第21章 兎門兎答
人を信じるのが如何に難しいか。
うさぎになってまさかそんなことを学ばされるとは思わなかった…………。結局、アシュはどんなに説明しても道を覚えることはなく、一〇分以上も俺が地図と睨めっこしながら行った解説は全て無駄と化した。
仕方ないので、『道の看板を見ろ』及び『コンビニや交番で道を聞け』という迷子二大奥義を授け、やけに張り切っているアシュを送り出したのが、今から二時間前。
暇だ。
時計はないので、現在時刻を知る術はない。太陽がもうてっぺんまで昇っているので、辛うじて昼頃だろうということは分かる。
帰ってくるなら、そろそろだろうか。
「…………」
そわそわしてしまう。
なんだか落ち着かない。心許ない感じだ。胸にぽっかり穴が開いて、塞がれるのを待ち望んでいるかのように。
ちら、と藁や牧草でできたうさぎスペースの片隅に置かれた、タブレット端末に目をやる。
lPadだ。
どうも昨日、崖から落ちた際に壊れてしまったらしく、アシュが置いていった。あの立体的な地図を出す機能もお釈迦になったそうで、おかげで久々に紙の地図と睨み合いを交わすことになった。
とはいえ、アシュ曰く、彼女と思念通話……要するにテレパシーで話す機能は生きているらしく、
「なにかあったら、すぐに連絡しますね! 私のこの『悪魔的電想対話』で!」
と親指を立てられてしまった。
つくづくネーミングセンスの残念なドジっ娘である。
という訳なので、なにかあれば連絡が来るはずなのだが、それが一向に来ない。
便りがないのは元気の証拠というが…………しかしなぁ。
「……なんで俺は、子供を初めてのお使いに出した父親みたいな心境になってんだ……?」
正直、疲れる。
心配というのは、してみると思ったより疲弊するものなのだ。常に想像力を働かせてしまい、しかもそれは大抵、嫌な方へ嫌な方へ突き進んでいく。
…………ええい、いい加減にしろ神奈月卯兎。
あいつを、アシュを信じると決めたのだろう?
「……仕っ方ねぇか」
ごろん、とlPadのそばで寝転がる。
考えたって仕方がない。連絡すると言っていた以上、連絡が来ないならどうしようもないのだ。
しかし…………そうなると暇だ。
うさぎの身では、できることは非常に少ない。lPadにゲームでも入っていないかと期待したのだが、壊れている上に、そもそも俺の手(前脚)では、上手く操作ができなかった。
無駄なことは初日で分かっていたのだが、それでも一応、うさぎたちに片っ端から話しかけてもみた。結果は、もちろん玉砕だ。
超がつくほどに大量にいるうさぎたちの、一匹たりとも、まともな会話は成立しなかった。
というか、やはり「えさ」「ひま」「ねる」のキーワード三つで事足りるようだった。
「…………やっぱ、変だよなぁ」
有り余っている時間を、暇潰しの思考で塗り潰していく。
――――実は、俺にはアシュに言っていない情報がある。
もうただのうさぎになり果てた、唯一俺と言葉を交わせた、うさぎからの情報だ。
彼がうさぎに変えられたのは、今からおよそひと月前。
一ヶ月で彼は、人間としての知能を、うさぎのそれに奪われていた。
そして、俺はといえば。
うさぎと化して一ヶ月以上経つが――――未だに、人間としての自覚がある。
「俺と……他の人たち、っつーかうさぎたちは、やっぱ、なにか違うのか……?」
俺がこの情報を、アシュに明かさなかったのは、単にそれほど重要じゃないと思ったからだ。
寧ろ、山で人間からうさぎに変えられたという、その場所の情報と。
誰かがやっているという、人為的な異変だという証言が重要だと思ったのだ。
そのまま、言うタイミングを逸してずるずるときてしまっているが……。
「やっぱ、言った方がいいのかね……」
そもそも俺は、うさぎになった経緯そのものも、他の奴とは違うのだ。
誰かに、人間からうさぎに変えられたなんて記憶はなく。
ある朝目覚めたら――――うさぎだったのだ。
グレゴール=ザムザよろしく、段階も経ずに、いきなりだ。
そんな俺だけが、未だに人間性を残し、アシュという悪魔との会話が可能でいられている…………なんだろう。
これはひょっとして、酷く重要なことなんじゃないか?
今までは考える暇もなかったから、棚上げにしていたが――
瞬間、ぷるるるるるぅっ、と壊れた金管楽器のような音が鳴り響いた。
「うおっ!?」
びくっ、と背を跳ねさせ、思わず跳び退いた。
見ると、lPadがなにやら振動している。ひび割れた画面を覗き込むと、よく分からない文字列が並んでおり、下に受話器のマークが浮かんでいる。
これが、アシュの言っていた通話機能か?
取り敢えず、受話器のマークに前足を、たしっ、と乗せてみる。
『もしもーし。卯兎さん、聞こえてますかー?』
すると、lPadからアシュの声が響いてきた。
ふむ、どうやら通話には成功したようだ。同時に、アシュから連絡がきたことに、ホッと胸を撫で下ろす。
「あぁ、聞こえるよ。どうしたんだ?」
『いえ。今、ちょっと市役所の方にようやく辿り着いたんですが』
「うん、あぁ、ちょっと待ってくれなアシュ。ちょっと俺に落ち着かせてくれ」
べとー、と背筋を伸ばし切り、リラックスのポーズ。
あぁ、藁気持ちいいわー。牧草もいい匂いだわー。
うん、落ち着いた。――――さて。
「ここから歩いて三〇分の距離にある市役所に、どうして二時間もかかってんだよっ!?」
『ひぅっ……だ、だってぇ…………道、迷っちゃって』
「あぁ、もうそれはいい。なんか、大分すっきりしたからいいや。それより、どうかしたか?」
『あ、え、えっとですね。卯兎さん。念のため、卯兎さんのフルネームと…………それから、うさぎさんに変わっちゃってた人間の名前、もう一度教えていただけますか?』
「? 構わないけど――」
言って、俺は神奈月卯兎というフルネームと、今や紺ネザーと化している男の名前を告げる。
アシュの声が、微かに低くなる。不安を覚えるような声音で、アシュは言った。
『……卯兎さん。明日でいいんですけど、ちょっと行きたいところがあります』
「行きたいところ? なんだよ、また一人で行く気か?」
『いいえ。卯兎さんも、一緒に来てください。多分これは……卯兎さんに、関係すること、ですから』
じゃあ、今から帰ります、と。
声音を戻さないまま、アシュからの通話は切れた。タブレットの画面上では、『通話時間5:12』という文字列が光るだけで、もう触っても動きはしなかった。
俺に、関係すること?
それは一体、どういう意味だろう――――ある種の焦燥感が、胸で騒ぎ立てる。ざわざわと、心臓が蝕まれているような不快感。俺は、反射的に脚を跳ねさせ、藁たちを舞い上げていた。




