エピローグ 人生万事塞翁が兎
「ん…………あ、れ?」
ふと、目を覚ますと。
そこは、かつて俺が通っていた小学校の校庭、その片隅にぽつんと立つ、飼育小屋の中だった。
同室のうさぎ二匹は、月が鎌首を擡げる真夜中だというのに、まったくは気がない。疲れ切ったように眠っており、夜行性としての自尊心は砕け散っているようだった。
干乾びた藁が敷き詰められ、餌箱は汚れがこびりついたまま放置されている。
まったく、記憶の通りだ。
けど、あれ? おかしくないか?
俺は、この劣悪に過ぎる環境から、抜け出した筈じゃないのか?
一人の悪魔によって――――そう、アシュによって。
「あ、れぇ……?」
試しに、耳で自分の顔を軽く叩いてみる。
……思ったより痛いな。よし、夢ではない。
でも……ここはもう、戻ってくる筈のない場所なのに。
「まさか…………今までのことの方が、夢だったのか?」
そう考えれば、なるほど得心のいく話ではある。
そもそも、悪魔なんて存在自体が非現実的に過ぎるのだ。ある朝起きたら、いきなりうさぎに変わっていた俺が言うことじゃないけれど。
でもそれなら、辻褄が合うじゃないか。
悪魔なんていなくって。
その悪魔が超のつくドジなんてこともなくて。
崖から落ちて、森で遭難するなんてこともなく。
探してようやく見つけた時、子供みたいな表情をしたなんてこともなく。
豊満な胸に、俺を挟んで移動してくれるなんてことも。
俺のために、色々と調べてくれたなんてのも夢で。
俺のことを、好きだなんて言ってくれたのも嘘で。
俺のために、命をとして戦ってくれたのは幻影で。
全部全部、なにも起きない日常に退屈した俺の見た妄想で、夢で、嘘っぱちで――
「……あれ…………なんだ、これ……?」
ぽろっ、と脚に水が滴り落ちてきた。
雨漏り? いや、そもそも今は月が見えるほどの快晴だ。雨なんて降っちゃいない。
そこで気づいた――――涙だ。
俺の目から、涙がしたたり落ちてるのだと、やっと気づいた。
「は……? なんで、こんな……」
何故だ? なんでこんなものが出てくる?
もう、とっくに慣れた筈じゃないか。
こんな憂鬱で、自由なんて欠片もなく。
不衛生で絶望しか見えない生活を、もう一ヶ月も続けていたのだ。
ちょっとした夢で揺らぐほど、俺の心は生き生きしてたか?
それとも……それほどまで、あの夢は、魅力的だったのか。
「……アシュ」
ぼそっと、呟いてみる。
その言葉は不思議と、今まで何回も言ってきたが如く、口に馴染んでいて――
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁ――――あーっ!! よ、ようやく、見つけましたーっ!!」
気味の悪いくらいの静寂を、打ち破る声があった。
真夜中に、近所迷惑も考えない大音声。
しかも、本来進入禁止の校庭において。
夢で見たのとまったく同じ、銀髪の美女がそこに立っていた。
「…………は?」
「卯兎さんっ! あなた、あなたは、神奈月卯兎さんですよねっ!?」
がしゃぁんっ、と網に顔を押し付け、やけに大きな胸を持つその美女は、俺の名を連呼していた。
……これは、どういうことだ?
まさかの予知夢? いや、俺の見ていた夢と、これは状況が違い過ぎるぞ。
ということは、まさか、まさかだが。
今までのことは――――全部、現実?
夢じゃ、ないのか?
「卯兎さんっ!!」
「お、おぉ……」
「卯兎さんっ!! 私の、私の名前、名前を呼んでくださいっ!」
名前?
名前って…………戸惑いながらも、俺は夢で見た女の名を呟いてみる。
「え、と……アシュ、で、いいのか?」
「ぶっぶー! 違います今のはノーカンです! そっちじゃなくて、真名の方です! あの天使三人組をぼこぼこにした時、私が名乗った名前です!」
「ま、真名……!」
女の言葉で、俺は確信する。
確かに、俺が夢だと思った出来事は、起きていたのだと。
彼女の言葉と俺の記憶との符号が、その証拠だ。
「た、確か……アスモ、デウス……だったか?」
「はいっ!! 悪魔アスモデウス、契約により再臨致しました!!」
元気いっぱいにアスモデウス――――いや、アシュは、快活な笑顔を浮かべてきた。
本当に、本当に本物のアシュだ。
俺の記憶は――――夢なんかじゃなかったのだ。
そう思うだけで、胸がはち切れんばかりに嬉しかった。言葉にできないくらい、涙もすぐに乾くくらいに。
自分が今、薄汚れた飼育小屋にいることさえ、どうでもよいほどに。
「本当に……アシュ、なんだよな? 全部、現実だよな! 夢なんかじゃ、ないんだよなっ!?」
「ありゃ、不安がらせちゃいましたか。申し訳ないです……でも、ちゃんと現実ですよ! そして私は、今でも卯兎さんのことが大好きですっ」
「そ、そりゃどうも……で、でも、なんで俺、またここに?」
「そうですね。一から説明させていただきます」
言いながら、アシュは飼育小屋の南京錠に手をかける。
なんだか、懐かしい気分だ。以前にも、こんなことはあった。注視していたが、どうやら左右の扉を間違えたりはしていないようだ。
少しだけ、ホッと胸を撫で下ろす。
「例の天使三人をぼこぼこにした後ですが……卯兎さんは、私との契約によって魂を捧げたので、一旦は死んじゃいました」
「そうか…………って、えっ? し、死ぃっ!?」
俺が、死んだ? しかも、え、つまり人間時代と合わせて二回も?
一から説明って言ったけど、一番目からかなりヘヴィ過ぎないか!?
「お、落ち着いてくださいね卯兎さん。死んだといっても、私は卯兎さんの魂の一部しか食べていません。なので、魂ごと完全に死んだ、消滅したのとは違います。――――それで、今回の『人類獣化事変』そのものですが、結局私が大暴れした所為で、魔界や神界にも事の詳細がバレちゃいまして…………」
「……どう、なったんだ?」
「要は今回の異変って、天界による神界側へのご機嫌窺い、胡麻摺りだったんですよ。とはいえ、流石に人間――卯兎さん――を殺したのやり過ぎでしたし、そもそも天界側の禁則事項です。神界側も、人間が増え過ぎたというのはあくまで軽口で、本気じゃなかったらしいですし、全界一致でなかったことにしたかったんですよね」
「なかった、ことに……」
「そもそもなにも起きていなかった、という風にしたかったんです。ですが、既に何人かは動物にされちゃってますし、その事後工作も済んじゃってます。それを放置するのはどうなのかと、魔界側に突っついてもらいまして…………ちょっと裏技ですけど、時間そのものを巻き戻す、という解決策を取らせてもらいました」
「へぇ……って、は? なに? 時間、を?」
「はいっ。およそ一ヶ月ほど、魔界・新開・天界の力によって、人間界の時間を巻き戻しちゃいました」
ただ、ごめんなさい。
アシュは、さりげなくスケールの物凄くでかいことを言いながら、何故か謝ってくる。
と、そこでがぢゃんっ、と南京錠が外れ、鎖が力なく垂れ下がる。
「その、ちょっと力が足りなくて、他の人間たちは元に戻せたんですが…………卯兎さんだけ、ほんのちょっと時間が足りず……うさぎになった、直後までしか、戻せませんでした」
「……あぁ、そう、か」
なるほど、つまり俺は、まだ小学生に揉みくちゃにされるギリギリ前だった、と。
でも、そこまで世界を巻き戻すというだけで、きっと物凄く大変なことなのだろう。なにせアインシュタインの理論と真っ向対決したのだ。俺以外のうさぎが全員人間に戻れたのなら、それだけでも充分過ぎるだろう。
「気にすることじゃないだろ。どの道、戻したところで俺は病院のベッドの上で、昏睡状態なんだしな。命があっただけでもよかった」
「よくないです!」
がぢゃぁっ、と勢いよく飼育小屋の扉を開き、アシュはずかずかと飼育小屋に入ってくる。
俺のそばまで近づくと、膝を曲げてしゃがみ込む。
その目は相変わらず、爛々と真紅に輝いており。
月明りを反射する銀髪は、惚れ惚れするほどに、美しい。
「私は、確かにあなたと契約しました。あなたを、人間に戻してみせると」
「……け、けどあれは」
「悪魔として、契約は絶対です! それは、曲げられませんし…………なにより、私が曲げたくありません。あなたとの約束を、私は、絶対に守りたい」
だから。
もう一回、契約してください。
言って、アシュは俺の鼻先に小指を突き出してくる。
「……あんた、強情だって言われないか? ドジ以外に」
「卯兎さんだからですよ。他のことだったら、こんなに執着しません」
「……頼んじまって、いいのかよ。俺は、あんたを騙そうとした奴だぜ?」
「魂なんか取りませんよ。それより私には、欲しいものがありますから」
「……? なんだよ、それ」
「ふっふっふー、秘密ですっ♪」
「……まぁ、いいか。あんたになら、なにを取られたって構わねぇよ」
俺は、小指の先につん、と鼻先で触れた。
それが、約束の証だ。
にこ、とアシュは微笑み、俺の頭を撫でてきた。
「アシュ。俺を、人間に戻してくれ。人間に戻れたら、俺の全てを好きにしてくれて構わないぜ」
「やん、勿体ない契約ですねぇ。うん、それじゃ――――よろしくお願いします。卯兎さん」
「こっちこそ、よろしくな」
言って、俺はアシュの方へ歩き出す。
いつか、人間に戻れたら、その時こそ本当に、この命は失うのだろう。
俺が交わしたのは、そういう契約だ。
けど、こいつにだったら――――構わない。
俺以上に俺のことを思い、俺以上に俺の命を尊重する。
そんな奴に出会えただけで――――俺は、幸せなのだろう。
「なんなら移動の時は、俺を胸に挟んでくれてもいいんだぜ?」
「ふふっ、いいですよー。ほら、こっちです」
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