第33章 触らぬうさぎに祟りなし
「『事理崩夜話』――――『神の夜』で事象の記憶そのものに傷をつける、ライちゃんの十八番だねー。さて、一日に二度もビルが崩れるのに立ち会った感想はどっかなー?」
ゼムシエルの声が、聞こえる。
だが、周囲の様子を窺い知ることはできない。何故だか、目の前が真っ暗だ。辺り一面が闇に包まれ、目を開けても閉じても、大した差異がない。
身動きも、もう取れなかった。身体に、力が入らない。
ぐったりと寝転がったままの俺は、まるで意識だけはある屍だ。
「……? あれ……あの、悪魔の……翼……? 丸まって……防御、体勢……?」
ライリエルの、戸惑うような声も聞こえた。
翼を丸めて? それは、少しおかしいだろう。蝶の羽みたいな形をした翼を、どうやって丸めるというんだ? アシュの翼の話、だよな?
「っ、つつつ……ぜ、ゼムシエル! 本っ当に、あの悪魔と人間うさぎの魂を言われた通りにいじくれば、助けてくれるんすよね!?」
ガブリエルも、条件付きで生かしてもらっているのか、キンキンと声が響いた。
既に、周囲を三人の天使に囲まれている。
四面楚歌の現状。それなのに俺は、焦ってはいなかった。
寧ろ、どこか穏やかな気持ちでさえあった。
何故なら、契約は絶対だと。
アシュが、言ってくれたのだから――――
「卯兎さん。もう少しだけ、待ってくださいね。もう少しだけ――――私のこと、見ていてください」
ばさぁ……っ、と音がして、翼が開く。
蝶のような優雅さからかけ離れた、竜を思わせる巨大な翼が。
それも、背中から三対。計六枚。
俺を、すっかり定位置になった胸の谷間に収めたまま、アシュは、天使たち三人にその身を晒した。
「っ、やっと出てき、た……!?」
目の前にいたガブリエルが、一瞬、戸惑ったような顔を見せた。
翼を広げたアシュの姿は――――つい最前までと、あまりに違っていたのだ。
服はワンピースから、大きく胸元をはだけたものに変わり。
露出した腹には、悪魔の紋様が無数に描かれ。
骨を嘗めして縫い合わせたようなスカートから伸びる脚は、硬い鎧に覆われ。
失くした筈の右腕は、大量の幾何学模様が刻まれ、鋭い槍を持って復活していた。
銀髪はさらに伸び、足元まで伸びたものが翼による風に靡き。
真紅の瞳は、右眼に歪なハートが刻まれていた。
その姿、その威厳、その雰囲気は。
ただただ荘厳で、美して――――俺は感動で、言葉を失っていた。
「っ……じ、尋常じゃない魔力……! あ、あんた一体、何者っすか!?」
たじろいだガブリエルは、反射的にだろう、そう問うていた。
アシュは――――いや、この強大な悪魔は。
鈴の鳴るような、しかしどこか威厳に満ちた声で、その問いに答えた。
「我が真名はAsmodeus。七二の軍団を統べる王にして、淫靡と娯楽で堕落を謳う、放蕩の導である」
「っ!? あ、アスモデ――!?」
ガブリエルが、アシュの真名を復唱する暇はなかった。
一瞬にして間合いを詰めたアシュが、手にしていた槍で正面を思いきり薙いだのだ。
ガブリエルは、それを反射神経だけで避ける。咄嗟に地面を蹴り、後方へと回避する。
「っ、上等っすよぉっ! 試せっ! 『英雄の受難』っ!!」
瞬間、地面が一斉に蠢動を始める。
が、一向にさっきのような隆起は見せない。動きが酷く鈍くて、俺は、アシュが素手で砕いたビルの有様を思い出した。
「な、なんでっ……」
「あなたの神器は、確かに強力です。自分以外の魂を操るだなんて……それこそ、神業でしょう。流石、三大天使と呼ばれるだけはあります」
と、そこで俺は気づいた。
妙な、嫌な臭いがするのだ。槍の切っ先から、肺腑を抉られるような臭いが。
見れば、槍の先から禍々しい色の液体が滴り、それはガス状になって周囲に漂っていた。
「ですが、それなら対策は簡単です。さっき言ってましたよね? 悪魔の魂は弄り辛い、と――――だから、この周囲一帯の魂あるもの全て、堕天させればいい」
「……! その槍、毒っすかっ! く、っそが――」
ガブリエルが迷わず選んだのは、退避だった。
行先は空。六枚の翼をはばたかせ、一気に遥か上空まで逃げようとする。
雲か、或いは空そのものでも操ろうとしたのか。
でも、その選択はあまりにも、遅い。
なによりも、速度が。
「な、はぁっ!?」
ガブリエルの行く先、その真正面に。
アシュは、たった一回の羽ばたきで悠々追いついたのだ。
右腕に携えた槍に、大量の毒の煙を纏わせて。
「な、なんで……そんな、嘘……」
「ガブリエル。あなたは許されざる罪を犯したのです――――食らいなさいっ!!」
叫び、アシュは槍を突き出す。
纏っていた毒霧は切っ先を模倣し、ガブリエルの腹に突き刺さる!
「『毒杯呷啜乱痴気狂宴』――――『妄盲槍葬』っ!!」
毒の霧が、ガブリエルを包み込み、吹き飛んでいく。
遠い地上で、なにかに激突するような音が響いて――――次の瞬間。
ぐぢゅうっ、と嫌な音が、アシュの背中から響いた。
「ぐ……く……っ!?」
しかし、苦悶の息を漏らしたのは、アシュではない。
背後からアシュの背中を刺し貫いた、ゼムシエルの方だった。
「ぐ、か……な、なに、これ…………身体が、上手く、動かな……!?」
「『毒杯呷啜乱痴気狂宴』……私の槍からは、常に魂を犯す猛毒が垂れ流しになっています。迂闊に近づけば、如何に天使といえども、魂ごと汚染されるのは防げませんよ……!」
「ぐ、ぅ……! なん、で……あんたら、悪魔は…………人間界、じゃ、極端に……力を、制限される……はず、なのにぃ……!」
「えぇ。契約なしでは、ね」
ずちゅぅっ、と、アシュの背中から槍が抜ける。
ゆっくり振り返ると、アシュは槍を構え、切っ先をゼムシエルに向けた。
「私たち悪魔は、契約によって人間の魂を食むことで、本来の力を発揮できます。私はこう見えて、ソロモン七二柱の一として封じられた悪魔です。並の悪魔と同程度の力しかないと思われては…………少し、心外です」
なによりも。
言いながら、アシュは槍を大きく振りかぶる。
対するゼムシエルは、防御しようと針を掲げるのだが、しかし。
その程度では、無駄だ。
「自分たちのために動いてるあなたと、卯兎さんのために戦ってる私とじゃ――――思いの強さが、何億倍も違うんですよぉっ!!」
槍を上から叩きつけると――――針は呆気なく、ぼきんっ、と折れた。
そのまま、ゼムシエルも地面めがけて叩き落される。
そして、最後は――
「……あなたは、不意討ちとかしてこないんですね。ライリエル、といいましたか」
「…………」
最後に残ったライリエルは、しかし、不意討ちをしないのではなかった。
できないのだ。
アシュによる毒の霧で、動くことさえままならず、ナイフを構えたまま、宙に浮かぶのみだ。
「……正直、あなたにはなんの恨みもありません。ですから、おとなしく引くのなら、見逃してあげなくもありませんよ。どう、しますか?」
「…………そういう、訳には……行かない、から」
言って。
ライリエルは、二本のナイフを構え、吶喊してくる。
その最中にも、翼はボロボロと崩れ。
ナイフはぽろぽろと欠けていき。
やがて――――アシュの元へ到達する前に、翼が全て消え失せた。
「…………っ!」
「……あの時の」
落ちていく、ライリエルを。
追うことなく、目を合わせることもなく、アシュは、独り言みたいに呟いた。
「あの時の、おにぎり。それと、卯兎さんへあげた水…………ありがとう、ございました」
「――――」
嬉しくない、と。
彼女はそう言った、そんな気がした。
悔しそうに、それでも微笑みながら、彼女は落ちていく。
街そのものさえ一望できる上空に残ったのは、アシュと俺だけだった。
「卯兎さん、契約は完了です。終わりましたよ…………卯兎、さん……?」
成果を見せびらかす犬のように、嬉しそうに言ってくるアシュ。
あぁ、ありがとう。そう言ってやりたかった。
けど、ごめんな。
アシュ。
俺にはもう、それに応える術も、伝える方法もない。
ただゆっくりと、力なく、俺は瞼を下した…………――――




