第30章 うさぎの目にも涙
「そうすれば――――なんだっていうんすか? 悪魔さん」
声が聞こえた瞬間、全身から血の気が引いた。
身体がさめざめと、冷たくなるのが分かった。
振り返る間もなく――――背後から、アシュの身体が吹き飛ばされた。
「ぐ――――が、はぁっ……!?」
咄嗟に身を翻し、アシュは背中から廃墟の一つに激突する。
「っ、アシュっ!?」
なにが起きたのかも分からない間に、壁に叩きつけられた俺は、ただ叫ぶことしかできない。
――――アシュが劣勢に陥っている理由は、明らかだった。
俺という、足手まといがいるからだ。
さっきから攻撃は右手一本のみ。その右腕さえ、今はない。残った左手は頑なに俺を抱きしめており、まともに動かすことなんてできない。
こんな状態で、戦って勝てる訳がないのだ。
況してや相手は、アシュが大天使だと認める相手。なら、もう――
「アシュ! 俺のことはいい、放せ! あんた一人なら、勝機は――」
「っ、ダメ、です…………っ!」
「で、でも――」
「ダメ、なんです…………卯兎さん、は……私が、守ります……! 絶対、に……!」
「アシュ――」
ぎゅう、と俺を握る力が強くなる。
何故、なんでだよ。
俺に、そんなことをしてもらう価値なんかないのに。
だって俺は――――俺は、あんたに――
「詰みっすねぇ、お二人さん。ここいらで、無駄な追いかけっこは終わりにするっすよ」
翼を小刻みに揺らし、まるで歩いているかのように。
ゆっくりと、ガブリエルが近づいてくる。
棘だらけの、まるで悪質な落とし穴の底みたいになった地面を、一つ一つ、焦らすよう丁寧に避けながら。
爛々と光るオッドアイに、確かな殺意を煌めかせ。
「っ、お、おいあんた! 俺は、俺はどうなってもいい! 殺されたっていいさ! だから、こいつは――――アシュだけは――」
「あんたを殺すのは既定路線っすよ。交換条件にはならないっす。大体、なにを天使相手に対等みたいな口利いてるんすか? 下等で愚かな人間如きが――――滅ぼされたいんすか?」
まぁどの道、あんたは殺すんすけど。
にたぁ、と避けたように唇をひん曲げて笑い。
一歩、また一歩と。
距離を、少しずつ詰めていく。
――――今度こそ終わりだと、死のイメージが鮮明に脳裏に過る。
あの時、うさぎを助けようと車に撥ねられた時と。
激烈な痛みと共に訪れた、酷く静かな気持ち。なにもなくなるのだという恐怖と、きっと脳内物質の効力だろう、妙にふわふわとした気分が。
しかし、目の前の圧倒的な恐怖に塗り潰されていく。
俺は――――気づいたら、呟いていた。
「いや、だ…………死にたく、ない……!」
その願いは。
酷く奇妙な形で――――天に届いた。
「…………え?」
ガブリエルが、紺と金のオッドアイを、ぱちぱちと瞬きさせる。
信じられないと言わんばかりの、困惑の表情。そしてそれは、見ているこちら側とて同じ心情だった。
アシュにはやや劣るだろう、しかし形の整った胸を、深々と。
無骨なナイフが、背中から刺し貫いていた。
「なん……で……!?」
「あなたが…………悪いんです、よ…………ガブリエル、さん……」
言って、それはナイフを引き抜く。
ガブリエルは、驚愕の表情のまま固まっている。ナイフが引き抜かれた箇所から血が噴き出し、痛みに唸るガブリエルが、辛そうに後ろへと目をやった。
彼女の背後には――――見覚えのある女性が、二人、立っていた。
「え…………あ、あんたらは」
そこに、そこに立っていたのは。
アシュが崖下へ落ちて、遭難したあの日。
森で出会い、水とおにぎりを恵んでくれた――――あの二人組だった。




