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Le Diable au sang et corps 3-a

【3e-a Chapitre】


 トゥッリタ公国東方にある領地、モラヴィア辺境伯領。旧宗主はラティーナ帝国。そこは()()()()()()()に接し、文化的にもトゥッリタ公国のロマンス語文化より、ゲルマニア語文化圏の影響を受けている土地柄である。その地を治めるモラヴィア辺境伯コンラード・プシェミスルから僧会の事実上の支配者である首席枢機卿、ボナパルト猊下に一通の書簡が届けられた。トゥッリタ公国の権力構造は公王家、僧会、貴族院と三分散しており、表向きは友好関係を築いているが、一皮剥き本音を覗けば敵意むき出しの関係である。そんな貴族院の配下である諸侯から、何の前触れもなく書簡が直接首席枢機卿に届く事は異例な事であった。一般には地元教会を通して書簡が送られるのである。このような行為は直訴と見られ、貴族として相応しい振舞いとされていない。

 ボナパルト猊下はモラヴィア辺境伯コンラードから送られた書簡筒を手に取った。諸侯らしく無駄に派手な書簡筒で封蝋にはプシェミスル家の紋章である翼を広げた鷲が刻印されていた。ボナパルト猊下は卓上に飾ってあったクロスの、それはボナパルト家の紋章を刻んだ、真鍮のペーパーナイフを取り、封蝋をプシェミスル家の紋章を出来るだけ傷つけぬようにそっと剥した。例え心の底では虫の好かぬ連中であろうとも、僧会の首席に座る者として、どんな時でも礼節を欠く事を許されない。家紋を傷つける事は、その氏族を侮辱するに等しい。例えこの(のち)、この封蝋が処分されるとしても、蝋に溶かされて新たな命を吹き込まれるにしてもだ。

 ボナパルト猊下は書簡筒から書簡を取り出し、丸まった書簡を広げだ。筆師が書いたラティーナ文字は清流が流れるように澱みなく、そして美しい。それは一つの芸術の域まで達していると言って過言ではない。素晴らしいものであった。ボナパルト猊下は筆師の技量にいたく感心した。とは言え感心ばかりしていられない。美しい文字を目で追い、モラヴィア辺境伯が何を自分に要求するのかを検分する必要があった。文字を追っていく度、ボナパルト猊下の眉間の皺が深くなっていく。読み終えた時には、猊下はどうしたものかという表情をしながら首を二度ほど振った。そしてその内容だが、吸血鬼の仕業としか思えない人死にが出たので調査して欲しいというものだった。ただ犠牲者は一名で、その後被害は全くないとの事。緊急ではないにしろ、無視する事はできない要件であった。

 通常なら教会の司教からこの手の依頼は来るのだが、恐らく吸血鬼の牙に掛かったのが、プシェミスル家の関係者の者だったに違いない。モラヴィア辺境伯領内の動揺を抑える為に、このような形で調査を依頼してきのだろう。ボナパルト猊下は守衛を呼びつけ、ペトラルカをすぐにここに出頭するよう伝えた。現在ペトラルカはここサンピエール教会に滞在しているので、すぐにここに来るはずだ。猊下の読み通り一刻(約十五分)も経過することなく、ペトラルカは首席枢機卿の部屋のドアをノックした。

「猊下、何かお急ぎのご要件でしょうか」

 以前のようにペトラルカはボナパルト猊下の前で緊張することはなくなったが、それでも苦手意識が完全に抜けきった訳ではなかった。

「ペトラルカ卿、これを読み給え」

 ペトラルカはボナパルト猊下からモラヴィア辺境伯の書簡を受け取り、ボナパルト猊下のように文字の美しさを堪能することなく、事務的に文章を追っていった。読み終えて顔を上げた時、猊下から、

(けい)はどう思う」

 と問い掛けられた。その意味は、モラヴィア辺境伯の政治的意図の有無と吸血鬼の調査についてである。ペトラルカはその意味を瞬時に理解した。だが、政治的な根回し的な裏作業が性に合わず出来得る限り避けて通りたいと言うのが本音である。彼の愚直までの真っ直ぐな正義感では政治世界の魑魅魍魎の類を相手にするには荷が重過ぎるのである。人としてこの好ましい性格であるが、彼のこの組織内での立場を鑑みるとそれは間違いなく欠点であった。

「猊下、ごく少数の調査隊を派遣してはどうでしょうか」

大事(だいじ)にするなと、卿は申すのか」

 ペトラルカは黙って肯いた。

「で、吸血鬼の話が本当だとして、卿はどうする」

「その時は改めて隊を組めばよいのではないでしょうか」

 ペトラルカは即答した。

「ゲルマニア帝国の影響の強い土地柄、枢機院(*)の連中はどうでるか……」

(*)…ここでは枢機院および長老会の反ボナパルト派を指す

 ゲルマニア帝国および西ゲルマニア帝国の国教はトゥッリタ公国の国教と同じ宗派、旧教保守派である。ただし仔細というには大きな相違点がある。それは吸血鬼と人の混血の解釈についてである。ゲルマニア帝国および西ゲルマニア帝国の国教では妖魔の血が少しでも含めば、それだけで妖魔として見做す。一方トゥッリタ国教では、勿論表向きの理由ではあるが、混血は人を愛する心があるのだから人であると、そう解釈している。トゥッリタ公国に併合されたとは言えども、モラヴィア辺境伯領は長らくゲルマニア国教の強い影響を受けてきた土地柄。そこへ混血の剣士を向かわせるのは要らぬ混乱を招く危険性は孕んでいる。軽率の極みだと謗られ、首席枢機卿の座を狙う輩に攻撃を許す口実を与えてしまう。ボナパルト猊下はそれが面白くないのだ。

 ボナパルト猊下は下顎を左手で触りながら、

「ペトラルカ卿、調査隊の人選の充てはあるのか?」

「はい、猊下。近衛隊のピエール・ジョゼフ・カンボン伯がディオメーデースの馬狩りからが戻っています。彼に行ってもらいましょう。それと親衛隊からは一名、ラトゥール教会に滞在しているコジモ・トゥーラ卿を。彼は吸血鬼に精通しており、この二名なら、今回の調査には適任かと」

 ボナパルト猊下は下顎を触っていた左手に机の上に拳を作り置き考えを巡らした。「ノヴィス公がボマルツォの森で行方知れずになったと聞く。彼女の弟、マルティニ候が姉の行方を捜していると言うが、まさか吸血鬼に殺されたのではあるまいか……

 猊下は思考したことをそのまま口にした。

「時に、ペトラルカ卿。ノヴィス公の件だが、吸血鬼に討たれたとは考えられぬか?」

 ペトラルカは「ノヴィス公」と聞き思わず右手を力を入れて握り、次の瞬間全身が一瞬固まってしまったように思えた。少し息を吐き肩の力を抜き、強張った体幹の緊張を解いた。

「マルティニ候からの書簡ではノヴィス公が行方不明になったとあっただけで、それ以外は何も書かれておりません。今の段階では何とも言えないのが現状です」

「結論を出すは時期早々と言うわけじゃな……」

 そしてボナパルト猊下はやや声を潜め、

「卿は近衛隊の連中(**)は、このノヴィス公の件をどう見ておると考える?」

 (**)……ここでは公王家の事を指す

 ペトラルカは少し視線を落とし、頭の中の情報を整理した。

「今の処はマルティニ候からの情報待ちですが、もしノヴィス公に何かあった場合、ボマルツォの森の交易を優先し、近衛隊が妖魔狩りや戦場から手を引く可能性が考えられます。フェンリル討伐時に、シャレット候をはじめ多くの近衛隊の主要人物を失い、手持ちの剣士も少なくなっております。ここに来て、救国の英雄であり、森の交易者であるノヴィス公を失なう事は、現在の近衛隊、親衛隊、義勇軍の関係を崩す可能性を含みます」

「ペトラルカ卿、今後の展開について卿の意見が聞きたい、無論、胸を内に秘めて明かさぬ誓う。どうかのう……」

 ペトラルカは固くを唇を閉じ、ボナパルト猊下の眼をしっかりと見据えた。それからまた視線を一度落とし、再びボナパルト猊下の眼を見据え、口を開いた。

「私見ではありますが、この先、義勇軍(***)の勢力は拡大すると思われます。我々親衛隊、近衛隊も人材の確保が年々難しくなっております。少数精鋭の部隊と言えば聞こえは良いですが、数の力には敵いません。それにボマルツォの森の交易を独占する公王家に対する各諸侯の反感も相当なものと聞き及んでおります。それ以上は下名の口からは……」

(***)……ここでは貴族院、即ち各諸侯の勢力を指す

 ペトラルカ卿が言い淀んだのを見て、ボナパルト猊下は一度大きく頷いて、ペトラルカ卿の言葉を遮った。ペトラウカの言葉を聞き、猊下は公王家も僧会も近衛隊と親衛隊の剣士を使い捨ての駒として扱ってきた事実を認めざる負えなかったが、それを口にする程善人ではなかった。親衛隊を管轄している僧会、その最高機関である枢機院は、宗教上、信仰を導く立場にあり、多くの人々から敬われ信頼と尊敬を集める立ち位置にいる。それは権威という輝かしい王冠を頭上に戴いていると言っても過言ではない。そして武力の象徴、それは権力を体現する軍隊にそれ程重点を置かずとも、その地位を、権威の冠を固守することが可能となるのである。その結果がボナパルト猊下の先の心で呟いた言葉を引き出すこととなるのである。

「余計な事を聞いたな、卿よ、すまなかった」

 それから先程の事など何もなかったような顔をしながらボナパルト猊下は、

「ペトラルカ卿、調査の件と調査隊の人選は卿に一任する。もしも時の為に隊の編成は準備しておくように」

「はい、調査の件と調査隊の人選は承知致しました。また、隊編成については次トゥリディまでに素案を提出させて頂きます」

 ボナパルト猊下は満足そうに肯いた後、眼でペトラルカに退室するように促した。その空気を察したペトラルカは、

「それでは、猊下、失礼致します」

 大きく腰を折り礼をした後、部屋を出た。

 

 もう気持ちの整理も付き、あの想いは最早思い出でしかなくなった今、ノヴィス公の事が話題になった時、思った以上に動揺した自分にペトラルカは驚いてしまった。かつて愛した女性(ひと)は、思えば、どことなくおっとりしていて、こちらが何かしてあげないと、そういう気持ちにさせる不思議な人だった。救国の英雄として知られる彼女の素顔は意外にも普通の女性というよりあか抜けない少女だった。彼女が自分の想いを拒み背を向けた、その棘のような思い出はペトラルカの失恋の痛手となったが、彼を他の女性に目を向けさない訳でなかった。だが、意外にもペトラルカは未だ独身である。親衛隊の出世頭であるペトラルカには多くの権門が注目し当然のことながら、婚姻により親衛隊つまり僧会への影響力を持つ事を画策する者が多く現れる。しかし、ペトラルカは婚姻の話は全て断ってしまった。それからと言うもの、ペトラルカは孤高の剣士として見られるようになったのである。本人としては言い寄ってくる女性には興味を持てなかっただけでなく、政治的な駆引きが苦手なペトラルカには政略結婚丸出しの連中は全く相手にしたくなかったのである。

 それはそれとして、彼もごく一般的な健康な男性である、魅力的な女性に惹かれるのは当然の事だった。そんな彼が最後の最後で婚姻を結ぶ事を拒んだのは、彼の置かれた立場から出た感情だった。親衛隊の最前線で闘う剣士であるペトラルカは、多くの同胞の死を目の当たりにしてきた。彼らの中には妻子を残し逝った者も多い。それは愛する人を失い悲嘆にくれた家族を多く見てきたことでもある。

「もし自分が結婚して、その後逝ってしまったら、残された愛する人を悲しみのどん底に自らの手で堕としてしまう」死と隣り合わせの親衛隊の剣士であり続ける限り、その負の思いから逃れる事は出来ない。ペトラルカはもし自分が伴侶を得るとするなら、それは剣を置いたからの事だと、思い込んでいた。彼がそう考える背景の一つに、旧ラッティーナ帝国内では、男性と女性の年齢差が大きい婚姻(男性が上)が珍しい事ではないと言う事情があったからだ。

 気が付けば、懺悔室の前にいた。アリギエーリ工房で制作された地獄画が懺悔室の扉の横に飾られてあった。何度見ても、胸に込み上げてくる不快感。その不快感が年齢を重ねる度に変化していることにペトラルカは気付いていた。初めて見た頃は、画に描かれたその状況に、咎人を喰らう悪魔に不快感を感じていたが、徐々に泣き叫び恐怖に慄く咎人の方に目が向くようになっていった。

 彼らは何故に罪を犯したのか?

 そもそも彼らは咎人となるべく咎人となったのか?

 それとも誰かの手で咎人に堕とされたのか?

 神は彼らをお見捨てになったのか?

 画面の印象から受ける様々なイメージがペトラルカの深層にある様々な思いを呼び起こし、彼にその思いを自覚させる。特に「神は彼らをお見捨てになったのか?」という考えは彼の信仰を揺るがしかねないものだった。それは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のではないかというものだった。ペトラルカ自身その事には気付いてはいなかったが、無意識が支配する世界の中でその根を下ろすのだった。

 ペトラルカは懺悔室を抜け、自分の執務室に向かったが、もう少し歩きながら考え事をしたくなり、中庭へと歩を進めた。中庭に出ると、ペトラルカは空を見上げた。教会の建物に囲まれた雲一つない澄み切った蒼い空が今自分がいる境遇と余りにかけ離れている事を知らしめているようだった。ペトラルカは思わず苦笑した。

 歴史を感じさせる石畳をゆっくりと歩き、中庭の中央にポツンと建つ小さなオベリスクの許へ向かった。オベリスクの許までペトラルカが行くと、オベリスクの台座に飾られている獅子と鷲の彫刻を眺めた。獅子は台座をその体で支え、鷲は獅子を護るように翼を広げている。オベリスクを支え護るという彼らの姿はどこか神々しく、このトゥッリタ公国を支え護る人間たちが他人の心を読み合い落とし合う姿とは、同じ空の(もと)にいるはずなのに、まるで別世界にいるように感じさせた。その思いはペトラルカが世と言う大きな潮流の前ではいかに自分が無力であるかという現実を突けつた。

 ペトラルカは負の感情を追い出すように息を吐く。だが、纏わりつくような感覚が心の中に残り、そしてそれはボナパルト猊下の(ことば)を呼び起こさせた。

「まさか吸血鬼に殺されたのではあるまいか……」

 ペトラルカは奥歯を噛んだ。半世紀近く前の事ではあるが、今もって彼女の母親、モントルイユ候が吸血鬼の牙で命を落としたことは剣士の間では有名な話だ。

「まさか同じ吸血鬼の牙に罹ったのだろうか……」ペトラルカは頭を小さく振って、自分の考えを否定した。

「ノヴィス公の事はまだ判らない事が多い。悲観的な事ばかり考えても仕方がない。今はノヴィス公の無事を祈ろう」ペトラウカはやっと心を負の感情から前向きな感情に切り替える事ができた。ペトラルカはそれを体現する為に、礼拝堂へと歩きはじめた。


 今日は礼拝堂は一般公開日ではなかった為、礼拝堂には人は誰一人おらず静寂が、その張り詰めたような緊張感を伴った荘厳な静けさは、ペトラルカの全身を覆い足音さえ立てることさえを憚られた。ペトラルカは足音をたてぬようにゆっくりと祭壇に向かった。祭壇の前まで来ると足を止め、礼拝堂の祭壇に飾られたブオニンセーニャのマエスタを模した聖母子像を見上げた。聖母に抱かれた神の子はあまりに荘厳であり、人の世界とはかけ離れたようにペトラルカは思えた。そしてアリギエーリの地獄画、そこで苦しむ人たちを神が見捨てたのではないかという思いが再びペトラルカの中に沸き起こり、それからノヴィス公の少し困ったようなはにかんだ笑顔が、愛しくてもう手の届かない笑顔が思い浮んだ。この先どんなに年を取り老いたとしても色褪せることない笑顔が。

「彼女が何の罪を犯したのだろう……、彼女が混血に生まれたのは、彼女の罪ではないはずだ。優しく屈託のない笑顔をする彼女だから、神は必ず彼女をお救いなる」ペトラルカは目を閉じ、十字を切った。ペトラルカの祈りは、かつての恋の思い出を美化するという人の普遍的とも言える感覚、つまり独善的な色を含んだ。そしてペトラルカの思考から意図的に排除された一つの存在しうる仮定「もし彼女を神がお救いになられなかったなら……」それは先ほど感じたアリギエーリの地獄画からの感情と同じく、ペトラルカの信仰の根源を揺るがしかねないものだった。そんなペトラルカではあったが、彼の心の芯まで絡みついた神への信仰心を脅かし、心を狂わせる程の力がまだまだ足りなかった。

 ペトラルカは一刻ほど熱心に神に祈った。ノヴィス公の笑顔をもう一度見れるようにと。


 翌日。

 ペトラルカは起床後、身支度を整えると一息付く暇もなく礼拝堂に向かった。同じ様に朝の礼拝を行う者は非常に多い。サンピエール教会は日によっては一般公開しており、今日はその日にあたる。ぐずぐずしていていると礼拝に来た一般教徒の洪水に呑まれかねないのである。この教会に居てそのような事に巻き込まれるのは、自身を律することが出来ないと宣伝しているのと変わりなく、只の恥以外何ものでもない。ペトラルカは朝の礼拝を終えると、教会の食堂で簡単な朝食を済ました。それから真っ直ぐに自身の執務室に向かった。

 ペトラルカが書類の作成に精を出している時、教会の事務局員からペトラルカの許に請願書が届いた。請願書の表面には「Vicomte Pétrarque Francesco」と流れような美しい筆記体で書かれた文字があった。裏面を見ると「Comte d'Anvers Irène」と素っ気無く書かれていた。表面の流れるような文字も、裏面の素っ気ない差出人の名も、ダンヴェール伯の性格を表しているようだった。混血特有の向かい合う鷲に剣の、拍爵を爵位を示す三本の剣が意匠されている、紋章が刻印された蜜蠟で封蝋された書を開けると、はやり流れるように綺麗な文字をしたためた書があった。内容は、モラヴィア辺境伯領の吸血鬼調査について、その任を自分に命じて欲しいというものであった。その意図は解らないが、もしかしたらノヴィス公の失踪に関係してるのかもしれない。そして、ペトラルカはモラヴィア辺境伯領の吸血鬼にまつわる情報が漏洩している事に懸念を抱いた。確かに、この件は秘匿として事務局から通達はされてはいない。事は妖魔、最も注意すべき妖魔である吸血鬼である。あらぬ噂が広まっては後始末に骨を折ることになる。また情報の錯綜は事実を見逃す事を助長する。それは避けたいものである。こんなにも簡単に秘匿レベルの重要な情報が広まるとは、今親衛隊、引いては僧会はその盤石と思えた基盤が崩れかけているのかも知れない。ペトラルカはそのような思いを抱いたが、一度頭を軽く振って否定した。「考え過ぎだ」と。

 ペトラルカとイレーヌはフェンリル討伐以後、何度も顔を合わしている旧知の仲である。ただ公私混同のない関係である為、互いに私生活の事は全く知らなかった。ただペトラルカは立場上イレーヌの人間関係をある程度把握はしていたが…… そしてこの書簡、口頭での依頼でなく文章での依頼。顔見知りの依頼でなく、近衛隊の剣士としての正式な依頼を意味している。

 ぺトラルカはダンヴェール伯が自分に対して、このような嘆願を書くということは余程の決意があったのだろうと推測した。そしてその思いを、この嘆願を受けるべきか思いを巡らした。個人的には、この彼女の想いは無条件に受け入れ叶えさせてあげたいのだが、立場上そうはいかない。現在、公国と外交紛争を起こしている国はない。ただ紛争の種となる問題は、主力騎馬隊が行っているヒスパーナの防衛など五万とある。だがそれを言い出したきりがないので、一旦据え置く。そして妖魔に関しては、ここ数年、際立った妖魔は出現していない。最近では、ディオメーデースの馬が出現した程度だ。この妖魔はピエール・ジョゼフ・カンボン伯を中心とした討伐隊に特に人死もなく狩られている。また吸血鬼の被害についてはここ十年ほどは全くなかった。その十年前の吸血鬼の事件も実際に吸血鬼の存在を確認したわけでなく、ミラーカではないかと推測された程度だった。その後は全く被害報告はなし。

「そもそも吸血鬼という妖魔について我々は何を知っているのだろう……」ペトラルカは頭の中で、この言葉が思い浮かんできて、思考を一旦停止させた。これまで疑問に思った事は何度かあった「吸血鬼とは」という根本的な疑問について取留めのない思考の海に落ちていった。


 吸血鬼についての正式な文献、公文書は意外にも少ない。吸血鬼に関する風聞のほとんどが根拠のないものか想像の産物ばかりだ。例えば、流れる水を渡れない。讃美歌を聞くと身体が硬直する等がある。これらは実際に吸血鬼に見た者、吸血鬼狩りに赴いた剣士たちからはそのような証言は得られていない。妖魔狩りについて情報収集、妖魔を刈る上での対策、作戦を立案する枢機院剣術科からの正式な情報では、吸血鬼の容姿は人間とは全く変わりなく、化け物のような醜い顔をしているわけでもない。外見上の証拠としては犬歯が長いことが挙げられるが、これは吸血鬼の特徴としての必要条件であるものの、十分条件となり得ない為、決定的な証拠とはならない。また吸血をするが、それ以外の食べ物も平気で食する。そして運動能力に至っては人間には足元に及ばない程優れている。一番吸血鬼の特徴として理解しやすいのは条件が整わないと死ぬ事がないのである。「頸を刎ねる」「心臓を潰す」現在この二通りのやり方が吸血鬼に死をもたらす方法だとされている。もしかしたら他にも吸血鬼を殺す方法があるのかもしれないが、もしあるとするならば、いずれ誰かが発見するだろう。後、完全に剣術科が認知したわけではないが、「吸血鬼は言葉を話さない」というものである。そして吸血鬼のイメージとして冷たい雰囲気があり無表情と言うのものあるが、それは完全な誤謬であり、実際の吸血鬼は意外にも言葉を話さない為だろうか、表情が豊かということだ。そして最大の問題が、吸血鬼狩りを行ったとしても、フェンリル討伐と同じ様に返り討ちに合う事が非常に多い。それくらい吸血鬼狩りは厄介な闘いであると言う事である。


 ペトラルカは再び手にした請願書を見た。今自分はボナパルト猊下から今回の吸血鬼調査隊の人選を委任されている。そしてボナパルト猊下から聞かされた僧会の現状、それは自分から遠くの位置にあって自分とは無縁であってほしい政治的な見解、そしてもしダンヴェール伯が吸血鬼の牙に斃れた場合に起こる近衛隊、親衛隊、義勇軍、三者の力関係の行方を考慮である。ダンヴェール伯が斃れた事など考えたくないが、そんな事は言えない立場であるのも事実。そのダンヴェール伯であるが、親衛隊上層部には高く評価されているのだが、近衛隊上層部に正しく評価されているかと言えば、そう言えないのが現実であった。一流の剣術、モントルイユの剣を有しながら、その先に行くラウラ、シモーネの姉弟に剣捌きは及ばす、剣豪のシャレット候のような派手さがない。最も不幸なのは、美しく素晴らしい剣捌きをしているにも関わらず、どうしても彼女の美貌が多くの人の目を眩ませてしまい、剣術の方の評価を相対的に落としてしまうのである。しかし、堅実に相手を仕留めていくその手腕は、戦場で最も相手にしたくない剣士ではある。残念ながら、それは戦場での事であって、宮廷から出る事のない優雅な人たちの耳を心地よくするものではない為、どうしても彼女の活躍は軽んじられる。

 もし戦場で彼女に背中を預けることがあれば、彼女の能力の素晴さをとくと理解することになるだろう。そして何といっても戦術眼は一目置くものがある。戦場で勝利するにしろ敗北するにしろ彼女の動きは味方の兵の生存率を上げる。派手な活躍でない故に、近衛隊上層部に上梓する報告書に埋もれやすい事柄だ。上梓されず埋もれている真の力を一番見抜くは前線の兵士であり、その信頼は近衛隊上層部が考える以上に厚い。先のヘルヴェティア王国との会戦、第二次ベルン門会戦に於いてもダンヴェール伯が居たからこそ、あの突撃作戦を実行したのだ。まさかヘルヴェティア軍が味方の剣士ごとダンヴェール伯たちを射る事までは予想だにしなかったが……

 何より第一次ベルン門会戦でもし彼女が居なかったなら、痛み分けまでに挽回出来ただろうか?

 この時、ペトラルカは敵密集集団戦において楯を持つ左側側は鉄壁の防御を誇れるが、右側面、剣を持つ側は防御力が弱いと見抜いた。しかしそれが的確な判断であったとしても実践しなければ、只の机上の空論である。ペトラルカの考えを机上の空論ではなく実戦の域まで昇華させたのがダンヴェール伯だった。敗色濃厚、密集集団戦では手も足も出ず、ただ敗走を防ぐのが精一杯の状況下で、ペトラルカはダンヴェール伯に敵右側面が弱点だと言っただけで、彼女は一瞬考えた後、合点がいったと言わんばかりに頷き、兵を連れて右側面に向かい、そのまま敵を蹴散らすと直に撤退した。それから一撃即離脱を繰り返したのである。その為敵は正面に集中することが出来なくなり、トゥッリタ軍の反撃を許す結果になったのだ。

 ダンヴェール伯の一撃離脱の戦術は実に巧妙で、下手に敵陣に浸透し集団密集戦になってしまえば、彼女の得意とするモントルイユの剣、細く長い剣を振り回す剣術、の有効性を失ってしまう。それを未然に防いだ戦術だった。この状況を知った時、ペトラルカはダンヴェール伯がこの戦場に居てくれて、本当に良かったと神に感謝せずにいられなかったほどである。そして、第二次ベルン門会戦も同様にトゥッリタ軍をここまでの勝利を得る事が出来ただろうか。それは間違いなく「否」だ。そんな彼女がいなくなったなら……

 そしてそれだけでない。考えたくはないが、その吸血鬼が、もし転化したノヴィス公だったとしたら……

 ペトラルカはここで思考を止めた。これ以上考える事がどこか恐ろしく感じたのだ。そしてペトラルカは思考を調査依頼に戻すことにした。吸血鬼の調査とは言え吸血鬼に邂逅した場合、失礼な言いようだが中途半端レベルの剣士では無駄に人死を出すことになるまいか。「未知の敵には、最大の戦力で当たれ」兵法の基本でもある。ピエール・ジョゼフ・カンボン伯の腕を信用していない訳ではない。だがダンヴェール伯が自身の意思で調査したいと言うのであれば、彼女に任せた方が予期せぬ多くの危険を未然に防ぐことが出来るのではないだろうか……

 ペトラルカの考えはダンヴェール伯に今回の吸血鬼調査を任せる方向に傾いていった。


 ペトラルカは調査隊にイレーヌ・ダンヴェール伯とコジモ・トゥーラ子爵の二名に仮内定として事務局に届けた。後は正式な辞令を出すだけとなった。僧会の慣習として、正式な辞令を後日変更することを嫌う。その為、一度内定を出し、言葉は悪いが様子見をするのである。はっきり言って無駄の極地である。しかし慣習を変える多大な労力を掛けるより慣習に流された方が楽なので、ペトラルカは無駄とは感じてはいたが、人事の本質を揺るがすものではないと特に気にも留めていなかった。

 加えてペトラルカは、もし今回の調査で吸血鬼の存在が確認できた時に備えて、吸血鬼討伐隊の編成も行っていた。数年前のフェンリル討伐隊のような名のある剣士を集めることは出来そうにはない。救国の英雄、ノヴィス公は行方不明、剣豪のシャレット候も怪我で剣士として道を捨て全くその身を世間に晒すことがない。またマルティニ候は姉であるノヴィス公を捜しているらしく連絡が上手くとれない。当然の事だが、調査隊に参加するイレーヌ・ダンヴェール伯とトゥーラ卿は討伐隊に加わって貰う事になる。そうなると、小隊を組む親衛隊の剣士との連携等の訓練が出来ないままである。吸血鬼相手に連携不足の状態では彼女の実力を、彼女の足を引っ張ることにならないか? それは、やはりあまりもの危険だ。その考えは、再びダンヴェール伯を失うかもしれない恐怖を呼び起こし、そしてその後に勃発するかもしれない公王家、僧会、貴族院との覇権争い。とは言え、彼女の力は今編成には必要不可欠だ。

 ペトラルカはうんざりしながら編成表の氏名欄を埋めはじめた。予備兵力と書いた欄に、イレーヌ・ダンヴェール伯の名が記載されていた事をここに書き留めておく。


 ペトラルカは調査隊の準備や討伐隊の編成や下準備をおこないながら、モラヴィア辺境伯領にある教会、ブラン教会に当てて密書を送っていた。ブラン教会の司教、ミルチャⅠはモラヴィア生まれのモラヴィア育ちの、司教になる為にサンピエール教会に修道士として勉学に励んでいた時期はあるが、地元の司教である。ミルチャⅠの彼の人となりは、生真面目で良い意味でも悪い意味でも従順な性格であり、当然の事ととして熱心な旧教徒であった。そんな彼にとって、枢機院首席枢機卿、ボナパルト猊下のサインがある密書は強烈なインパクトがあった。その内容は吸血鬼の被害が発生していないかを極秘裏に調査することだった。何故秘密にしなければならないかは、無用な混乱を避ける為だと明記されていた。ミルチャⅠはその言葉を額面通り受け取り、その言葉を信じて一グラムとも疑いの気持ちを持たなかった。

 もしミルチャⅠが疑り深い性格であったなら、この密書について不自然な点を幾つも見つけ出す事が出来ただろう。密書を送るせよ、書簡を送るにせよ、本来ならボナパルト猊下自身の名で送るのでないか? もし名を伏せるなのあれば、教会関係者の名を使うのが一番問題ないはずである。わざわざ親衛隊の剣士の名を使うということは、教会、引いては枢機院が関係している知られたくないからだ。それは誰に知られたくないのか? 答えはひとつ、教会関係者以外だと。最もトゥッリタ公国の権力構造を理解していれば、さらに答えが絞られる。権力は三本柱、公王家、僧会、貴族院となる。後は簡単な消去法、公王家はこの領地を治めていない。となれば残る選択は貴族院のみ。つまり諸侯、ここではモラヴィア辺境伯コンラード・プシェミスルになる。

 しかしミルチャⅠはそんな政治的思惑など一切関知せず、妖魔の被害が出ていないかを各教会に尋ねたのである。実にシンプル且つ適格な方法であった。各教会からの回答は妖魔の被害なしだった。それを受けてミルチャⅠはペトラルカにその結果を、一応気を使ったのだろう、密書という形で送り出した。その密書を受け取ったペトラルカは、密書の内容を読み確信した。吸血鬼の被害にあったのはプシェミスル家の者だと。ペトラルカは密書を燃やし情報の隠蔽を謀った後、ボナパルト主席枢機卿に報告をする為の面会予約すべく枢機院の事務局に向かった。

 それだけなく、ペトラルカはモラヴィア辺境伯コンラード・プシェミスルに書簡をしたためた。そこに書かれたことは、実に簡潔に、ペトラルカがボナパルト猊下から調査以来の件に対して全権委任された事、調査要員として近衛隊と親衛隊から各一名派遣するという事であった。それ以外の余計な言葉は意図的に排除されていた。ペトラルカがこの書簡をモラヴィア辺境伯に送り届ける為に枢機院の事務局に書簡を納めに行ったその時、事務局から緊急の書信がペトラルカに渡された。その場で封を開け、読み進めるうちにペトラルカは何とも言えない苦い顔になった。信じられないことに、コジモ・トゥーラ子爵が破傷風らしい症状が発症し、病魔の拡散防止の為に現在聖骸布で有名なラトゥール教会の医術局に隔離されたのだ。正式な発令はしていなかったとは言え、当てにしていた人材が思わぬことで使えなくなってしまった。「人選のやり直しだな」と思う反面、トゥーラ卿の回復を祈らずにはいられなかった。病魔で貴重な人的資源を失いたくと言うお家事情だけでなく、純粋に仲間を思う心から出た優しい心の顕われだった。そしてペトラルカはトゥーラ卿の後任を誰にするかという難題に突き当たるのだった。

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