井戸さらい
決まった事とはいえ、いちいち蓋を開け、閉めるのは、面倒だ。
先だって、猫が落ちたので、井戸には、蓋が付いたのだ。
馬鹿猫め。
成敗してやれば良かった。
裾をパンとからげて、尻帯にはさむと、桶を落とす。
だがあの馬鹿猫、何かを見て飛び込んだように見えたが。
縁から覗いても、何も見えない。
その時、猫が、立った。
井戸の縁に登り、後ろ足で、立って、踊っている。
「あれ、捕まえてぇ〜。」
行儀見習いのお江が叫んだ。
「ふ〜〜っ。」
藤の花と、名付けられてる猫は、ミケの毛を逆立たせ、そのまま飛び込んだ。
またか。
「利吉を呼んで来なさい。」
言うか言わぬか、お江は、台所の方に早歩きしだした。
走られないのだ。
何せ、行儀見習いだから。
苦笑いして、自分が走り、利吉と共に、はしごを抱えて、井戸に戻った。
つや子とお江が、井戸を覗いてる。
二人を退けると、井戸にはしごを落とす。
おっつけ、はしごにしがみついた猫が、ニャアと鳴く。
腰綱巻いた利吉を引っ掻きながら、はしごの上に出ると、藤の花は、逃げていく。
「あらあら、利吉さん、血が。」
見事に、額を切られている。
つや子は、猫を追いかけていった。
利吉の手当てはお江に、まかせ、はしごを片す。
井戸には、蓋をした。
我が妻ながら、誠に猫馬鹿である、
馬鹿猫と猫馬鹿。
どちらもいらぬ。
はしごを道具小屋に、しまうと、つや子と鉢合わせした。
「藤が、あそこに。」
松の木の上だった。
「腹が減ったら降りてくるさ。」
オロオロするつや子を残し、井戸端に戻った。
口をすすぎ、サッパリとする。
あさげは、焦げた魚でも良かったが、それすら無く、漬物と味噌が皿に乗っていた。
飯だけは、辛うじてよそわれていたが、焦げ臭い。
こんな所に、馬鹿猫のさわりが、来ていた。
「旦那さま。」
つや子が、睨んでいる。
飯が不味い。
「井戸を、さらおうと思うのです。
なんだか、不気味で。
藤は、頭の良い猫です。」
一気にそこまでまくし立てた。
おっとりした妻の早口に、呆気にとられてしまった。
「三日後には、井戸さらいの人足が来ます。」
ああ!利吉が走ったな。
「旦那さまにも、立ち会って頂きます。」
つや子は深々と頭を下げた。
わかったと、返事をするしかなかった。
利吉の生傷が、それでなくなるなら、安いもんだ。
それからは、つや子が、藤の花をガッチリ抑えてる間に、利吉とお江で、1日の水をセッセと汲み、水瓶に移す事となった。
つや子に抱かれていれば、藤も井戸には飛び込まない。
井戸さらいの人足が、三人来た。
はしごを伝い、するすると
降りていく。
灯明をかざし、井戸の底を照らす。
アッと叫ぶと、ドボンと、水の爆ぜる音。
火がないので、わからないが、落ちたのか。
もう一人が、今度は、ゆっくり降りる。
チラチラ灯りが瞬く。
「今畜生め‼︎」
井戸さらいが、腰に挟んだかしの木の棒で、何かをぶん殴った。
覗いていた5人は、思わず身を乗り出した。
その隙に、藤の花が、井戸に飛び込む。
水に浮く、人足の背を足場に、何かを、追いかけ、右に左に飛ぶ。
人足のぎゃっと、言う声と共に、藤が、飛び出してきた。
つや子とお江が、松の枝に、かけ上がる猫を追った。
男達は、ぐったりしている人足を、力をあわせて引き上げた。
死んでいた。
藤の花に、散々引っ掻かれた方は、ガクガクする足をどうにか、井戸の上に上げ、腰が抜けたようになって、這い出てきた。
「あれ〜。」
「旦那さま〜。」
女2人が悲鳴をあげた。
駆けつけると、猫だ。
ダランと紐をくわえている。
追いついた利吉が、目を丸くした。
「ありゃー、ヤマカガシだ。」
紅いだんだらの様な血が、滴りヌメヌメと光る。
毒蛇は、もう、死んでいた。
人足の話では、卵を井戸の横割れの中で、抱いていたらしい。
死んだ人足は、丁寧に弔い、井戸は、お祓いをして埋めた。
別の場所に、井戸を掘るまで、不便だったが、文句を言う者はいない。
藤の花は、つや子に益々可愛がられ、毛艶も良く、ひとまわり大きくなったようだ。
朝食に、焼魚がでて、飯が焦げ臭くなければ、猫馬鹿が、増えても、世は平坦なのであった。
今は、これまで。