第29章 うさぎ安んぞ鴻鵠の志を知らん
音を立てて、ビル一棟が丸ごと崩れ落ちていく。
砂糖の塔に紅茶をこぼしたように、建造物が瓦礫になっていく様は、見ているだけで圧巻だった。それと同時に恐怖する。ほんの数秒前まで自分たちのいた場所が、瓦礫に押し潰され、埋め尽くされていくのは、背筋を凍らせるには充分過ぎた。
「だ、大丈夫ですか!? 卯兎さん!?」
「あ、あぁ…………助かったぜ、ありがとうなアシュ」
「いえ、私の方こそ感謝です」
俺を抱きかかえながら、翼を生やして宙に浮かぶアシュは早口で言う。
蝶のそれを連想させる翼は、お世辞にも速そうには見えない。しかし、崩落するビルから一っ飛びで、その崩壊を一望できる距離まで飛べたのだから、能力とは見た目によらないものだと思い知らされる。
アシュは――――紛れもない悪魔だ。
再確認し、同時にこの上なく頼もしく思う。
「卯兎さんが不審な声に気づいてくれたおかげです。多分…………これは、敵からの攻撃です。誰が相手かは知りませんが――」
「あっれー? マジっすか、今のを避けるっすか? 結構不意を突けたつもりなんっすけどねー、ショックっすわー」
「っ、アシュ! 向こう! 上だ!」
「へ? え?」
またもキンキンと高い声が聞こえ、俺は咄嗟に叫んだ。
しかし、アシュには聞こえていない。うさぎの優れた聴力だけが、離れた場所にいる奴の声を拾ってくれる。
崩れていく廃墟の、その向こう。月を背景に置いた上空に。
金髪で大きな胸を持つ女が、浮かんでいた。
背中からは幾枚もの翼を生やして。
手に何かを持って――――あぁダメだ!この距離じゃ、上手く見えない!
「……? とりまもう一発、次は地面からっすよ――――『英雄の闊歩』っ!!」
「地面……? っ、アシュ! 上に飛べっ!」
「っ、は、はいっ!!」
ばっと翼を広げ、アシュが一気に上空へと移動する。
と同時に、俺たちの真下の地面が一斉に隆起し、巨大な棘の形になって迫ってきた。
「う、わぁっ!?」
「アシュ! そのまま真っ直ぐ! そこに敵っぽいのがいるぞ!」
「りょりょ、了解です卯兎さんんっ!!」
軽くパニックを起こしながらも、アシュは俺の指示した通りに速度を速めた。
――――これは、なんだ?
ビルがひとりでに崩落して。
地面が隆起し、襲い掛かってきた。
一体なんだ? なにが起こっている?
襲ってきた奴の、能力なのか?
アシュが透明になったり、家を造れたりするのと同じような?
「! 見つけ、ましたぁっ!!」
上空の冷たい夜風が、一瞬でその力を弱めた。
空の上での急ブレーキ。腕に抱かれている体勢では不安定感が酷いが、流石にこの状況で胸に挟んでくれと言えるほど、俺は大人物ではない。
そこで、俺はふと、ある匂いに気づいた。
昨日、引っ越してしまった俺の家族の家に行った時。
家族の匂いに混じって微かに香ってきた――――僅かにツンとくる、練乳みたいに甘い匂い。
咄嗟に、前を向く。
そこには――――昨日、家の前で石塀に寄りかかっていた女が、浮かんでいた。
「…………あんた」
「ありゃ、喋れるうさぎとは珍しいっすね。ははぁ、なぁるほど。その子の耳で、あたしの声を捉えたんすね。あちゃー、失敗っすねぇ。あたしの口数が多いこの癖、やっぱ直さなくっちゃっすかねぇ。面倒っすねぇ」
飄々と喋る女は、酷く落ち着いていて、雰囲気も格好もラフだった。
白く、明らかにサイズが合っておらずに臍や谷間が丸見えのタンクトップ。さらにホットパンツという男の性欲をひたすらに刺激する格好に――――あまりにも不釣り合いな清浄な翼。背中から生える純白のそれは、左右に三枚ずつ並んでいる。翼が波打って風を起こすたびに、神々しい金髪がふわふわと揺れた。
左右で色の違う、碧と紺のオッドアイには。
左目だけ、碧に染まる大きなハートが刻まれている。
「昨日の…………やはりあなた、天使だったんですね」
「そういうあんたは見た感じ悪魔っすねぇ。くくくっ、こいつは都合がいいすねぇ。失敗作と同時に、不倶戴天の仇敵である悪魔を屠れるとは。一石二鳥とは正にこのことっすよ」
「っ、なんのつもりです! 一体なんの理由があって、人間を動物に変えていたのですかっ!? 答えなさい、天使っ!!」
「その呼び方はいただけないっすねぇ」
天使は、緩やかに手を胸まで持ち上げる。
すると、アシュがlPadを取り出すのと同じように、胸の谷間からハート形の器を取り出した。サラダでも漏れそうなそれを得意げに振りかざし、天使は余裕の調子を崩さずに砕けた口調で続けた。
「あたしは一応、ガブリエルっつー名前を頂いてるんすよ。尤も、あたしには荷が勝ち過ぎる、ご立派に過ぎる名前だと思うっすけどねぇ」
「ガブリ、エル……!? あなた、まさか、嘘でしょう……!?」
「? 知ってる名前なのか? アシュ」
「し、知ってるなんてものじゃないですっ! ガブリエルといえば、聖マリアに神の子の受胎告知を行ったとされる、大天使中の大天使です! ミカエル、ラファエルと並ぶ三大天使とされていて、私たち悪魔にとってみれば敵の首魁の一人ですよ!」
「くっくっくー。だーから買い被りっすよそんなの。あたしは見ての通り、やる気も覇気もないしがない天使の一人、社会の歯車に過ぎないっす。…………まぁとはいえ」
仕事はするっすけどね、怒られるの嫌いっすし。
軽い調子で天使――――ガブリエルが言った瞬間。
がくんっ、とアシュの身体がバランスを崩し、大きく傾いた。
「っ!?」
「アシュっ!?」
反射的に脚が動き、同時に視界が大きくずれる。
アシュの背中から生えていた、四枚の翼が。
一枚欠け、ぼろぼろと崩れていた。
「な、なにを!?」
「これが、あたしが神より賜った神器『神の英雄』の効果っすよ。対象の魂を移動させたり、或いは、自在に変化させられるっす!」
魂を、変化させるだと!?
それは不味い! 悪魔であるアシュは、そもそもが魂だけの存在なのだ。その魂を自分でいじくって、身体や服、翼を作り出している。
魂を変化させられるということは、アシュの姿そのもの、存在自体をいじれるということだ!
翼がなくなったのはそういうからくりか! くそっ、相性最悪じゃねぇか!
「……その神器で、人間を、うさぎに変えたのですね」
と。
そんな場合じゃないだろうに、三枚の翼で辛うじて身を支えつつ、アシュは問うた。
「ん? そうっすよ」
「なんで…………そんなことを、したのですか」
「いっやぁ、あたしも詳しくは知らないんすけどね。まぁ冥途の土産に教えといたげるっすよ。なんだか神族たちがぼやいたらしいっすよ? 最近、人間増え過ぎてて生意気じゃね? 的なことを」
「…………は?」
思わず、声が漏れた。
増え過ぎて、生意気? たったそんな、下らない愚痴で?
「そんなもので…………あんたは、人間を――――俺達を、動物に変えたっていうのか?」
「そうっすよ。まぁ、そこの君についてはまた少し例外っすけ――――どぉっ!?」
余裕綽々だったガブリエルが、咄嗟に上半身を逸らし、回避を選択する。
目を剥き、怒りの形相を呈したアシュが、三枚しかない翼で羽ばたき、ガブリエルの首を狙って攻撃したのだ。鋭く爪を伸ばし、血管の膨張した右腕が、しかし寸でのところで空を切る。
「あっぶないっすねぇ。やぁっぱ、悪魔の相手は疲れるっす。上手いこと魂いじれないんですもん。その点、人間はえらく簡単っしたけどねぇ」
「っ、貴っ様ぁああああああああああああああああああああああっ!!」
なおも右腕を振りかざすアシュ。
しかし、それを遮るように、周囲が一気に暗くなる。月明りがなにかに遮られて、暗闇に覆われてしまう。
「っ、アシュ! あれ!」
身を起こした俺に見えたのは――――あまりに巨大なビルだった。
窓が不自然に歪み、間延びしている。元々、あんな超高層ビルなんかなかったはずだ。
さっきの廃墟の崩落も、地面の隆起も、まさか、同じように?
「日本人の癖に、付喪神も知らないんすか? 物にだって魂はあるんすよ。あんたら人間よりもずっとずっと、操りやすくて従順な魂がね」
にたにたと笑うガブリエルが、指をぱちんと鳴らす。
すると、突如現れた巨大ビルは大きくその体躯を撓ませ、鞭のようにアシュめがけて襲い掛かってきた。
「っ、アシュ! 避け――」
「――――」
一瞬、なにが起きたか分からなかった。
花火が至近距離で炸裂したような衝撃と、爆発音が耳を劈いた。咄嗟に目を閉じた俺が、本能に抗って目を開けた、その瞬間には、
迫り来ていたビルの最上階部分は、無残にも砕け散り。
無数の破片が雨粒のように、地上へと降り注いでいった。
ま、まさか…………アシュの奴。
素手で、ビルを叩き割ったのか!?
しかも、ビルはそこからまったく動かず、追撃の様子もない。細かに蠕動はしているが…………いや、これは。
動きが、単純に鈍っている?
「あ、アシュ…………?」
「……………………どういう、ことですか」
ふーっ、と大きく息を吐き出し。
努めて平静を装った様子で、アシュは、なにかを問いかける。
「んー? なんっすか、冥途の土産が足りないっていうんすか? 生意気な奴っすねぇ、ボーナスで一個だけっすよ?」
「あなたはさっき、卯兎さんを例外だと言いました。その前には、失敗作、とも。…………それは、どういう意味ですか」
「ウトさん? あぁ、あんたが後生大事に抱えてるうさぎっすか。覚えているっすよ、うっすらっすけど。確か、交通事故で死に損なってたガキっすよね?」
「っ!!」
ばさぁっ! と翼が空を叩いた。
一瞬にして爆発的な速度を発生させたアシュは、たった今ビルまで砕き割った右腕を突き出し。
すぐ目の前まで迫ったガブリエルの頭部を。
握り潰さんばかりに、手を開いて。
――――その腕が、指先からほろほろとほどけ、崩れていった。
「っ!? こん、な……!?」
「悪いっすねぇ、それを知られる訳にはいかないんすよ。っつーか、そのガキのことを知ってる奴ぁ、消えてもらう他ないんすよねぇ……!」
言って、ガブリエルは『神の英雄』とかいう器を振りかざし。
思い切り、アシュの頭めがけて打ち下ろした。
「がっ……!」
叩きのめされ、アシュは力なく落ちていく。
迫るのは、棘だらけになったままの地面。ただでさえ、落ちたら不味い高高度からの落下だ。このままじゃ、如何に悪魔であるアシュとはいえ耐えられない!
「アシュ! 起きろ、おい、アシュっ!!」
「っ、か、は……っ!」
寸でのところで意識を取り戻したアシュは、三枚しかない翼で不器用に旋回する。
そのまま、凄まじい速度でガブリエルに背を向け、出せる限りの速度でその場から離脱しようと飛んだ。
「アシュ! 大丈夫かっ!?」
「え、えぇ、なんとか…………すみません! 一回離脱して、このことを魔界に報告します! そうすれば――」
「そうすれば――――なんだっていうんすか? 悪魔さん」
声が聞こえた瞬間、全身から血の気が引いた。
身体がさめざめと、冷たくなるのが分かった。
振り返る間もなく――――背後から、アシュの身体が吹き飛ばされた。




