第32章 命あっての物種うさぎ
視界が、記憶が、明滅する。
ちかちかと光の舞う視界に、アシュがいる。
大きく真紅の目を見開いて、目の周りをぼろぼろとこぼれる涙で汚している。
「卯兎、さん……! 卯兎さん、卯兎さんん……!」
「……聞こえ、てるよ……」
既に、痛みはなかった。
生物は死に瀕すると、脳が痛みという危険信号を止め、快楽作用のある脳内麻薬を分泌すると、聞いたことがある。きっと今は、その状態なのだろう。
赤く染まった自分の身体が、もうなんだか、自分じゃないみたいで。
酷い違和感を覚えながら、俺は、訥々と声を出す。
「……ここ、は……?」
「廃墟の一角です。どこかまでは、正確には分かりませんけど…………とにかく、全速力で逃げました。しばらくは、大丈夫なはずです」
「……そう、か……」
「っ、喋らないで、ください。今すぐ病院に行きましょう。ね? 私は治療とか、そういうのは苦手ですけど、でも今なら、まだ助かるかも――」
「助から、ねぇよ…………俺は、もう……死ぬ」
無駄に力強く、俺は断言した。
アシュは無言で首を振ってくるが…………自分の身体のことだ。うさぎになっていたって、流石に分かる。
俺はもう、助からない。
朦朧とする意識が、痛みなく血を吐き出し続ける傷口が、雄弁に物語っている。
「…………ごめんな、アシュ」
死に瀕して、もうすぐ死ぬと分かっていて。
その上で最初に口を衝いて出たのは――――アシュへの、謝罪だった。
ずっと引っかかっていた、痞えを。
何故だか好意を前面に押し出してくれていたアシュに、俺が及び腰になっていた、その理由を。
話せずにはいられなかった――――話さずに死ぬことが、心苦しく思えてしまった。
「な、なんですかそんな、いきなり…………い、いえ! 話さないでください、話しちゃダメです! 話したら、だって、卯兎さんが……」
「頼むよ……言わせて、くれ…………心残り、なんだ……」
「でも、でもぉ……!」
「アシュ…………俺はな……契約の、時……少し、策を……仕込んだんだ……」
「…………」
ずぅ、と鼻を啜る音だけが聞こえる。
あぁ、静かだ。
死を間近に控えたその静かさが、やけに心地よい。
堰を切ったように、俺の口からは言葉がぽろぽろとこぼれていった。
「覚えて、いるか……? 俺が……契約の時、言った言葉を……」
――――俺が人間に戻れた暁には、『この俺』の魂、好きにしてくれて構わないぜ。
契約の際、俺はそんな風に口にした。
仕込んだ策を承知で見ると、奇妙な言葉だ。下手くそな英語の翻訳みたいに。
「『この俺』の魂っつーのは…………うさぎの、魂って、意味だ……俺は今、うさぎだから、な……。だから…………人間に、戻った時……、人間の俺の、魂には…………手が、出せないように…………こんな、言い回しにしたんだ……」
「…………」
「俺は…………あんたを、騙してた……」
だから、ごめんな。
繰り返しになるその言葉を、俺はぽつりとこぼした。
本当はもっと言いたい。何度だって言いたい。
懺悔のように、俺は謝罪を口にしたくて、仕方なかった。
なのに、息もロクにしてくれない肺が、それを許してくれない。もどかしくて、俺はか細い息で唸った。
と。
「…………っふふ、ふふふふっ…………なにを、言ってるんですか……卯兎さんってば」
アシュが、笑った。
涙でぐしゃぐしゃになった顔で、無理をしてでも。
ぎこちなく不器用な笑みで、俺のことを見つめていた。
「そんな、下手くそな言葉遊びじゃ……悪魔は、誤魔化せませんよ…………そんなことを、申し訳なく思ってただなんて……」
卯兎さんは、お人好し過ぎますよ。
ぽたっ、と額にアシュの涙が落ちてくる。温かなそれが、アシュの言葉も表情も、嘘偽りない本物だと伝えてくれる。
そうか。
俺が感じていた罪悪感は――――そもそもが、お門違いだったか。
このドジで可愛い悪魔を出し抜けると思っていた不遜さが、齎しただけの幻影か。
なんだろう、そう分かってもなんら悔しくない。
寧ろ清々しいくらいだった。
悔しいのは、それよりも――
「……本当に、卯兎さんはお人好しですよ……」
と。
ぽたぽたと、まるで小雨のように、アシュの涙が降ってくる。
「私、昔っからドジばっかりで…………おんなじ悪魔からも、役立たずとか、要らないとか、ずっと言われ続けてて……そんなんだから、困ってても、誰も助けになんか、来てくれなくて…………」
「……アシュ……?」
「だから……嬉しかったんです。あの時、崖から落ちちゃった私を、卯兎さんが探してくれたこと。見つけてくれたこと。叱ってくれたことが…………本当に、嬉しかったんです」
「…………」
「私は……卯兎さんが、大好きです。あの時からずっと、大好きなんです」
「……アシュ」
「……なのに、私は卯兎さんを、守れませんでした……」
ぎゅう、と。
傷口に手を当て、少しでも出血を阻もうと。
白魚のような指たちが、瞬く間に血で濡れていく。嫌な臭いが、周囲に充満していく。
「守りたいって、この人の願いを叶えたいって、生まれて初めて思えたのに…………! 私は…………好きな人の願い一つ、叶えられない。なんにも、なんにもできない…………それが、それが悔しいんです。卯兎さん……!」
訥々と、でも確かに。
思いの丈を全て、アシュは話してくれた。
俺のことが好きだと、そう言ってくれた。
あぁ、それは本当に、心から嬉しい。
小学生の、愛玩具としてのそれとは違う。本物の、他者に対しての愛情。
それを、うさぎの身で受けられたのは――――本当に、幸せだ。
だからこそ、俺も悔しい。
歯噛みするくらい、このまま死ぬのは嫌だってくらいに、悔しい。
「…………アシュ。俺も、だよ……」
「え……?」
「俺も、悔しい……。俺は…………あいつらに、殺されたんだ……!」
殺された。
そう口に出すと、腸が煮えるような悔しさが沸々と湧いてくる。
「一度目は、ガブリエルって奴に……人間として、殺された。二度目は、今だ…………ゼムシエルって奴に、刺された。ライリエルって子は……あの時、森で、水やおにぎりを、くれたが…………他の、二人は……俺を……殺し、やがった……!」
「…………」
「悔しい、さ……悔しいよ……! 俺は……死にたくなんか、なかったのに……!」
「…………」
「でも……分かっちまう。自分の、身体だから……もう死ぬって、分かっちまう……それが、悔しいんだ……!」
せめて。
せめて奴らに、一泡吹かせたい。
そう、力の限りに呟いた。
それくらいの贅沢、願い、許されたっていいじゃないか。
俺は、うさぎを助けようと道路に飛び出しただけなのに。
人間に戻りたいと願い、無駄なのに悪魔を騙しにかかって。
最後には、天使によって殺されるだなんて。
悔しくて、悔しくて悔しくて、堪らない――――
「……卯兎さん。最期に、契約、してくれませんか?」
ゆっくりと、俺のことを抱き上げながら。
アシュが、優しく語りかけてくる。
「契、約……?」
「卯兎さんの死を、私は、悔しいけど、回避できません。でも、その最後の願いだけなら……叶えるって、約束できます」
「…………」
「契約、してください。お願いします。このままじゃ――」
このまま、あなたを失ったんじゃ。
悔しくて、私まで死にたくなります。
アシュは、切実な声でそう続けた。
「……契約、すれば……アシュは、助かるか……?」
「はいっ」
「……死のうだ、なんて…………考え、ないか……?」
「約束、します」
「……じゃあ、契約、するよ……」
にぃっ、と俺は、力なく、でも笑うことができた。
アシュは言った。悪魔の契約は絶対だと。
だったら、絶対なんだよな。あんたが、約束すると言ってくれたんだから。
アシュは――――無事でいられるんだよな。
死のうだなんて考えずに、魔界にだって帰れるんだよな。
だったら、いい。
どうせ助からない命が、俺を好いてくれる奴のために使われるなら。
これほど嬉しいことはない――――
「契約、だ……アシュ。俺の……敵を、取ってくれ……あいつらに、目にもの……見せて、やってくれ……!」
「……えぇ、悪魔として必ず、その契約、果たしてみせますね」
言って、アシュは俺のことをさらに持ち上げて。
俺の、うさぎの口に、己の唇を重ねた。
生まれて初めての、そして最後となるキスは。
柔らかくて、そして、甘い死の味がした。
――――瞬間、再びビルは、崩落を開始する。




