第16章 うさぎ千里を走る
うさぎに、声帯はない。
だから鳴き声を上げることなんてほとんどないし、ましてや人の言葉を解したとしても、それは声にはならないし、だから当然、大声を上げる、なんて経験とは無縁の筈だ。
だけど、俺は今。
「あっの大ボケ悪魔ぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっっっっっっっっっっ!!!??!?!?!」
発達した自分の聴覚を恨めしく思うほどに。
絶叫し――――全速力で坂道を下っていた。
†
必死に駆けている間、俺は道なんか見ちゃいなかった。
山の麓に、森への入口があることなんか知っていた。だから、ただひたすらに坂を転げ落ちるように走ればよかった。
何度も何度も脳裏を過るのは――――落ちていくアシュの、あの顔。
自分が小動物好きの、自称するには高位の悪魔のくせしやがって。
あんな。
あんな心細そうな――――小動物みたいに、弱々しい面を向けやがって!
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ――――っ、くっそがぁっ!!」
なにを吐き捨てたのか、自分でも分からない。
けど、むしゃくしゃしていた。
イライラしていた。
森の入口に着く。逡巡する暇さえ惜しんで、俺は山から下りたその脚で、森の中に突っ込んでいった。
濃い土と緑の匂い。
飼育小屋の、狭く汚い場所と比べれば、格段に環境はいいだろう。アシュ曰く、この森でうさぎたちを捕まえたんだ。俺だって望むなら、こんな場所で過ごしたかったね。
けど、今はこの濃い匂いが、邪魔だった。
必死に鼻を動かし、周囲の匂いを嗅ぎ取る。
忘れもしない。
勝手に俺を抱きかかえて、勝手にこすりつけやがったあの匂いを。
蕩けそうになるほど甘い、ミルクみたいなあの香りを。
だだっ広い林の中、走り回りながら探す。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ」
ざっ、ざっ、ざっ、ざっ、と。
土を跳ねさせ、落ち葉を踏み砕きながら俺は進む。
もどかしい。
人間の脚なら、ほんの数秒で到達できる距離なのに。
まだ、振り向けば入口が見えている。全力疾走を続けるには、うさぎの身体はあまりに体力がなかった。
時折止まっては、もどかしい気持ちを抑えて、息を整えるのに尽力する。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ…………」
少しでも、瞬きででも目を閉じると。
あの、寂しそうな顔が蘇る。
…………アシュは、あいつは悪魔だ。それは間違いない。
今は人間の姿をしていて、うさぎ以下の体力で、すぐにへばって息切らしていたけれど…………でも、悪魔なんだ。
最悪でも、死ぬことだけはないだろう。
それだけが、唯一の心の拠り所だった。
希望的観測を当てにしてたんじゃ、俺も耄碌したとは思うが…………でも、俺にとっては唯一の、希望なのだ。
下心はあるけれど。
腹に一物あるけれど。
それでも、人間に戻れる、ようやく掴んだ希望なのだ。
それに…………契約のことを抜きにしたって、あいつから目を話すことなんてできない。
放っておけばなにを仕出かすか分からないし……今回だって、目を離した隙にこんなことになりやがった。
俺が、ちゃんと見ていれば。
お使いなんか頼まれても無視して、とにかく動けと檄を飛ばしていれば。
こんなことには、ならなかった筈なのに――――
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ――――はぁっ!!」
何度目になるか分からない小休止。
そこからまた、泥だらけになった脚を跳ねさせ、走り始める。
あのアホが、あのドジっ娘悪魔がどう思ってるかは知らねぇけど。
俺だって、正直に言えば利用してやろうなんてことも考えてるけど。
でも、これでもなぁ。
あいつには――――アシュには、感謝してるんだよ!
あの最悪な、小汚い飼育小屋から出してくれて!
人間に戻れると、希望を示してくれた!
そんなあいつに――――いなくなってもらっちゃ、困るんだよっ!!
「あれー? こーんなところにうさぎちゃんがいるよー?」
数えるのもアホらしいくらいに繰り返した、小休止。
ふと、声が聞こえた。
耳が勢い良く反応したが、それはアシュの声じゃなかった。あの鈴が鳴るような声ではなく、もっと底抜けに明るくて、酷く気楽そうな声だった。
顔を上げると、長袖長ズボンにリュックサックと、ばっちり装備を固めた女が二人いた。
散策でもしていたのだろうか。一人が俺を指差して、物珍しそうに携帯電話で写真を撮ってきた。
「ま、待って…………は、早い……」
「えー? ライちゃんが遅いだけだってばさー。ほらほら、うさぎっちー」
もう一人の女性が、おずおずとこっちに近づいてくる。
構ってないで、さっさと走り出したい…………が、切れた息はなかなか収まらず、加えてもう、脚も喉も限界に近づいていた。
へばりつくような血の味に、思わず歯軋りする。
「……? 喉……渇いて…………ます、か……?」
小首を傾げると、女性は膝を曲げ、俺に手の平を示してきた。
紺色の髪が僅かに覗く、帽子までばっちり被った女性は、柔和な笑みを浮かべている。やがて、腰元から取り出したペットボトルの水を、ゆっくりと、手の平に落としてきた。
……? これ、俺にか?
飲め、と?
真意が汲めず、女性の顔と手の平を交互に見つめる。すると、女性は困ったようにはにかんで、
「……ん。……飲んで……いい、ですよ……」
訥々と、俺に囁きかけてくれた。
どうせ声に出して感謝しても伝わるまい。そのことだけが申し訳なかったが、せめて感謝の意が伝わればと礼をして、俺はその水にかぶりついた。
冷たく、芯まで染み渡る。
喉が潤うと、なんだか今までの疲れが吹き飛んだようだった。全身に、力と活力が漲ってくる。
「え、えと……これ…………食べ……ます、か……?」
続いて女性が取り出したのは、小さなおにぎりだった。
同じように手の平に乗せて、そっと、俺の目の前に差し出してくる。
「えー? ライちゃんそれありかなー? うさぎと人間って、食べるもの違くねーかなー?」
「う……や、やっぱり……要らない、です……か……?」
少ししゅんとしたように、眉根を寄せる女性。
ふとその顔が――――落下していくときの、アシュの顔とダブった。
――喉、乾きましたぁ……。
――お腹も、空きましたぁ……。
――カラカラのぺこぺこで、動けないですよぉ……。
そう言っていたあいつのアホ面が――――咄嗟に、俺の耳を動かした。
「へ? あ、れ……?」
女性の手の平から、耳でおにぎりをぶん取ると。
俺はそのまま、礼もそこそこにまた走り出した。
女性は困惑していたようだが…………どうせ、言ったところで伝わるまい。
俺だって、どうして自分がこんなことをしたのか、分かってる訳じゃない。
ただ、なんとなく思ったのだ。
あいつとまた会った時に、このおにぎりがあったら喜ぶだろう、と。
そんなことを――――柄にもなく、だ。
悪魔との取引で、姑息な罠を仕掛けたような奴のくせに。
「くっそぉ………………っ、取り敢えず! あいつと会ったら、まず第一にあの乳揉んでやるからなーっ!!」
ぽつんっ、と。
鼻先に雨の雫が当たったのは、そんな叫びを上げた直後だった。




