第119話
バロック王国の領土より、北へ果てしなく進んだ先には魔族の領土が存在する。元々は人族が住まう土地だったその領土を魔族が奪い、いくつかの国を築いていた。
唯一その土地で長きに渡りその魔族達と争っている人族最後の国がルクレシア聖卿国。クロはそんな国の第1王子として生を受けた。
「国王様、魔豪国の軍勢が城に到達しました! もう持ちません」
「なに!? 一体どうやって……」
王宮内の国王の間で騎士の叫び声が響き渡る。
聖卿国の終わりを告げるに等しい伝令に国王は目を大きく張った。
「どうやら魔豪国に情報を流した裏切り者がいると思われます!」
「抜かったか……こうなったら子供達だけでも逃がす。ガモーラ、クロとハクを頼むぞ」
国王は苦渋に表情を歪ませながら側近の侍女に声をかけた。この王宮に30年以上遣えてきた侍女長であるガモーラは国王の命令に深刻な面持ちで頷く。
そしてガモーラはまだ幼いハクを片手で抱えながら、7歳になったばかりのクロの手を引き、王座の裏に建設された緊急時用の隠し通路の扉を開いて誘導した。
「クロ様、こちらの通路へ――」
暗い通路を魔石のカンテラで灯して走りながら、クロは歯を噛み締めながら左手を強く握った。
――もう父上に会うことは叶わないか。
クロは幼いながらも第1王子としての教育を受けていたのでわかっていたのだ。この通路を通る意味が。
「第1子息であるクロ様とハク様が生きていれば、またこの国を取り戻すチャンスは訪れます」
そんな様子を察してか、ガモーラはクロの手をギュッと握り返して励ましの言葉を掛けた。
思わず涙で目を潤みかけるもクロは我慢して耐える。
泣くのは今じゃないと。
やがて長い通路の出口に到着し、塞がった鉄の蓋のような扉を下から押し出すようにこじ開けた。そこには高原が広がっていて所々木々が生い茂っている。遠くには燃える街の赤い光がうっすらと夜闇を照らしていた。
「ここから一番近くの村で馬車を借ります。そして半年ほどゆっくり掛けてミンティエ皇国に向かいましょう」
ガモーラの言葉にクロは無言で頷いた。
南方の方には聖卿国以外にも、人間の住まう国が存在すると聞いていたからだ。
「待ってましたよ王子ぃ」
急に聞こえた声に驚きながらもクロは振り向いた。そこにはよく知る男の姿があった。
雷のような赤い模様が通る漆黒の鎧を纏ったその男は聖卿国の騎士団長であり、5歳になったクロに武術や剣術の稽古なども付けてくれていた人物であった。
厳しいところもあるが、優しい笑顔を見せる理想的な師であったのだが、今は歪んだ笑顔でこちらを見据えていた。
「騎士団長? 貴方がどうしてここに。それにその角は……まさかっ!」
「マーテルの血筋はここで絶つ。それが我が魔豪国王の命令だ」
「裏切り者は……貴方でしたか」
ガモーラはそう言って今にも泣きそうなハクをクロの隣に立たせると、仕込んでいた2本の短剣を構えた。そして暗闇が照らされるほどの魔力がガモーラから放たれ、これから戦いが起こる事を告げる。
「クロ様、ハク様、どうかお逃げください!」
「ガモーラ、嫌だよ」
「ハク、行くぞ!」
鬼気迫るガモーラの表情を見たクロは駄々をこねようとするハクの手を握り走り出す。
「ワタシから逃げられるとお思いですか?――【グラビティー・バインド】」
だが、突然の重みがクロの体を襲い、地面に吸い付くようにうつ伏せに倒れてしまう。急に止まったクロの手を離しきれず、ハクは転んで前に投げ出されてしまった。
「痛い……痛いよぉ」
泣き愚者るハクの元へ手を伸ばすも、体を覆う重みに抗うことが出来ない。
するとガモーラの微かに震える声が聞こえた。
「ぐっ……いつ攻撃を――」
「こんな遅い斬り込みにも反応できないなんてまだまだですね。ガモーラ」
「腐っても騎士団長……です……ね」
ドサッという音と共にガモーラの魔力が霧散したのがわかった。戦いに於いて未熟なクロにでもわかった。恐らくガモーラはもう――。
だけど悲しむ余裕なんてものはなかった。間髪入れずに突然の痛みがクロを襲った。
「ぐわああぁぁぁぁ!」
騎士団長はうつ伏せに倒れるクロの背中に剣を突き立てていたのだ。
「王子ぃ――鍛錬の日々、楽しかったですよ」
「ハク……だけは……お願いだ」
徐々に脳内を侵食していく痛みに耐えながら、クロは渾身の想いを声に乗せた。
「それは無理な相談ですよ。王子ぃ」
騎士団長はそんなクロを見下しながら邪悪な笑みを浮かべて、ゆっくりとハクの元へ歩み寄っていった。
「やめ――」
ボトリ、と濁った音が地面を鳴らす。
それは――ハクの首が落ちた音だった。
「そんな。嘘だ――嘘だ。ハク。ハクだけは――」
「うるさいですね。だから子供は嫌いなんですよ。ふふっ」
信じられない光景に心が折れかけたクロの首を、騎士団長は笑いながら刎ねたのだった。
――
―
――ここは……。
クロが次に目を覚ますと、そこは見覚えのある場所だった。
――僕の部屋? なんで……確か魔族が攻めてきて、聖卿国から逃げて……そうだ、騎士団長に首を刎ねられたんだ!
混濁した記憶が徐々に整理されていくにつれ、先程の残酷な状景が思い出された。
こんなところで寝ている場合ではない。
クロはすぐさま飛び上がろうとするが、身体が上手く動かせない。
確認の意味も込めて自分の手を仰ぎ見ると、よく知るものよりも小さい。むしろ身体全体が小さくなっているように思えた。
というよりも、
――どういうことだ! 僕が赤ん坊になってるじゃないか!
「クロ様、起きたのですか?」
そんな驚きを抱いている中、聞き慣れた鈴のように綺麗な声色が耳を通り抜ける。そこには殺されたはずのガモーラが微笑んで立っていた。
その心落ち着く柔らかい笑顔を見て、クロは思わず泣いてしまう。
「お腹が空いたんですか? よしよし――」
――夢を見ているのだろうか。
夢にしてはリアル過ぎる。ガモーラに抱かれている感覚も、匂いも、全て本物のように感じるのだから。
――ということは僕のあの7年間が全て夢だったのか?
それもまた考えにくかった。クロが確かに生きてきた約7年の記憶は曖昧なんてものではなく、全てがリアルな感覚として今も記憶に残っているからだ。それにあの痛みが夢だとは思えない。
「クロ様、私はお仕事に戻ります。また来るので、いい子で待っていてくださいね」
泣き止んだクロを赤ちゃん用のベッドに戻すと、ガモーラは仕事に戻って行く。
その間もずっとクロは頭の中で何が起きているのかと、今の状況について考えていたのだが、答えにたどり着けない。
だけど一つだけわかったことがある。この状況が何にせよ、今を全力で生きるしかないということだ。
そして生きていれば何が起きたのかを調べる機会はいくらでもあると思ったのだ。
クロがその答えにたどり着いたのは、それから半年立ってからの事だった。
「なんか最近物騒な噂を聞きました」
「物資が爆発したらしいわよ」
眠りから目覚めると、侍女達の話し声がクロの耳に入った。
彼女たちが噂話をする際は、いつもクロの部屋を選んで使っていた。赤ん坊だから聞いていないと思ってサボっているのである。
「魔豪国との戦争も近いんじゃないかしら」
「私達も早めに身支度した方がいいかもはしれないわ」
だが今日の侍女達の会話には気になる点があった。それはクロの見た夢のような、記憶の中の7年間と同じ展開だったからだ。
その物資は魔豪国が仕掛けたものだと後にわかり、その爆発事件により聖卿国が宣戦布告をするのだ。そしてこの領土周辺が戦場と貸すのはその4年後となる。
そしてもうひとつの気になる点が――。
「この子が信徒の儀を受けた後はしっかりと鍛えてやってくれ」
「かしこまりました。私の全てをこの子に託すつもりです」
騎士団長を見たときである。笑っている顔がどうにも、偽物にしか見えない嫌悪感を懐いてしまったのだ。
――前の7年間と同じことが起こっている。いや違う。あれは夢なんかじゃなくて、なんの偶然か、僕は過去へ戻ってきたのではないだろうか。
安易な結論ではあるが、昔本で読んだおとぎ話を思い出しつつそう暫定した。
だったらクロがやる事は1つなのだ。戦争を止める。もしくは最小限に抑えなければならない。第1王子として。
こうしてクロは2度目の人生を歩むこととなった。クロはこの記憶を活かして今度こそはこの国を、大切な家族を守ると心に決めたのだった。
「この子はハクと名付ける」
そして前の7年間と同じように3年後にハクは産まれた。
絶対にあの日と同じような失敗を犯さない。ハクの眠る姿を見たクロは自身を再び鼓舞した。
だから前のときよりも早い時期に魔法を勉強し、鍛錬を積み、稽古を真面目に頑張った。
政治的な観点では侍女を通して根回しをし、どうにかあの最悪な未来を回避する。そして順調にクロは7歳になった。
だが――。
クロは新しく覚えた魔法を見てもらおうと、ハクと一緒に父親である国王の部屋を訪れようとしていた。
「クロ……逃げろ――」
だが扉を開けると、国王は何者かに刃物で胸を付かれていたのだ。
「父上っ!」
突然の出来事で、目を見開き吃驚する。
クロが驚いたのはそれだけではなかった。血潮を拭きながら倒れていく父親を刺した何者かは、クロの見慣れた人物だったからだ。
「ガモーラ……なんで……」
「クロ様……どうしてここに?」
意図せず瞳から透明な雫が頬を伝っていく。ガモーラは裏切り者だったのだ。そしてその根拠となるものが――、
「その角は……ガモーラは魔族だったの?」
「バレちゃいましたか。まぁマーテルの血は絶やすつもりだったので、別にいいんですがね」
「ハク、逃げろ!」
ガモーラの笑みは自分が解任まで追い込んだ騎士団長の目に似ていた。だから瞬時に敵と判断し、ハクを逃がすために思考を切り替える。
「えっ? えっ?」
「早く! どこか遠くへ!」
戸惑いを露わにするハクに怒鳴るように必死に叫ぶ。
だが直後――殺気にも似た濃厚なオーラが部屋いっぱいを覆い尽くしたのがわかった。
クロは咄嗟に横へ飛んだ。
「おやっ――避けられた?」
その判断は正解だった。ガモーラの素早い短剣の動きを躱すに足りる動作となっていたからだ。
早期に鍛錬をしてきたことが報われたという意味にも等しい。
――やるしかなのか。
自分を育ててくれた優しいガモーラは偽物だったんだ。そう自分に言い聞かせて、唯一残された家族であるハクを守るために戦闘態勢に入る。
「構えがまだまだ隙だらけですよ」
ガモーラの笑顔が一瞬ブレる。攻撃がくる、そう思った時には遅かった。ザクッという音――そして鈍痛が遅れてクロの体を支配した。
「さようなら――クロ様」
意識を失う寸前、最後に見たガモーラは悲しそうな目をしていた気がした。
――
―
クロが再び目を覚ますと、そこは見慣れた自室の風景が視界を埋める。
――また…………戻ってきたのか…………。
これは前にも味わった感覚であった。自然と溢れそうになる涙を堪えるも、また泣き出してしまう。
「お腹が空いたんですか? よしよし――」
こうしてクロは3度目の人生が始まることとなった。
次こそはと。クロはそう思って前よりも一段と根回しをして最悪な未来を回避しようとするのだが――。
「ハク……」
無残にも剣で駆使刺しになって吊るされたハクの姿を目の当たりにする。もう涙すら枯れているかのように流れない。
「王子、よく私が魔族だと見抜きました。でも――無駄な足掻きでしたね」
そこには解任したはずの5本の角を生やした騎士団長が悠然と笑っていた。
「このやろうおおおおお!」
騎士団長は鍛えていたはずのクロの攻撃など容易く躱しながら、軽々とクロの命を絶ったのだった。
――
―
これが何度目の人生だろうか。
何度やっても聖卿国が襲われることを回避出来ない。
何度やっても父親が殺されることを回避出来ない。
何度やっても妹を守り抜くことが出来ない。
何度やっても自分の死を回避できない。
物資の爆発事件を防いでも、騎士団長を解任させても、ガモーラを運良く殺すことが出来ても、何をしても予期せぬ事態が起こりクロは殺されてしまう。
どの人生でも微妙な違いがあるのだが、魔豪国に襲われるという大きな事実はどの人生でも変わらない。
何度かこのループを繰り返すうちに、クロは着実に前よりも強くなっていったが、着実に精神はすり減っていた。
変わったことといえば、8歳まで生き延びることが出来るようになった事ぐらいだった。
そんな8歳を迎えたクロは自室でウトウトと眠りにつくのを我慢しながら無心で書類に目を通していた。
――どうすればいい。どうすれば。どうすれば。どうすればいいんだ。
自分で自分の精神を押しつぶすように責め立てる。だけど答えが見つからない。
「クロ兄、大丈夫?」
すると心配そうに、キョトンとした表情でハクが擦り寄ってきた。
「……大丈夫だよ」
そう言うとクロは我ここにあらずの顔でハクの頭を撫でる。
「クロ兄大好き!」
ハクはギュッと力一杯クロにしがみついてきた。
何かを察っするほど鋭くはない。だけどハクには何かが伝わったのだろうか、元気になってほしいという気持ちがクロの心を浸してしく。
そんな無邪気なハクの行動に、クロは何故だか涙を流していた。
「クロ兄どうしたの? どこか痛いの?」
「いや……痛くないな」
「悪者にやられたの?」
「――わかんないな」
だけど溢れる涙は止まらない。既に心が折れかけていたからだ。
「クロ兄をいじめる悪者は私がやっつけるよ。だから泣き止んで。クロ兄は私が守るから」
――クロ兄は私が守るから。
考えていた数多もの戦略も、数多もの可能性も、全てを真っ白にする言葉だった。
そんな真っ白な頭の中にポツンと1人、笑顔のハクだけが残る。
――あぁ、ハクはどうしてこんなにも純粋で、どうしてこんなにも愛おしんだろう。
それはこの国を捨てる覚悟を固めるには充分であった。
自分の力ではこの国は救えない。だからこそ何を犠牲にしてもハクだけは守りきろう。
ハクを守るために、国を諦めることを決意したのだった。
「――どこへ行くの?」
そう決意してからの行動は早かった。
このまま行けば半年後に魔豪国に襲われ、クロは命を落とす。だからその前に誰にも告げずにこの国を出るのだ。もちろん事故で死んだことにするための細工を施して。
「この国を出るんだ。もう帰ってくることはない」
いざという時のためにまとめておいた荷物を担いで、ハクの手を強く握った。
そして細工を施した倉庫に自分とハクの身につけていた宝石を置いて火を放つ。
「お父様とお母様は?」
「また会える時が来るから――それまでは遠くに逃げるんだ。でも……僕がハクの側にずっといるよ……僕じゃ、嫌かな?」
クロは声を震わせながら嘘を付いてしまった。
そんなクロへ、ハクは大きく頭を振った。
「ん~ん、クロ兄がいれば寂しくないよ!」
無邪気ではあるが、ハクの少し寂しそうな表情を見たクロは、無理やり微笑みながら口を開いた。
「僕も、ハクがいれば何もいらないな」
そしてクロはハクをおぶって、夜中に聖卿国を出たのだった。
長い長い道のりを、小さな足で歩いていく。数々の村に立ち寄るも、最低限の食料と水の確保だけして、馬車にも乗らずに徒歩で進む。
誰も信用出来ない。姿がバレれば情報が伝わる。そしたら追っ手が来る可能性があるからだ。
前の人生で学んだ教訓を胸に秘め、誰にも頼らない道を選択する。
ハクには真実を知らせない。だから途方もない孤独との戦いになっていた。
そして半年も過ぎると新たな領土に到着する。
ミンティエ皇国――1度目の人生でガモーラが指示していた逃亡先。
だけどガモーラは裏切り者だったため、もしかしたら魔豪国の手の者が潜んでいるかもしれないので寄るという選択肢はない。
だからクロはミンティエ皇国と隣接しているバロック王国の領土へと歩を進めることにしたのだった――。
◇
「――それで僕達はこのジルムンクへたどり着いたんだ」
クロは遠くを見つめるように達観した表情で語り終えた。
にわかには信じ難い話ではあるが、俺が前世から来ているという事実もあり、可能性を全て否定出来ない。
それに――。
「信じてもらえるような内容じゃないけど、これが真実なんだ」
嘘を言っているとは到底思えないし、クロを疑いたくないという感情も、真実であるという方向へ後押しをする。
「何故王都へ行かなかったんだ?」
「もちろん考えたけど、国というものが怖かったんだ。とある商人の話で、このジルムンクの事を耳に入れた。この無法地帯は正直都合がいいと思ったんだ。だから成人するまでは――――力を付けるまでは、このジルムンクに身を隠そうと考えたんだな」
カラ笑いをしながら語るクロの目はどこか寂しげで、これまで沢山の苦行を経験してきたものだと感じるには充分だ。
「俺を信じろとは言わない。だが俺はお前を信じよう。他の誰が疑っても」
だからこんな言葉を掛けるのが精一杯だった。
クロはパチくりと目を見開いて俺を見つめる。
「ハクの病を治してくれた時からクレイは僕の友達……というよりは兄弟みたいに思ってるな」
「兄弟?」
「そうだな。僕がもちろん兄だけども」
「弟に負ける兄か」
口元を緩めて茶化すように呟くと、クロは眉を片方下げて慌てるように口を開く。
「ち、違う、まだ僕は本気を出していないだけだ!」
「いつ本気を出してくれるやら」
「いずれ出すからな。というか何年も鍛えてきた僕に勝てるクレイがおかしいんだからな?」
「人を化け物みたいに言うな」
「化け物という発想はなかったけど、化け物という言葉はしっくりくるな!」
「なんだと?」
「はははっクレイが怒ったぞ!」
つられてクロも笑うのだった――。
そんな楽しげな会話も一段落付き、俺達は根城に戻ることにした。
「そういえば、ここへ来てからは1度も死んでないのか?」
「実は1回死んだ」
「マジかよ」
深刻な質問に対してクロは気にしていない様子で軽く答える。
「10歳のときだな。病になったハクのために、薬を手に入れようとしたんだ。そしてクレイと出会ったあの屋敷に住んでた男達に殺された」
「――なるほど」
「だけど今度は産まれたところからじゃなかった。8歳の――ここに来てからの僕に戻ったんだ。それは初めてのことだった」
死んだら必ずしも0歳からスタートする訳ではないということか。
「だから薬の取引が出来るように予め根回しをしてあの男達と仲良くなったフリをしたんだ。そして薬を貰おうとあの屋敷に行ったら――」
「俺に会ったわけか」
「そうだな。正直びっくりした」
つまりクロがジルムンクへ初めて来たときの人生では、俺があの屋敷を襲うことはなかったということだ。
クロが起こした「何か」によって俺が屋敷に行くきっかけが生まれたということになる。
気になる点もいくつかあるが、どっちにしろ――、
「考えてもしょうがないことだな」
俺からしたら今生きているこの場所が真実なのだ。クロの主観から物事を考えてもしょうがない。
「あれっ、扉を開けっ放しにしたっけな」
根城へ戻ると、開けっ放しの扉を見たクロが首をかしげながら呟く。
その光景に嫌な予感が胸を過ぎった。
「誰の気配も感じ――」
「ハクっ!」
俺が言い終える前に、クロは叫びながら瞬時に屋敷の中へ飛び込んでいく。後を追うように俺もすぐさま屋敷へ入った。
二手に別れてハクを探すが、中を荒らされた形跡がないにも関わらず見当たらない。
「クレイ、見てくれ……」
するとテーブルの前に立ち尽くすクロが掠れるような声で告げた。
クロの元へ行くと、そこには置き手紙があった。
『王家の者よ。大切な妹を取り返したくば、"紅領"にある俺の根城までこい』
手紙には短くそう書かれていたのだった。
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