瞬間、イレーヌが、

「ごめんね、レイ」

 初めてレイモンの愛称を口にした。それがイレーヌ・ダンヴェールの最期の言葉となった。

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