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第22章 月に叢雲うさぎに風


 二度あることは三度あるらしいが、同時に三度目の正直ともいわれる。


 まるで相反する言葉のように並べられがちだが、時には並行して成立することもある。少なくとも、俺は今現在、正にこの瞬間も進行形でその恩恵を受けている最中だ。


「お、おい……アシュ……?」


「? どうか、しましたか? 卯兎さん」


 少し振り返れば、小首を傾げたアシュの顔が目に飛び込んでくる。

 しかも、吐息の桃みたいな香りまで掴み取れる、至近距離でだ。

 俺は今――――アシュの胸に挟まれ、移動していた。


「…………!」


 ごくり、と生唾を飲む音が頭蓋に反響する。

 今まで二度、こんな状態になったことがある。だが、どちらも寝ている時だったし、しかも一度は裏拳という制裁まで食らった体勢だ。


 なのに、今回は。




 ――うーとさんっ、ほらここ、入ってください。お好きですよね?




 朝一番、食事を終えた直後に言われた台詞で、危うく鼻血を吹きかけた。


 二度あることは三度ある、とは言うけれど。

 まさか、アシュから提案してくるとは!


 これぞ三度目の正直! 男の夢が叶った瞬間!

 だが…………。


「ま、まだ、着かないのか?」


「目印の筈の建物が、まだ見えないんです。もうちょっとだけ、我慢してほしいのです。ねっ?」


 なでなでと、両手の指が俺の眉間を伸ばしていく。

 本来なら天にも昇る心地の位置取り。運ばれ方だ。


 あぁ、柔らかい。じっとりと谷間に溜まっていく汗の感触も、生々しくて艶めかしい。張りがある胸に触れる度、雄の本能が腰を動かしてしまう。


 なのに、理性が現状を受け入れられなかった。

 早く、早く着けと切望してしまう。




 何故なら俺とアシュが進んでいるのは――――陸路ならぬ、空路だから。




 翼を生やし、空を飛んでいるアシュの胸元に、俺は据え置かれていた。



「……空とか、飛ぶもんじゃないな……! やっべぇよ、想像の数百倍怖い」


「? そう、ですか? ふふふっ、卯兎さんってば可愛いこと言いますねぇ」


 ほーら、なでなでですよー。


 暢気に頭を撫でてくるアシュだが、俺は正直、気が気でなかった。


 背の高い奴に肩車されると、その高度感に恐怖を覚えるのと、理屈は一緒だ。決して自力では到達しえない視点に立つと、怖い。自力で地面まで、常日頃の視点まで戻れるかが分からない。その不透明感が、未知が、恐怖を加速させるのだろう。


 況してや、ここは空の上だ。

 飛行機みたいな、真っ当な壁も理屈もない。翼一つ、身一つで飛んでいるのだ。


 しかも、超がつくドジな悪魔に連れられて。


 これが怖くない訳がない。胸に挟まれての移動は勿論極楽だし、待ち望んでいた理想形ではあるのだが――――せめて、せめて移動する場所は選んでほしかった。


 雄としての興奮と、生物としての危機感で。

 心臓はバクバク高鳴って、痛いくらいだった。


「あっ、ありましたね。あそこです」


 そんなフライトを、何分続けただろう。

 ようやく目的の目印を見つけたらしく、アシュは一気に高度を落とし、着陸した。


 垂直に、フリーフォールよろしくの降下。というか体感的には最早落下だ。

 股の辺りがひぇっと冷たくなる。


「? 大丈夫ですか? 卯兎さん」


「あ、あぁ……だ、大丈夫、大丈夫だ」


 嘘である。


 大丈夫なはずがあるか。軽くちびりかけたわ。というか、糞なら少し漏れてしまった気がする。後でこの辺を探してみたら、ワンピースを潜り抜けた丸い糞が転がっているだろう。

 流石に元人間のプライドが邪魔して、素直に言う訳にいかなかったが。


「じゃ、じゃあ、すみませんですが、お願いしていいですか? 地図、広げますね」


「あ、あぁ」


 言うと、アシュは懐から紙の地図を取り出し、俺の眼前にばっと広げてみせた。

 胸元に埋まっている俺は、そこから地図で現在地を確認する。目的地は赤く点がつけられていて、俺はそこまでのナビゲート役だった。


 胸に挟まれていれば、両手の空いたアシュが地図を持っていられる。


 本来、俺はケースなどに入って移動するはずだったのだ。それが普通だし、動物を連れ歩く時のルールでありマナーだ。


 が、昨日。

 市役所や図書館を巡り終えたアシュが帰ってきたのは、夜の一〇時を回った頃だった。


 実に、実に七時間もの間、このドジっ娘悪魔は街中を彷徨い歩いていたのだ。


 アシュに道案内は任せられない――――それが、俺の出した結論だ。

 なので、ナビゲート役を俺にやらせろと言ったら、何故か笑顔で受理されて、そして何故だか嬉々としてこんな体勢を考案してきた。


 ……なんだか、昨日からアシュの様子がおかしいのだが。

 気の所為、ではないよなぁ?


「では卯兎さん、出発しましょう! えっとまずは…………右と左、どっちですかね?」


「そういう考え方だから迷うんだろうが」


 ……おかしいのは元からなのかもしれない。


 ――――目的地までは、歩いて一〇分もかからない距離だった。


 道も単純で、迷う要素などどこにもない。が、それはきっと普通に地図を読める俺だからこその感覚なのだろう。アシュのような、地図があろうとなかろうと迷ってしまう、所謂、方向音痴と呼ばれる奴らには、この程度でさえ神業に映るのかもしれない。


 とはいえ、俺は目的地を知らない。


 街自体も、今回初めて来た場所だ。それこそ、歩くよりもアシュの翼で飛んでいた時間の方が、よっぽど長かったほどに。


 縁もゆかりもない、名前さえ聞いたことのない街。

 その中で、目指しているのは一つの住居だ。


 そこが、俺と関係しているというのか?


 何度か聞いてみたが、アシュはテキトーにはぐらかすばかりで、答えようとはしない。なんだか、妙に不安の募る対応だった。


 とにかく歩かせ続けること、一〇分ほどで。


「ん…………?」


 ぴくっ、と鼻が動く。


 縁もゆかりもなく、今まで訪れたこともなければ聞いたこともない街だ。

 なのに――――懐かしい。

 知っている筈の匂いが、俺の鼻を刺激した。


「う、卯兎さん? どうかしましたか?」


「この匂いは…………知ってる。知ってるぞ、これは――」


 思わず俺は、アシュの胸から飛び出していた。

 アスファルトの地面を、匂いを辿って駆けていく。硬い地面に、爪ががりがりと削られていく感触がしたが、それに構おうという気がまず起きなかった。


 必死になって、その匂いを追っていく。

 何故だ。何故こんな場所で、この匂いがする?

 知らない街の、知らない住宅街で。



「なんで……俺の家の匂いがするんだよ……!?」


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