01 : SHUT UP AND EXPLODE
1.
突如として信じられないような豪風が巻き起こった。
それは夕莉の全身にも吹き付けられ、彼女は空いた左手で顔面を隠した。身につけられた制服にも相当な突風が吹きつけているため、そのスカートの裾もかなりはためいたが、それは気にも留めなかった。ただ目を見開けるようにしたまま、彼女は深夜の住宅街を睨む。
「坂下、夕莉……! てんめぇっ!!」
その彼女と相対している人物――制服を着た少年が、ふと声を荒げて叫んだ。
少年の姿は異形だった。
その両手が人の手をしていない。まるで鬼か何かのような――少年の体格には似つかわしくない、皮膚の色も赤茶色になった、そして凶器にもなりそうな鋭い爪が備わった手である。ただそれ以外の部分には未だに人間としての特徴が残っており、少年の顔には憤怒にまみれた表情が浮かんでいる。
先ほど巻き起こった突風は、その少年の手が勢いよく振るわれたことで起こったものだった。
その少年の怒号を聞いた、夕莉の表情が動く。不敵な笑み。
「お前――俺を、殺す気か?」
先ほどとは打って変わって、少年は氷点下の問いを投げる。
「もちろん」
夕莉はこういう状況でもっとも似つかわしくない純粋すぎる笑顔を作っていた。
「あなたはすでに幻想に侵食されている。それはもう悪化するだけよ。一刻の猶予もない。よって、わたしが処理する。大丈夫、出来るだけ苦しまないように殺してあげるわ」
「……そうか。白ウサギから聞いてたがお前が――」
そう少年がぼそりと言った言葉は、だが夕莉の耳には届かなかった。その代わりに彼女が地を蹴って駆け寄って来るのを見て、少年はぎりっと歯を噛み締めた。
「やってみろよ!」
その時、少年の履いていたスニーカーが両足とも爆発するように消し飛んだ。代わってそこから現れたのは、やはり異形の足である。それは彼の両手と変わらない赤茶色をしていて、同じように鋭い爪が備わっている。
寂れた街頭のみが存在する深夜の住宅街――少年も勢いよく地を蹴った。
巻き上がる豪風の中。人と化け物が肉薄する。
明らかに常識を逸脱する速さで近寄ってくる少年に対して、夕莉はその右手に持っていた特殊警棒で殴りかかっていた。米国ASP社の特殊警棒は、世界最高の強度を誇る製品である。これで頭部を殴れば、それだけで頭蓋骨を陥没させることくらいは可能だ。
だがその一撃を、少年は異形化した右手の甲で受けた。その筋肉と硬質化した皮膚により骨折はしなかったが――受け止めた少年の表情が苦悶に歪む。
「野郎……っ!」
少年が、夕莉の体を引き裂くように空いた右手を振るう。しかしそれは虚空を掠めるのみ。
すでにそれを読んでいた夕莉は、一歩下がり、その攻撃の隙を突いて再び特殊警棒を突き込んでいた。狙ったのは腹部だ――少年の両足は異形化して見当がつかないため、まだ人間の部分を狙ってこそ致命的な効果が得られると踏んだのだ。
特殊警棒の先端が、少年の鳩尾に直撃した。ぐえっと声を上げて少年が背後に倒れた。
すぐさま起き上がろうとする少年だったが、それを阻止するように夕莉が再び特殊警棒で叩く。少年の脇腹に当たって、動こうとした少年が苦悶に身を折った。
「……無駄よ、飾磨恭二くん。諦めなさい」
「殺、す……! 殺、して、やる! この――!!」
苦しそうに悶えている少年のことを見下ろして、だが夕莉は艶やかに微笑んでみせる。
「残念ね。死ぬのはあなたよ」
そう言って――夕莉は勢いよく特殊警棒を振り下ろした。
めき、と不吉な音がして少年の頭部がへこんだ。いくら両手両足は化け物になったとはいっても、それ以外は人間と変わらない状態なのだ。少年がくぐもった声を最後に沈黙した。その四肢がぴくぴくと動いている。
白目を剥き、だらりとなった少年のことを見下ろして――そこで夕莉は特殊警棒を折りたたんだ。それとは代わって、右脚のスカート内部からは隠していたサバイバルナイフを引き抜いている。
「聞いているか分からないけど……ねえ、恭二くん? わたし、今日がとっても嬉しいのよ。理由は二つあるわ。今から言うからちゃんと聞いていてね」
そう言って、夕莉はつかつかと少年の横に回り込むとしゃがんだ。耳元で囁く。
「一つ目――恭二くんを殺せば、わたしの長かった仕事にようやく終わりが見えてくる。もう何人も追いかける必要なんてなくなるの。あとは最後の目標だけ……」
夕莉は手にしたサバイバルナイフの刃を、少年の首筋に持っていく。
「そして二つ目――あなたは単純にわたしの復讐の対象だった。運が悪かったわね。恨んではいたけど一般人のままなら殺そうとまでは思っていなかったのに。……でも化け物になった今なら話は別。みんなのためにも、わたしのためにも――今ここで死ね」
そして夕莉は躊躇することなく、その手のサバイバルナイフを滑らせた。
少年の頚動脈が断ち切られて、そこから盛大に血が噴出した。その生温かい血が辺りに撒き散らされて、それは夕莉の顔と制服に勢いよくかかる。
血。真っ赤な血――。
その飛沫をまともに浴びながら、夕莉は口元で仄暗い笑みを浮かべていた。つい小さく笑い声も出てしまう。ああ、やっぱり自分は心の底から他人の死を望んでいたのだと――そんな暗い事実を今更になって認識する。なんて気持ちいいのだろう、気に入らないものを殺して、この世から永遠に失くしてしまえるというのは。
きっと、これは誰しも人間に宿っている、本能的な、原初の衝動――暴力衝動。
それを自分の思うままに行使できる瞬間……それはもしかすると、人間にとって、最も幸福な瞬間ではないのだろうか?
どこからどう見ても自分は興奮しきっているというのに、脳裏のどこかでは冷静にそんなことを考えている――そのことが妙に可笑しくて、夕莉のこぼれ笑いも大きくなった。
よく現実でもフィクションでも、復讐は不毛であるとか、何も生まないとか、そんな綺麗ごとを吐いている人間はごまんといる。だが少なくとも、夕莉はそんなことはないと思っている。だって綺麗に噛み合っていたはずの歯車を狂わされたら、誰だって狂わせた本人を恨みたくなるのが筋ではないだろうか?
人間には、本質的に、因果応報を好むようなシステムな内蔵されているのだ。それに仕返しをして暗い情念を慰撫するのが、狂わされた人間が真っ先に望むことのはずのことではないか?
いや、分かっている。分かってはいるのだ。
それがどれだけ反社会的な行動なのかということは。だけど夕莉としては、歯車を狂わせた張本人が何事もなかったかのように日々を幸福そうに過ごしている、そのことが一番腹に立つのである。腸が煮えくり返りそうになる。
そんな輩は、みんな死んでしまえばいい――。
そんなどす黒い情念を胸中で吐き出した時、深夜の人通りもない住宅街のはずなのに――夕莉は、視界の端に何かが映ったような気がして、慌てて立ち上がった。
血に塗れた格好のままで、右手の甲で血飛沫を受けた頬を拭う。周辺を見回した。確かに何かが視界の端を掠めた気配があったのだが、気のせいだったのだろうか。だが、たとえ気のせいだったとしても、ここに長居していい理由にはならない。さっさと荷物をまとめて退散する必要がある――。
が、その声がかけられたのは、まさに夕莉が逃げる準備に取り掛かろうとしたその時だった。
「いい夜ですね、ユウリ」
夕莉はびくりと背筋を震わせ、それから声がかかった背後へとゆっくり視線を向けた。その気取ったような声には聞き覚えがあった。胸糞が悪くなるほどに。
「……あんた、白ウサギ」
夕莉は先ほど折りたたんだはずの特殊警棒を手にして、再び臨戦態勢へと移る。
白ウサギ――。
そう、それはその名の通り、白い毛色をした紛れもないウサギだった。だがその白ウサギが、ただの白ウサギではないと人目で分かるのは、彼が二足歩行をして人語を解しているから故である。さらに付け加えるならば、そのウサギは品のいいチョッキを身につけ、片眼鏡をかけ、古めかしい懐中時計をその手に握っていた。
まるで童話『不思議の国のアリス』から抜け出してきたかのような――不可思議なウサギ。
「ユウリ、私は別に殺し合いをするために現れたのではありません」
「なら何をしにきたのよ。頭のおかしい白ウサギ」
「別に――ただ見届けに来たのですよ。あなたがその者を殺すところをね」
「残念だけども」
夕莉はそう言って、右手の特殊警棒をぶんっと振ってみせる。
「こうしてこの場に現れた以上、あんたが殺し合いを望んでようとそうでなかろうと、わたしには何も関係がないわ。この場で全てを終わらせてやる、何もかもを」
夕莉がそう宣言した時、それを聞いていた白ウサギが蕩けるような嗜虐の笑みを浮かべた。まるで見るもの全てがぞっとするような笑みを。
「残念――それは無理ですね」
「そうかしら?」
「ええ、そうです。あなたに私は殺せない」
「……なら、試してみましょうか?」
夕莉はそう言った直後、一歩踏み出して特殊警棒を振るっていた。眼前で直立している白ウサギに、真横から殴りつけるような一撃を。
だが、それは白ウサギには当たらなかった。なぜ当たらなかったのかと言えば、白ウサギの姿が一瞬前に掻き消えていたからである。まさか、と信じられないような顔をして立ちすくんでいる夕莉に、再びその背後から白ウサギの声がかかった。
「言ったでしょう……あなたに私は殺せないと」
驚いて振り向いた夕莉の目の前に、先ほどと変わらぬ白ウサギの姿があった。夕莉の体がぶるりと震える。だが、それは恐怖や畏怖によって生まれたものでは決してない。
それは――激しい怒りによってもたらされた産物だった。
「殺してやる……」
低く呪詛をつぶやく夕莉に対して、白ウサギは不気味なにやにや笑いで応じる。
「殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる……っ!! 絶対に、絶対にあんたみたいな化け物はこの世に存在していいわけがない! わたしが殺して、殺して、殺して殺しつくして――!!」
「そして、私を殺してあなたはどうするおつもりですか? ユウリ」
「五月蝿い、黙れッ!」
夕莉は怒りのまま特殊警棒を振るったが、しかしそれは白ウサギが後ろに跳躍したことによって躱された。手近な電柱の足場に着地した白ウサギが、ふてぶてしく笑う。
「ああ、今夜は本当にいい夜だ――さて、あなたをおちょくるという個人的な用事も終わりましたし、私はここらでお暇するとしましょうか」
「待ちなさいよ。まだわたしの用事は終わってない」
「そう確かに終わっていないのかもしれない……だけど、それに私が付き合う義理もない。そうは思わないでしょうか? ユウリ」
白ウサギが嘲笑うようにそう言って、憎しみに歯を軋ませる夕莉のほうへと背を向けた。手中の懐中時計をぱちんと閉じて、余裕に満ちた態度で、肩越しに振り向く。
「また今度、お会いしましょう。幸いにしてあなたは私のことを気に入ってくれているようですし……これから会う機会もより増えることでしょう」
「何を妄言を。わたしが、あんたのことを気に入る理由なんて――どこにもないわ」
そう夕莉が返したとき、白ウサギはくつくつと趣味の悪い笑い声を出した。
「……本当にそうでしょうか?」
「そうよ……何言ってるの、気持ち悪い。やっぱりあなたは頭がおかしいのね」
そこでまた白ウサギは不気味にくすくすと笑った。夕莉には全くわけが分からない。
「まあ、ここで長話をするのも難です……またいずれ、会おうではありませんか」
それはこっちも望むところよ、と夕莉は胸中でそうつぶやく。
そして、白ウサギもそれを悟ったのか、それ以上のことは何も言わなかった。癪に障るような笑みを湛えたまま、電柱の足場から先の見えない茂みの中へと飛び込んでいく。それを夕莉は追いかけることはせずに、ただ静かに見守った。
胸中ではどす黒い感情が渦巻いているのに、どこか違和感のようなものがあった。
だが、その違和感が一体何であるのか――それは夕莉にも分からない。
「……ふん」
ただ胸中に怒りと違和を覚えたまま、その白ウサギが去っていった方向を睨み続ける。その白ウサギが、夕莉にとって最後に殺すべき対象だということは、すでに決まりきった事実だった。