第173話
――ここは『神界』ではない。
即座に俺は判断を下した。
以前、『神界』に足を付けたときに憶えた、溶け込めないような不快な感覚がここでは一切ない。
まるで、「お前たちの来る場所ではない」と世界に言われているような疎外感をそのときは感じたのだ。異分子を排除したい世界そのものの仕組みのようなものなのだろう。
さらに言えば、この部屋に張られている結界も神のレベルには到底達していないし、目の前にいる少女も神などではなく普通の人間の少女なのだ。
「……」
まず最初に、俺はゆっくりと正面へ向き直り、真っ白な壁に目を合わせる。
泉をモチーフにした水の張った室内に、裸の少女。
おそらくここは浴室で、この桃色の髪の少女は湯浴みをしている最中だと予測を立てたからだ。
俺にいたいけな少女を辱める趣味はない。
たとえその少女が目をつぶっていて、俺の事をまだ男だと認識していなかったとしても、早めに対応するに越したことはないと考えたのだ。
殺意や威圧の類を向けられれば、その限りではないが……。
しかしながら、公平に「俺も服を脱ぐべきなのだろうか?」と、冗談を思案するぐらいには落ち着いている。
「お、男の……かた?」
2秒ほど思考を巡らせていると、続けて少女が口を開く。
目を開けて確認をしたのだろうか。しかし、全く視線を感じない。
おっとりとした声色には不安が混じり、戸惑った様子がひしひしと伝えてくる。
そりゃあ、そうだ。
風呂に入っていたらいきなり知らない男が現れたのだから、恐怖するし、戸惑いもするだろう。
この状況で叫ばれなかっただけでも御の字である。
だから俺はなるべく警戒されない言葉を選びつつ、状況を簡素的に説明することにした。
「赤のダンジョンで魔法の実験をしていたら、ここに飛ばされたんだ。故意ではないし、危害を加えるつもりもない。俺はクレイ。一応、冒険者をやっている」
「赤のダンジョン……?」
ピンと来ない様子で聞き返される。
赤のダンジョンを知らないのか、もしくは王国の者ではないのか……。
それに、どこか冷静さを心がけているようにも感じ取れる。早口で説明を施したのだが、杞憂だったようだ。
「王都の中心部にあるダンジョンだ」
「王国の方、ということでしょうか?」
「そうなるな」
バシャッと小さな水音が耳に届く。
その反応から王国の人間ではないことがわかった。だとすればここはどこなのだろう。
「よかったらここがどこなのか教えてくれないか」
「それを証明できますか?」
俺の問いかけには答えず、少女は再度質問を返してくる。
この少女は何者なのかによってどうするべきかの選択が変わる。
容姿や丁寧な言葉遣いから、ある程度高貴な身分についているのは明白だった。
家主の趣味なのか、こんな巨大な浴場を建造してしまうぐらいなのだから、いいところの貴族令嬢……もしくはそれ以上。
それにしても、浴場を気にかけるとはなかなか良い家主のようだ。少し温すぎる気もするが、俺も浸かって帰りたいぐらいである。
迷った挙句、俺は身分証を見せることにした。
懐から冒険者カードを取り出し、振り向くことなく後ろへ提示する。
貰ったばかりの家名が入っていないので、どうころんでも対応しやすい。
「これで証明になるだろう」
「これ、とはなんでしょう?」
「……冒険者カードだ。王国発行となっているだろう。見えにくいか?」
「いいえ、大丈夫です。信じましょう」
納得したのか、少女は呼吸を整えながらそう告げた。俺は最初の質問を繰り返す。
「それで、ここはどこなんだ?」
「ここは法国の中心。イーリスの塔です」
「……なに?」
一瞬、耳を疑ってしまう。しかし、彼女が嘘を告げている様子もない。
それが本当だとするならば俺は王国領土から法国まで転移したということになる。見たことも、訪れたこともない土地に飛ばされたということ。
「本当に法国なのか?」
「はい、ここは法国ですよ。クレイ様」
なぜか名前を呼ばれた。
途端に張り詰めたような警戒心が薄くなっていくのを感じた。
「あんたは誰なんだ?」
「…………どうやらあなたは本当に法国の者ではないのですね。私はマリア・アニエル・イーリス。この法国の、聖女を努めさせていただいてます」
再び耳を疑うことになる。
言われてみれば、ティアラから報告を受けていた聖女の人物像と重なるところがあったからだ。
まさか聖女と鉢合わせることになるなんて夢にも思わない。
「なるほど、あんたが盲目の聖女か」
「……王国でもそう呼ばれているのですね」
「まあ、一部でだが」
気落ちした声色に、なぜだか俺がフォローをしていた。
意外と茶目っ気のある性格をしているらしい。
「俺は穏便に帰りたいんだが……衛兵でも呼ぶか?」
話を進める意図で問いかけた。
一般の令嬢ならまだしも、相手は法国の聖女である。
リスクを考えるなら早々にここから立ち去ったほうがいい。
ただ、この場所では【転移】が使えない。
壁の全面に良質な【アンチストーン】が使用されているのせいだ。
魔法を使用するにはひとつひとつが異なる【アンチストーン】の成分の解読が必要なのだ。まあ、もうすぐ解読が終わるわけだが。
「……よかったら、王国の話を拝聴させてもらえないでしょうか」
しかし、予想外の反応を少女が返してきた。
何か意図があるのかと勘ぐったが、そこに敵意はなく、純粋な好奇心のように思える。
「王国の何が聞きたいんだ」
「街並みや景色、英雄譚など、そういった他愛もない話を」
「嫌だと言ったら?」
「大声で泣きます」
「ガキかよ……」
若干の気だるさに肩を落とす。
悪い奴ではないのは確かであった。
今回の交流会では助ける対象でもあるので、彼女のことを知っておいても損はないはずだ。
「まあわかった。その前に服を着てくれ。自分で着れるのか?」
「ご心配なく。慣れていますので」
――
―
聖女であるマリアの寝室は扉を一枚挟んだ隣にあった。
俺の自室よりも広い空間に巨大なベッドとテーブルというシンプルな調度品しか置かれていない。部屋の出口には境界線のように張られた薄生地のカーテン。いずれも豪奢な素材で一級品だ。
窓がないせいで部屋の中は薄暗い。
俺が飛んできた浴室から漏れる青白い光が月明かりのような照明の役割を果たしていた。
「何もない部屋でしょう?」
「使いやすそうではあるな」
着替えを済ませ、バスローブのような薄布を纏ったマリアがベッドの端に腰掛けた。
ほかの服がなかったのか、と指摘をしたいがやめておく。
それよりも気になることがあったのでそれを先に伺うことにした。
「見えているのか?」
聖女――マリアの足取りには迷いがない。
先ほどの『男?』という確認もそうだったが、見えていないと判断できないものである。
「見えませんよ。でも感じるのです」
「感じるとは?」
「寝台、テーブル、椅子……床、壁、人……全てのものから出る独特の存在感のようなものを感じ取っているのです。視線や感情の動きもわかりますよ」
「【強感覚】か」
【強感覚】とは気力を使って五感を強化することを言う。
気配を読むためには必須な技術で、特に戦闘時には必須の技でもあった。
感覚を研ぎ澄ませろ、とはよく言ったもの。
しかし、一般的な【強感覚】は修練を詰んだ騎士でも気配がわかる程度であり、また、無機物には対応しない。
先ほど述べた『存在感』、『視線』、『感情』の動きがわかるいう言葉が本当であればマリアの【強感覚】は通常のものを遥かに凌駕する制度なのだ。
何かしらの才能を持っていて、視覚を失ったことによりそれを開花させたとでもいうのだろうか。
「そう表現するのですね。なんか不思議です。あなたからは、奇妙な感覚が伝わってきます」
「奇妙な感覚?」
「こんな私を憐れむわけでもなく、だからといって好奇な視線も感情もない……不思議な感覚です」
褒められているのだろうか。
ただ、不快に思われていないのであればいい。この【強感覚】の精度であれば、交流会で会ったとしてもバレる可能性が高い。
元々、リンシアのために聖女は救う計画ではあったので、正体がバレたところで支障をきたすことはないのだが。
「そんな貴方にお願いがあります」
「なんだ?」
マリアはそう言って深呼吸をする。
落ち着いた様子で俺の正面に顔を向けた。
「私に子を授けては貰えないでしょうか」
「………………は?」
唐突に何を言い出しているのだろうか。
意味がわからない。が、マリアの表情からは色気のある感情や、邪なものは一切感じ取れなかった。
どちらかというと真剣で、必死さすら抱かされる。
「やるべきことがあるんです」
「……何かわけがあるのか?」
「私はもうすぐ失命を迎えるのです。そうなる前に後裔に託さなければならないものがあります」
「病気なのか?」
探るように問いかける。
託さなければならないものというのは気になるところだ。
だが、死を迎えることを予期していることの方が重要であった。
その計画を当の本人が知っていてグルであったとしたら話が変わってくるのだ。
「いいえ、殺されるのですよ。もうこの国に聖女はいらないのですから」
上品に微笑みながらマリアは呟いた。その表情は儚げで、全てを受け入れているかのようであった。
「聖女は法国のトップだろう。誰に殺されるというのだ」
「法国を司祭たちを統べる最高司祭たちです」
「どうしてそう思う」
「そう感じるとしか。それに私自身、その結末については納得しているのです。この国のためになるのであれば、私は命を捧げますよ」
変わらず聖母のような微笑みをマリアが向けてくる。
その全てを悟ったような、諦めたようにもとれる表情に、何故だか俺は若干の煩わしさを覚えた。
そもそも聖女には死んでもらっては困るのだ。リンシアのためにも。
「勘とは根拠が弱すぎる。王国との交流会もある。その司祭たちの考えも変わるかも知れないだろ」
「励ましているのでしょうか? 冗談でもそれは困ります」
「なぜ?」
「私はもう、死にたいのですよ」
マリアは微笑みを崩さずに、絶望を囁いたのだった。
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