第28章 積善のうさぎに余慶あり?
塒に戻ったのは、またも夜のどっぷり更けた時間帯だった。
アシュがプリなんとかと名付けた、うさぎ専用の家。流石にそんな建造物があると目立つということで、アシュが能力でもって透明化したり、うさぎたちとの別れを惜しんでもふもふしまくってたりと――――まぁ、大方はアシュの所為で、帰宅時間は大幅に遅れてしまった。
ペットショップも閉まっている時間だったので、森に設置してきた分はともかく、俺の分がない始末。
仕方なく、裸電球の煌々と灯る下で、もそもそと牧草を食む。
大して美味くはない。が、空腹時にはそんなこと関係ないし、いつまでも噛んでいられる繊維質の牧草は、もぐもぐと口に入れているだけで満腹中枢を刺激する。
記憶やら意識やらはばっちり人間なのだが、うさぎとしての生活にも慣れ切っている。
そんな自分がいることに、以前は危機感を募らせる毎日だったが――――今は、違う。
今は、希望がすぐ隣にいるからか、そんな自分を笑えるようになってきた。
ありがたいことだ。
相手は悪魔だが。
「……どう、ですか? 卯兎さん」
「? なにがだ?」
「えと…………静か、ですかね?」
「あぁ」
ぴくぴくと、耳を動かしてみる。だが、アシュの細かな挙動の音が聞こえるくらいで、それも喧しいというほどではない。寧ろ、衣擦れの音が鮮明に聞こえるなんてこと、今まではあり得なかった。
数日振りの、しかしずっと以前から望んでいた澄んだ静寂だ。
静かで、心地よい。
「……よかった、ですっ……!」
音のない世界を堪能している間に、アシュは勝手に納得してくれた。
嬉しそうに、口を半円状に丸めて笑顔を作っている。きっと俺の思っていることを、正確に汲み取ってくれたのだろう。俺の方も勝手に得心して、牧草を食む作業に戻る。
隣で座っていたアシュが、ごろん、と床に転がる。
まったく、無防備なことだ。俺はいつでも、この巨乳を狙っているというのに。
いくらでも、その魅惑の谷間に挟まれたいと思っているというのに。
なんならもういっそ、そこで生活したいとさえ思っているというのに!
「なーに寝っ転がってんだよ」
たしっ、と。
ふざけ半分に、耳でアシュの胸を叩いてみる。ぽふんっ、と軽い音が鳴り、ドラムを叩いたスティックのように、耳は小気味よく跳ねた。
「んにゅ? 卯兎さん?」
「そんな無防備晒してっと、胸の中に潜り込んじまうぞ? あんた、俺がセクハラも憚らないおっぱい星人だってことを忘れてんのか――」
「……いい、ですよ。卯兎さんなら」
「――って…………え?」
は? え?
今、こいつ、なんて言った?
戸惑う俺を余所に、アシュはごろんと体勢を変え、匍匐前進のようににじり寄ってきた。
目は爛々と真紅に輝き、唇は艶々と濡れ。
その端正な顔立ちの下には――――凶悪な二つの膨らみの、その谷間が。
僅かに浮いた双丘は、たゆん、たゆんと左右に柔らかく振れる。
静かに、まるで獲物を追い詰める蛇のように。
ざぁっ、ざぁっ、と距離が詰まっていく。
「ま、待て待てアシュ。お、落ち着いてさ、冷静になろうぜ?」
「? 私は冷静ですよ。卯兎さんこそ、こういうの、お望みだったのでは?」
「い、いやそれは、否定はしないが……で、でもだな? ほら、俺ってばこの頃、あんたの胸に挟んでもらってるじゃん? あれでもう結構満足っていうか――」
「んー? やだなぁ、そんな我慢しなくってもいいんですよぉ?」
甘言に釣られ、ちら、と視線が胸に行ってしまう。二つの丸い膨らみは、締め付けられている様子など微塵もなく、ふわふわと動いていた。
マシュマロを跳ねさせたら、丁度こんな感じになるだろう。
――――って、いやいやそういうことを考えている場合じゃない。
「あ、アシュ? あんた、一体どうしたんだ?」
「どうもしていませんよ。あなたこそどうしたんです? 卯兎さん。この期に及んで、及び腰だなんて情けないですよぉ? ほぉら、今はもう、誰もいないんですから」
誰もいない――――うさぎもいない。
だだっ広くなった部屋を腕で示しながら、アシュは艶めかしく続ける。
「遠慮することはないんですよぉ。ふふふっ、今なら卯兎さんのやりたいこと、ぜ~んぶ私にしたい放題です。ほらほらぁ、思春期の青い妄想を、現実にするまたとないチャンスです~ぉ?」
「いや、む、無理だって! ほら! 俺今うさぎだし!」
「寧ろ好都合ですよ……♪ 私の本性は色欲を謳う悪魔ですし、動物とシちゃうなんて寧ろ進んで犯るべき罪悪です。神とか天使とかが振り撒いた退屈な善性なんて否定して、肉欲と悦楽に溺れちゃうのも一興ですよぉ」
「で、でも……」
「ほらほらぁ。うさぎさんはぁ、年がら年中発情期って言いますしぃ」
「……俺は」
なんだろう。
今の状況は、非常に俺にとって都合がいいはずなのに。
またとない据え膳。しかもあの胸を、それ以外をも好きにしていいという言質。
いいじゃないか。どうせ死んでいる身だし、元より悪魔と契約まで交わしたのだ。そうでなくとも、無宗教万歳の日本人男子だ。神だの天使だのに遠慮するいわれもない。
俺を動物に生まれ変わらせたのだって、話の流れ的に天使っぽいし。
なのに、アシュの言う通りに本能に身を任せることが――――躊躇われた。
してはいけないんじゃないかと、脚が震える。胸が、ズキズキと痛む。
なにかに、引きずり込まれるように思考が鈍磨する。
そんな資格などないと――――胸が、ざわめくのをやめてくれない。
「? どうかしましたか? 卯兎さ――」
――――「万魂悉く我が器に依りて、変幻し、変貌せよ――――『英雄の産声』!!」
聞き慣れない声が唱える、意味の分からない呪文。
それが響くと同時に――――俺達の拠点である廃ビルは、一瞬にして崩れ落ちた。




