小さな象の私
私の頭の中には小さな象が居る。こいつがなかなかの曲者というか、めんどうくさいというか。私が何かをするにつけ、何か一つ、小言のようなものを呟いてくるのだ。それは賛同であったり、時に反論であるが、これが非常に煩わしく、そして心地よくもある。
例えば今、目の前にペペロンチーノが一皿置かれていたとする。するとこの小さな象は必ず『うまそうだな』と言うだろう。或いは服を買いに行ったとして、日ごろは好まないような色合いのものを手に取ると、やはり必ず『お前にそれは似合わないだろう』などと抜かしてくるのだ。
なぜ必ずと断定できるのか? それは簡単なこと。
この小さな象は、私そのものなのだから。
ある日、夢を見た。
そこでの私は何かしらの権威ある博士であり、私の記憶や人格そのものを全てデジタル化し、自身の複製を造り出すという実験を行っていた。複製を造ること、それ自体は成功を収めた。簡単な入出力装置に繋げてやれば、目の前のそれは気味が悪いほどに私だった。
本来は記憶・人格のみを複製し、会話のやりとりを行うだけの実験だったのだが、私は複製に完全な身体を与えたいと考えた。生身の人間と比較しても全く遜色のないものをだ。これは夢であるから、何故ということはわからない。夢とはそういうものである。
しかしそこまでの技術は無いらしく、とりあえず複製には機械の身体を与えることにした。
夢の記憶は、そこまでだった。
いつ目を覚ましたのだろうか。ずきんと痛む頭に『妙なものを見たな』と浮かべながら、ぐっしょりと汗ばんだ身体をゆっくり起こす。それからふと目に留まったカーテンの隅、そこに違和感を得た。いや、カーテンそれそのものに対してではないのだが……兎に角、言葉では上手く説明のできない強烈な違和感だった。
しかし寝ぼけた上に痛みを伴う頭では思索もままならず、とりあえず枕元の煙草を一つ咥え、辺りを見回した。
「鎮痛剤はどこにしまったかな」
普段からあまり整頓をしていない部屋であるから、それがすぐに見つかることは無い、はずだった。
『右奥の棚にある』
しんと静まり返った部屋。
『酷く痛む、早くしてくれないか』
それは明らかに響いていた。
声。私の声――――。
『私はお前だ。お前が生み出したもう一人のお前、それが私なのだ。覚えがあるだろう?』
確かそのようなことを言われたが、それがあの夢の“ 複製 ”だとするのなら、私自身の記憶全てを持っているわけで、話の辻褄は合わなくもない。しかしつまり、それでは夢と現実が混同しているということになってしまう。そんな馬鹿げた話を簡単に受け入れられるのかと問われれば、答えは“ 否 ”だ。私が権威ある博士だったのは夢の中だけであるから、きっと私の頭がおかしくなってしまったのだろうと、そう片付けてしまおうと考えた。
だが、そうはしなかった。
『私はお前の頭の中においては自由であるが、同時に不自由でもある。だからせめて、私に偽りの身体をくれないか?』
この一言に、強い興味を抱いたからだ。
奴は私の頭の中に居るもう一人の私であると言う。やはりあの夢に在った複製なのであると。しかし身体は私のものであるから奴に実体など存在せず、だから“ 脳内での身体 ”をよこせと。虚像が在れば脳内でイメージしやすく、そしてこれは私が奴の存在を認識する上で非常に役に立つのだと。『脳内バーチャルアイドル』のようなものと言ったところだろうか。
私は現状の全てを受け入れたわけでもなかったが、興味本位にどんな身体が欲しいのかと聞き返してみた。すると奴は少しの間を置いてこう答えた。
『象が良い』
私は象が大好きだった。
唐突に始まった謎の同居生活は、案外と悪いものでは無かった。奴は何かにつけて口出しをしてくるのだ。口出しといってもあくまで私の脳内での話であるが、しかし私がこうと思えばこうと同調し、これは違うなと思えばやはり違うと同調する。或いは真面目な議論を朝まで繰り広げてみたり、時にはくだらない話で笑い合う、そんな日々。
両親や兄弟とはさほど仲睦まじいものでも無かったからだろう、ずっと一人で生きてきたのだと強く思い込んでいたからだろう。それが非常に愉しかった。
また何かを迷い決めかねている時には決まって『もう答えは出ているのだろう』などと後押しをしてくれる。とても心強い理解者だった。それも当然と言えば当然かもしれない。
奴は他の誰でもない、私そのものなのだから。
ところで、奴は私の身体の感覚を共有しているわけではない。私が目で見たもの手で触れたもの、或いは心で感じたもの、それら全てはあくまで私個人のものであると、奴本人がそう言っていた。私はそれに対して、僅かばかりの憐れみを感じはじめていた。
そんな矢先のこと。
『今日は何を食べるんだ?』
一見するとこれと言って特筆すべきでもない、ただの日常会話の一つ。しかし私はそれが少しばかり気になった。奴に私の感覚は共有されていない。つまり私がどこへ行き何をしようと、何を食べようとも奴にはわからないのだから関係無いのだ。その上で、ここ最近は執拗に、そして妙に高揚した声でそんなことばかりを聞いてくる。
「どうしてそれを知りたがるのだ?」
『ああ……確信を得たのは今朝方なんだが――――』
「――――つまり、お前は味覚を感じはじめていると?」
『どうやらそのようだ』
「ふむ。それ以外は?」
『私はずっと何もない空間に居る。ここには右も左も上も下も、光というものでさえ存在しない。つまりは私の思考だけの世界だった。だが……それが最近、ここは暗闇なのだと気が付いたんだ』
「それはつまり、光を理解したということか?」
『おそらくお前の視覚を……いや、それだけじゃあない。或いはお前の全身の感覚を理解しはじめているのかもしれない。上下が解るということはつまり、重力を感じているということだろうからな』
「なるほど………」
前述の通り、私は一切の自由が存在しえない奴に対して憐れみを感じていたわけであるから、これはとても喜ばしいことだった。例えそれが私の意志による行動だったとしても、感覚を得た奴とより深く理解しあえるのかもしれないと、これまで以上に世界が愉しくなっていくのではないかと。だからだろう、私の身体は軽快な小躍りを披露していた。
そして私の頭の小さな象もまた鼻をぶんぶんと振り回し、とても喜んでいたように思う。
そうなってからは、兎に角早かった。
「今日は“ 私 ”が好きなものを食べると決めただろう」
『お前の好みは“ 私 ”の好みでもある。つまり私が食べたいものは同時にお前も食べたいものだということだ。ああ、その先に在る店が良い。そこにしよう』
「……まったく、敵わないな」
奴の言うことに間違いは無い。私の身体は当然のようにその店へと吸い込まれて行くのだから。しかし、全身の感覚を共有するようになってから、奴はだんだんと私の行動に強く口を挟むようになってきた。あくまでもこの身体は私のものであるが、私もまたこの事実に喜んでいた。暗く何も無い世界に在って思考のみを許されただけの存在だったのだから当然のこと、きっと人間としての感覚を得たことに喜びを感じているのだろうと。
こうしてこと在るごとに歓喜の鼻を揺らす小さな象を、私はただ微笑ましく眺めていた。
そうしていつしか、たった一人で死を迎えようと考えていた私に添い遂げたいと思える伴侶が出来た。無論、脳内の存在などではなく現実の人間である。奴との出会いが無ければ、この不思議な同居生活が無ければ、こうはなっていなかったかもしれない。
おかげさまで、というには少々気が進まないが、きっと私は奴に感謝していたのだろうな――――。
その日、私が目を覚ましたのはとっぷりと日の暮れたあとだった。視界に入った短い針は八の数字を示している。それから気怠さを纏った身体を起こそうとした、その瞬間のこと。
全身を包み込む、あのときと同じ強烈な違和感。
「随分と遅いお目覚めだな」
声。私の声。
「まったく、いつまでも起きないものだから心配したぞ」
いや……違う。
「丁度今から夕飯にするところだ。今日は“我々の好物”にしておいた」
私は喋ってなどいない。
『なんだこれは……いや待て、身体が………』
勝手に動いている。
『まさか……』
「どうしたんだ? 食事どきにはいつも無駄に元気なお前が、今日は嫌に大人しいじゃあないか」
『……………違う』
「ん? 何が違うと言うんだ?」
『違う、これは私ではない。いや、私であるが私ではない……どうなっている!?』
何故だ。何故“ 奴 ”が私の身体を動かしている? 何故私は“ ここ ”にいる!?
「お前は私で、私はお前だろう? 今更何を言っているんだ?」
『違うッ、この身体は私のものだろう!? 元々私として生きてきたのはこの私だ!!』
そうだ、私こそが本物の私。それが何故入れ替わってしまったのだ!?
「ふむ……では、“ 私 ”は一体何だと言うのだ?」
『お前は私の複製だろう!? 私こそが本当の私なんだ!! 返せ、私の身体を返せッ!!』
「それをどう、証明する?」
『何?』
「お前が“ 本物の私 ”であると、何を以って証明すると言うのだ?」
『証明? 証明だと? 私こそが“ 私 ”として生きてきたのだ! その記憶も全てここに、私の中に在る!!』
「私もその記憶は持っている。私が私として生きてきた、全ての記憶がな」
『お前のそれは“ 複製 ”されたものだ! 本物ではない!!』
「だからそれをどう説明するのかと聞いている。お前の記憶が本物であり私の記憶が偽物であると、一体何を以ってしてどう証明できるというのだ?」
『それはッ…………私の………』
「私はお前そのものなのだよ? いや……お前が私と同じなのだと言っても良い。そこにはなんの違いも無い。今ここに在るのは二人の人間などではなく、全く同じ記憶と人格を持った“ 二つの意識 ”と“ 一つの身体 ”、たったのそれだけだ。見わけもつかない意識のどちらが本物かなどと、お前はおかしなことを言う。どちらも全く同じ私なのだよ」
『違う! ………違うっ……』
「しかし……現にこうしてこの身体を動かしているのは私であるから、私こそが本物の私であると、言えるのかもなぁ?」
ちがう…………
「んん? 嫌に元気が無いじゃないか。いやはや、身体が存在しないというのはきっと、非常に堪え難いことなのだろうなぁ? 尤も、本物の私にはとても理解できないことではあるが」
私は、私こそが………
「おっと、そういえば――――」
私が、本物の………………
「お前には、小さな身体があったなぁ?」
何を以ってして、誰が決めるのか
それはきっと何でもなくて、誰でもない
だから勝手にあてはめる
そうしないとめんどうくさいから