第207話
遅いですよね……すみません……
視界を埋める大きな水面。程よい蒸気の上がるそれは巨大な浴場であった。
立ち昇る湯気しか見えないほどの高い天井。切りそろえられたタイルが綺麗に敷かれた洗い場。連なる形で配置された区切られた湯船にはぶくぶくと泡立っているものや真っ白で底が見えないものまであった。
そんな小綺麗な浴槽エリアから一転、奥には丁寧に削られた大中小の岩で飾られた巨大な温泉が姿を見せる。
周りを囲うように配置された木製の柱によって見たことのない風流な雰囲気を漂わせていた。
さながらそこは施設であり、湯浴みを済ませるだけに留まらない開放感を抱かせるものであった。
「ほぉ、これは……」
湯浴み場の広さにメイデンは感嘆の息を漏らす。
その広さに魅入ってしまい、ハリのある褐色肌に巻いていたタオルを押さえるのも忘れてしまうぐらいであった。
「わっとと……それにしても見事な湯浴み場ですね。姫様」
はだけたタオルを慌てて抑えながらハピは主の心中を代弁する。彼女もまた、むき出しの肌にタオルを巻いただけの姿であった。
ハピは従者であり、本来なら姫であるメイデンと一緒に湯浴みをする立場にはない。手伝いをするために湯浴み用の服に着替え、着衣したまま入るのが決まりだ。
しかし、メイデンが「自国ならいざ知らず、ここは他国。それも人族国家であり、城でもない。同じ湯船に浸かろうぞ」と言い放ち、それをよしとしなかったためこの状態になったのである。
「ここを設計した者は湯浴みに対しての多大な愛を感じるのぉ」
「人族も浴場にはこだわりがあるのですね」
キラキラと目を輝かせるメイデンは張られた湯を手のひらに掬ってから解き放つ。
その表情はこの地――バロック王国の王都へ赴く前のものとは明らかに違って柔らかいものであった。それを見てハピも口元が緩む。
「人族にも魔力を持つものも多い。湯浴みは妾たち魔族だけの文化でもないのであろう」
「そうですね。湯浴みは魔力を安定させるためには欠かせないものですから」
「それにしてもここまでの規模のものを私有として持っているとは、このラバール商会の代表は相当に有能か、高貴な身分なのだろうな」
ペルシャ聖魔国に限らず魔族の国家では身分に関係なく湯浴みをする文化がある。
それは湯に浸かることで精神を安定させ、身体に溜まった余分な魔力を落ち着かせる効果があるとされているからだ。
湯浴みは娯楽ではなく、生きるために必要なもの。
だからこそ金銭をかける価値がある。
そして、小さな浴槽に湯を張るだけの平民とは異なり上位魔族――貴族は湯浴み場や手洗い場などに異常なほど豪華に作り込むのだ。
絢爛たる浴場はその家柄の権威を示すことにも繋がるほどである。
もちろん人族の国家に湯浴みに対しての権威性はない。地下深くにたまたま源泉が通っていたことによってもたらされた副産物であり、高貴なる娯楽だ。平民には入る習慣すらない。
メイデンたちの感想は少し見当違いものであるのだが、この場にそれを指摘できる者はいなかった。
ひとしきり感想を言い終えたふたりは体を流すために洗い場へと足を運ぶ。
「姫様、お背中をお流し致します!」
ハピは奮闘するように告げた。メイデンが7歳の頃より侍女として付き添い、湯浴みの際もずっと世話をしてきていたのだ。故に手際よくメイデンの髪をとかし、洗髪薬を泡立てて洗い始める。
身長は135センチと小柄ではあるが、ハピは侍女としても護衛としても頭一つ抜けて優秀であった。
そんな従者に大体のことを任せてきたため、メイデンは身の回りのことを1人で行えなくなっているのだ。洗髪することもできなければ身体も洗えない。ドレスを着ることも、平服を選ぶことすらできなかった。
「いつもすまぬな。妾も1人で洗えるようになれば」
「いいえ、姫様のお世話は私がします! 私は姫様の専属侍女ですから。姫様の美しさを保つのも私の役目です」
そう言いながらもハピの手は進んでいく。髪を流し終え、メイデンのルビーのような髪に櫛を入れて梳かす。何日もお風呂に入っていなかったため、いつもよりも丁寧に、ハピは髪1本1本、毛先にまで気を使っていた。その要領で身体も洗い終える。
メイデンが申し訳なさそうに本音で告げるも、いつもハピは「当たり前だから」と言い張るのだ。
当たり前などは長くは続かない。
今回の旅でメイデンはそのことを痛感していた。「同じ湯船に浸かろう」と偉そうに言った手前、少し複雑な気持ちになる。そこである妙案を思いついた。
「そうだ、今日は妾がハピの背中を流そう」
ハピは一瞬キョトンとして、すぐさま慌てて否定する。
「そ、そんなっ! 姫様にそんなことをさせるわけには行きません!」
「先程も申したであろう。ここは他国。そして裸の付き合いに姫も従者もない。気にするでない」
ニッコリと満面の笑みを浮かべながらメイデンは言い退ける。
「で、でも……」
「ハピは妾にとって大切な腹心。お主の背中は妾の背中でもあるのだぞ」
「ひ、姫様っ……!」
なかなか引かない従者を諭すようにメイデンは言う。その言葉は紛れもない本心でハピは瞳を潤ませた。
メイデンはまだ遠慮気味の姿勢を取るハピを半ば強引に座らせる。
ミルクのように真っ白な背中はとても小さい。肌はキメ細やかで、力を入れれば傷ついてしまうのではないかと不安になるぐらいである。
しかしメイデンは知っている。
この華奢な身体には貴族にも劣らないほどの力が秘めていることを。
平民であるハピは貴族と比べると魔力量は少ない。だが、そんなハンデを覆せるほどの剣技の才能、そして魔力の制御力を持っているのだ。
速さ、パワー、魔力を流動させるための技術、状況に対処できる対応力。剣術に必要な要素を研鑽によりしっかり伸ばし、力量を磨き上げていた。
そのおかげかペルシャ聖魔国では屈指のタルワール遣いとして名が知れ、はたや冒険者としてもAランクの登録を済ませている。
その実力故に、ただの侍女ではなく、専属の護衛としても姫であるメイデンに遣え続けることを魔王から許可されているのだ。
メイデンは幼き頃から知っている。元々弱かったハピは、そこにたどり着くまでに類まれなる努力を積み上げたのだと。
「これでよし、どうだ? 背中を流される気持ちは」
「う、嬉しかったです」
決して器用ではない不慣れな濯ぎに、ハピは笑顔で答える。その表情は年相応で可愛らしい。
お互い背中を流しあった後は浴槽に入る。
平民と貴族が一緒の湯に浸かることはないため、最初は恐縮していたハピであったが、メイデンの要望で一緒の湯船に浸かった。
外見だけではなく温度調整も丁度いい。「はふぅ~」とふたりは同じ声を漏らしつつ存分に湯浴みを満喫した。
しばらくして、ハピが口を開いた。
「姫様、お窺いしてもいいでしょうか?」
「いつも言っておるが、公の場以外の確認は不要だぞ」
「ありがとうございます。えっと……非常に失礼ながら、今回のことは何かお考えがあってのことなのでしょうか?」
「この地へ足を運んだことか」
「はい。皇女様との謁見ができる保証もないように思えたのです」
辛辣に語るハピの言い分は最もであった。
助けてくれたことは銀髪の青年――クレイを信用していい理由にはならない。
そして、クレイの放った「湯浴み」という言葉に魅力を感じただけでは断じてないのだ。
「妾たちの目的は皇女殿に会うことではない」
「と、言いますと?」
「妾たちが必要としているのはペルシャ聖魔国に協力してくれる強力な援軍を集めること、そして知恵が必要なのだ」
「……この王国では知恵を求めているということですか?」
首を傾げながら問いかけるハピにメイデンは頭を振った。
「ハピは悪魔殺しの《ラグナ》を知っておるか?」
「もちろんです。単体で国を滅ぼせると言われている凶悪な4大悪魔であるサタンを討伐した人族ですよね。噂を大きくしたい人族の策謀の類だとされてますが」
「うむ。それが実在するらしいのだ。それもこのバロック王国に」
「それは真ですか!?」
飛び上がるほどの驚愕にハピは小さな体を後退させる。
「ここへ来る前に何人もの行商人や民たち聞いたので間違いはない。それに、そのラグナはこの国の王女と友誼を結んでいるらしいのだ」
「つまりは、その王女様を味方に付けようとされていると」
「うむ。噂が本当であるなら、ラグナは単体でも強い。もし協力が仰げるなら強力な戦力となるはずなのだ」
したり顔で語る主をハピは大きな瞳を輝かせて尊重の眼差しで見つめる。
「そのようなお考えがあったのですね! 悪魔と敵対しているのであれば魔豪国に味方することもないです。その実力なら使徒様である可能性もありますからね」
「む……?」
使徒でなくとも強い者はいるので断定はできない。ただラグナが使徒であるなら、バハム魔豪国との戦において与える影響は大きく変わってくる。
それは魔豪国側にいる『12神の使徒』が少なくとも3人いることがわかっているからだ。
戦は兵力戦であると同時に情報戦でもある。
魔豪国は戦火を上げる前に聖魔国の情報を手に入れ、様々な魔法や武術を計算した上で緻密な計画を立ててきたはずだ。
しかし、魔法では再現不可能である加護を持つ神の使徒は、その情報戦において奇襲の役割を果たせる。
それが魔豪国にとって抑止力となり、無闇に攻め入らせることをさせないようにできるのだ。
だからこそ、使徒であるのことが濃厚な皇国の皇女への謁見を求めていたわけなのだが、ラグナへのその考察はメイデンの頭からすっかり抜けていた。
「王国では襲撃事件のせいで魔族に対しての印象が悪いですから……言わばここは敵地です。王国の者を味方に付けることは難しいのではないかと思っていましたが、姫様にはお考えがあったのですね!」
「むむ……?」
眉根を寄せそうになるのを必死に堪えるメイデンにハピはさらなる思案を語る。
もちろんメイデンの頭にそこまでの考えはない。そのリスクに関しても同様に頭からは抜けていた。
言われてみればそうなのだ。魔族を敵視する国の王女もまた、同じ考えの可能性は非常に高い。
皇国の皇女と交渉するよりも遥かに高い難易度になる。
詳しい交渉の内容はまだ白紙状態。それどころか、メイデンは生まれてこの方1度だって国の重要な交渉の場に着いたこともなかった。
しかし、ハピの歓喜の視線は主の言葉を疑っていない綺麗なものであった。
メイデンは慌てて咳払いをしてから最もらしいことを付け加えることにする。
「そ、そうなのだ。妾に任せよ。それに皇女殿と会えないと決まったわけではない。囚われた者たちを運んだ女騎士も貴族であろう。皇国との接点があることは間違いないのだ」
「そこまでお考えとは……」
その懸念がメイデンの中になかったわけではない。ただ重要視していなかっただけなのだ。
湯浴みの言葉につられて抜けていたなんてことは一切ない、とメイデンは意中で頷いた。
「ひょっとして、ここの商会長のことも計算のうちだったのですか!?」
しかし、そこにハピの更なる追撃がかかる。
「商会長とな?」
「このラバール商会の会長は確か獣人族と聞きました。獣人の国といえば……」
獣人の国。ハピの口からそう聞いて、メイデンは絞り出すように思い出す。
このバロック王国やペルシャ聖魔国がある巨大な大陸の西側には海が存在する。
その海を渡った先の島国には獣人たちが国を築いているのだという。
「妾たちの国を攻めている憎き魔豪国からみてペルシャ聖魔国とは真反対側、遥か海の向こうにあると言われている島国だな」
「はい、魔豪国が攻めている3国のうちのひとつです」
そして、あろうことかバハム魔豪国は東に位置するペルシャ聖魔国、南に位置する魔王国のみならず、その獣人国にまで手を伸ばしているのだ。
そのことをメイデンたちは国を出る前に会議で聞いていた。
一度に3国を同時に攻め入るという奢りは魔豪国の圧倒的な戦力があるからなせる技なのだ。
結果として南の魔王国は早々に白旗を上げて属国に成り下がったのだが。
興奮気味にハピは説明を続けた。
「獣人国からすれば魔豪国は自分たちを脅かす敵ですよね! 同盟を結べれば東西で挟み撃ち、戦局は一気に変わります」
「……」
ハピは獣人国との友誼を結ぶという話を主の思惑の中に入っていると思ったのだ。
助けられた先がラバール商会で、その商会長が獣人だという事実は偶然でありメイデンが知る由もない。
ただハピの忠義心はそんな偶然すらも主の計算、と断定してしまうほどに曇っていた。
メイデンにその忠義心は裏切れない。答えるようにハピの考察へと全力でダイブした。
「も、もちろんだ。この湯浴み場の規模からしても高貴な身分なのかわかっていたからな。獣人国の王族である可能性も妾は考慮にいれておるぞ」
「流石です! 姫様!!」
信頼の眼差しが突き刺さる。
その話は偶然だよ、などと口が裂けても言えない。
このままでは変な墓穴を掘り、忠義心に傷をつけてしまう恐れがあったためメイデンは話を切り替えることにした。
「その、もうひとつ気になることがあったのだ。ハピはあの銀髪の青年、クレイをどう見る?」
「どう、というのは実力のことでしょうか?」
「実力を含めた全てだ。感じたままを語ってくれ」
ハピは恐縮しながらも口を開く。
「実力はそこまでだと私は思っています。一太刀の強襲に対して反応する素振りが全くありませんでしたので」
「全くとな……?」
ハピのタルワールはある種の極に位置する練度である。早すぎて反応しきれないのは当たり前だろう。しかし、全く反応を示さないというのもどうなのだろうかとメイデンは考えた。
眉根を寄せる主を余所にハピは考察を続ける。
「はい。戦闘技術は我が国の騎士たちにも劣るのではないかと。何より強者としての風格や威圧を感じないのです」
「はて……仮にもAランクの冒険者であり妾と同じ使徒でもあるのだぞ? それにあの自信ありげな傲慢な態度もそうだ」
Aランクといえば単身で小型のドラゴンを討伐できるレベルである。
メイデンの言葉にハピは一瞬考えてから再び口を開いた。
「ランクは戦闘能力ではなく技術的な面での称号なのかもしれません。隠密や情報収集……もしくは人族国家のAランクの基準はそんなに高くはないという考えも」
思い返してみるとその節はある。
クレイはメイデンの【神の転録】の発動条件を見事に躱して退けた。
それは僅かな現象からでも考察して情報収集する能力に長けているということ。
――それが奴の使徒の力なのか?
メイデンは意中で考えながら同意する。
「そうだな。こっちのクラン制度も総合的な面より、ある分野に特出していればランクを与えるものとされているからの」
「使徒様であることも含めると、魔王国のユーミル様のような補助能力の可能性もありますよね」
ハピもクレイの持つ加護について同じ考察を語る。
戦闘に関してはハピはエキスパート。少し抜けているメイデンよりも遥かに的を得ているため、それが正しい事だと結論づけた。
「妾も同じことを考えていた」
「流石でございます。どちらかと言えばあの皇国の女騎士様の方が強いです。可憐で華奢な姿なのに、立ち姿にはどこにも隙が全くありませんでした。強者たる威圧をふつふつと感じました」
「確かにの。まぁ……なんか別の意味の視線を向けられていた気もするが」
跡継ぎの話で、魔王の娘の婿を決めるパーティーが開催されたことがある。
色濃い貴族のエリート達が婿候補として参加したのだが、そいつらと同じ視線をメイデンは感じたような気がしたのだ。
「ひとつの考えとしては、あのクレイという男は皇国に遣える者、それも上位の地位に付いているという説もあります」
「そうかの……?」
「一介の冒険者が皇女とのコネを持っていると思えません。ですが彼は断言しました。普通なら『可能かもしれない』と濁すはずなのです。それを裏ずけるような形であの騎士様が現れましたし」
ハピの説明は最もである。
囚われていた者たちを連れていった女騎士からは確かに気高い印象を受けた。恐らく実力も申し分ないだろう。上位の貴族であると確信できる気品も感じた。
そんな上級貴族と接点があるというのもクレイが皇国側の者であるという可能性を高めていた。
そして、平民にしては態度は大きい。無知なのではなく、ペルシャ聖魔国の姫という立場を明かしても尚、動じないのはそのためなのだろう。
何よりそう考える方がメイデンにとって都合はいいものであった。
例のごとく、メイデンは自信ありげに受け答えをする。
「もちろんその可能性も考えていたのだ。そうでなければあんな自信満々に『来るなら来い』とは言えんからの」
「やはりでしたか。見え透いた説明をしてしまい申し訳ありません」
真剣に頭を下げるハピをメイデンは慌てて静止させた。
「よいのだ。その進言に妾はいつも助けられておる。これからも遠慮なく申して欲しいのだ」
「お心遣い痛みります。これからはより一層、気合をいれて姫様にお遣えする所存です」
心遣いではなく紛れもない本心であるが、メイデンは罪悪感を抱きつつも首を縦に振ることしかできなかった。
「う、うむ。クレイに関しては見極める必要があるからの。もし奴に変な動きがあれば――」
「遠慮なく排除させていただきます」
一切の迷いもない冷酷な言葉がハピの口から漏れる。メイデンはそれを聞き静かに頷いた。
「私は姫様の盾であり、剣でございます」
「その忠義に感謝しない日はないのだ」
「嬉しきお言葉です」
ふたりの間でバロック王国での方針は大方決まる。
一瞬の沈黙。ちゃぽちゃぽとお湯の流れる音だけが漂う。
「まぁ、ただ……今はこの大浴場を存分に楽しもうぞ」
そのメイデンの言葉に否定の意見は上がらなかった。
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