第175話
海港都市イシュタルト。
その名の通り海に面した街であり、漁業が盛んな都市。王都から4週間ほど馬車を走らせた距離にあるこの場所は、イーリス法国領の南部に位置する。
さらに南へ進めばすぐにザナッシュ帝国領に当たるのでイシュタルトは王国領土で唯一の開港都市になるのだ。
唯一なだけあり、かなり広い街である。
俺はラバール商会の関係上、知識として頭に入っていたが訪れるのは初めてであった。
日中は活気の溢れている元気な街という話ではあったが、生憎と今は夜半。整備の行き届いた石造りの路地には点々と酒場の明かりが暗がりから顔を出し、ガヤガヤと仕事を終えたおっさんたちの賑わう声が聞こえてくる。
ひゅーっと路地を抜ける風には潮の香りが含んでいた。
この世界では初めて体験する懐かしい匂いに少しだけ心が高揚する。
そんな海港都市に法国のトップ――聖女であるマリアと訪れることになるとは夢にも思わなかったが。
「ここは、どこですか?」
恐る恐るという様子で伺ってくるマリア。俺の手を握る力も強くなっていく。
無理もない。半ば強引に、というよりも返答の有無も確認せず無理やり連れてきたのだ。
普通に考えれば誘拐になる。それもマリアの立場上、重罪になるほどのものだ。
しかし、なんとなく今のマリアに外の空気を吸わせたかった。世界が広いことを知って欲しかったのだ。
これは俺のエゴであり、勝手な押し付けでもある。昔の俺ならこんな行動は絶対にしなかっただろう。なんとも馬鹿なことをしているという自覚はあった。
補足するなら、マリアの人柄から想定して、こういう無茶なことも許容してくれるだろう、という計算から行動だ。
「王国領土の海港都市だ。俺も来るのは初めての場所になる」
「ここは王国領なんですか?」
「そうだ。話を聞くよりも、実際に感じた方が早いだろ」
それを聞いたマリアの警戒心が薄まっていくのがわかった。むしろ好奇心を示すように左手をそっと前に突き出し、感覚を研ぎ澄まさせている。
「どうやって王国領まで……海沿いといっても法国の中央都市からは距離があるとおもうのですが」
「【転移】を使った」
「次元属性魔法!? あなたは使えるのですか?」
「それはお前の部屋に俺が来た時点で予測はできるだろう」
「た、確かに」
なんともマヌケな返答であった。親しみやすい人間味を抱かせてくれる部分もあるらしい。
厳密にいうのであれば、俺が使ったのは【転移】ではなく【範囲転移】であった。
一度見た事のある場所へしか行けない【転移】とは違い、自分を中央とした範囲内に転移することができる次元属性7級魔法。そびえ立つ壁の向こう側に行くときなんかには便利な魔法である。
そんな【範囲転移】を何回か使用してここまで来たのだ。
そして、マリアの部屋に転がり込むきっかけとなったのは【転移】どころか次元魔法ですらない【虚空の彼方】によるもの。その事実に関して告げる必要は今のところない。
「嫌なら戻るぞ?」
「いえ、その……もう少しだけ街の雰囲気を愉しみたいのです」
若干、そわそわした様子で素直にマリアはそう言った。年相応の少女の反応。
「そうだな。勢いよく出てきたが、部屋を開けても大丈夫だったか?」
「今更ですね。はい、この時間の来訪者はいませんから」
「そうか」
眉先を下げて呟くマリアの表情がなんとなく寂しそうに映りこんだ。
だがすぐに、すんすんと鼻を動かし始める。
「なんか変な匂いがします」
「これは海の匂いだ。俺も久しぶりにかいだ」
「これが海の匂い……初めての体験です。それになんだか、陽気な空気を感じますよ」
「活気ある街らしいからな。日中はもっと陽気な空気が味わえる」
「いい空気です」
しみじみとマリアは告げた。口元は少し綻んでいる。先ほど浮かべていた聖母の微笑みとは違い、自然で年相応の少女の笑顔だった。
「食器は扱えるのか?」
「一通りは。見えなくとも使用できます」
「ならその陽気な空気を間近で味わうぞ」
俺はまたも強引に、近場の雰囲気が一番良さそうな酒場へマリアを連れていく。
席に着くまでの間、マリアの腕はしっかりと握っていた。いくら鋭い【強感覚】があったとしても、盲目の少女を誘導なしに歩かせるのには抵抗があったからだ。
空いてる席につき、三角頭巾をした逞しいオカンのような従業員に飲み物を注文。俺は「爽やかエモンジュース」を頼み、マリアも同じものを頼んだ。
エモンとは柑橘系の一種で、前世でのレモンとにている果物である。
レモンほど酸っぱくはないが、柑橘系特有の甘酸っぱい酸味は口に広がるので、それを知らないマリアは一口目で口をすぼめていた。
オカンの従業員がマリアを見て「嬢ちゃん目が見えないのかい?」と指摘をしたが、表裏のないストレートな言い方であったため、マリアも自然な返答。謎の魚の干物をサービスで貰った。
訪れている客もいい人達だったようで、マリアのことを憐れむような目で見る者はいない。
しばらく雰囲気を楽しんだ。
それから支払いを済ませ、陽気な酒場を後にした俺たちは海へ向かった。
その間、俺も目を閉じてゆっくりと街の空気を感じていた。
「これが砂、なのですね」
海岸に到着したマリアは屈みこんで、砂をひとつまみ。指でこすって感触を確かめる。
さーっという波の音が鼓膜を優しく振動させた。
「砂だな。まあ海沿いの砂は普通の砂とは少し違うが」
「そうなのですか」
感触が気に入ったのか、砂を何度も掴んでは、さらさらと粒子を風に運ばせる。
「この街の人は、いい人たちです」
「全員が全員、いい人ばかりではない。が、まあ比較的に多い方かもな」
マリアが今までどんな人間と関わってきたのか、ティアラの情報を聞いてれば容易に想像はできた。
それが国のトップに就く者の宿命でもあるのだが、周りは敵だらけというのは悲しいものだ。
かく言う俺もジルムンクでは周りは敵だらけ、人と人とを繋ぐのは取引のみだったのだから、気持ちの一端だけは理解しているつもりでいる。
クロやハクと出会わなかったら、どんな未来が待っていたのだろうな。
「楽しい……」
「砂遊びがか?」
「それもそうですが、こうして見知らぬ土地を歩むことがですよ」
「世界は広い。街は他にも沢山ある。楽しいと思う出来事もな」
「……」
マリアは無言で砂をつまみ、手のひらで遊ばせる。砂浜に混ざっていく粒子が月明かりによってきらきらと輝いていた。
「この景色を見たいか?」
「見たいと言えば、何かが変わるのでしょうか」
「変わるかどうかは知らん。だが、どんな現象にも原因があり、その原因次第ではどうにかなる可能性だってある」
「原因……」
「まあ調べてみないとわからないがな」
俺はそう言って【神の五感】を発動した。
マリアは10歳で盲目になったとティアラからの報告でわかっている。
だから盲目の現象が病的なもなのか、それ以外の要因からなるものなのかが気になったのだ。
前者であるなら、病名にもよるが治癒の可能性だってある。後者なら魔法という便利なものがこの世界にはある。
俺は前世で得た知識を頭で復習しつつ、目を凝らし、砂と戯れる少女のことを視認した。
だが、そこで起こったのは予想外のことであった。
「……どういうことだ」
「……?」
動揺を口にした俺に対して、マリアは小首を傾げる。
【神の五感】で視覚を強化すれば、視力や動体視力が強化されるだけではなく、相手の名前、スキル、加護、状態を視ることが出来る。
それは生物であるなら例外はない。魔物だろうと動物だろうと、なんだって視認して情報をもたらしてくれるのだ。
だが、目の前に映る少女、マリアの姿を眼下に入れても何も映らなかったのだ。
何も――。
信徒の加護どころではない。名前やスキル、【神の五感】で見えるはずのものが全てが見えなかった。
「どうしましたか?」
「魔法……? いや……」
見えないのがスキルだけならまだ納得がいく。なんの才能もないということになるだけなのだから。
しかし、誰しもが持っている名前すら見えないというのはおかしい。
最初はハーデスの可能性を疑った。
しかし、ハーデスだとすれば、『?』という伏字が視認されることは確認済みなので違うと判断できる。
魔法の無効化、神の力、呪い……。色々な可能性を考察していく。
これは状態異常、病、魔法のような小さな力ではない。
【神の五感】ですら視認できない神の力を凌駕する力が働いている可能性がある。
導き出された可能性はひとつ……。
『Xスキル』である。
マリアが何らかの『Xスキル』を持っている可能性があるのだ。
『お兄様、ご無事ですか?』
そんな考察を浮かべていると、いきなり【メッセージ】による音声が脳内を響かせた。
相手はティアラ。落ち着いた様子ではあるが、少し早口になっていた。
『連絡するべきだったよな……悪い』
『必ず無事だと信じておりましたので大丈夫ですわ』
『嘘つけよ~、最初は取り乱してたくせにさ~』
すると【メッセージ】の中にハクの声が混ざってくる。機密情報を扱うときとは異なり、【メッセージ】さえ使えれば、誰でも入ってこれるように魔力が調整されているようだ。
『どうしよ~ってみっともなくなきぐしゃってたのはあなたではありませんか。それに勝手に入ってこないでください』
『泣いてないってば! 入ってほしくないなら、解読しやすい魔力にしなけりゃいいじゃんか』
『あなたぐらいのお頭でもこれくらいは調整できるみたいですのね。これからはもう少し難しくしておきましょう』
相変わらずの言い合いが始まる。なんとも騒がしい【メッセージ】だった。
『それよりもお兄様、他の女の音がしますが、お楽しみ中でしたか?』
音!?
急な指摘。匂い、声ならわかるが、女の音ととはなんだろう。
砂浜を歩いて近ずいてくるマリアの足音のことを指しているのだろうか。
【メッセージ】は思念を飛ばす魔法なので、そもそも他の音は入らないはずなんだが……。
『今、イシュタルトに聖女といるんだよ』
細かい経緯を説明することなく事実だけをストレートに述べた。
報告は直球が一番効率的だ。
『聖女……さすがですお兄様!』
『なにそれ、すごい楽しそうじゃん!』
感嘆と興味、別の角度からの言葉が返ってくる。
しかし、ふたりからは共通の好奇心に似た何かを感じた。
なんの説明もしていないのだが、彼女たちの中では経緯の道筋が勝手にできあがっているのだろう。
『私たちも合流しますわ』
『なんならリンシアも呼ぼうよ』
『白いのもたまにはいい事を言うじゃありませんか』
お泊まり会をするテンションでふたりの会話を勝手に進む。
『えっ、リンシアも?』
『抜けがけは良くないからね』
その理由も意味がわからない。
というか、責任感の強いリンシアのことだからこの状況を知ったらきっと怒るだろう。
法国のトップである聖女と交流会前に勝手に謁見した上に、誘拐までしたのだ。
最終的には、「もうなるようになればいいです」と諦めがちに悄気てしまう。絶対に。
『お前たち、くれぐれも――』
『わかっていますお兄様。ではそちらに向かいますね』
『いえーい、ボートとか用意した方がいいかな――』
ぶつっと魔力の回線が途切れる。
本当にわかっているのだろうか。
また繋げ直すのも簡単なことなのだが……。
「どうかされましたか?」
俺の様子に疑問を掲げるマリア。
彼女はこうみえても法国のトップ、聖女なのだ。
普通なら謁見するのにも色々な手続きを踏まなければならない。
「これから仲間が合流するんだけど、会っていくか……?」
そんな聖女に、俺は学生のような空気感で問いかけたのだった。
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