Le Diable au sang et corps 5-a
【5e-a Chapitre】
サンピエール教会からブルネレスキ工房を経由しモラヴィア辺境伯に着く数日間、イレーヌはラディゲと特に会話もなく過ごした。彼女自身はラディゲの方から話をしてくれるものだと思っていたのだが、その期待はあっさり裏切られた結果となった。心の中では不満たらたらなのを一切表情に出さないのは、イレーヌの性格によることが大きい。良くも悪くも彼女はプライドが高い。剣士としては当然として、恋愛に於いても然りだった。
そもそもイレーヌの容姿は誰もが認めるくらい美しい。その花の美しさに惹かれる男性も後を絶たない。それが人の一生以上の期間続くのである、その結果は誰もが予想がつくだろう。イレーヌは恋愛事は、初恋の相手以外常に受け身であり、尽くされるのが当たり前だった。
先の闘いでは死を厭わず自分を護ってくれたのに、ファーストネームを呼んでくれたのに、そして明らか自分を意識しているにも関わらず、声を掛けることさえしない。イレーヌからして見れば、ラディゲの行動は到底納得できることでなかった。
そんな不満も溜まり溜まっていて、許されるなら一発、ラディゲの頬を張りたい気持ちで一杯だった。
その一方で、ラディゲは御家再建の事もさることながら、イレーヌにどうしたらもっと信頼されるのか、どうしたらもっと男として認めてもらえるのか、どうしたらもっと自分自身を高めることが出来るのか、再びその思考が出口のない迷路に迷い込んでいた。一度は色々と経験を積むことで、それらが達成できると確信したのだが、人間とは面白いもので、考える時間がない時は決心が鈍ることなく猪突猛進できるのに、考える時間を持つとついあれこれ考え悩み込んでしまうものである。色恋沙汰では、特にその傾向が強い。本人には辛い一面を持つが、若い精神には付きもののありふれた現実である。
ふと、イレーヌの笑顔が浮かび、ラディゲの胸の鼓動が跳ね上がる。それだけでなく、イレーヌが矢に貫かれるあの場面を思い出してしまうのだ。イレーヌが矢が当たった瞬間、何も考えらず、気が付けば夢中で走り出していた。無我夢中で自分が何をしたのか、勿論頭部への衝撃により気を失い、前後の記憶に混濁が見られるのはよくある事なのだが、そう言った事も含め、ラディゲ自身よく覚えていなかった。ただイレーヌがこの世から消えてしまう恐怖だけが残照のように心に残り続けたのであった。
だからこそ「彼女を護る」ことが彼にとって最も重要な事になり、それ以外のことが自身の価値観から疎外され、心の片隅へと追いやることになっていった。
「彼女を護る為には」考え込んだ。そして考え込むと誰しも無口になる。ラディゲも無口になってしまうのは必然のことだった。
そんな二人のすれ違いを間近で見せられた剛力のボッテギアがここでは一番の被害者であることは言うまでもない。
※
モラヴィア辺境伯邸にイレーヌたちが辿り着くと、意外にも門前で足止めを食らった。普段なら貴族や親衛隊、近衛隊である紋章を馬車のどこかに掲げているのだが、今回はペトラルカの命を受け、目立たぬように貴族や親衛隊、近衛隊であることを伏せていた。また万が一の対応としての僧会の親書類も持っていなかった。その為、対応に出た執事に邸宅に入るのを拒否されたのである。勿論、この執事は近衛隊と親衛隊の剣士が各一名来訪することは知っていたが、まさかこんな隠密行動を取るとは思っていなかったのである。またペトラルカの書簡には、来訪する人物の名が故意に記していなかったので、イレーヌたちが本物であるとすぐに確認が取る方法がなかった。
執事としては、素性を知れぬ者を館内に入れるわけにはいかない。それは致し方のないことではあった。その事はイレーヌたちも重々承知していおり、ペトラルカから貰った情報を詳細に伝えて相手に確認してもらう以外、信頼を得る方法はなかった。彼らはそれなりの時間が必要だと覚悟した。
しかし意外な事に、この訪問の事を偶々耳にしたモラヴィア辺境伯コンラード・プシェミスルの父君が、ダンヴェール伯の名を知り、執事たちの諫言も聞くことなく彼らに謁見する事と為った。父君はイレーヌの顔を知っていたのだ。それが決めてとなりあっさり通行を許可されたのだった。
「お久しぶりになります。ダンヴェール伯」
「お久しゅうございます。モラヴィア辺境伯の御父上」
イレーヌはモラヴィア辺境伯の父君に倣いそう応じたが、実は全く見覚えがなかった。こういう時の礼儀としては、出来得る限り相手に話をさせて、自分は相槌を打つだけでやり過ごすのである。それが相手にも自分自身にも要らぬ恥を掻かなくて済む処世術という事になる。イレーヌは必要以上に笑みを浮かべモラヴィア辺境伯の父君の言葉に耳を傾けたのだった。
この顛末の裏側には、モラヴィア辺境伯コンラード・プシェミスルの父君は、若き頃イレーヌに一目惚れし求婚したが、あっさり振られていたのである。不老である混血ならではの出来事だった。
モラヴィア辺境伯に会見するに当り、イレーヌとラディゲはそれまでの移動用の軽装から一応貴族に見える程度の服装に身だしなみを整えた。ラディゲはドルジェル伯を爵位を有していた時からの一張羅、よく見ると生地は随分くたびれていた服装で身を装った。
一方、イレーヌは伯爵令嬢に相応しい格好をするだけの金銭的余裕は十分にあるのだが、剣士律とする性格から質素な服装をしていた。それでも二人とも地の良さが十分に見て取れた。そしてイレーヌとラディゲが二人並ぶと、画師たちが喜びそうな題材に成り得た。ブオニンセーニャが描けばさぞ神秘的な男女が出で立つことになるだろう。
イレーヌとラディゲが応接間に通され、そこでモラヴィア辺境伯コンラード・プシェミスルを待つ事となった。客人をすこしばかり待たせるのが、貴族の嗜みである。イレーヌは姿勢よく座り、手持ち無沙汰な時間に於いても、優雅さを失うことなく貴族としての雅を体現していた。一方、ラディゲはイレーヌを見倣い姿勢よく座っていたが、どこか落着きがないように見え、今この状況を画師たちがカンバスに描けば姫と御つきの者と表現するに違いない。人が醸し出す雰囲気やオーラのようなものは付け焼刃で身につくものではない、という事であろう。
一刻程の時間をおいてモラヴィア辺境伯が二人の前に現れた。イレーヌを見た辺境伯は「ダンヴェール伯は美しいとは聞いていたが、予想以上の美しさだな。是非ともここにずっと滞在して欲しいものだ」と父君と血が争えないような事を思わず考えてしまった。
イレーヌとラディゲは起立し深々と首を垂れた。
「お目にかかれて光栄です。モラヴィア辺境伯」
「こちらこそ、ダンヴェール伯にラディゲ伯、お会いでき嬉しく思います」
「早速ですが、ご依頼の件につきまして、お話を聞きたく存じます」
「そんなに慌てる事はないと思いますよ、ダンヴェール伯。少し早いですが夕餉の準備が整っています。そこで話を詰めましょう」
貴族の世界において会食をしながら重要な会議をすることは別に珍しいことではない。ただ白熱した議論はご法度である。そこは嫌でも感情的にならず優雅にこなす事がこの世界の礼節にあった行動となる。また金属の食器を所有することが出来るのは、経済的に恵まれた貴族の特権である。しかし貴族である以上、他人が見て不快にならない程度のマナーを身につけていることは必須であり、それが出来ていない者は完全に笑い者にされ、蔑まれてしまう。
イレーヌもラディゲもその程度のマナーは身に付けてはいた。
ただ、ラディゲはモラヴィア辺境伯が吸血鬼の件を話しをさっさとするものだと思っていた。しかし辺境伯は最近手に入れたワインやグイチャルディーニ伯産シードル、趣味であるキツネ狩りの話をするばかりで、一向に吸血鬼事件の事を話す素振りを見せない。ちらりとイレーヌの方を見やると、彼女は特に気にした様子もなく辺境伯の話に聞き入り、時に質問し受け答えしている。貴族の優雅さに無縁であることを自覚しているラディゲはここは彼女に任していた方が良いと思い、食事を楽しむことにした。
メインディッシュの皿が下げられ、歓談の話題がひとつ終わった。少し疲れた喉を潤す食後酒としてグイチャルディーニ伯で造られたシードル、林檎が不作で価格が高騰しているシードルが配膳されまで吸血鬼の話は出なかった。
「ダンヴェール伯、ラディゲ伯、今からお話することは他言無用で願います」
辺境伯は右手にシードルの入った杯を持ったまま話はじめた。
「事の起こりは今からニ月いや三月前になりますかな。若い給仕の一人が何者かによって、この邸宅内で殺されました。喉を欠き切られており、医術師によると体には血が殆ど残っていないと言う事でした。これは医術師に言って伏せさせています。当然、犯人は不明です。邸内の警備を強化した為なのか、その後は何もありません。事件前後で見知らぬ少女を見たと言うものが数人います。そしてこれは給仕たちから聞いたのですが、この界隈でも見知らぬ少女を見たという話があり、ちょっとした幽霊話として噂になっているそうです。人死の話は聞いてませんが、神隠しにあった話はあるようです。領内であまり良くない噂が広がるのは気分の良いものではありません。それで僧会の方々に助力を求めたと言う訳です」
辺境伯邸は広い上に人の出入りはそれなりにある。領主であるモラヴィア辺境伯コンラードは身近な人物以外ほとんど自邸で働く人の顔を知らない。さらに自邸であっても自分に関わらない場所には関心をそれ程持たない。その為、人死があってもあまり身近に感じなかったのである。
辺境伯はシードルを一口飲み干し、喉を潤した。
「辺境伯、見知らぬ少女の特徴とか分かりますか」
イレーヌがモラヴィア辺境伯に尋ねると、彼は、
「わたしは判りかねますので、実際見た給仕を明日午後のお茶会の後にでもお伺いさせます」
貴族の世界では夕餉の会食時に、給仕と関係ない者を呼ぶことは無礼に当たるので、それは絶対に実施することはない。また午前中に用事を行うことは失礼と言う訳はないが、好ましい行為とされておらず、辺境伯はそう答えたのである。
「辺境伯、感謝します」
モラヴィア辺境伯はイレーヌの言葉に肯き、再び自分の趣味であるキツネ狩りの話をはじめた。
ラディゲは「貴族の世界とは、何ともまどろっこいものだ」と思いながら、見知らぬ果実を一切れ頬ばり、舌触りの良い高価なシードルで流し込んだ。
※
「給仕殿、忙しいところ申し訳ない。早速だが、事件の日前後で見たと言う見知らぬ少女の事を話して欲しい」
イレーヌは一礼もすることなく、いきなり女給に問いかけた。
「はい、伯爵様」
給女給は恭しくイレーヌとラディゲに礼をした後、話しはじめた。
「事件のあった前日です。夕餉の準備をしている時でした。何の材料かは忘れましたが、足らなくなった食材を取りに貯蔵庫に向かう途中で、その少女を見ました。最初は新しい女給でも入ったのかと思いました。よく見ると、服装がこのお屋敷の物ではなく、みすぼらしくて、不思議に思いました」
「給仕殿、背格好や顔は覚えておるか?」
「申し訳ございません。あまりはっきりと覚えておりません。わたくしより背は低かったと思います。顔は……、そうです。そうです。あの時、その少女はわたくしを見て笑い掛けました。笑った顔がとても幼く感じました」
イレーヌは不安気な表情になった。何となくその少女がラウラではないかと感じたからであった。しかし、この情報だけでラウラと断言することは出来ない。出来れば、そう願いたいと思う。
「時に給仕殿、この周辺でも見知らぬ少女が出没する噂があるそうだが、ここで見た少女と同一人物であるのか?」
「伯爵様、申し訳ございません。わたくしには判りかねます。ただ少女の噂はこの周辺では、知らない者がいない程有名です」
「少女の正体については、皆何と言っている?」
「幽霊はないかと、言っております」
「どこで見られることが多い」
女給は少し考え込んでから、
「あまり場所は関係ないと思います」
イレーヌはその言葉を聞き、たっぷり考え込んでから、
「給仕殿、神隠しのことはご存知か?」
「はい、聞いたことはございますが、この少女と関係あるのですか?」
イレーヌは無言で女給を制した。
女給は自分が伯爵であるイレーヌの気分を害したのではとなり、慌てて頭を下げた。美しい顔で威圧されると必要以上に恐れ多くなるのは仕方がないことかもしれない。
「伯爵様、誠に申し訳ございません」
「給仕殿、感謝を。もう下がってよい」
「伯爵様、それでは失礼します」
女給はイレーヌとラディゲに深々と礼をして退室した。
それから数人、件の少女を見たと言う人物に話を聞いたが、先に聞いた話以上のことは知る事は出来なかった。
「ラディゲ伯、事件前後見たと言う少女とこの周辺を賑わしている少女が同一人物だと思うか?」
「勘になりますが、同一人物だと思います」
「伯もやはりそう思うか……」
イレーヌはこの状況を見て、この辺境伯邸に居ても件の少女に会えるとは考え難い。ここは町に下りるべきではないかと。ただペトラルカからは吸血鬼の可能性を含んでいることから、出来得る限り内密しろと厳命されている。町で行動するには大義名分を考えなければならない。
「何とも難しい問題を抱えてしまった」とイレーヌとラディゲは頭を抱えることとなった。
数日後。
イレーとラディゲは個人的な想いを一旦頭から締め出し、二人が考え抜いた案と言うのは意外にも見知らぬ少女について調査していることを公表して町に下りる事であった。ただし、吸血鬼の調査でなく幽霊少女の調査としてである。そしてイレーヌをラディゲと同じ親衛隊の剣士としたのだ。
その理由として一番に上られるのが、下手に隠し立てして、妙な勘繰りを受け要らぬ尾びれ背びれがついた噂が立つことである。噂が噂を呼び、それが吸血鬼の事として広がると混乱を収拾するには骨が折れる。さらにペトラルカは吸血鬼の噂が広がるのを諫めたのであって、幽霊騒動ではない。事実、妖魔である吸血鬼は現実の恐怖であるが、幽霊であればその恐怖は現実味にかけるのも実際のところ多分にある。さらにイレーヌが混血であることを伏せたのである。これはこの領地がゲルマニア国教が混血を妖魔と見做している事への影響を少なからず受けている配慮からであった。
ただ今回イレーヌもラディゲも親衛隊、貴族である意匠となる紋章となるもの持ち合わせていない。そこでモラヴィア辺境伯プシェミスル家にその家紋の使用を求めたのである。
辺境伯は彼らの進言に一言で了承した。
本来なら、他の貴族の紋章を使用することなど余程ことがない限りあり得ないが、領民は貴族文化に疎い。イレーヌたちはそこは気付かれる事はないと踏んだのであった。そして、もし気付いた者がいれば「モラヴィア辺境伯の依頼だからだ」とすっとぼける事にした。それだけでなく、万全を期す為に剛力であるボッテギアに辺境伯の使用人と同じ服装をさせたのだった。
結果から言うと、この判断は正しかった。
もし下手に隠し立てしたなら、要らぬ噂が立っていた。吸血鬼と思われる事件については上手く箝口令が利いた。そこは人命に係わった事、人は自分に火の粉がかぶることは従順になるが、そうでない時は人は噂好きな存在である。その要因となったのはイーレヌの容姿だった。やたら綺麗な女剣士がモラヴィア辺境伯邸に居ると言う噂が辺境伯邸を中心に周辺へとじわじわと広がったのである。そんな状況で目立つ容姿のイレーヌが身分を隠してコソコソと隠密行動を取れば、何かあると勘ぐられるのは人の常である。
人は無責任な事が出来る状態になると「人の口に戸は立てられぬ」そういう諺ような事を平気ですると覚えていて損はないだろう。




